夕食時の食堂にはいつもと同じように、一人の男と三人のサキュバスが集まった。男はラフな私服で、サキュバスたちは全員浴衣なのもいつも通り。席順は俺とチャカが隣合って、対面に花子とAがいる。初日に偶然この配置になってから、食事に集まる時は常にこの席順が暗黙の了解になっている。
ところで世の中には、酔うために酒を飲む人間がいるらしい。俺はずっと、その感覚が自分には理解出来ないと思っていた。
俺は酒に味を求めていて、酔うか酔わないかは比較的どうでもいい問題だと思っている。しかし今日この場に限って、俺は生まれて初めて、酒の味なんてどうでもいい、いかにして酔うか……いや酔わせるかが重要なのだ、と心の底から思った。そしてその時になって、飲酒にまつわる派閥争い……味派vs酔い派の事実上の決着を垣間見た気がした。その決着はずっと昔から、俺が生まれる前の時代からとっくについているものだった。
チャカは特に知っていることだけれど、今日この場での飲酒はサキュバスを酔わせるためにある。となれば第一声が「とりあえずビール」ではあまりにも白々しい。たかだか5%前後の度数をとりあえずとは、まるで味を楽しむためにあるかのような台詞だ。それが浸透した世の中はまさに味派優勢の世界で、そこから生じる常識は今宵何の役にも立たない。
土壇場でそんな思考に至り、俺はメニュー表をにらみつけたまま飲むべき物を決めかねて、目を泳がせる他になくなってしまった。自分の行き当たりばったりな性格を呪う。
「乾杯ってするの?」
Aの声に反応して顔を上げると、彼女はすでに大きなグラスに積み重なるようにして入った氷と、そこに注がれた……巨峰味か何かだろうか? 紫色のサワーらしき物を自分の手元に召喚していた。
俺はそれを見て拍子抜けする。間違いなく一桁の度数、即決。そして何より、サワーの定番どころであるレモンを外してきたことによる「ちゃんと選んだ感」。味を楽しむ気満々のチョイスがそこにあった。
なんだ、それでいいんだ。ホッとした俺はジョッキのビールを召喚した。それに連なるタイミングでチャカはハイボールを、花子は梅酒のソーダ割りを選んで出す。
「まぁ一応、しておきますか」
「じゃあ乾杯」
「乾杯〜」
形や大きさが微妙に(あるいは大きく)異なるグラスたちが突きあわされる。子気味よく鳴る音は、できればこの監禁生活からの脱出祝いとして聞きたかったもので、いくらか虚しく耳に響いた。
各々分厚いメニューを片手に、夕食を兼ねた好みのつまみ類を適当に出していく。花子は唐揚げを大皿で召喚して何の迷いもなく全体にレモンを搾っていた。無限に食べ物が湧いてくる環境ならではの振る舞いなのか、それとも元々そういう性格なのか。
俺は食べ物の味付けにそこまでこだわるタイプではないけれど、同じ卓に四人も集まれば全員がそうとは限らない。現にAは、いち早く唐揚げを頬張る花子に向けて批判がましい目を向けていた。
「うわ、それやるサキュバス初めて見た」
「それ?」
「唐揚げに初手レモンするやつ」
「ダメだった?」
「ダメではないけど……」
大皿に箸をのばしたAもレモン汁付きの唐揚げを頬張る。そのわずか数秒後には、彼女のグラスは早くも空になろうとしていた。
俺もビールを飲み進めながら、こんな状況の酒でも旨いものは旨いのだな……と実感しつつ、さてどうしたものか、と練れもしない策について考え始める。というのは、酔った相手からその場の勢いで有益な話を聞き出すことが今日の狙いであるために、そのためにはあらかじめ「つい話してしまう雰囲気」を作る必要があるから。しかしコミュニケーション弱者の俺には意図的にそれを作り出す方法が分からない。
この旅館へ来てからの、日頃の食事風景を思い出してみる。大抵の場合は、サキュバスたちの誰かしらが不意に雑談的な話題を持ち出して、別のサキュバスがそこに反応して会話になって行き、流れによっては俺もそこへ混ざり参加する……という感じだったはず。
たとえば以前には、花子とAのこんな会話があった。
「ねぇ、Aちゃんってマリオ得意?」
「なに急に」
「最近部屋でやってるんだけど、最後のステージがよく分からなくて。迷子になるっていうか」
「あーね。まぁアタシ最近のはやったことないけど」
「そっかぁ」
「迷子なら攻略見れば?」
「ここネット繋がらないじゃん」
「攻略本とかなら出せるでしょ」
「…………攻略、ボン?」
「……は? え、分かんない? 攻略本」
「攻略情報が載ってる本ってこと?」
