翌朝。
俺達が眠れる勇者亭の一階へ下りると、酒場の中央で寝間着姿の男が木剣を振り回していた。
「魔王を倒す……! 俺こそが選ばれし勇者ねぶた……!」
朝食を運んでいた女将は、ため息をつきながら大鍋の蓋を持ち上げる。
ガァン!!
「お前は酔って階段から落ちた変態糞商人だよ。朝飯食って帰りな」
「……俺、勇者じゃないの?」
「そもそも勇者じゃねーよ」
「ハフーン」
男は、しばらく天井を見つめた。
「ふんっ……俺はドラクエやって鍛えてたんだ……!」
「なにあんた意味分かんねーこと言ってるんだい!」
「やめてよ母ちゃんんんんんん!!」
「誰が母ちゃんだぁい!?」
ガァン!!
「勇者ねぶた、戦闘不能」
「口で言うなよ」
女将は俺達へ向き直り、何事もなかったように宿泊の伝票を置いた。
「出るなら、偽勇者の巻き添えにならなかった証明書を出しておくよ」
「何に使うんだよ、その証明書」
「次の宿で疑われないためさ」
「イングラシア、勇者への信用が低すぎるだろ」
モリ夫は書類を受け取り、内容を確かめるように頷いていた。
「やっぱ優良宿っすね。勇者が暴れても女将が勝つ」
「宿の評価基準が治安維持部隊なんだよ」
ディア風呂は、宿の地下へ続く階段を名残惜しそうに見た。
「浴場は井戸水でしたが、掃除は行き届いておりました」
「褒めるんだ」
「湯を粗末にしない宿に悪い宿はありません」
女将が鼻を鳴らす。
「今さら褒めても、風呂代は安くしないよ」
「適正価格でお願いいたします」
「どういう会話だよそれ」
宿を出ると、朝の王都はすでに人で溢れていた。
荷車を引く商人。早朝から依頼へ向かう冒険者。露店の前で、自分の陰部を鑑定してもらおうとしている老人。
その向こうでは、昨夜の着ぐるみ達がまだ『前世の家族へ手紙を出せるかもしれない屋』を営業している。
「じゃあ、そろそろチンポリスへ戻るか」
「帰りも東門がいいっすね。南門は荷物検査が厳しいんで」
「お前、二度と犯罪者目線で旅程を組むなよ」
パトリシアは俺達の少し後ろを歩いていた。
昨日よりも表情は落ち着いている。
けれど、何か考え込んでいるようにも見えた。
「パトリシアさん、寝られた?」
「はい。問題ありません」
「ならいいけど」
何かあったのかもしれない。
でも、本人が言いたくないなら無理に聞くことでもない。
そう思った時だった。
ーーー告、前方より高密度の魔素反応を確認ーーー
「ん?」
俺は、王都の外へ続く街道へ目を向けた。
遠い。
まだ姿は見えない。
けれど、嫌な感じがする。
強いというだけではない。
こちらへ向けられた、明確な敵意のようなものがあった。
「どうしました?」
パトリシアが足を止める。
「いや……ちょっとトイレ行ってくる」
「今ですか?」
「今だから」
モリ夫が街道脇の茂みを指差した。
「こっち、茂み深いっすよ旦那。景気よく漏らすならここです」
「案内すんな」
俺は適当に手を振り、街道から少し外れた。
木々に姿を隠してから、もう一度だけ前方の気配を探る。
間違いない。
こっちを待っている。
「……面倒なの来たな」
⸻
イングラシア王国を出て、しばらく歩いた頃。
前方の街道に、一人の女が立っていた。
黒い髪。
白を基調とした戦装束。
腰には細身の剣が下がっている。
朝の光を背にしているせいで表情はよく見えなかった。
ただ、その場の空気だけが、妙に冷えている。
モリ夫が小声で聞いた。
「……知り合いっすか?」
「いや」
パトリシアが杖を抱え直す。
「とても、穏やかな方には見えません」
「どう見ても穏やかではないよね!?」
女は、俺達が近づくのを待っていたらしい。
一歩前へ出る。
鋭い目が、まっすぐ俺へ向いた。
「覚悟しろっ!! リムル・左近司・スカトローナァ!!」
街道に、女の声が響く。
「誰っ!!!??」
「シズ先生を殺し、イングラシアへ潜伏した魔物!」
「待て待て待て! 名前からして情報が壊れてるぞ!」
女は答えない。
剣の柄へ手をかけたまま、俺を睨んでいる。
「私はヒナタ・サカグチ。シズ先生の仇を討つ」
「シズ先生?」
なんでその名前を。
まさか。
「お前、誰からその話を聞いた?」
「報告書にある」
「その報告書見せろ!」
