その女の名前はヴァレーリャ。
あまり健康的とは言えない、どちらかというと屋内に引き篭もりがちな性格と気性ゆえにその女の肌は白磁のように生白く、腕や足、頬や首筋に現れるそれらの調子は陽の光に積極的に晒されてこなかった人生を物語る。
ただ遺伝というのは恐ろしくも確かな結果を残すもので、この女の両親は父母どちらも高身長な家系であった。ゆえにこの女も平均的なロシア人女性よりはるかに高い身長を持つ。
胸は控えめ。女性専用下着などなくても絆創膏で良いだろうと本人が思うくらいのもの。一応スポーツ用の物を愛着しているが、そういう程度の大きさだった。ゆえに、高身長も相まって中性的な印象を思わせる。
ヴァレーリャは運が良かった。タルコフ市内に取り残されてしまったことに関しては否応なく運が悪いのだが、そこに目を瞑ればこの女は人類の中でも上位に入るだろう幸運の持ち主だ。
元々はテラグループの地下駐車場警備員をしていた。
住み込みで、ネット情報へのアクセス制限があり、その代わり数ヶ月間の衣食住を約束された上で報酬もかなりの物。
そんなおいしい仕事に応募する人間は、当然多く挙手をした。
基本的な健康水準と文字の読み書き、最低限の書類作成スキルがあれば誰でも応募できるが故に、募集人員をはるかに上回る応募となった。
ほどなくして採用は抽選になった。足切りライン以上はもはや履歴書すら読まれない。出てきた白い玉に書かれた数字と同じ募集番号の人間に社員証とIDが割り振られていった。
その中にヴァレーリャの番号はあった。運がいいのである。晴れてリッチな待遇の警備員となった。
仕事の内容は本当に気楽なものである。地下駐車場でたまに来る研究員や来客の車両を誘導して、通路や駐車場や便所を清掃をして、あとはのんびりと本を読んで過ごす。
人と話すことがどちらかというと億劫で苦手な性格であったこの長身細身のインドア女は、地下のモグラになる事に関してとても相性が良かった。
運の良さはそれだけではない。
ヴァレーリャが警備員服に袖を通し始めて数か月後に、この研究所はテラグループが雇った民間軍事会社USECによって血祭りに挙げられた。違法な実験のスキャンダルが世に漏れて企業として打撃を受けるくらいなら、そもそもスキャンダルの火種を物理的に消してしまえばいいという大変粗い理論に基づいて、研究員の命を数多散らしていった。
研究所の警備員も例外ではない。
例外なく殺される。研究者を殺しているところを目撃した人間を生かしておく理由もない。9ミリ口径の拳銃一丁が腰にぶら下がっているだけの素人を、よく訓練された一個小隊規模の戦闘員が殺して回ることに何ら障害はない。
ただ、ヴァレーリャは殺されなかった。運が良かったのである。
殺されなかった、という表現は適切ではない。正しくは〝発見されなかった〟のである。
前日から読み始めた小説が大変面白い物で、休憩時間はだいたいこれを読み耽っていた。
文学作品というのは時に人を空想の世界に閉じ込める。
目から入り込んだ文字情報は脳内で処理され想像、仮想、夢想の世界をその人物の頭に作り出す。
ヴァレーリャが昨日から読んでいる小説は、成人向けの官能的な物語だった。
緻密で濃密で湿度の高い描写で有名な作品。シリーズ物でまだあとこの先十数巻を控えている。
毎日読み進めても数週間は楽しめる。だから別に急いで読む必要など少しもないのだが、先の通り小説とは人を蠱惑的に空想の世界へ閉じ込める。
ヴァレーリャは休憩時間中に開いた本を閉じることがどうしても難しかった。
人間の生理現象である排泄の要求に体を苛まれてもなお、本を閉じることに強い抵抗がある。
そうだ、じゃあ持っていけばいい。
至極単純で簡単な話。途中辞めできないなら継続すればいい。本は片手でも持てる。排尿なんて反対の手があれば造作もない。ヴァレーリャはトイレに入った。そして用を足した。
「…………」
面白い。面白いという表現が一体この世界の何に対して使うと最も正解なのか、よくわからなかったがページを捲る手が止まらないのは間違いなく〝面白い〟からだろう。