「そうよ。うわ、初めて見た。攻略Wikiしか見ない現代っ子」
「えっ、みんな読んだことあるの?」
チャカは首を横に振り「ないけど存在は知ってる」。俺は「マリオじゃないけどありますよ」と答えて、そこから攻略本にまつわる思い出トークにしばしの間突入した。食事中の会話は大体いつもそんな感じだった。
……ということはつまり、俺に出来ることは「成り行きに身を任せて、飛び乗る」しかない。受動性から始まる能動性が陰キャのコミュニケーションの限界だ。そしてそうであるならば、今こそが能動性の好機だと見る。
Aは花子がレモンを搾ったことについて「そんなことをするサキュバスは初めて見た」と言った。人間とサキュバスが共存を初めて久しい現代社会では、一般に「人」と言えば大抵はサキュバスのことも指す。だから逆説的に、Aの言い回しには「そういうことをする人間なら見たことがあるけど」というニュアンスが明確に伴っていた。
そこで俺は、隣に座っていて一番話しかけやすいチャカにこそっと聞いてみる。
「サキュバスって唐揚げにレモンかけないんですか?」
「え?」
「いやほら、Aさんが。初手レモンする人間はわりとよく見るので」
「……あぁ、それね」
質問の意図は伝わったようだけれど、チャカは珍しくすぐには答えてくれなかった。片手に箸を持ったまま反対の手でハイボールを一口飲んだ彼女は、なぜかそれきり沈黙してしまう。
そして、まるであるべき返事の代わりであるかのように、テーブルの上には山盛りのサラダが突然ドンと出現した。
思わず全員がそちらを向く。困惑した様子で、Aが言う。
「うわ、誰こんな大盛り出したの」
「青ウニくん」
「えっ」
即答したのはチャカだった。
意味不明の濡れ衣を着せられて、Aよりも数倍困惑した俺がチャカの方を見ると、「心配するな」と言われているような、妙に心強い微笑みを返される。俺は何がなんだか分からなかったけれど、
「もう」
とだけ言ったAは、人数分の小皿とサラダ用のトングを無から取り出して、そそくさと大盛りのそれを取り分け始めた。
それぞれの手元に差し出された小皿を受け取りながら、チャカは俺にだけ聞こえるように小声で言う。
「ね、何も言わなくても取り分けてくれたでしょ」
「はぁ……」
「サキュバスってそうなんだよ。ああいうのは取り分けるし、レモンをかけるならかけてもいい?って必ず確認する。なんでだと思う?」
「さぁ……?」
「ご飯を食べる時に一番大事なのが、味より愛想だから」
「ちょっとそこ、何をコソコソ話してんの」
Aの訝しげな目がこちらに向く。
見ると、その隣で花子は刺身の盛り合わせを召喚して、いつの間にか飲み干した梅酒ソーダのかわりにお猪口で日本酒を飲み始めていた。もしかしなくても彼女がこの場で一番食を楽しんでいるのではなかろうか……? その調子でご機嫌になってくれるのであれば願ったり叶ったりである。
それによく見れば、Aのグラスの中身も、一瞬前より減るどころかむしろ増えているような気がする。念じるだけで無から物が生じるこの場では、酒のおかわりから「注ぐ」というアクションを抜き去ることが出来る。グラスの中身が増えたということはそういうことだ。
Aの問いに答えるチャカは、どこか満足そうにそんな対面の二人を見ていたように思う。
「Aちゃんが真っ先にサラダを取り分けてくれるなんてちょっと意外だね、って話してたの」
「ん……? もしかしなくても失礼じゃない?」
「だからコソコソ話してたのに」
「そういう問題じゃない……ていうか、それを言うならチャカさんが取り分けてくれればよかったんじゃ?」
「私は、みんなの自主性を重んじてるから」
「重んじないでよそんなの……」
言いながら、彼女はさして気にしてもいなさそうに、フォークで突いたサラダを頬張る。サキュバスの生態を解説するためのサンプルとしてこっそり仕立てあげられていたことは、本人にはこのまま知らないままでいてもらった方が良いだろう。
……そしてそれからしばらくの間、俺たちはこれといって中身のあることを話さなかった。ドレッシングの味は何派?だとか、やげん軟骨のやげんって何?だとか、最近のドリンクバーって混ぜることをむしろ推奨してくる物があるよね、だとか。食べ物に関する話題が多かったように思う。
その中で唐突に、赤い顔をしたAが言った。
「ていうかアタシ、まだ家族以外の人と泊まりで旅行に行ったことなかったんだよね。なのに初体験がこれかよって話じゃない?」
……途端、鈍感な俺にも空気がピリついたことが分かった。