「戦闘前に書類確認を要求するな」
「名前が三つ繋がってるんだぞ! 確認しろよ!」
「貴様のフルネームだろうがァァ!!」
ヒナタの剣が抜かれた。細い刃が朝日を弾く。その瞬間、姿が消えた。
「旦那、右っ――」
モリ夫の声より早く、剣先が俺の脇腹へ突き込まれる。
避けた。
死界観測に映った、自分の死をなぞるように。
それでも、剣先は服の端を裂いて通り過ぎた。
「速っ……!」
「今のを避けるか」
ヒナタは短く呟き、距離を取る。一切の無駄がない。こちらの反応を確かめるような一撃だった。
次の瞬間、彼女の足元から淡い光が広がった。
「ユニークスキル──」
ヒナタは剣を構える。
「簒奪者(コエルモノ)」
刃が、まっすぐこちらへ向いた。
何かが抜き取られる感覚がした。
胸の奥。
ずっと内側にあった、熱い気配。
「……イフリート?」
返事がない。
ーーー告、対象『イフリート』の存在を確認できませんーーー
「喰った魔物まで盗むのかよ」
「奪っただけだ」
ヒナタは、俺の中から消えた力を確かめるように、剣を軽く振った。
刃の周囲に、赤い熱が宿る。
「お前の力は、お前だけのものではない」
「だからって人の腹から持っていくなよ!」
ヒナタが踏み込む。
今度は、真正面からだった。
俺は後ろへ跳ぶ。
剣筋を避ける。
二撃、三撃。
どれも速い。
死界観測がなければ、最初の一太刀で終わっていた。
それでも、未来を見るたびに選べる道が減っていく。
左へ逃げれば、剣が追う。
右へ避ければ、次の刺突が待っている。
正面へ踏み込めば、赤熱した刃が俺の首を落とす。
「くそっ……!」
「逃げるだけか」
「初対面で殺しに来る相手と、どう仲良くしろってんだ!」
ヒナタは表情を変えなかった。
俺が反撃へ移ろうとした瞬間、その剣が七色の光を帯びる。
「七彩終焉刺突撃(デッドエンドレインボー)」
一閃。
剣先が、俺の肩を掠めた。
痛みはない。
傷も浅い。
だが、身体の奥にある何かが、ほんの少し欠けた気がした。
ーーー告、魔素核への損傷を確認ーーー
「何だ、今の」
「一つ」
ヒナタが言った。
「何が一つだよ」
答えの代わりに、二度目の刺突が来る。
避けきれない。
脇腹へ剣先が沈む。
また、傷そのものは大したことがない。
なのに、魔素が抜け落ちるような感覚だけが残った。
「二つ」
「数えるな!」
モリ夫が顔を青くする。
「旦那、今の普通の攻撃じゃないっすよ!」
「見れば分かる!」
パトリシアは杖を握っていた。
一歩だけ、前へ出る。
「リムル様、退いてください。私が――」
「駄目だ」
ヒナタが言った。
その声に、パトリシアの動きが止まる。
「邪魔をするなら、魔物であろうと斬る」
「パトリシアさん、無理すんな!」
「ですが!」
俺が返した隙に、ヒナタの剣が閃いた。
三つ。
四つ。
刺突が増えるたび、死界観測に映る未来は暗くなっていく。
もう、まともに動けない。
ヒナタは俺を追い詰めることに迷いがなかった。
先生の仇を前にしている。
そう信じている者の剣だった。
「五つ」
「あと何回だよ!」
「二回」
「簡潔すぎるだろ!」
「七回受ければ、お前は死ぬ」
「その説明を一息で終わらせるな!」
冗談みたいな回数制だった。
でも。
ヒナタの目は、少しも笑っていない。
六発目が、胸を貫いた。
身体の内側から、魔素が崩れる。
膝が折れた。
「旦那ァ!!」
モリ夫の声が遠い。
パトリシアが、とうとう杖を持ち上げた。
けれど、詠唱を始めるより早く、ディア風呂が静かに彼女の前へ出る。
「おやおや」
「ディア風呂様、止めないでください!」
「さて。どうでしょうね」
「旦那が死にますぜぇ!!」
モリ夫の叫びにも、ディア風呂は答えない。
ただ、湯気のない朝の空気を、穏やかに眺めていた。
ヒナタが剣を掲げる。
七色の光が、朝の街道を染めた。
「七彩終焉刺突撃」
俺は立てなかった。
次の死が、はっきり見える。
「七つ」
剣が、俺の胸を貫いた。
⸻
音が消えた。
一瞬だけ。
街道に立っていた俺の身体は、光の粒になって崩れていく。
残ったのは、地面へ落ちた黒い外套の切れ端だけだった。
「……旦那?」
モリ夫の声が震える。
「旦那ァァァァァァァァ!!」
