「これまでクリファに堕ちた魔女が、もちなおした例はあるのでしょうか」
問いかけの相手であるロザリーは談話室のひなたで紅茶をすすっていた。まるでフローレンスの問いが耳に入らず、目を瞑りどこかから聞こえてくる世界の音に耳を澄ませているかのように動かない。
毎日が任務で、目まぐるしい。だが今日、午前には任務が終わってしまった。こういう時間があると、ゆっくりとフォルティナのことを考えられる。
一息つくと、真っ先にフローレンスはそう思った。
クリファに堕ちて、再び正気を取り戻すことはあるのか。
もしそうなら、それはどうやって?
自分は何をすれば?
ロザリーはフローレンスの質問に答える気があるのか怪しくなるほど間をあけ、ゆっくりと目をひらき、窓の外を眺めはじめた。物思いにふけっているようだ。
フローレンスもその視線の先に目を向けた。
外ではいつものようにナターシャが花の世話をしている。
――あるいは。この大魔女は、風にそよぐ花を眺めているだけかもしれない――
ロザリーに聞こえないようフローレンスは静かにため息を吐いた。長い時間を生きてきた相手だ。彼女の中に流れた時間を理解せねば、対話にならない。
つまりこのうんざりするほど長い
自分のカップの紅茶をのぞきこむ。味の濃い、良い紅茶だった。
こうしている間にも、フォルティナはひとり悲しみに暮れているのだろうか。
わたしはこうしてどうすればいいのか分からないまま、明日も明後日も変わらずここで任務に明け暮れているのだろうか。それでいいのか。
フラン公…… わたしに激しい感情を向けた男。
わたしはどうすればいいのか分からない。
彼が「ここにいてくれ」というのであれば、不思議とそれでいいように思える。
――うん。そう思える。なぜなのだろう。もとよりフォルティナを救うという目的は共有しているからか。
「なんといえばいいのかの……」
自分が質問したのを忘れそうになったころ、ロザリーはようやく口を開いた。聞こえていなかったわけではないようだ。
「事例ならある、そもそもナターシャがそうじゃ」
ナターシャ。花壇の草をむしりおわって、汲んできた水を花に振っている。
物静かな、まだほんの女の子だ。いつもかいがいしく花の世話をしている。
あの子がクリファの……!?
想像もつかなかった。
「おぬしが気になるのは、ナターシャではなく、聖剣の魔女のことじゃろ?」
食い気味になったわたしの機先を制するかのように、ロザリーが続ける。
「だがの。わしが話をせねばならんのは聖剣の魔女のことではない。心配しておるのはのう…… お主の方じゃ」
そういって、一息ついて紅茶をすする。お見通しだと言わんばかりの視線にたじろぐ。
「気づいておるかもわからんが、やつはぬしを任務で忙殺しとる。ぬしが余計なことを考えて、自らの心をふさがぬようにするためじゃ。確かにぬしは腕が立つ……
ゆえにに我々の快進撃になっとるようじゃがの」
「お役に立てているのであれば何よりです」
こたえると、ロザリーはまた唇を結んでまっすぐこちらをみた。澄んだ灰色の目がつらぬいてくる。
「今伝えたいのはそういうことじゃない。ぬし、分からんわけじゃなかろう?」
なにも答えられない。
「やつがぬしを馬車馬のごとく駆り立てとるのは、な。 ……なにも快進撃のためじゃない。分かっとるはずじゃ」
ロザリーの強い視線を受け、目を伏せてしまった。
あまり考えたくない事だ。ロザリーはため息をついた。
「強力なぬしまでクリファに堕ちたら、もうわしらの手に負えぬ。クリファ ……アレは心に呼応する病のようなものじゃ」
「心に…… 」
わからなかった、と言うほど馬鹿じゃない。なんとなく感じていたことだ。
「大切なことはの、結局ぬしの心の健康なんじゃ」
そう言って、ロザリーはゆっくりと茶をすすった。
耳が痛いようだった。
自分がフォルティナの安否に思いを馳せ、不安に駆られた挙句クリファに堕ちゆくところを想像した。
呼吸がとまる気がして、息を呑む。
とはいえ、それは私自身の問題だ。なぜ、フォルティナを救う話ではなくわたしの話になるのだろう。
「分からんか……?」
「……」
「分からんか。フローレンス」
名前を呼ばれ、ふたたび息をのみ、ゆっくり吐いた。
