「じゃあ俺達、先に宿を探してるわ」
自由組合の応接室を出る前に、俺はパトリシアへそう声をかけた。
ユウキは、昔の傭兵団について少し確認したいことがあるらしい。パトリシアも「すぐに参ります」と頷いていたし、別に急ぐ話でもない。
モリ夫は既に窓の外を眺めながら、どこの宿が安そうかを見定めている。
ディア風呂は、もっと別の基準で街を眺めていた。
「では、浴場のある宿から確認いたしましょう」
「一番先にそこを確認するの?」
「旅の疲れを癒やすことは、明日の活力に繋がりますので」
「まともなこと言ってるけど、絶対温泉目当てだよな」
パトリシアは少しだけ迷うように、俺達とユウキを見比べた。
「……はい。後ほど、合流いたします」
「分かった。腹減ったら連絡して」
俺達が部屋を出ると、扉は静かに閉まった。
その音が消えてから。
ユウキは、さっきまでと変わらない気軽な口調で言った。
「で、どうだった? チンポリス」
パトリシアは立ったまま、返事をしなかった。
窓の外には、自由組合の利用者達が行き交っている。依頼書を抱えた冒険者。仕事を終えたらしい職人。受付で返金を求めて怒鳴っている男。
いつも通りの組合の風景だった。
それなのに、この部屋だけ少し静かだった。
「……とても危険な国には、見えませんでした」
やがてパトリシアは、ゆっくり答えた。
「魔物の国であることは間違いありません。ですが、住民の皆様は友好的でした。人間へ無差別に危害を加えるような方々でもありません」
「へえ」
ユウキは机の上の書類を一枚めくった。
「警備体制は、少し過剰でしたが」
「少し?」
「犯罪者への初動は、非常に速いです」
「それは良いことじゃない?」
パトリシアは、少しだけ視線を伏せる。
「……地面へ沈める頻度を除けば」
「何それ」
「いえ。警備責任者候補として、私も努力いたします」
真面目な顔で言われて、ユウキは小さく笑った。
「じゃあ、好きになった?」
「……はい?」
「チンポリス」
突然の質問に、パトリシアは言葉を失った。
戦争の後で、皆が街を直していたこと。
新人歓迎会だと言って、朝五時から待たされ、乳首の刺繍入り制服を渡されかけたこと。
自分が暴れる度に困った顔で止めながら、それでも皆が仕事を任せようとしてくれたこと。
思い出すものが多すぎて、すぐには否定できなかった。
「私は、報告のために――」
「うん」
「……ですが」
ユウキは返事を急かさない。
追い詰められた人が、答えを探す時間を見るのが好きだと言っていた。その言葉が、今になって少しだけ引っかかった。
「嫌いでは、ありません」
パトリシアは正直に答えた。
「皆様は騒がしくて、危なっかしくて……ですが、優しい方々でした」
「そっか」
ユウキは、どこか楽しそうに頷いた。
「それが聞きたかった」
「何がですか?」
「別に」
答えずに、ユウキは部屋の奥へ目を向けた。
「じゃあ、エルシアさんはどう思う?」
パトリシアは首を傾げた。
部屋にはユウキと自分しかいない。
そう思っていた。
「私は、少し違う意見ですね」
背後から聞こえた穏やかな声に、パトリシアの肩が跳ねた。
振り返る。
いつからそこにいたのか分からない。
白と金を基調にした聖衣。長い銀髪。柔らかな笑顔。
聖女エルシアが、壁際に立っていた。
「……エルシア様」
パトリシアは反射的に杖を握る。
エルシアは、その仕草を見ても笑顔を崩さなかった。
「お久しぶりです、パイズリッドさん」
「なぜ、ここに……」
「お仕事の相談です」
「誰と?」
「彼と」
ユウキが軽く手を挙げる。
その返事で、パトリシアの表情がさらに固くなった。
ユウキとエルシア。
この二人が、こんな場所で会っている。
それだけで、知らなかったことが多すぎると分かった。
エルシアは窓の外を見ながら、ゆっくりと言った。
「チンポリスは、今は危険な国ではないのでしょうね」
「今は?」
「ええ。人は少しのきっかけで変わります」
彼女の声は優しい。
けれど、言葉の温度だけが妙に低かった。
「優しい方々であっても、力を持ち、恐怖を抱き、誰かを守ろうとすれば……いつかは変わるかもしれません」
「それは、どこの国でも同じでは」
「そうですね」
エルシアは微笑んだ。
「だから、見守る価値があります」
パトリシアは何も言えなかった。
「あっ、そういえば、ルミナスさんがあなたに失望されると仰ってましたよ」
「あいつが? 僕に? 白々しい〜」
