フラン公はしばらくベッドの上にいて、何か一点を見つめているように見えた。が、彼は何か見ているわけじゃない。
わたしはわたしで、シーツのしわをぼおっと眺めていた。
二人して気力を使い果たしてしまい、脱力して何もできないでいる。
誰のものともしれない灰色のワンピースは、わたしの吐しゃ物で汚れている。髪の毛はぼさぼさに乱れている。自分の太ももが露わになっているのに気がついて、何もないかのようにゆっくりと裾をさげた。が、どのみちフラン公は微動だにしなかった。
気が抜けてしまっている。
何も考えず、ただ単に自分の呼吸音を聞きながら、フラン公の指の傷から流れる血を眺めていた。
しばらく二人ともがそうしていた。
彼がおもむろにベッドから降りて、わたしのかたわらに立つ。深く息を吸い、ほんの一拍息をとめて「ふぅぅぅぅ」と細く深く息を吐く。
わたしよりも先に気力が充実したらしい。
が、彼は「だめだ、まだ」と小さくつぶやいて、そのまますぐそばにあった椅子に深く腰掛けた。
椅子がギシギシとなる。
「ふふ」
思わず笑ってしまった。
「どうした」
彼はおもてをあげて、珍しいものでも眺めるような目でわたしを見てきた。
「
そういうとフラン公がかすかに笑った。
この家に関する限り、あらゆるものが古びて、朽ちかけて、ギリギリでなんとか保たれている。
(いっそよく保っているな)
「ベッド…… すごかったな」
そういって口のはしに笑みを浮かべている。
「あはは」
わたしは、自然に笑えた。
その後フラン公はこの(見覚えのない)部屋についてわたしがたずねたのを皮切りに、状況を説明してくれた。いい加減舌が痛くなってしゃべるのが嫌になってきたが、最低限のことは知りたかった。
「君と戦った街から出て最初の農村だ。農村というか、廃村だな。村の名は知らない」
洗脳を解かれて倒れたわたしを馬に乗せて、ここまで運んできたということらしい。つまりここはまだ、ハインツ聖槍国内だということになる。
「気を失った君を介抱する必要があった」
フラン公は「もういい、あまり無理してしゃべるな」と言って、この後どう立ち回るかということについてもフローレンスに説明した。
彼らは一度態勢を立て直すため、フラン公領に戻るらしい。わたしの部隊とぶつかって手ひどい打撃を受けたという。しかし最大の目的(わたしのことだ)を果たしたので、いったんキリが付いたというのが、引き揚げる理由となっているようだ。
「君はこのまま僕たちについてきてもいい。それかフローレンス――君も一度、自分の場所に戻って、身辺整理する必要があるんじゃないか」
即答はできない。わたしは…… どうしよう。
洗脳は解けた。聖槍騎士団に戻る理由はない。が、隊長として積み重ねてきた人間関係を嘘にするのは違う。後輩たちが気がかりだ。
どうしようか。
「こたえは
そうだな、と言ってフラン公は少し眉をあげた。
「少なくとも君が持ち直すまではここに滞在するよ。そうして、もし別れたとしても、いずれは館にきてほしい。歓迎するよ」
弱々しく笑いながら、フラン公は手を差し伸べてきた。
その手を取ると、彼の傷ついた指が目に入る。自分が力いっぱい噛んだあとから血がにじんでいる。傷から目を離せずにいた。
「これは僕の名誉の負傷としよう。…… 今、着替えとシーツの替えをよこすから」
彼は、わたしに気を遣っているようだ。そう残してゆっくりとした足取りで部屋を出ていこうとしている。
歓迎する、と言われるのも妙だと思う。誰かに歓迎されて嬉しくないことはない。が、この件ではどちらかというと、恐縮する気持ちの方が勝っている。
フラン公は振り返り
「本当に変なことを考えないでほしい。僕はいつでもそばにいる」
とおだやかに、しかしきっぱりとした口調で言った。
また自傷行為をはたらかないよう釘を刺されていることくらいはフローレンスにもわかる。
「
そう答えると、安心した顔をして部屋を去った。
しばらくして、桃色の髪をした美しい娘がシーツと替えのあらたな寝間着を持って部屋に入ってきた。
「領主様より、あなたがずいぶんショックを受けていると聞いています。寝間着とシーツの替えを持ってきました。着替えるのをお手伝いします――」
「
言いかけたところを手で制された。
