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アステール公爵家の日常は一見すると完璧な調和の上に成り立っている。
広大な敷地、豪奢な調度品。
塵一つない床は鏡のように磨き上げられ、庭園の草木は一糸乱れぬ配置で整えられている。
それはまるで、神の手によって作られた箱庭のようであった。
だがその完璧さこそがこの屋敷の異常性を物語っている。
これだけの規模の邸宅を維持するには本来ならば膨大な人手が必要なはずだ。
しかし、ここで働く使用人の数は驚くほどに少ない。
それは決して家計が逼迫しているからではない。
むしろここにいる者たちが皆一人で十人分の働きをする、尋常ならざる能力を有しているからに他ならなかった。
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東棟の廊下を、リネン類を抱えた二人のメイドが歩いていた。
一人はリーシェ。
この春からアステール公爵家に仕えることになったばかりの新米である。
そしてもう一人は彼女の指導役を務めるミナ。
二人とも浅黒い肌をしている見目麗しい女だ。ちなみに、人間ではない。
「ミナ先輩、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
リーシェがおずおずと口を開いた。
働き始めて日が浅いとはいえ、彼女なりにこの屋敷の空気を掴みつつあった。
皆が優秀で、そして主であるアステール公爵家への忠誠心は揺るぎない。
だがどうしても拭えない疑問があったのだ。
「なあに、リーシェ。仕事のことなら遠慮なく聞いて」
ミナは足を止めずに答える。
その声は穏やかだが歩調は一切乱れない。
「その……仕事のこととは少し違うのですが」
リーシェは少し言い淀んだ後、意を決したように続けた。
「どうしてこのお屋敷には人間の方がほとんどいらっしゃらないのでしょうか」
それは彼女がこの屋敷に来てからずっと抱いていた違和感の正体だった。
ガイネス帝国は人間至上主義が根強い国である。
貴族の屋敷で亜人が働いていること自体は珍しくないがその比率が異常だった。
使用人頭のフェリはデルフェン種。
門番のガッデムはハーフオーガ。
厨房の者たちも、馬丁たちも、その殆どが亜人である。
ミナは初めて足を止め、少し困ったような顔をした。
「そうねえ……確かに、不思議に思うかもしれないわね」
彼女は窓の外に視線を移す。
庭園では庭師が黙々と落ち葉を集めていた。
あの庭師──オーマと呼ばれる存在に至っては亜人どころか、もはや生物なのかどうかも定かではない。
影そのものが人の形をとったような、異形の存在だ。
「はっきりとした理由は私も知らないの。ただ、皆が優秀だから、種族なんて関係ないっていうことなのかしら」
それは答えになっていない。
リーシェもそれは分かっていたがそれ以上追求することは憚られた。
「そう、なのですね……」
曖昧に頷くしかないリーシェ。
そんな二人の会話を、廊下の角で聞いていた者がいた。
「その疑問、もっともじゃな」
低く、しかしよく通る声。
二人が驚いて振り向くと、そこには初老の執事が立っていた。
グラマンである。
アステール公爵家に先代の頃から仕える古参中の古参。
この屋敷における、数少ない人間の一人だ。
「グ、グラマン様……」
リーシェは慌てて頭を下げた。
ミナもまた、恭しく礼をする。
グラマンは二人に近づくと、その老獪な瞳でリーシェをじっと見つめた。
「新入りじゃな。名は、ええと……」
「は、はい。リーシェと申します」
「おおそうじゃった。すまんの、儂も二百を過ぎてから物忘れが増えたようじゃ……ともかく、リーシェよ、お主の疑問に儂が答えよう」
グラマンは顎に手を当て思案するように続けた。
「まず第一にアステール公爵家では現在、大々的に使用人を募集してはおらぬ」
「募集を、していない……?」
リーシェは目を見張る。
「左様。今この屋敷で働いておる者たちの殆どはフェリが連れてきた者たちじゃ」
使用人頭フェリ。
デルフェン種の貴種であり、他のデルフェンの女は彼女を“姫”と呼ぶこともある。
「フェリは独自の伝手を持っておるようでな。有能な者を見つけては若様に推薦しておるのじゃ」
グラマンは淡々と説明する。