パトリシアは、杖を握ったまま動けなかった。
さっき、自分が一歩でも早く介入していれば。
そんな考えが、顔に出ている。
ヒナタは剣を下ろした。
息は乱れていない。
それでも、数秒だけ崩れた場所を見つめていた。
「……終わった」
小さな声だった。
「先生の仇は討った」
その言葉に、ディア風呂がほんの少しだけ目を細める。
ヒナタは残った三人へ視線を向けた。
「去れ。スカトローナ以外の魔物に用はない」
「旦那ァ……!」
泣きかけていたモリ夫が、途中で顔を上げる。
「いや、旦那の名前もうスカトローナしか残ってないんすけど!?」
「名前などどうでもいい」
「一番どうでもよくない部分から消えてるんですよ!」
ヒナタは答えず、剣を鞘へ納めた。
彼女自身も、何かが引っかかっているようだった。
思ったより抵抗が少なかった。
最後まで、あの魔物は何か言いたげだった。
それでも、報告書にあった魔物は始末した。
任務は終わった。
そう言い聞かせるように、ヒナタは背を向ける。
「次に会うなら、今度こそお前達も斬る」
そのまま街道の先へ歩き去っていった。
誰も、しばらく動けなかった。
ヒナタの姿が完全に見えなくなってから。
街道脇の茂みが、がさりと揺れる。
「……行った?」
モリ夫が振り返る。
「旦那ァァァァァァァァァ!?」
茂みから出てきた俺を見て、モリ夫はその場へ崩れ落ちた。
「生きてるなら先に言ってくださいよォォォ!! 俺、マジで死んだと思ったんすよ!」
「ちょっと漏らしました?」
「ちょっとおしっことうんこと精子漏らしました!」
「バーゲンセールかよ」
パトリシアは、呆然と俺を見ていた。
「……分身体、だったのですか」
「うん。王都を出る前に、なんかヤバい魔素を感じたからな」
トイレへ行くふりをして茂みへ入り、本体は隠れた。
代わりに出した分身体を、何食わぬ顔で合流させた。
それだけだ。
「ですが、あの分身体は……」
「俺と基礎性能はほとんど変わらない」
俺は、ヒナタが去った方向を見る。
「それを七回、きっちり殺し切った」
死界観測があっても、避け切れない。
イフリートを奪われ、動きを読まれ、七つの死を積み上げられた。
もし、あの場所にいたのが本体だったら。七発目までに、俺は何ができた?答えは出なかった。
「ヒナタ・サカグチ……恐ろしい人だな」
ディア風呂が、静かに微笑む。
「最初から皆様もお気付きかと思っておりました」
「お前、分身体って分かってたの?」
「魔素の質が、ほんの少し異なっておりましたので」
「だったらモリ夫達に教えてやれよ!」
「旦那が死んだと思って漏らした俺の立場は!?」
「キモすぎる」
パトリシアは、握っていた杖をゆっくり下ろした。
「では、私はずっと……」
「助けようか迷ってた?」
パトリシアは少しだけ目を伏せる。
「……はい」
「そっか」
俺は少し考えてから、頷いた。
「ありがと」
パトリシアは何も言わなかった。
ただ、さっきより少しだけ、杖を握る手の力が抜けていた。
⸻
同じ頃。
自由組合の応接室で、ユウキは通信具から聞こえた報告に目を瞬いた。
『ああ、シズ先生の仇は取ったよ』
通信具の向こうで、ヒナタの声は静かだった。
『スカトローナは始末した』
「……スカトローナ?」
『リムル・左近司・スカトローナだ』
一拍。
ユウキの肩が震えた。
「あははははは!! 何それ!?誰!?w」
『何がおかしい』
「ごめん、ごめん。いや、僕そこまで名前盛ってないよ」
『どういう意味だ』
「気にしないで。お疲れさま、ヒナタ」
通信が切れる。
ユウキは、しばらく笑いを堪えきれないまま、机へ額を伏せていた。
その横で、エルシアは静かに微笑んでいる。
「面白い名前ですね左近司」
「そこで呼ぶ人珍しいね」
エルシアは窓の外を見た。
ユウキが流した情報とは別に誰かが、標的を殺させるための誤情報を整え、ヒナタの背を押している。
しかも、わざわざ三つの名前を繋げるような、ひどく悪趣味な形で。
「……少し、気になる広報がいるようですね」
「広報?」
「いえ。独り言です」
イングラシアの空は、今日も穏やかだった。
その下で。
死んだことになったスカトローナは、モリ夫の漏らした話を聞かされていた。
つづく……