◆◆◆
「閣下も、
僕もそうなのです──とヴィクトルは、うふふ、と笑った。その笑みの不気味さに、ジギタリスは内心薄ら寒さを感じる。
「あの、ヴィクトル殿下──?」
間を持たせたくて声を掛けるがしかし、その後が続かない。自身が知るヴィクトルとはまるで別人だった。顔つきだとか雰囲気はもちろんそうだが、なにより体躯である。
──彼、こんなに
元よりヴィクトルという男は雄大な体躯をしている。しかしジギタリスにはそこまで大きくは見えなかった。なぜならヴィクトルは身体は大きくても精神が卑小であるからだ。ウジウジと湿っぽく、自罰的で、常に俯いている──そんなイメージが彼を小さく見せていた。しかし今はどうだ、全身と全霊に漲る自信がこれまでのイメージを完全に払しょくしているし、何よりも──。
ミチィッ!!!
っと音を立てそうな程にはちきれんばかりの、筋肉!
「どうしたのです、閣下。僕のカラダが何か?」
ずい、と一歩執務机に近づくヴィクトル。
──何か、じゃないわよ! 鍛えているとは聞いていたけれど……そんなレベルじゃないわ。
丸太を束ねたような首が襟元からせり出し、盛り上がった僧帽筋と肩の肉が上着の縫い目を限界まで引っ張り上げている様は、余りにも見事な肉の宮と言ってもいい。
服の下に岩盤でも詰め込んだかのような胸板が前へ突き出し、呼吸のたびにボタンが弾け飛びそうな悲鳴を上げていた。極限まで膨張した筋繊維が全身の皮を裏側から張り詰めさせ、布越しにすら太い血管と筋肉の溝を浮き彫りにしているのだ。
暴力そのものに無理やり礼服を着せたような威容である。
「……ああ、服が少しサイズが合わないようで……仕立て直しをしなくてはいけませんね」
そう申し訳なさそうに笑うヴィクトルに、ジギタリスはひきつった笑みを浮かべるばかりであった。
◆◆◆
「閣下とは一度しっかりお話しなければならないと思っていたのです」
ヴィクトルは執務机に手をついて、ジギタリスに迫って言う。ぎしり、と机が悲鳴をあげたが彼女は聞いていない事にした。
「ど、どんなお話でしょう……?」
恐る恐る尋ねるジギタリスに、ヴィクトルは穏やかな声で切り出した。
「内戦のことです。この無益な争いを、帝国臣民の為に今すぐ止めねばなりません」
なんだそんな事かとジギタリスは内心で安堵の息を吐いた。図体がどれだけ異常に膨れ上がろうと、口から出てくるのが世迷言めいた綺麗事なら扱いやすい。彼女は宰相としての仮面を貼り直し、尤もらしい神妙さで頷いてみせた。
「殿下の仰る通りですわ。宰相府といたしましても、一日も早く世を平らかにすべく手を尽くしておりますの。目下、第一皇子ルドヴィーク殿下を中心に軍を束ねている最中でございます」
「兄上の主導で軍を束ねている、ですか」
ヴィクトルは微笑んだまま、ゆっくりと首を横に振った。
「しかし閣下。妹のアナスタシアの元には多くの新興貴族が戦費の重さを訴えて陳情に押し寄せているのでしょう? それにカテリーナ姉上の元にも、ガイネス帝国周辺の小国から多くの使者が訪れていると聞きます。強権的な戦時協力の要請を、どうか取りやめてほしいと泣きついているそうですよ」
痛いところを突いてくる。ジギタリスは内心で舌打ちし、適当な外交辞令で煙に巻こうと口を開きかけた──が、その喉がひきつった。
ヴィクトルの大きな掌が乗っている机の天板が、めりめりと沈んでいたからだ。
「平和を取り戻すために愛すべき臣民を、そしていずれ臣民になるであろう者たちを不幸にしてよいのでしょうか……」
ヴィクトルは物悲しそうに眉根を寄せている。だがその間にもみしみしという鈍い音が途切れなく響いていた。
樹齢数百年の銘木を贅沢に切り出した重厚な執務机である。大人が何人乗ろうが傷ひとつつかない頑強な天板に指の形の窪みが刻まれ、蜘蛛の巣めいた亀裂が音を立てて広がっていく。
ただ体重を預けただけで起きるはずもない。無意識に漏れ出ている腕力が木材の繊維を文字通り圧搾し、擂り潰しているのだ。魔力の起こりは感じない。つまり純然たる身体能力のみで分厚い木の机をぐしゃぐしゃにしているわけだが、そんな事果たして真っ当な人間に可能な芸当なのだろうか。答えは否だ。魔力を身体能力に転換する、いわゆる天術は貴族ならば誰でもある程度は扱えるし、術を行使したならばこういった真似も出来るだろうが、すっぴんでそれをやるというのは人間種には非常に難しいだろう。
──それに、この男は今、なんと言った?
