生まれた時から、自分は何か他人と違うことに気がついていた。
人は皆、揃いも揃って不安定な人生を生きている。それなのに何故か、自分は真っ直ぐで安定した一本道を歩いているのだ。
未来への不安、変化への恐怖、死への畏れ。
そんなものは一切なかった。まるで誰かに仕組まれたかのような筋道で、己の人生を送っている気分だった。
あらかじめ物語が決まっているかのように、自分──つまりルナジリオという女性は多くの物事で成功を収めた。
それは本当に、出来すぎているというくらいに成功し続け、遂には英雄と祭り上げられる程までになった。
それでも、自分は満たされなかった。
理由は分からなかった。
富と名声。その二つを欲しいままにし、誰もが羨む強さと、美しさ。そして多くの有力者との繋がりを得たのに、である。
それでも何か足りない。
その何かが、自分を空っぽにしていた。
分からない。
ただ、温もりが欲しかったのかもしれない。
最初は恋人が欲しいのかと思った。もっと言うなら、愛する人が、或いは家族が欲しいのかと思った。
しかし違った。
言い寄ってくる男は数多。その中には大陸中が熱を上げるような美男も居たし、最強と名高い雄も居た。
その誰もが、自分を満たすことはなかった。空虚で、時間の無駄としか思えなかった。
だから自分は旅に出た。遠く、遠く、遥か遠くに。気の遠くなるような時間をかけて。
「……貴方は、何処に居るのだろう」
ゾッド大陸北部、夜の森。
人里離れた場所の小さな湖で、自分は装いを脱ぎ捨てると、水浴びを始めた。
月夜を反射する金の長髪をかき上げながら、そっと腰の辺りまで湖に浸かった。
鍛えた肢体を晒して、真冬の湖に身体を沈ませる。
辺りにはこの土地一体を覆う深雪が積もっていた。空気中すら凍てつかせる冷気が、この森に沈黙をもたらしていた。
寒さはなかった。この程度、どうにでもなる。
しかし他人から見れば自分は、それ以上に、野盗や獣、そして或いは「魔物」という脅威に対して、あまりに無防備だった。
けれど自分は、どんな相手が来ようと害されない自信があった。何故なら彼らは、自分に負けると定められているから。
……いや、それは自信と呼ぶに相応しいのだろうか。それとも、ただ定められた物語を歩んでいるだけなのだろうか。
ひどく空虚な夜空を見上げつつ、己の身を憂う。
──ふと付近に物音を感じた。
「一つは人間だな……」
音の距離感や種類から、容易に想像がつく。
背丈はまだ大人と呼べない、少年に近い人間が、獣──恐らく熊に襲われている。
こんな夜に森に入るなんて、自殺行為だ。自分のように対処する術を持たないのであれば、それはあまりの迂闊さに呆れ返ってしまうほどだ。
いっそ見捨てても良いのだが、その時、何故か身体は動いた。
不思議な心地だった。
頬が自然と釣り上がる。
心臓に火が入ったように、身体に力が漲る。
早く助けろと何かが急かす。
自分は訳もわからないまま、衣服を纏う時間も惜しいと、剣を片手に森を裸足で走り出した。
助けなければ。あの人を。
ーーーーーーー
リヒトは生まれつき、心臓が弱かった。
過度な運動は、それだけで寿命を縮める行為だと、その言葉の意味を理解出来るようになる以前から、口を酸っぱくして言われていた。
だから走り方すらままならなかった。それでも、死ぬよりはマシと懸命に走った。
「はぁっ、はぁ……」
「グォッ、ォォッ──!」
背後から三、四メートルはある大きさの熊。茶色い体毛に包まれた野生の獣が、八つ裂きにしようと迫ってきていた。
もうどれくらい走ったのか分からない。目が覚めたらいきなりこの状況だった。
自分の身体がこうも軽々と動くことに、今は微塵も興味が湧かなかった。
走ること以外に意識を向ければ、そこで人生が終わる気がした。
走る。走る。とにかく走る。相手は野生で、走ったことがないからなどと言い訳は出来ない相手だ。
呼吸の仕方も分からなくなってくる。
それでも走った。
「あっ……」
