※この作品はR-18です。

悪役令息はママが好き   作:埴輪庭

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世に平穏のあらんことを④

 ◆◆◆

 

 執務室には、ひび割れた天板が立てる乾いた軋みが響いていた。ジギタリスは背筋を伝う嫌な汗を意識の外へ追いやり、引きつりそうになる表情をどうにか抑制する。本能が感じているのは生物としての純然たる格差であった。異形と言っても差し支えないヴィクトルの姿は、畏怖と同時に嫌悪感を催す。容貌魁偉などとはとてもいえない、化け物然とした姿であった。

 

「……現状へのご憂慮はよく分かりましたわ。ではヴィクトル殿下。そこまで仰るのなら、殿下ご自身は一体どうなさりたいのですか? まさかこのまま指を咥えて、逆賊どもが帝都の門を叩くのを待てと仰るわけではございませんでしょう?」

 

 皮肉をたっぷりと塗した問いかけであった。ジギタリスらしいといえばジギタリスらしい。圧されていようと、その口からは毒が漏れるのだ。内政や外交のほころびをあげつらうだけなら誰にでもできる。具体的な打開策などこの男にひねり出せるはずがないと、ジギタリスは高を括っていた。

 

「もちろんですとも、閣下。手をこまねいて惨劇を眺めるなど許されざる怠慢です。ですから僕は、最も血の流れない真っ当なやり方でこの戦を終わらせようと考えています」

 

「ほう。真っ当なやり方、とおっしゃいますと?」

 

「三公のもとへ和平の使者を送るのです。武器を置き、同じ卓について胸襟を開けば、彼らとて必ず矛を収めてくれるはずです」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ジギタリスは腹の底で冷ややかに鼻で笑った。

 

 ──ああ、やっぱりウスノロはウスノロだわ! 

 

 肉体がどれだけ怪物じみて膨れ上がろうと頭蓋の中に詰まっているのは昔のままの花畑らしい。ザンデルホルム平原ではすでにバゼンフェルド公爵が首を落とされ、万単位の将兵の血が北の大地を濡らしているのだ。今さら仲良く手を取り合いましょうなどと、正気の沙汰ではなかった。

 

「……殿下のお優しいお心根には胸を打たれますわ。ですが現実をご覧になってくださいませ。エーデルヴァイス公はすでに我が方の精鋭を群れごと氷漬けにして屠っておりますのよ? これほど血の河が流れた後で並みの使者を送ったところで、首を塩漬けにされて送り返されるのが関の山でございます」

 

「ええ。並みの使者では、そもそも席についてすらもらえないでしょうね。宰相府からの書状など、今の彼らにとっては暖炉の焚き付けにもなりますまい」

 

「そこまでお分かりでしたら話は早うございますわ。ならば一体、どこの誰を使者に立てると仰るのです? 三公が耳を貸すほどの重みを持った人物など、今の帝都には──」

 

「僕が行きます」

 

 あまりにも屈託のない一言に、ジギタリスの思考がぴたりと凍りついた。すぐには言葉の意味を呑み込めず、綺麗に整えた眉がぶるりと痙攣する。

 

「……は? 殿下、今なんと仰いました?」

 

「ですからこの僕が自ら和平の使者として三公の陣へ赴くと言ったのですよ。皇族である僕が直接出向いて頭を下げ、平和への道筋を説けば彼らも無下にはできないはずです」

 

 淑女の仮面が音を立てて剥がれ落ちそうになる。ジギタリスは椅子から荒々しく腰を浮かせ、声を張り上げていた。

 

「なっ……冗談はおよしになってくださいまし! そんなこと、宰相として断じてお許しできませんわ!」

 

「おや。どうしてそこまで反対なさるのですか、閣下? 戦費も兵の命もすり減らすことなく、僕ひとりが足を運ぶだけで内戦が収まるかもしれないのですよ」

 

「収まるどころか、帝国が丸ごと吹き飛ぶ大惨事でございます! そもそも三公がなぜ反乱の大義名分を保てているとお思いですか! 彼らが『第二皇子ヴィクトル殿下こそが次代の正統なる皇帝である』と勝手に旗印へ掲げているからでございますよ!」

 

 ジギタリスは机の端を掴み、唾を飛ばさんばかりの勢いでまくし立てた。今この瞬間も宰相府が三公を『逆賊』と呼び捨てにできているのは、神輿であるヴィクトル本人が帝都の宮殿に留まり続けているからにすぎない。彼自身が反乱軍とは無関係であると天下に示せているからこそ辛うじて朝廷の体裁が保たれているのだ。

 

「つまり三公は喉から手が出るほど殿下の御身柄を欲しがっているのです! 今はまだ主のいない空っぽの神輿だからこそ、日和見の貴族どもも様子見を決め込んでおりますの。そこへ殿下ご自身がノコノコと歩いていったらどうなります!? 連中は大喜びで殿下を拘束し、反乱軍の頂点へ据えるに決まっておりますわ!」

 

「拘束、ですか。三公は僕を推してくれているはずなのに、随分と物騒な話ですね」

 

「政治とはそういうものでございます! 一度でも敵陣に身柄を押さえられれば連中は殿下の御名で勅命を乱発し、逆に我々宰相府やルドヴィーク殿下の方を『朝敵』に仕立て上げるでしょう! そうなれば中立を装っていた貴族どもは一斉に三公へ雪崩を打ち、この内戦は戦わずして我々の敗北に終わりますのよ!?」

 

 肩を揺らして息を荒らげるジギタリスに対し、ヴィクトルは困ったように小首を傾げるばかりだった。どれだけ怒鳴りつけられようと、その澄み切った瞳には怯えの翳りひとつ浮かばない。むしろ聞き分けのない子どもを諭すような慈悲深さすら漂わせていた。

 

「なるほど。閣下の危惧されるところはよく分かりました。つまり僕が三公に捕まりさえしなければ、何の問題もないというわけですね?」

 

「話をお聞きになっていたのですか!? 相手は一騎当千の三公ですのよ!? 極寒の魔女ヘルミーネの懐へ飛び込んでおいて、捕まらない道理がどこにあると仰るのです! 近衛の騎士を百人や二百人連れたところで、あの化け物の前ではただの氷像を増やすだけにございますわ!」

 

「ええ、近衛の騎士たちを無駄に死なせるつもりはありません。ですから道中の護衛に関しては、心強い友人に頼もうと思っているのですよ」

 

 ジギタリスの荒い呼吸がそこで止まった。背骨の奥を嫌な予感が駆け抜ける。

 

「……友人、ですって? まさか殿下、それは──」

 

「アステール公爵家に護衛をお願いします。すでにハインには内々に話を持ちかけてありましてね。僕が平和のために身を挺するのなら、喜んで力を貸すと約束してくれたのです」

 

 ヴィクトルはうふふと無邪気に笑った。まるで休日の野駆けに学友を誘ったかのような軽やかさであったが、ジギタリスにとっては頭上から雷を落とされたも同然の衝撃だった。

 

「アステール家が……殿下の護衛として、三公の陣へ同行すると……?」

 

「はい。帝都の護りの要たるあの一門が僕の背中を護ってくれるのです。いかに三公といえども、僕を力づくで拘束することなどできはしないでしょう? それとも閣下は帝都の守護神たるアステール公爵家が辺境の三公に遅れを取るとお考えですか?」

 

 ジギタリスの脳内に、練魔場で見たあの太(・)陽(・)の如く燃え盛る焔が蘇る──。

 

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