ユウキは、紅茶の冷めたカップを指先で回しながら、ため息混じりに続ける。
「戦争してくれだなんて、僕は言ってないのにさぁ」
エルシアは、くすりと笑った。
「ふふっ。楽しい催しでしたよ」
「……まあね」
パトリシアは、二人の顔を交互に見た。
「……あの戦争を、催しと呼ぶのですか?」
「結果としては、興味深かったよ」
ユウキは悪びれずに言う。
「人間と魔物が同じ場所に集められて、嘘を信じ込まされて、それでも最後には戦いを止めた。普通なら、もっと悪い方向へ転ぶと思わない?」
「思います」
「なのに止まった」
ユウキの目には、純粋な興味が浮かんでいた。
「どうして止まれたのか。誰が最後に何を選んだのか。そういうのは、見ていて面白い」
「……死者も、出ていました」
「うん。死ぬのは良くないと思うよ」
「ですが」
「でも、死にたくない人がどう動くかは気になる」
迷いのない言い方だった。
パトリシアは、チンポリスで見たリムル達を思い出す。
戦争の後、壊れた街を直していた魔物達。
人間の負傷者へ水を配っていた者達。
自分を歓迎会へ招いてくれた、騒がしくて変な人達。
あれを、ただ観察すべきものとして語られることに、少しだけ腹が立った。
ユウキの表情は変わらず穏やかだった。
「それにしても、あいつはどうして『ルミナス』なんて名乗ってるんだろうね」
「……? どういう意味です?」
「いや、普通にルミナス・バレンタイン卿に知られたら絶対殺されるでしょ」
「ああ」
エルシアは納得したように頷いた。
ユウキは椅子へ深く座り直す。
「まあ、あいつのことだから絶対『面白そうだった』以外ないと思うけどね」
「ルミナスさんらしいです」
「そこは否定しないんだ」
エルシアは、少し楽しそうに微笑んだ。
「私も、あの方のそういうところは嫌いではありません」
その後、ユウキは机の端に置かれた通信具へ手を伸ばした。
淡い光を宿した魔法石が、掌の中で揺れる。
「そういえば、もう一人連絡しておこうかな」
「どなたへですか?」
パトリシアが尋ねる。
「昔の知り合い」
ユウキは通信具へ魔力を流した。
数回の発信音の後、向こうで誰かが応じる。
「もしもし。ヒナタ・サカグチさん?」
その名前を聞いた瞬間、エルシアの笑顔がほんの少しだけ深くなった。
「今、面白い人がイングラシアに来てるんだけどさ」
⸻
同じ頃。
俺達は、王都の大通りで宿を探していた。
昼を過ぎた街は、朝よりさらに人が多い。露店では香辛料の匂いが混じり、魔法具店の前では新作らしい杖を巡って冒険者が揉めている。
通りの奥では、なぜか着ぐるみを着た男達が笛を吹きながら宣伝していた。
『前世の家族へ手紙を出せるかもしれない屋』
「かもしれないって何だよ」
「届かなくても、気持ちは前世へ向かいます」
着ぐるみの男が胸を張る。
「詐欺にしか聞こえない」
モリ夫は店の前を通り過ぎながら、通りの両側を観察していた。
逃げ道ではない。と本人は語る。
宿の看板、窓の大きさ、客層、玄関に置かれた靴の数まで見ている。
「この辺の安宿は、やめといた方がいいっすね」
「今度は何で?」
「入口に花飾ってる宿は、だいたい宿主が客の荷物を勝手に売るんすよ」
「どういう経験で知るんだよ」
「壁に『盗難は自己責任』って貼ってあるところは、逆にまだマシです」
「その基準で宿を選びたくないな」
少し先に、三階建ての宿が見えた。
看板には大きく、『旅籠・眠れる勇者亭』と書かれている。
一階には酒場。二階と三階が客室らしい。
入口の脇には、小さな文字で注意書きがあった。
『就寝中の勇者覚醒事故について、当宿は責任を負いません』
「不安になる注意書きだな」
「でもここ、部屋の壁は厚そうですぜ」
モリ夫は建物の外壁を叩いた。
「廊下が広い。階段も二つある。あと女将が身長三m体重二百八十kg越えで強そう」
「女将の強さは必要?」
「夜中に酔っ払いが暴れても、追い出されるのは酔っ払い側っす」
「そこはちょっと良いな」
ディア風呂は、入口の前で足を止めた。
「浴場はございますか」
宿の中から現れた女将が、俺達を見回した。
腕が太い。
手には大きな鍋の蓋を持っている。
「あるよ。共同浴場なら地下に」
「源泉ですか」
「井戸水を薪で沸かしてる」
「ではチンポリスに帰りましょう」
「宿選びの基準が温泉旅館なんだよ!」
女将の眉が動く。
「……文句があるなら他を当たりな」
「いえ、失礼いたしました。井戸水にも、育て方次第で良い湯の可能性はございます」
