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「なりませんッ!!」
開口一声、ヘルガの口から迸ったのは怒声であった。
ハインが思わず身をすくめると、ヘルガは慌てて表情を取り繕った。別にハインに対して怒っているわけではないからだ。
ヘルガは今、ガイネス帝国に……いや、宰相ジギタリスに対して極めて強い──敵意にも似た不満を抱いている。
無理もない話だろう。つい先刻、宰相府よりアステール公爵邸へと一通の公式な命令書が届けられたのだ。その中身たるやヘルガの愛息ハインを筆頭とした護衛団を編成し、第二皇子ヴィクトルを奉じて三公の陣へと和平使節団を送り出せというものであった。
しかも護衛団にはアステール公爵家のほかにも複数の貴族家が組み込まれている。盟友たるサリオン公爵家をはじめ、エルフェンの血を引くファルブルーム子爵家や蛙の亜人の血統で知られるケロリパン伯爵家など、ここ最近アステール家の周囲に集まりつつある親亜人派の貴族家がごっそりと指定されていたのである。
要するにジギタリスによる露骨な厄介払いであり、踏み絵でもあった。ヴィクトルが自ら使者に立つと言い出したのを逆手に取り、目障りなアステール派閥の面々をまとめて反乱軍のど真ん中へ放り込んでやろうという魂胆が透けて見える──とヘルガは考えていた。
「あの女狐……っ、私のハインを何だと思っているのかしら!」
ヘルガは卓上の命令書を握りしめ、普段の温厚な貴婦人の佇まいからは想像もつかないほど険しい目で窓の外を睨みつける。
「母上、どうかお鎮まりください」
そんな母を宥めるように、ハインが凛とした声で切り出した。
「宰相閣下の思惑がどうあれ、これはヴィクトル殿下が帝国臣民の平穏を願って自ら望まれた道でもあります。それにサリオン家やファルブルーム家、ケロリパン家の面々にも召集の触れが回っております。彼らの手前、筆頭たる我がアステール公爵家だけが背を向けるわけには参りません」
「ハイン……」
「僕はアステール公爵家の跡継ぎです。貴族として、また友として平和のために身を挺そうとされる殿下の背中をお護りするのは当然の務めかと存じます。どうかここは、僕に行かせていただけないでしょうか」
真っ直ぐに母を見つめるハインの瞳は、どこまでも真摯で気高い。
無論その内心を覗き込めば『さっさと神輿を三公の陣へ運んで内戦を片付け、母上が安心して昼寝できる世界を作らねばならない』という歪みきったマザコンの算段が渦巻いているだけなのだが、ヘルガにそれを知る由もなかった。
──なんて……なんて立派に育ってくれたのかしら……!
ヘルガの胸に、熱い感動がこみ上げてくる。ついこの間まで自分のスカートの裾を掴んで離さなかった小さな男の子が、今や一門の誇りと帝国の未来を背負う一人前の貴族の顔をしているではないか。
我が子の眩しいまでの成長ぶりには、母として涙が出そうなほど嬉しい。
だが、それとこれとは話が別である。
「いいえ、駄目です。こればかりは絶対に許しませんよ」
ヘルガはきっぱりと首を横に振った。どれほど立派な理屈を並べられようと、この件に関して彼女は一分たりとも折れる気がない。
「母上……っ、しかし!」
「いけません! 相手はバゼンフェルド公爵の軍勢を一刻で屠ったエーデルヴァイス公なのですよ? 話し合いが通じる相手かどうかすら怪しいというのに、そんな命の危険がある場所へあなたを送り出すなんて、母として断じて許容できません!」
ヘルガの言葉は鋼のように硬かった。必要とあらば今すぐ宰相府へ乗り込んでジギタリスの襟首を捩じ切る覚悟すらあるし、いざとなれば『ハインは今朝方から三年ほど治らない奇病に倒れました』と強引に突っぱねる腹積もりである。
母の並々ならぬ決意を前に、ハインは内心で舌打ちをした。
──むう、正論では母上のガードが崩れぬか。
貴族の誇りだの大義名分だのを掲げれば掲げるほど、ヘルガの中では『そんな健気で優しい我が子を戦場へやるわけにはいかない』という母性本能が強固になっていく。ならば、真正面から押して駄目なら引くしかなかった。
ハインはすっと肩の力を抜き、世の終わりが来たかのような深い溜息を吐く。
「……分かりました、母上。そこまで仰るのなら、僕は屋敷でお留守番をいたします」
「え……? あら、分かってくれたのね、ハイン」
あっさりと引き下がった息子に拍子抜けしつつも、ヘルガが安堵の笑みを浮かべかけたその時である。
「ええ。やはり僕にはまだ早すぎたのでしょう。というか、きっと一生無理なのだと思います」
ハインは床へ視線を落とし、今にも消え入りそうなか細い声で呟き始めた。
「宰相府からの公式な命令を『ママが駄目って言ったから』と断り、婚約者であるエスメラルダ嬢やファルブルーム家の年端もいかぬ令嬢、さらにはケロリパン家の劣等蛙人間──ああ、失礼……ケロリパン家の者たちまでが命を懸けて北へ向かうなか、僕ひとりだけ温かいお屋敷のふかふかの寝台でぬくぬくとお昼過ぎまで惰眠を貪るのです……」
「ちょ、ちょっとハイン? 誰もそんな言い方は──」
「いいえ。それが僕の身の丈なのですよ、母上。きっと僕はこのまま、何ひとつ自分の足で立つことのできないダメな貴族になっていくのでしょうね」
ハインは自嘲するように薄く笑い、遠い目をして己の暗黒の未来を語り出した。
「二十歳を過ぎても三十歳を過ぎても『ママ、お外が怖いよ』と母上の後ろに隠れ、誰かに厳しいことを言われれば『ママ、あいつがいじめるから代わりに怒ってよ!』と泣きつくのです。領地の経営も分からぬまま毎日おやつに甘い焼き菓子ばかりを頬張ってぶくぶくと太り、自分で靴紐ひとつ結べず髭の生えたおっさんになっても母上にホットミルクをふうふうして冷ましてもらう……そんな立派な穀潰しになるに違いありません」
「なっ……! ハ、ハイン、いくらなんでも大げさすぎるわ!」
「大げさなものですか。社交界の夜会に顔を出せば周囲の貴族たちからひそひそと指をさされるのですよ。『見ろ、あれが噂のアステール家の大きな赤ちゃんだ』『婚約者の女の子を最前線へ送り出しておきながら自分は母君のお膝の上で頭を撫でてもらっていたらしいぞ』『いまだにお留守番しかできないおしゃぶり公爵だ』と! それでも僕は恥じることすら忘れ、ぶよぶよにたるんだ二重顎を揺らしながら『だってママがいいって言ったもん!』と開き直り、死ぬまで母上の脛をしゃぶり尽くす帝国の笑い者として生涯を終えるのです……ああ、なんて惨めで愚かな人生でしょうか……っ」
ハインは両手で顔を覆い、さも絶望の淵に叩き落とされたかのように小刻みに肩を震わせてみせた。