全員が集まっている場で、誰かが旅館外のプライベートな話題について言及したのは、もしかするとこれが初めてだったかもしれない。では今まではなぜその手の話題が出なかったのか? 偽名を名乗り合う関係性がプライベートへの不可侵感を演出していたからか? と考えてみれば、その答えは、誰もが「クイズの答えが旅館外のプライベートに関することである、と察しているから」以外にあり得ない。それが分かっているからこそ、クイズのルール上、誰も迂闊にはプライベートに言及出来なかった。それどころか一対一で話している時ですら、俺はきっと彼女らから煙に巻かれていたくらいだ。
それなのに、Aは今突然にタブー地帯へ足を踏み入れた。あまりにも無防備なそこには何の意図も感じられず、ただの雑談と愚痴の様相がある。顔が赤らんでいることを差し引いても、Aがすでに酔っていることは明らかだった。彼女はサワー系しか飲まないようだけれど、飲むペースがやや早すぎるきらいがある。……クイズの攻略にはもちろん好都合なことだ。
Aにはこの際思い切り愚痴ってもらった方がいい。その流れで本人や他の誰かが口を滑らせてくれれば俺たちはここから外へ出られる。脱出への活路がすぐそこに見えている気がして、俺はその売り言葉を買った。
「旅行の初体験は俺だってそうですよ。しかも、来たくて来たわけでもない」
「はぁ〜? アンタはいいでしょ、女の子に囲まれて楽しく暮らしてるんだから」
「そんな言い方をされても……。こんな男女比になったら、どうしたってそういう風に見えるものでしょう……?」
「違う。そうじゃない。アタシはさ、閉じ込められるにしてもせめて、もっとまともな男と閉じ込められたかったって言ってるの」
「なっ……」
と言葉に詰まってみるけれど、Aが俺のことをそのように思っていることは当然とっくに把握している。伊達に陰口の現場に居合わせたわけじゃない。それにAでなくともここへ閉じ込められているサキュバスなら、唯一の食料源である男の性癖がもっと無害でノーマルな物であってくれれば……と考えるのは当然のことだろう。それくらい俺も分かっている。
とっくに分かりきっていることをなじられてもあまり響かない。だから俺は余裕をもって、面と向かって悪意を向けてくるほどになったAの酔いの行く先にさらなる期待を寄せた。
……が、同席していた残り二人のサキュバスについては、どうも認識が違ったらしい。
俺はこの場の空気が明らかにピリついた時、それは話題がプライベートの領域に突入したからだと思っていた。しかしどうやら実際のところ、チャカと花子がピリついた理由はそれだけではなかったらしい。ヒートアップしていくAから俺への悪口に、二人は露骨に眉をひそめていた。
そう、花子はAの反省を詳しくは知らず、チャカに至ってはAの陰口の内容すら詳しくは知らない。二人の視点から見れば、現状は人間関係の危機……予想外のやり取り……男と女の険悪な言い合いその物に見えるのだろう。後々酔いが冷めた時のAの青ざめる様が容易に想像できるせいで冷静になれてしまうのは、この場で俺一人だけなのだ。
Aの隣に座る花子が肘で彼女を小突き、その辺でやめておけと言外に忠告する。しかしそれは酔っぱらいには上手く伝わらなかったようだ。
「あーあ。なんでよりにもよって、人が苦しんでるところを見て喜ぶようなクズと閉じ込められちゃったんだろう? それに比べれば、他の男なら誰でもよかったのに」
「俺みたいな男はそんなに珍しくないですよ。みんな表に出さないだけで」
「い〜や、アンタはレベルが違うね。確かにサドっ気の強い男は他にも見たことあるけど、どう考えても全員アンタよりはマシだった」
「それはたまたまAさんがマシな人にしか当たってないだけでしょう」
「どうかな? じゃあほら、他の二人は? 今まで青ウニよりエグいやつと当たったことある?」
勝ち誇ったような顔をして、Aはチャカと花子を順繰りに見回す。俺は、少なくとも花子に関しては、質問の答えが完全にイエスであることを知っているから、Aが墓穴を掘っていく様を哀れむことに集中できた。
けれど、まるで俺のことを庇うかのように即答したのは、意外にもチャカの方だった。
「あるよ。面白半分で骨折させられたことがある」
えっ……、と彼女の方を思わず見てしまったのは、俺もAも同じだった。チャカは初日に「救急車を呼ぶレベルだと魔力の採算が合わない」と教えてくれたけれど、あれは教科書的な知識ではなく経験談だったのか……?