「急にフォロー雑だな」
結局、部屋は二つ借りた。
女将は俺の姿を見るなり「スライムは寝具を濡らさないかい」と確認してきたが、俺が「濡らさない」と答えると、なぜか少し残念そうに頷いた。
「最近、寝具を濡らしたサキュバスがいてね」
「スライムをその仲間だと思うなよ」
荷物を置いた頃には、パトリシアも宿へ戻ってきた。
夕方の光が、宿の廊下へ細長く差し込んでいる。
彼女は杖を抱えたまま、部屋の前で少しだけ立ち止まった。
「遅かったな」
「少し、お話が長引きまして」
「そっか。じゃあ飯行こうぜ」
俺はそれだけ言って、廊下の向こうを指差した。
一階の酒場からは、肉を焼く匂いが漂っている。
パトリシアは、一瞬だけ目を伏せた。
「……はい」
モリ夫が荷物を置きながら振り返る。
「夕飯の前に、ちょっとだけ街の夜も見ていきやす?」
「なんで?」
「イングラシアの夜は、昼より経済が回ってるんで」
「怪しい言い方すんな」
「観光案内っすよ」
「お前が言うと犯罪現場の下見に聞こえるんだよ」
⸻
夜のイングラシアは、昼とは別の街みたいだった。
灯りの浮かぶ通りには、酒場帰りの冒険者や商人が集まっている。音楽を鳴らす店。占い師のテント。甘い菓子の屋台。荷電粒子砲を放つ店。ジェノザウラー。
そして、その先にある細い路地には、赤や紫の魔法灯が並んでいた。
看板が多い。
多すぎる。
『二時間チェスだけ風俗』
『肩たたき専門・母性の館』
『入店すると実家へ現在地を通知します』
『客をひたすら褒めて帰す店』
『アナコンダ丸呑み風俗・初回胃袋半額』
「最後の店、客が帰れない前提じゃん」
「人気店っすよ」
モリ夫が言った。
「どこが人気出る要素あった?」
「丸呑みの後、ちゃんと吐き出してくれるらしいっす」
「最低限のサービスを売りにするな」
パトリシアは看板を一枚ずつ見ながら、真面目に首を傾げていた。
「風俗とは、こういう場所なのですか?」
「違うと思いたい」
「そういえば私、こういうお店へ行ったことがありません」
「行かなくていいと思う」
モリ夫が、なぜか誇らしげに胸を張った。
「初心者ならまず、アナコンダ丸呑み風俗からがオススメですぜっ!!」
パトリシアは看板を見上げる。
「……初心者向けなのですか?」
「どこが!?」
「でも、初回半額とあります」
「値段で納得しかけるな!」
ディア風呂は、アナコンダ丸呑み風俗の入口をじっと観察していた。
建物の横には、小さな浴場らしき看板がある。
『消化前後のシャワー完備』
「なるほど」
「何が?」
「受付、待機室、浴場の導線が分かれております。これでは回転率に問題がありますね」
「風俗をコンサルすんな!」
「浴場と受付を繋げれば、待ち時間に湯気の香りを体験していただけます」
「丸呑みされる前に風呂でリラックスさせるな!」
「さらに、消化前後のシャワーを大浴場へ統合すれば」
「消化前後って単語を普通に使うな!」
その時、通りの向こうから、店員らしい女が大きく手を振った。
「そこのお兄さん達!褒められてから帰らない?」
客をひたすら褒めて帰す店の呼び込みらしい。
モリ夫が足を止める。
「ここ、昔使ったことありますぜ」
「客として?」
「追手を撒くために」
「結局それかよ!」
「店に入ると、知らないお姉さん達が全力で長所を褒めてくれるんすよ。追手も悪い気しなくなって、そのまま帰りました」
「犯罪者の更生施設としては優秀かもしれない」
「モリ夫さんの長所は、何と褒められたのですか?」
パトリシアが聞く。
モリ夫は少しだけ遠い目をした。
「『あなたは、生き残ることに全力で素晴らしいです』って」
「めちゃくちゃ的確だな」
「あと臭すぎって」
「褒められてないけど気のせい?」
ディア風呂は、通りの先にある別の店を見つけた。
看板には『紳士淑女の裸足浴場併設・癒やしの家』とある。
「こちらは、浴場の名前を前面に出しておりますね」
「普通に飯屋へ行こうぜ」
俺は三人の肩を押して、風俗街から引き返した。
パトリシアは少しだけ残念そうに、アナコンダ丸呑み風俗の看板を振り返る。
「……初心者向けでは、なかったのでしょうか」
「人生で一度も初心者向けになることないから忘れて」
「承知しました」
「でも、どのような方が利用されるのでしょう」
「忘れてって言ったよね?」
王都の夜は、まだ賑やかだった。
そして多分。
明日も、何かしら面倒なものに巻き込まれる。
つづく……