そして一つの章が終わる。そこまで読み進めて、ヴァレーリャは一度腕に巻いている安物の時計に目を落とした。針は思ったよりも進んでおらず、休憩時間はまだ十分にある。それこそ、もう一章読み進められるくらいに。
「…………」
ヴァレーリャはページをめくった。便座の上で。右手で本を持ち右の親指でページを捲る。こうすれば片手で本を保持して先へと読み進めることができる。単行本のような大きくて重い物では不可能だが、文庫本はこれが可能である。
そして左手は股間へと伸ばした。
指先が自らの細く柔らかな陰毛に触れる。目に飛び込んでくる文字情報の中でも、同じように女性の陰部に細く白い指先が当てられている。
女性が女性の秘部に手を伸ばし、指先を触れ、丁寧で緻密でしかし大胆な愛撫に耽っていく描写を見て、ヴァレーリャはスイッチが入ってしまった。
ここはトイレで、ここは個室で、言うなれば完全なプライベート空間である。誰かが覗くこともなければ世間に痴態を晒してしまう危険な場所ということもない。
会社のトイレで淫行を働くことに抵抗がないわけではなかったが、
「ふ…………ん…………」
小説の中の人物は社長室の高級デスクの上でやっている。だったらこんな薄暗い閉鎖された箱の中で、便器を清潔に保つための塩素系洗剤の臭いに鼻を突かれながら一人で慰めることの何が悪いんだとヴァレーリャは内心で言い訳をした。創作と現実の境界が曖昧になっているが気がついていない。
本の中の人物が、女性の秘部へ沈めるための細長い道具を取り出した。道具を出したのは社長秘書で、これから目の前の道具を自分の秘所に沈められることを想像して頬を染めたのが社長というわけだった。
目で追う文字情報。それが、社長の秘部へゆっくりと入り込んでいくおもちゃの描写になるのと同時に、自らの指も蜜壺の中へと浸していく。
他人にされるのと自分でするのとでは決定的に違うことがある。予測できるかできないかだ。
当たり前だが他人が自らの性器に何をするのかは予想はできても予測はできない。まして〝こうなる〟と完全に予知することなど不可能。
しかし自分の指が自分の中に入っているときは、自分がこれからどのような快感を得るのかなど手に取るようにわかる。だって自分の手なのだから。
その分、どこが自分にとって気持ちがいいのか。これもよくわかる。
小説の中の社長は普段強気で言動も厳しく、頼れるリーダーではあるが好かれるリーダーではない。そんな彼女に近付いたのが、小柄な体格ながら貧困街で逞しく生きてきた女。社長と同い年で、社長とは違う世界の住人。体を売ることもしばしばある、言い換えるならば経験豊富な外の世界の女が、豪奢で重厚な高級デスクの持ち主の股間へ小刻みに振動するシリコン製の細長い突起物を鎮めていく。
「く……ふぅぅ…………」
ヴァレーリャはあえて指の動きを緩慢にした。
陰核を中指で数回擦って、そのまま数センチ下へ、押し込むように指をそわせる。もうすでに自らの蜜で指は言い訳できない光り方をしており、それゆえにぴたりと閉じた穴にもするりと中指は入っていく。
異物感。自分の指を異物と認識するくらい、下半身に意識が集中する。目に飛び込む文字情報は鮮明に脳内で再生される。
まるで自分はどこかの会社の社長であり、自らのオフィスで、自らの部屋で、自らの仕事を行う机の上に横たわって全く外の世界の小柄で愛嬌があって逞しく生きてきた部下の女性に秘部をいじくられているかのような。
現実と夢想の境界が曖昧になる。とうの昔に曖昧だった。
音だけは、せめて音だけは立てないように。湿っぽい音が自分の股間から愛液と一緒に漏れ出ないように努めて指は緩慢に動かした。
優しく、ゆっくり、でも圧はかけて。陰核のちょうど下のあたり。膣内入り口上部の何だか指先にざらざらとした感触の伝わる、ここを押すと腰がビリビリと痺れるような感覚になる。一つ押すたびに挿れている指にまとわりつく粘液が増えていく。便器に溜まった水にはもう何滴も糸を引いて垂れている。
「ぅ…………ぁ…………ぐ」
一旦本を閉じた。