そしてそれに続いて、追い打ちをかけるように花子が口を開く。
「わたしもある。首吊りをさせられたまま犯されたこととか」
なんだその初耳の話は。
またしても、俺とAの視線は発言者の方向へと吸い込まれていく。花子が過去に相当過激なプレイを経験していることは知っていたけれど、俺が個人的に聞いた話とは内容があまりにも違う。彼女の凄惨な経験にはいったいいくつ引き出しがあるんだろう……?
というか、そもそも二人の談は真実なのだろうか? 理屈の上では、ボロクソに悪口を言われる俺を庇うために咄嗟に考えた嘘を言っている可能性もある。しかしそんな可能性を考慮しなければならないなら、もはや俺には、彼女らの言葉の何を信じていいのかが分からなくなってしまう。発言が真実か否かを疑うほどに、クイズのヒント集めは難航の一途をたどる。彼女たちにもそれは分かっているはずだ。それを分かった上で、二人は俺を庇うためだけに嘘のエピソードを話すだろうか……?
予想外の困惑と共に、期待外れの冷静な空気感がこの場に降りる。今の問答の雰囲気からして、Aはともかく、チャカと花子の酔いはとっくに冷めているだろう。あるいは初めから酔ってすらいなかったのかもしれない。作戦はほとんど失敗していると言わざるを得なかった。
最後の望みであるAも、今の二人の談にドン引きしているようでは、きっと大したエピソードは持ち合わせていないのだろう。……と予測した矢先に、花子が偶然にもそれを確認してくれた。
「Aちゃんは? 今までされた一番ひどいことってなに?」
「えっ、アタシは……。…………根性焼きされたことならある」
「え、やばいね。わたし、青ウニくんからそれはまだされてない」
「いや、うん。アタシもされてないけど……」
けど……と納得いかなさそうなA。彼女にとって俺から受けた仕打ちは、煙草の火を押し付けられることよりもずっと酷い事として映っていたのだと分かる。きっと火傷痕の心配をしなくていい彼女らサキュバスにとっては、一瞬の痛みで済むそれは窒息などよりマシなプレイとして数えられるのだろう。
とはいえ、それが分かったところでクイズの攻略には進展がない。どうもこの調子では有益な情報を得られそうになく、明日以降のAのメンタルを鑑みても、宴はそろそろお開きにした方が良いように思えた。
……が、俺がその旨を言葉にするよりも先に、Aが叫んだ。
「でもコイツは……コイツがアタシに何をしたと思う? 痛いことと苦しいことはしないなんて、さも譲歩しましたみたいな態度でマウント取ってさ。アタシはトイレで頭から水ぶっかけられて、ずぶ濡れの状態で前も後ろも犯されて、最後は土下座させられて頭を踏みつけられたんだよ!? 性癖以前に性格が終わってるんだよコイツは!」
……それを聞いた残りの二人が、妙に納得した顔をしていた。あの時、トイレに行ったきりなかなか戻らなかった俺が、突然Aと仲直りして戻ってくるまでの間に何があったのか。その答えが今赤裸々に語られたのだと、二人とも瞬時に理解したのだ。
そして、その納得に軽蔑の色は混じらなかった。そこにはまるで「トイレにまで乗り込んで行ったのはお前だろう」と見切っているような、呆れのニュアンスがあった。
なんだか妙な気分になる。もしもこれが人間女性に囲まれた場であったなら、俺は今頃四方八方を取り囲むような視線と言葉から、底無しの軽蔑と怯えをこの身に受けていたのだろう。けれど実際にこの場にいるサキュバス二人は、むしろ俺に同情してくれている。おかげで俺は、自らの非道な行いを糾弾されているにも関わらず、ただその相手のことを気の毒に感じていた。Aに酒を飲ませたのは失敗だった、彼女に悪いことをしたな……と。