「そしてフェリ自身がデルフェン種。彼女が連れてくる者たちもまた、その殆どが亜人じゃ。人間種が少ないのはまあ、そういう巡り合わせという事じゃな」
──巡り合わせ……
リーシェにはそれが全ての理由だとは思えなかった。
何か裏があるのではないか。
グラマンはそんなリーシェの心中を見透かしたかのように、ふっと口元を緩めた。
「無論、それだけではない。このアステール公爵邸には少々特別な事情があるのじゃ」
特別な事情。
その言葉に、リーシェの背筋に緊張が走る。
「お主も話くらいは聞いておるじゃろう? この屋敷には時折、招かれざる客──刺客の類が送られてくる事が多々ある」
グラマンの声が一段低くなる。
リーシェは息を呑んだ。
確かに、そのような噂は耳にした事がある。
だがそれはあくまで噂であり、自分が実際にその“処理”に関わった事はない。
「し、刺客……。ですが一体なぜ、アステール公爵家が狙われるのでしょうか。ハイン様は貴族子弟としては非常に評判がよろしいと聞いておりますのに……」
リーシェの問いは純粋なものだった。
しかし、グラマンの表情は渋い。
彼は深く息を吐き出し、遠い目をした。
「若様ではない。問題は先代当主、ダミアン様じゃ」
ダミアン。外道、悪辣として悪名を馳せていた前当主である。
「ダミアン様は……その、魔術の探求に熱心な御仁での。その過程で外法に手を出し、多くの者から深く恨みを買ってしまわれた」
グラマンは言葉を選びながら語る。
だがその言葉の裏には筆舌に尽くしがたい非道な行いの数々が隠されている事を、リーシェも察していた。
亜人狩り、人体実験。
そういった暗い噂は貴族社会の裏側で囁かれているのだ。
「刺客を送り込んでくるのはその殆どがダミアン様の被害者たちじゃ。彼らは闇ギルドなどを通してアステール公爵家への復讐を依頼しておるのじゃよ」
その事実にリーシェは戦慄した。
自分が仕えている家がそれほどまでに深い闇を抱えていたとは。
「で、ですが……それならば、その依頼者そのものを叩けば、刺客も収まるのではないでしょうか。アステール公爵家ほどの力があれば……」
それは当然の疑問だった。
根本を断たなければ、鼬ごっこになるだけではないか。
しかし、グラマンは静かに首を横に振った。
「それはならぬ。大奥様がそれを固く禁じておられる」
「大奥様が……?」
「左様。ヘルガ様はダミアン様が犯した罪を深く恥じておられる。そしてそういった被害者たちに対しては可能な限り賠償金を支払い、和解に努めておられるのじゃ」
それは意外な話だった。
貴族がましてや十二公家の一角が自らの非を認めて賠償に応じるなど、前代未聞である。
ヘルガの慈悲深さ。
それはこの血塗られた屋敷における、唯一の救いであった。
いや、救いという表現は生温いかもしれない。
それはある種の狂気であり、常人には理解しがたい覚悟の表れであった。
「ヘルガ様は慈悲深い御方じゃ。ダミアン様とは違う。だからこそ、我らも命を賭してお仕えする価値がある」
グラマンの声には確かな敬愛が滲んでいた。
「まあ、和解に応じぬ者もおるがな。さらにいえば、刺客共に関しても話は別じゃ」
グラマンの目がすっと細められる。
その眼光は先ほどまでの穏やかさとは打って変わって鋭い。
「刺客それ自体は生かして返すわけにはいかぬ」
その言葉の響きは氷のように冷たい。
「情報を搾り取り、後は……分かるじゃろう?」
グラマンはそれ以上は語らなかった。
だがその沈黙が全てを物語っている。
アステール公爵邸の地下には決して開けてはならない扉があるという噂。
あるいは庭園の薔薇が異様に美しいのは特別な肥料を与えられているからだという噂。
リーシェはごくりと唾を飲み込んだ。
「使用人が余りおらぬのはそういった事情もある。不特定多数の人間を屋敷に入れることはそれだけ危険を招き入れることになる。間諜や、内通者が紛れ込む可能性も否定できん」
だからこそ、信頼できる者だけを少数精鋭で揃える必要がある。
「口が堅く、そしていざという時に動ける者。それがこの屋敷で働くための条件じゃ」
そしてその条件を満たす者の多くが人間社会から疎外され、過酷な環境で生き抜いてきた亜人であったという事実に他ならない。
「理解できたかの?」
「はい。よく分かりました」
リーシェは背筋を伸ばし、はっきりと答えた。
自分が働くこの場所が華やかな貴族の邸宅であると同時に、血生臭い陰謀と復讐の舞台でもあるという現実。