トイレットペーパーホルダーの上に、閉じた本を置く。音は出ていない。でも丁寧になんて置けなかった。半ば投げるように右手を本から離して、紙束の重みから解放された右の手は流れるように自らの警備服の前ボタンを外した。
中に来ているシャツの下から手を忍び込ませる。スポーツ用品店で買ったワイヤーの入っていない軽い素材のブラを強引に押し上げて、目的の突起に指を這わせる。
最後に読んだ描写がそうだった。社長は秘部と胸を小柄な女に責め立てられていた。
明日食べるものにも困っていた女に、仕事と居場所を与えた女社長が受けた報いがそれだった。
良いか悪いかなんて、もはや関係ない。
「は…………っ…………ぅ!」
胸の刺激。一擦りするたびに首の後ろにぞくぞくと快感が走る。同時に湿った秘所を左手の中指が掻き回す。左手の親指を少し曲げた。中指の緊張をほぐすために。
でも、ちょっと曲げた先が下すぎた。
親指の爪が、意図せず陰核を引っ掻いた。
腰に、下腹部に、脊髄に、そして遅れて脳に。鋭利な刺激は快感と痛みの両方を全身に撃ち出した。
「っ!」
腰が跳ねる。止められない。我慢できない。
歯が割れてしまうかと思うほど奥歯を噛み締めて必死に声を抑えた。こんなところで嬌声をあげたらクビになる。バレたらやばい。
そう思う冷静な脳の一部が余計に快感へと火をつけた。声を出したらダメ。バレたらダメ。そう思えば思うほど、腰の痙攣が止まらない。こんなのは初めてだった。
たぶん、数十秒のことだったのだろう。しかしヴァレーリャには数時間にも及ぶ絶頂に感じた。
気が付くと背中が便座についていた。ずり落ちている。かろうじて床には落ちていない。落ちたらそれはそれで終わりだ。トイレでここまでなってしまっているのもすでにいろいろとまずい話だが、せめて便所の床に寝転ぶのだけは阻止したい。
無機質な天井が目に入る。LEDの白い電球が少しの痛みを伴って目に入る。それが、その痛みの刺激が頭を冷静にさせてくれた。
「…………なにやってんだ私は」
全身の倦怠感。体を起こそうとすると、秘所からとろりと愛液が垂れた。べちゃべちゃの左手に目を落とす。まるで精液かと思うほど白濁して指に絡みついている。生で精液なんて見たことないけど、きっとそう変わらないはずだろう。
それから体を起こそうと自分がこの個室へ入る時に潜ったドアに何となく視線が行くと、
「…………」
びちゃびちゃだった。ウォシュレットが故障して噴き出たのかと一瞬考えるほど凄惨な濡れ方をしていた。よく見ると自分の警備服にまでかかっている。ズボンの前側が明らかに色濃い。
深いため息が腹の底から漏れ出てしまった。
手首に巻いた時計を見る。針はとっくに休憩時間の終了を知らせており、具体的にはもうすでに五分遅刻している。
まぁいいや、とヴァレーリャは開き直った。別に休憩時間内に守衛室に戻らなくても、道端で客に道案内をしていたことにすれば良い。上司から問われたらそう答えようそうしよう。
「…………」
いやでもこの制服のシミはまずい。どうしよう。
◯
ヴァレーリャの長いトイレ休憩は、結果として彼女の命を救った。
彼女のいたフロアには
USECの襲撃は運良く彼女と関係のない場所で始まり、関係のない場所で終わった。
紛争の激化、収集の困難が極まりタルコフ市が閉鎖された後も、ヴァレーリャは地下駐車場で己の業務に従事していた。外の世界がどうなっているのか一切知る方法がなかったが故に、彼女は配給された備蓄で十分不自由なく暮らしていた。
そして、予定通り定期連絡会議のために数ヶ月ぶりに地上へ出ると、街が地獄に変わっていたことを知った。
その日からヴァレーリャは自らを〝グリゴリー〟と名乗り、アヒルを思わせる白と黄色のガスマスクを被り、地下研究所への道案内兼情報屋として生き抜く。
長身、ハスキーボイス、必要最低限のことしか喋らない。しかし案内は確実で扱われる情報も早くて正確。一度入ったら生きて出てくる人間はそうそういない地下への案内を進んでやる存在を、周囲の人間は冥府へ魂を誘う死神になぞらえてこう表現した。
そんな呼ばれ方をし始めたのは、そう遠くない未来の話である。