「ぬしは今、大切な友人のことを考えている」
「はい。その通りです」
「どうじゃ、それで悲しみから友人を救えそうか?」
「いえ…… いや、おそらく…… いや、必ず」
やっとの思いでそう答えた。
「――おそらく、なんて言ってるうちはだめじゃな。ぬしは今、どうすれば良いのか分からんのじゃろ」
「はい」
「頼りない者同士は、一緒にあっても傷つけ合って共倒れする。たいがいの」
「ぐ…… 」
図星を言い当てられた。
自分は今、フォルティナに会ったとしても、なんと声をかけていいのかすら分からない。
ましてやクリファに堕ちた彼女を救う、具体的な方法など。
漠とした不安、違和感、予感のようなもの。いま、目の前の大魔女が形にしてしまった。
「だから……いったいどうすれば、と…… 」
聞いているのだ。
「どうじゃ。ぬし、一回やつと二人でその辺を歩いてみてはどうじゃ?」
唐突にロザリーは領主の話を始めた。やつ、とはフラン公のことだ。
「は?」
「ん?」と、ロザリーは上目遣いにこちらの様子をうかがってくる。
「楽しい、と思うことをせい」
「しかし……」
あまりに唐突で、違和感がある。
「あのな、何度も言わせるな。楽しいと思うことをせい、と言っておるのだ」
なにか考えあってのことだろう。しかし、それをどう受けていいのか分からず黙って聞いていた。
「ぬしは何が楽しいと思う? どうやって人の好意を受け取る? どう伝える? どんな時に喜び、または傷つき、怒るのじゃ?」
そう問われ、自分の思考が停止していくのを感じる。
自分のことを問われると分からない。
ただ、ただフォルティナに申し訳ないのだ。
ふっつりと、ものを考えられなくなった。
自然と、目に入る情報だけに意識が向く。
ロザリーは幼女の
「行き止まりにあたって、考えられなくなったの」
さすがに看破された。
「ん。まあ…… 考えて分かるようなことじゃない。が、せめてわしのいうことくらい真面目に聞け。おぬし、あやつと惹かれてあっておるんじゃろ?」
自分が赤面していくのが分かる。
「あ、な…… そんな……」
わたしは確かに領主に惹かれている。が、お互いに惹かれあっているかどうかなど、なぜわかる。
「いい年して、そんな事じゃから友の救い方ひとつ分からんのじゃ」
「しかしそれとこれと、何の関係があるのですか」
さすがにムッとした。
ロザリーは不敵に笑って言った。
「だから
フローレンスは、ぐうの音も出なかった。
「目の前にいる人間ともそれができんで、誰とできるんじゃ?」
大魔女はそうつぶやき、紅茶を一口すすってほうとひとつ息を吐いた。厳しい言葉だった。が、ロザリー自身はおだやかにみえた。物憂げに遠いどこかを見ているようでもあり、フローレンスは言われたことに反発する気が起きず、すんなり入ってきた。
「だから楽しいと思うことをせい、フローレンス。それで良い、それが良いんじゃ。自分を知り、人を知ってできるようになることがあるんじゃの」
ロザリーの言葉はフローレンスの中に沈みこみ、まるでそこにうずくまるかのように形をつくっている。
「と、言われた」
黙って聞いていたフラン公は、聞き終わるとフフと笑って思案するようにわたしから視線を外した。
自分が抱く彼への想いまでは、さすがに伏せている。それ以外をフラン公に話した。
ロザリーにあそこまで言われたのだ。
さっそく夕食の後、領主を散歩に誘った。
二つ返事でフローレンスの誘いに乗ってくれた時、思わず眉間にしわが寄るほど嬉しかった。同時に、こんな簡単な事すら指摘されないとできなかった自分が情けなかった。
夜は冷える。
風がなくしんと静まり返って、はるかな空をたなびく群青色の雲の列が美しかった。
フローレンスはマフラーにふかぶかと顔をうずめて、月に明るく照らし出された足元を見ていた。
おだやかな夜だ。
フラン公が自分のすぐ横を黙々と歩いている。自分の体温がいつもより高いのが分かる。
遠くの森でふくろうが狩りをしている音が聞こえた。
「愛情の受け渡し、か――」
領主はしみじみとした調子で言った。
「フローレンス、これまで人を愛したことは?」
そんな質問されると思っていなかったので、多少おどろきながらも考えてみる。
愛する。
フォルティナの顔が浮かぶ。これは愛か?