その重みがリーシェの華奢な肩にのしかかる。
だが不思議と恐怖はなかった。
むしろこの屋敷の一員として認められたことへの、奇妙な高揚感さえ覚えていた。
◆◆◆
休憩時間。
使用人用の休憩室では門番のガッデムが遅い昼食をとっていた。
ハーフオーガの巨躯を持つ彼はその見た目に違わず大食漢だ。
巨大なマグカップで水を呷り、山盛りの肉を頬張っている。
そこへフェリが姿を見せた。
彼女の手には一冊の書類が握られている。
「ガッデム殿、少し宜しいでしょうか」
フェリの声は常に冷静で、感情の起伏を感じさせない。
「おう、フェリか。どうした?」
ガッデムは口元を拭いながら、フェリに向き直る。
「先日捕らえた刺客の件ですが、尋問の結果が出ました」
フェリは周囲に聞こえないよう、声を潜めて報告する。
休憩室の空気が一瞬にして張り詰めた。馬鹿みたいに正面から押し入ろうとしてガッデムに取り押さえられたのだ。
捕獲にガッデムもかかわっているため、フェリがこうして事後の報告に来ている。
他の使用人たちは何事もなかったかのように談笑を続けているがその耳は二人の会話に集中していた。
「ほう、吐いたか。それで、黒幕は?」
「やはり、マルティネス子爵家でした」
マルティネス子爵家。
先代ダミアンによって領地の一部を不当に奪われ、没落寸前まで追い込まれた家だ。
「ふん、しつこい奴らだ。大奥様が和解を申し出ても、頑として応じぬとはな」
ガッデムは吐き捨てるように言った。
「それで、その刺客はどうしました?」
「オーマに任せました」
フェリの言葉に、ガッデムは眉をひそめる。
「オーマにか。また庭の肥やしが増えるな」
オーマ。
アステール公爵邸の庭師。
だがその正体はハインが使役する悪霊である。
オーマはハインの敵を喰らう。
文字通りの意味で。
「オーマも最近、少し行儀が良くなりました。以前のように、そこら中に食べ滓を散らかすような真似はしなくなりましたよ」
フェリは淡々と告げる。
「それは何よりだ。奴の食事の跡を片付けるのは骨が折れるからな」
ガッデムは苦笑しながら、再び水を呷った。
彼らにとって刺客の処理は日常業務の一環に過ぎない。
そこに恐怖や嫌悪といった感情は存在しない。
あるのはただ、主家を守るという強い意志だけだ。
「ところでフェリ。若様の様子はどうだ?」
ガッデムが話題を変える。
その声には先ほどまでの冷徹さとは異なる、温かみが滲んでいた。
「相変わらずです。ただ、冒険者稼業について中々スムーズにいかない事も多く悩まれている様子です」
フェリの声にも、僅かな憂慮が滲む。
「そうか……」
ガッデムは腕を組んで唸る。
その時、部屋の隅の影が揺らめいた。
『ナヤミ、アルナラバ……』
「オーマか。分体か?」
『ウン……』
ガッデムは驚くことなく、影に向かって声をかける。
影は次第に人の形をとり、オーマが姿を現した。
今は先日ハインが捕らえた竜人の女──シャルキの姿を取っている。
赤毛の、きりりとした顔つきの女。
だがその瞳は虚ろで、生気を感じさせない。
「オーマ、何か考えがあるのですか」
フェリが問うと、オーマは無表情のまま頷いた。
『ハイン様ニハ、エサガ、ヒツヨウ……』
「餌、だと?」
ガッデムは眉を顰める。
『ソウ……ハイン様ノ、ココロヲ、ミタス、エサ……』
オーマの声は低く、抑揚がない。
「それは一体何を意味するのですか」
フェリが尋ねると、オーマはゆっくりと口を開いた。
『タタカイ……そしてショウリ……』
その言葉に、フェリとガッデムは目を見開く。
「戦いと、勝利……」
「なるほど。若様は根っからの武人だ。戦いの中でこそ働く勘働きの様なものもあるか」
ガッデムは納得したように頷く。
「ですが賞金首とされている魔物も多くを討伐してきましたが、どれもこれもが質が低く、とても若様の心を満たせるとは……」
フェリが言いかけた時、オーマが静かに告げた。
『チカヅイテイル……アラタナ、タタカイノ、ヨカン……』
その言葉に、二人の表情が険しくなる。
オーマの予感はこれまで一度も外れたことがない。
「それは一体……」
フェリが尋ねようとした時、オーマは再び影の中に溶け込むように消えていった。
残されたフェリとガッデムは互いの顔を見合わせる。
新たな戦いの予感。
それはアステール公爵家にとってそしてハインにとってどのような意味を持つのだろうか。
窓の外では秋風が庭園の木々を揺らしていた。