「ごめん、ちょっといい?」
席を立ったチャカがAと花子のいる側に回り込み、三人で何かを話し始める。チャカの心配そうな視線が何度もAに向けられ、それに釣られた花子もちらちらとAの様子を伺う。見るからに尋常ではないショックを受けているAの心のケアについてでも二人で話し合っているのかもしれない。
当のA本人は心ここに在らずだった。俺は、あの時トイレにまで乗り込んできた彼女が涙ながらに語っていたことを思い出す。死ぬのが怖い、自分はまだ死んだことがないから……。
チャカと花子が話し合っている間、Aは時々後ろめたそうに自身の頭や耳を撫でていた。首筋を手のひらで包み、その手のひらを畏れの伴った目で見つめてみたりもする。俺の目にはそれらの動作が、「自分は本当に生きているのか」ということを確認しているように見えた。
話がまとまったらしいチャカがAの肩を叩くと、全身の毛が逆立ちそうなほどその肩を跳ねさせたAは、一言二言何かを話したあとにチャカと共にどこかへと離席して行った。一方で、花子はその場に残っている。視線だけで二人の背中を手短に見送って、そして俺の方に向き直る。
「なんか、Aちゃんと話すことがあるんだって」
「あ、はい」
「で、チャカさんからの伝言。後回しにするみたいでごめんなさいって」
「後回し……?」
「さっきのことがトラウマになるんじゃないかって、青ウニくんのこともすごく心配してたよ」
「さっきの……」
いまいち実感が湧かない。けれど客観的なことは分かる。俺はほんの数分前に、本物の拳銃自殺を目の前で目撃してしまった。それも数日の時を共に過ごした人物が行うそれをだ。ショッキングな出来事であるのは、客観的に見れば間違いない。
けれど、それはあまりにも一瞬の出来事だった。確かに俺はAの頭が砕け散るところを見たのだと思う。脳漿の飛び散る様を見たのだと思う。けれどそれが現実であるという実感は薄い。何せこちらがグロテスクな光景に恐怖を抱くよりもずっと早く、Aは傷一つない体でよみがえり、ただ向かいの席に座っていたのだから。
……いや違う。そう思えるのは、チャカが俺に目隠しをしてくれたおかげだ。もしもあの時向かいの床を見下ろしていたら、不死身の再生が完了する前の「治りかけ」を見ていたら、今とは比べ物にならないほどその光景が脳裏に焼き付いていたかもしれない。チャカが俺を咄嗟に守ってくれたのだ。
赤黒い肉の破片も、鼓膜にヒビが入りそうだった銃声も、おかげであと数ヶ月もすれば俺の頭の中から印象を薄れさせていくような気がする。今日見た物の印象はそのうち、インパクトに富んだ映画のワンシーンと区別がつかなくなっていくように思う。きっとトラウマには程遠い。その証拠に、俺は見ての通り、Aのように取り乱してはいない。
同じように、今目の前でジッとこちらを見つめている花子もまた、至極冷静であるように見えた。
「確かにびっくりしました。でも一瞬のことすぎて、もうほとんど覚えてないですよ」
「ほんとに……?」
「本当に。トラウマには程遠いです。……花子さんの方こそ、怖かったんじゃないですか。真隣であんなことが起こったら……」
「うん、わたしもびっくりした。えっ、って思った時にはもう、Aちゃんが死んでたんだもん」
話しながら、花子の声は笑っていた。冗談でも言っているみたいに。
「夢に出るかもなぁ。それで寝れなくなっちゃったら、青ウニくんのこと頼ってもいい……?」
「え、えぇ。もちろん」
「じゃあ青ウニくんも、もし怖くなったらわたしを頼ってくれていいからね」
「ありがとうございます」
形式的なお礼を口にしたところで、俺はようやく理解した。花子がこの場に残ったのは、チャカから俺のメンタルケアを任されてのことなのだと。……なんというか、心遣い痛み入る。
しかし思えば、チャカは初日に黒幕へ向かって何の躊躇いもなく発砲していた。もしあれが命中していれば、年端もいかない少女の死体と血の海が目の前に転がることになっていたはず。それを思えば、現在のチャカが俺やAの受けたショックを懸念してくれている一方で、彼女自身は元々グロテスクを相当に割り切っていることが伺える。女性は血を見ることに耐性がある場合が多いとはよく聞くけれども、花子の気の抜けた感じといい、サキュバスとは自分自身が撃たれでもしない限り、基本的にそういうものなのだろうか。