そんな歪な罪悪感から俺の口をついて出た言葉は、だから少し傲慢すぎたのかもしれない。
「悪いと思ってる」
「へぇ」
「性格も性癖も、終わってるっていう自覚はある。だからいつも悪いって、申し訳ないって思ってるよ」
「じゃあなんで改められないの?」
「それは……。好きでこうなってるわけじゃないから、狙ってそうしてるわけじゃないから」
「生まれつきだから仕方ないって?」
「仕方ないとまでは言わない。そっちからすればそんなの知ったことじゃないっていうのも分かってる。でも、この旅館の中で、じゃあ俺はどうしたらいい……? 我慢してもダメで、ありのままでもダメなんだろ?」
「その開き直った態度が気に食わないって言ってんだけど」
「それも分かってるよ。でも、だから、俺はどうしたらいいんだ……? それが分からないからこうなってる」
「どうしたらって……」
テーブルを挟んだ向こうで、へらっと嘲るようにAが笑う。
「生まれつき最悪なら、生まれてきてごめんなさいって態度くらい見せるべきなんじゃないの?」
……その瞬間、テーブル上の食器類がガシャンと音をたてて震えた。チャカが、握り拳をそこに叩きつけていた。
全員がギクリと肩を跳ねさせて彼女の方を見る。誰もが本能的に彼女の怒りを察知していた。そして特に俺は、そこに自身の幼少期のトラウマのような物を垣間見た。
小学校の先生が児童を本気で叱る時、きっと今のチャカと同じような殺気を出していたのだと思う。彼女が第一声を発するまでもなく、俺は彼女が何について怒っているのかを察することが出来た。「言っていいことと悪いことがある」と、きっとそう言ってくれるのだろう。庇われている側のはずなのに心底からのおっかなさを感じながら、俺はそう理解していた。
けれど、チャカは実際には怒鳴らなかった。それどころか言葉を発しすらしなかった。彼女は一線を超えた悪口に良識的な怒りの拳を振り下ろした直後、喉までせり上っていた言葉を失うほどの驚きに硬直してしまったのだ。
俺は、チャカの視線の先を見た。説教のための真剣さを携えていた眼差しが、ただただ驚愕に上塗りされて見開かれる様を見て、それが指す先を無意識に追った。
「え……」
そして俺も言葉を失った。
怯えた顔をしてチャカの方を見たAが、まるで糸で吊られたみたいに不自然に片手を上げて、その手に銃を握っていた。
小柄なAの手には余る、大きな銀色のリボルバー銃。チャカが初日に出して黒幕に向けて撃った物とは違う、それよりも明らかに大きな……必要以上の威力を備えていることが素人目にも分かる銃。
その銃口が、A自身のこめかみに向いていた。
テーブル上の皿が震える。……いや、この食堂にある全てが、空気その物が震える。鼓膜を押し破りそうな重厚な爆音が、ドンと響いては抜けていく。
……俺はその時、一瞬だけど確かに見た。個体とも液体とも言えない赤黒いものが飛び散る様を。怯えた少女の顔が、原型をとどめずに破裂していく光景を。人が人の形を失っていく瞬間を。
パタタッ……と自分の顔に何かが付着する。重く柔らかい物が、椅子からずり落ちて床に叩きつけられる音を聞いた。
あぁ、鼓膜は無事だったんだな……と思った。
どうしてAの手に銃があったのだろう? どうして彼女は銃を取り出せたのだろう? チャカが言っていたじゃないか、俺以外の人物には銃を出すことが出来なくなっていると。なのに、どうして……?