けれど、人生初の逃走も、長くは続かなかった。
雪に隠れて見えづらい足元の木の根につまづき、頭から地面に滑り込む。口の中に土と雪が入り混じる。
もうダメだ、追いつかれた。
「っ──」
目を閉じて、じっとその時が来るのを待つ──やっと走れるようになった次の瞬間にはゲームオーバー。
人生とは実に残酷であった。
それは、彼が己の生きた短い時間の中で十分に理解していた事だった。
「グオッ、ォッ──」
「……?」
──しかし、いつまで待っても衝撃は来ない。
状況も分からぬまま、ゆっくり仰向けになる。
尻餅をつくような体勢でリヒトが目にしたのは、頭を斬り飛ばされた熊の死骸と──一人の美女だった。
月明かりに照らされた、文句のつけようがない絶世の美女。
長身で、髪は長くストレートだ。髪色は白金に輝くプラチナブロンドで、その顔立ちは美しいの一言。女性らしさと、剣のような鋭さ、そしてメスとしての色気を最上級に混ぜ込んだような美形。
整った眉に鋭い眼光。鼻筋は驚くほど精巧で、なのに唇はぷるんと柔らかそうで、その女性が如何に完璧か気がつくと、リヒトは大きく背筋を震わせた。
綺麗な人だった。
そして、彼女は何故か全裸だった。
「ごく……」
リヒトが喉を鳴らす。
彼女は顔立ちも良ければ、身体つきにも恵まれていた。
足裏に枯葉を引っ付けながら歩み寄ってくる彼女の女体は、はっきり言って美しさの暴力のような造形だった。
女性らしく丸みを帯びた身体には、ほっそりとした手足のわりに途轍もない卑猥さが滲み出ていた。
たぷんと膨らんだ乳房は巨大で、彼女の横のシルエットを崩すほど大きく、そして綺麗な雫型をしている。リヒトの両手でも収まらないような爆乳は、芸術品のような華麗で発色のいい乳輪と、吸い付きたくなるようなピンと勃った乳首を惜しげもなく晒していた。
そんな大きな乳房の下には、心配になるような細くくびれたお腹。割れた腹筋。ヘソの周りに頑丈そうな筋肉が見て取れる。
くびれたウェストからは、これまた急カーブを描いて肉感的な尻肉がそこにあった。理想的な弧を描き、それでいて引き締まっている。女体としての柔らかさを損なわないような大きなお尻。連なるように彼女の太もももはむっちりと太く、触り心地も良さそうだった。
美しく、そしてどこまでも淫らな体型である。
リヒトは知らずと見惚れてしまう。
「……」
彼女は、大きな剣を地面に突き刺すと、ゆっさゆっさと乳房を揺らして近寄ってくる。
リヒトは自然と目が股間に行く。
当然そこにも何も身につけていない。彼女の髪色と同じ金色の陰毛が、もさりと生えそろっている。
全裸だ。間違いなく。
生まれて初めて見る女性の裸体──しかもとびきりの美人のものときて、年齢相応にリヒトが鼻息を荒くした。
彼女は胸元に着いた返り血を拭うように、たぷん、と乳房を手のひらで拭うと、それから口を開いた。
「大丈夫か?」
耳に染み入るようなアルトボイス。美しい音色だった。
神は彼女にいくつ贈り物を送ったのか。
そんな事すら考えるほど、何から何まで完璧だ。
「……」
「──おい、何処か怪我をしているのか?」
リヒトが惚けていると、黙り込んで一言話さないと心配になったのか、彼女はかがみ込んで様子を見てくる。
目と目が合う。
彼女の宝石のような瞳と、リヒトの瞳が自然と合った。
「そんな、まさか……貴方は……」
驚きの声をあげたのは彼女。
しかしそれ以上に驚愕したのは、リヒトの方だった。
「ルナジリオ……?」
ーーーーーーー
リヒトには、今の状況を上手く説明出来る気がしなかった。
同時にいくつもの有り得ない出来事が起こったのだ。
ここは何処。自分は何故ここに。何故か見覚えのある景色。一体何が起きた。
何もかもわからない。
一つ分かるのは、何かとんでもない事に巻き込まれてしまったという事。そうでなければこんな雪積もる森の中で、何も所持せずに目を覚ます事などあり得ないだろう。
(僕はどうなってしまったんだろう……)