「お返事は大丈夫です。わたしはアリシア。フローレンスさん、まず着替えましょう。お体をお拭きしましょうか――それともご自身で…… 体をすこし浮かせることはできますか」
――身体が回復してから、フローレンスは結局「いったんはハインツにとどまる」ことを選んだのだった。
・・・
フラン公領に入ってすぐに空がぐずつき出し、フローレンスが宿にたどり着いた時にはもう大雨だった。この辺は大陸の最南端に位置しているし、海も近いのだから、もう少し暖かいものと思っていた。
明日も雨だろうか。おそらく明日には目的地に着けるはずだ。
ぶ厚い雲のせいでか、宿の受付がぜんたい薄暗い。
小さな宿だった。
階段口の横に小さなテーブルがあり、受付のじいさんが酒を飲んでいる。暖炉の火がシタシタと燃えて暖かい。
外套をとると、雨水が床にたまっていた。
冷たい晩秋の雨。こんな雨は、フラン地方でも珍しくないのだろうか。
暖炉の前で外套の始末をする。いつものように鎧甲冑を身にまとっているわけじゃない。服がうっすらと湿っていることに意識が及んだとたん、あらためて体が震えた。
じいさんから声をかけられた。だがこの大雨だ。何を言っているのか分からない。
相槌を打つ代わりに、外の方を一瞥して見せた。
じいさんは柔和な笑みを浮かべて、帳簿をさし出している。そこには氏名と住処を記す欄、なるほど。
その宿帳をざっと見渡すと、わりに人が訪れているのが分かった。陸路伝いのこの町でもこれだけ人が訪れるものだろうか(いくらフラン公領とはいえ、港町であれば人の出入りがあってもおかしくない)。
が、近年のフラン公の動きを思い出して、それもそうだろうと納得する。
彼はいま、魔女によって閉ざされてしまった国や地域を開放しているのだ。それにともない人の往来がうまれているのだろう。
宿帳に自分の氏名と所在を書き記そうとして、住所をどうするか考えた。もう自分はこの欄に、騎士団宿舎の住所は書けない。
二週間ほど前、フローレンスは騎士団の宿舎で一葉の手紙を受け取った。今どき珍しいほど上質な紙で、いぶかしがりながら封を切った。
中を見てみるとフラン公領主館の招待状だ。美しい文字で「もう一度会おう」と端的にしたためられた手紙と一緒に、簡単な地図が同封されていた。
フラン公本人の署名で、だ。それはつまりフローレンスが、ハインツ聖教国からフラン公の領主館に向かうことを意味している。
あの後、フローレンスは結局「いったんはハインツにとどまる」ことを選んだ。とはいえ自分が聖槍騎士団に所属していたことに対して、どのように落とし前をつけるかは決められないでいた。
自分はいわゆる偽の記憶で隊長職についていたし、もちろん不本意に始まったことだ。それは紛れもない事実だが、私のことを隊長として慕ってくれる子がいることもまた事実。
その子達とわたしの間柄までもが「偽」だったのだろうか。
それを考えると、人の生の複雑さを噛みしめないわけにはいかなかった。本意、不本意にかかわらず縁は織りなされていくもの。それを否定するほど子供じゃない。
フォルティナを助け出す活路は、自分と多くのつながりが形成されているハインツ国内にとどまることの中にあるのではなかろうか――
そんな葛藤の中に、まったく新しい手が差し伸べられたような気がした。つまり、その手紙がフローレンスの人生を変えたと言える。
新しい縁、なにやら胸がときめく手紙を直感的に大切にしてしまったのだ。
ほとんど衝動に身を任せて――多分、後悔しないという確信と共に――身近な数名に隊を去ることを伝えたのち、離隊を願い出たのだった。
その場の勢いに任せて旅支度をし、とるものもとりあえず出発した。後に色々と忘れ物があるのが分かり、我を失ってしまった自分に対して一人で赤面するくらいには浮かれたのだ。
改めて自分の名を記した宿帳を見直す。
宿帳の住処のところに自分で書いた「フラン公領主館」の文字をみて、自分の口角が上がっていることに気が付く。
いま、一つの光がフローレンスを導いている。
あの名も知らぬ廃村の見知らぬベッドの中で、心をむきだしにしたフラン公が自分の腹の上に乗ったこと。
あの熱と、口の中の指の感触が、自分の何かをとらえて離さないのだ。