でも、そう、どうしてかは知らないけれど、ともかくサキュバスは不死身なのだから、不死身というのは、銃で打たれても不死身だ。それが心臓を貫こうと脳を貫こうと変わらない、サキュバスは死なない。だから心配はいらないはずだ。次の瞬間に、Aはむくりと起き上がってくるはずだ。
そう思って俺は立ち上がり、テーブルの向こう側の床を見下ろそうとした。……するとその瞬間に生暖かい感触が目元を覆い、視界は闇一色に染まる。
柔らかくて優しい……しかし万力のように強い力が、肩を押さえつけてもいた。
「見ない方がいい」
耳元で、ひどく真剣なチャカの声がそう言った。その時になって俺はようやく、彼女の手が自分に目隠しをしているのだということを理解した。
文字通り「人の手が生み出す暗闇」を味わうこと、おそらくほんの数秒。短いようで長い「待て」の時間を過ごす中で、俺はまたチャカの言っていたことを思い出していた。
俺以外の誰にも銃は出せなくなっている、と彼女は言っていた。そしてその次に、たしかこのようなことも言っていたはずだ。「世界が君の味方をしている」。誰かが俺に危害を加えようとすれば、それを阻む圧倒的な力が現れるだろう……と。
だとすれば、今ここに生じた疑問の答えは一つしかない。俺以外の誰にも銃は出せないはずなのに、なぜAは銃を出せたのか? ……答えは、その銃を出したのは俺だからだ。正確には「俺を守る力」が銃を出したからだ。
なぜAは自らの頭を銃で撃ったのか? 答えは、それが「俺を守ること」だったからだ。なぜなら人を黙らせる方法のうち、最も確実な物は「死」だから。声を奪ってもジェスチャーで訴えるかもしれない、身動きを封じても目で訴えるかもしれない。ならば殺してしまえ、青ウニに向かって一線を超えた暴言を吐く者は……青ウニに危害を加えるものは、殺してしまえ。と、おそらくそういう理屈で「力」が発動した。俺を守る力が、Aに可能な限り速やかな自殺を強制した。そうとしか考えられない。
俺が望むまでもなく……どころかむしろ好ましくないことでもお構い無しに、どうやらその力は発動してしまうらしい。理屈としてはその必要性も分かる。その気になれば人間の目には捉えられない速度で動くことのできるサキュバスから万が一殺意を抱かれた場合、自衛のために超常的な力を行使出来るのだとしても、それが任意の判断によることでは遅すぎる。だから力は自動的に発動するのだと、理屈では分かるけれど……。
……だけど、それは屁理屈だ。俺には黒幕の考えていることが分かる。エスパーではなく共感によって、その性格の悪さが理解出来てしまう。彼女はきっとこの現状を指して「カタルシス」と呼ぶのだろう。
チャカによる目隠しが解かれた時、向かいの席にはAが座っていた。彼女は、男なら誰しも見とれてしまうような綺麗な顔をこの上なく青ざめさせて、伏せた目を恐怖に泳がせていた。
自分の顔をぬぐっても、手のひらには何も付着しない。テーブルの上からは食器類が消えていて、まっさらに片付いたそこには汚れ一つない。何事もなかったかのようにリセットされたこの場の中で、Aの表情だけが真実を引きずっている。
そんな彼女に花子が何かを耳打ちした。するとおそるおそるこちらに目を向けたAが、震える声で綴る。
「……ご、ごめんなさい。言いすぎだった」
そのか弱い謝罪に、俺はどう返事をすればいいのかが分からなかった。
いいよ、と言えばいいのだろうか? いったい何が「いいよ」なのか? 俺は何もしていない、怒ってすらいない。彼女の言葉を不愉快に感じる間もなくチャカが怒りを肩代わりしてくれて、その直後に銃声がすべての感情を吹き飛ばしたから。
しかしAの方からすれば、そうは思えないのだろう。彼女はわけも分からないうちに自殺を強制されて、わけの分からないまま蘇り、花子に耳打ちされるがままに意味も分からず謝罪の言葉を口にしているのか? いや、きっと違う。青ざめた彼女は今なにに怯えているのだろう。死の体験の衝撃と恐怖に怯えているのだろうか。いや、それもきっと違う。あるいは違わずとも、正確ではない。
俺が理解したように、Aもすでに事の全容を理解しているのではないか。なぜ自分が見えざる力に殺されたのか、その理屈を理解しているからこそ、彼女は俺に対して怯えているのではないか。自分はこの男の機嫌を損ねれば本当に容赦なく殺されるのだ……と。
そしてたぶん、それが半分は事故であることまでは、彼女は理解してくれていない。十中八九、俺の怒りが彼女を殺したのだと思われている。怯え方からそれが察せるからこそ、俺は返事に困った。事情を話して分かってもらえるのかどうか……。
と、そんな風に戸惑う俺の耳元で、再び真剣な声がささやきかけてくる。
「いいよ、って言ってあげて」
チャカにそう耳打ちされて初めて、俺は自分がどのくらいの時間沈黙していたのか、自分自身では分からなくなっていることに気づいた。
今のAに対して、沈黙はあまりにも残酷すぎる。俺は慌てて言う。
「あ、気にしてないですよ。大丈夫……!」
しかし反応を見る限り、Aの耳に俺の声は届いていなかった。
彼女の隣で、花子が意地の悪い笑みを浮かべた気がした。