――分からない。
大切だ、という気持ちはある。それから申し訳なさ。これは、愛するということなのだろうか。
「領主。愛する、とはいったいどういうことだろうか」
「例えば――」
そうだな、と領主はつぶやいて、しばし口をつぐんだ。
沈黙。
自分たちの足音、砂地を踏みしめる音と、息遣いだけが耳に入る。
目の前の男が、自分になにを言うか考え、そして決めあぐねている。なぜだか無性に嬉しくなった。
「そうだな、第一に――相手に何か感情がわいてくることだと思う」
「なにか?」
「そう。深い関係性でもないのに無性に好ましく感じる人もいるし、そこまで感情が動かない人もいる。それがなぜかは分からない。見た目が好みだからなのか、距離感が気に入ったからなのか…… 」
言っていることはわかる。
「一緒にすごした時間とは関係ない、一目見たときにはもうそこにある気がするような――」
それが生ずる相手と、そうではない相手がいるということは分かる。
「…… だが領主は―― 館の皆にはもちろん、領民にも分け隔てなく愛情をくべているような気がする…… します」
誰に対しても柔和な笑顔で。
「そうかな? 僕は誰かにあんな風に気持ちをぶつけたことはない。あれが初めてだ」
初めての、あれ?
何を言っている――? ほんの一瞬の混乱。
そして、名も知らぬ村の小屋での時のことを言っていると思い当たる。
「ええ…… 」
上ずった声がでた。
「どういう意味ですか」
「どういう…… そのままの意味だよ」
なんといっていいのか分からなかった。
領主もふっつりと口を閉ざし、また足音と森の音だけになった。
いつの間にか、森の入り口の草むらにたどり着いている。行き止まりだ。
自然と立ち止まり、領主の表情をみた。月に蒼く照らされた端正な顔立ちがこちらを見ていた。
「どういう意味ですか」
ふたたび問うた。
なにも考えられなかった。ただ自分がどこかに向かっているのが分かる。
フラン公の大きな手が伸びてきて、自分の腰に触れるか触れないか、軽く添えられた。自分がかみついた指にのこる痕跡が生々しい。
目が離せなかった。
「なぜ聞く?」
「知りたいと思うから? です」
ーーこの人は、自分に特別な思いがある。かもしれない。
あるいはもしかしたら、フローレンスの大きな思い違いかもしれない。
けれど、あの激しさはどうだろう。
荒々しく組み伏せられた時、この人から尋常じゃない想いをぶつけられた。
「どういう意味か」フラン公はささやくように言った。
自分の勘違いでなければーー
次第に顔が近付いてきてーー
フローレンスのくちびるをとらえた。
危険なほどやわらかく、忘れがたく、優しい口づけ。
夢中で応えた。
小休止、耳元でささやかれる。
「どういうわけか…… わいてくるんだ」
フローレンスは自分がようやく
時間が止まったように感じた。