リヒトはすっかり混乱の最中だ。
そしてそんな森林で遭難している途中に、リヒトは運悪く熊に見つかった。野生の熊だ。
日本では野生の熊なんて容易く出会えるはずもなかったが、『この世界』はどうやら違うらしい。
そんな他人事のような分析と共に、リヒトは訳もわからず森の中を逃げることになった。
必死に逃げた。
生まれて初めて、こんなにがむしゃらに走った。
走って、転んで、それでも逃げて。
擦り傷だらけになりながら、懸命に逃げた。
そして、間一髪の所を、彼女──ルナジリオに救われた。
「夜は冷えます。白湯です、どうぞ」
「あ、ありがとう、ございます……」
ルナジリオから手渡された木のマグカップに口をつける。湯気が顔に当たり、如何に自分が凍えているのか痛感する。寒い、先程は走り回っていたので分からなかったが、ここは寒い。
当然だ、この『世界の設定』は冬なのだから。
ぶるりと身体が震える。
森の中は殆ど雪景色だ。
足元でぱちぱちとなる焚き火がつま先から熱を送ってくれなければ、さらに凍えていただろう。
「これをどうぞ……少しはマシになります」
そんなリヒトを見て、ルナジリオは自らの上着を脱いだ。
防寒用とはとても思えない、黒革のロングコート。カッコつけにしか使えないような丈の長いコートだが、彼女が身に纏うととてつもない高級感が漂っていた。
似合っているのだ、あの黒コート。そして背中に下げた大剣が。
リヒトは彼女を作成したモチーフを思い浮かべながら、頭を下げてそのコートを羽織る。
汗とほのかに女性の香り。思わず襟に鼻を押し当てながら、ふと彼女を見る。
「……!?」
目の前の光景に思わず白湯を吹き出しかけた。
当然だが、そんな事をすれば彼女の上着は無くなる。下半身は似たような黒革のジーンズらしきものを履いているから良いものの、問題は上半身だ。
つまり彼女は上着を脱いで、リヒトが『インナーに設定した』胸の先っぽの乳首だけが辛うじて隠れているような黒ヒモビキニだけになったのだ。
完全に痴女だ。
自身が設定した時はもう少し布地があったように思えたが、こうしてみると乳輪すらはみ出ていて、おまけに乳房のサイズが大きすぎるあまり乳肉に黒ヒモが食い込んでいる。
リアルで目の当たりにするととんでもない衣装だと思いつつ、リヒトは目を逸らさずにいた。
さっきまで凍えていた下半身が、一部だけ熱を帯び始めた。
「それで貴方は……」
ルナジリオはリヒトの真正面に腰掛けると、敬愛する人を見るような眼差しで、視線を送ってきた。
リヒトは彼女の言葉を遮るように口を開いた。
「さ、寒くない……で、ですか……?」
「……はい。大丈夫です、この程度ならば問題ありません」
言葉を遮られた事を怒りもせず、ルナジリオは頷いてそう答えた。
もちろん彼女が『冷気耐性』を持っているからに違いない。
リヒトは「凄いな」と呟いた。
『ゲームの中なら』全裸であろうと冷気耐性があれば寒さは防げると理解できる。そう機能しろと設定されているからだ。
しかし今こうして目の前で真夏の水着姿のような格好で、リヒトがぷるぶると震えている中、寒くないと言われてしまうと違和感しか感じなかった。
非常にゲーム的だ。数値さえ設定されていればどんな事だろうと狙ったことが起きるのだ。
そう思うと、ここが途端に奇妙な夢に思えてくる。
しかしここは、もはやリヒトにとって現実なのだ。
先ほど熊に襲われた時、リヒトは明確に死を感じたのだから。
「質問を、しても良いですか?」
ルナジリオは、先ほどから何度も聞きたいことがありそうだった。
リヒトはすぐにまたごまかそうとして……それから隠しきれないかと、覚悟を決めた。
「──貴方は、私を作った人ではないですか……?」
「……うん」
リヒトは口をつぐみ──結局、白状するみたいに頷いた。
何がどうなっているのか全く分からないが、一つだけわかるのは、目の前の彼女──ルナジリオは、リヒトが作ったゲームキャラクターだということだ。