ジギタリスは決して内心を表に出さないように先ほどの言葉を吟味した。
◆◆◆
「確かにある」
豪奢なソファに深く背を預け、尊大に足を組んだハインがそう切り出した。
その日の夜のことである。ハインはガッデムたち使用人に与えられた離れの屋敷を訪れていた。昼間のヴィクトルとの鍛錬の最中、千切れかけたガッデムの太い腕を検分し、自身が行った粒の接合が問題なく馴染んでいることを確認した直後のことだ。
ガッデムは新しく繋がったばかりの己の肩口をぐるりと回しながら、目の前の主を見下ろして黙って耳を傾けていた。
「魔力に乏しい者が、突如として莫大な魔力に目覚めるというようなご都合主義的なことがな。死線の果てに、閉じていた門がこじ開けられること自体は珍しくもない」
ハインは組んだ膝の上で指先を軽く重ね、言葉を継いだ。
「ただし、だ」
ハインは紫紺の瞳をわずかに細めて付け加える。
「それは元々、その者が特殊な血筋だった場合だ。なぜなら魔力とは血により多く混じるからだ」
ガッデムは眉根を寄せ、昼間の鍛錬場で突如として跳ね上がったあの皇子の途方もない膂力を思い返していた。刃引きの戦斧を真正面から受け止め、あまつさえ半鬼である自分の剛腕を千切りかけたあの瞬間を。
「物の書によれば初代ガイネス皇帝は人致の極点と呼ばれているらしい。たかが人間の身でありながら山を穿ち、海をも絶ち割ったそうだ。どれほど薄まっていようとあの男にもその血が流れている。死ぬほど追い詰められたことで、眠っていた血が呼び起こされたのだろう」
そもそもガイネス帝国とは、建国の成り立ちからして徹底した武断の国である。
よその国であれば貴族の務めとは領地を治め、夜会で優雅に扇子を仰ぎながら陰口を叩き合うことだったりするのだが、この帝国ではそうはいかない。貴族たる者まずは個として圧倒的な
爵位とはすなわち暴力の証明書であり、家門の格とは魔力の純度を測る器である。どれほど由緒ある家柄に生まれようと弱ければ舐められ、舐められれば領地も特権も力づくでむしり取られる。
その最たる例が帝国の屋台骨を支える十二公家であろう。一騎当千の獣兵を率いたバゼンフェルドしかり、極寒の氷結魔術で軍勢ごと凍てつかせるエーデルヴァイスしかり、公爵家の当主ともなれば単騎で戦局をひっくり返す化け物揃いである。
では、そんな天災じみた大貴族どもを長きにわたり頭ごなしに統べてきたガイネス皇室の血とはいかなるものか。
帝国を統べる血の持ち主が、凡百であるはずがないのだ。
力こそを信奉する帝国貴族たちが、ただの歴史や形式だけの権威に大人しく頭を垂れるわけがない。初代ガイネス皇帝が山を穿ち海を絶ち割る『人致の極点』として君臨して以来、皇族の血管には十二公家すら畏怖させるだけの濃密な魔力と暴力の種が脈々と受け継がれてきたのである。
三百年前の双帝の乱で長子相続の慣例が吹き飛び、勝者が帝座を奪う実力主義へと行き着いたのも、裏を返せば皇族の誰もが怪物たり得る血を持っていたからこそ起きた必然であった。
これまでヴィクトルが宮廷で『ウスノロ』と嘲られてきた理由は単に、彼の善良で温和な気質が帝国の血生臭い気風と絶望的なまでに噛み合っていなかっただけなのだ。
そして血の奥底に眠る力は闘争への渇望や死線の恐怖といった強烈な刺激によって初めて呼び覚まされる。軍装を纏って前線へ出たがる兄ルドヴィークとは対照的に、ヴィクトルは路傍の花を愛でて拙い詩を詠み、誰かに殴られても頭を下げてやり過ごすような男であった。平穏を愛するあまり、己の血が求める闘争から最も遠い場所でずっと燻り続けていたのだ。
だが不幸なことに──あるいは帝国にとって幸いなこと? に──彼はハイン・セラ・アステールという規格外の狂人に出会ってしまった。鍛錬と称して文字通り挽肉にされて内臓をぶちまけられ、死の淵を何度も反復横跳びさせられた結果、何十年かかっても開くはずのなかったさび付いた蓋が力づくで吹き飛ばされ、そして──。
【用語解説】
天術(てんじゅつ)
魔力を体の外へ放たず、体の内側で完結させる術。主に身体能力の強化に使う。貴族ならある程度は誰でも扱えるが、加減を誤れば体が負荷に耐えきれない。天術の絶対者は勇者とされる。ハインは身体強化型の天術が大の苦手。
十二公家(じゅうにこうけ)
ガイネス帝国の屋台骨を支える十二の公爵家。それぞれが固有の血継魔術を持ち、当主ともなれば単騎で戦局を覆す。アステール家とサリオン家もその一角。現在はエーデルヴァイス、シュヴァルツ、グラオスの三家が離反している。
双帝の乱(そうていのらん)
三百年前、北方と東方の公家が結んで皇位を争い、帝国を二つに割った内乱。これを境に長子相続の慣例は崩れ、皇位は力ある者が奪い取るものになった。
人致の極点(じんちのきょくてん)
初代ガイネス皇帝の異名。人の身でありながら山を穿ち、海を絶ち割ったと伝わる。皇族の血には、その力の種が今も受け継がれている。人智の誤字ではないので報告しないで;;