「部屋に戻っててほしいって、チャカさんが言ってたよ」
花子に言われて、俺たちは二人で食堂を出て階段を登った。彼女は二階の廊下には降りず、三階まで俺についてきた。なぜ? とは思ったけれど、さっさと自分の部屋に戻れと突き放したいわけではないから、その疑問を口にすることは出来なかった。
三階自室の玄関で靴を脱ぐと、花子もそれに続く。まるで最初からずっと同じ部屋の中で暮らしていたみたいに、彼女はどこまでも俺についてきた。それがチャカから任されたケア役の使命なのだろうか……と俺は考える。
その推測は、おそらく当たっていた。ひとまず部屋に戻ったとはいえ自分はこれからどうするべきなのか……と棒立ちで考え込んでいると、突然背後から花子が抱きついてきたのだ。
「ふふ、本当だ。落ち着いてる」
彼女は俺の左胸に手を添える。心臓の鼓動を感じて、俺が見栄を張っているわけではないことを確かめる。背中へ無防備に密着した彼女の体からも、緊張や高揚はほとんど感じられなかった。
けれどそれは、果たして良いことなのだろうか。知人の拳銃自殺を目の前にした男女が二人、どちらもしれっとした顔で抱き合うだなんて、それが果たしてまともなことだと言えるのだろうか。
何も懸念することがなければ、俺たちはこのままお互いの体を……もとい向こうは性欲を、求め合っていたのだと思う。自分たちには何かが欠けている気がして、それを埋められるものはセックスではないということまで理解出来ていても、その上で手持ち無沙汰にまぐわっていたのだと思う。……けれど今日ばかりはそうするわけにもいかない。どんなにショッキングなことがあろうとなかろうと、今日の俺は、魔力の貯蓄が限界に迫りつつあるチャカにそれを供給しなければならないのだから。
幸いにも、花子に抱きつかれたわずか数秒後には、コンコンコンコンと焦ったような速さのノックが聞こえた。
「あ、はいっ。開いてます」
ドアの向こうから現れたのは、緊張した面持ちのチャカだった。彼女の姿を確認すると、花子はすたすたと俺から離れて彼女に話しかけにいく。
小声で何かしらのやり取りをしたあと、俺と視線を合わせた花子は口の動きだけで「またね」と言いながら、小さく手を振って部屋を去っていった。今日はどうしてもチャカが相手でならなければならないということを、彼女も今本人から聞かされたのかもしれない。
しかし、そんな花子の背中を見送ったあとにチャカが切り出した話の内容は、俺の予想とは違った。
「青ウニくん、ちょっと相談があるんだけど」
「なんですか?」
「……Aちゃんのこと、まだ女として見れる?」
「は……?」
「できれば今日、抱いてあげてほしいんだけど」
「え、でも……」
あなたの魔力残量は限界なのでは……と聞き返そうとして、ハッとする。チャカは今朝、俺にこう言ったのだ。魔力を「切り詰める」ことにも限界が近いと。
俺はついさっき見たじゃないか。「救急車を呼ぶレベルになると採算が合わない」という魔力を切り詰めることに、盛大に失敗してしまったサキュバスの姿を。凄惨な死から瞬く間に蘇ったサキュバスの姿を。……Aの魔力は著しく失われたのではないか?
人間は、つらい時ほどまずは飯を食った方がいいのだという。空腹はメンタルを殊更に弱らせるからだ。それと同じことがサキュバスにも言えるのであれば、ショッキングなことがあった時こそ、魔力は十分に確保されていた方が良いのかもしれない。その理屈が、すでに空腹であるもう一人を後回しにする理由に足るのかは、俺には分からないけれど。
しかしともかく、質問に素直に答えるのだとすれば。
「……俺は問題ないですけど、彼女の方が無理なんじゃないですか?」
「Aちゃんが?」
「さっきの拳銃自殺は、チャカさんが言っていた「俺の味方をする力」が発動してしまったってことでしょう……?」
「だと思う」
「なら、Aさんにとって俺は恐怖の象徴じゃないですか」
「……いや」
言いづらそうに、あるいは、言ってもいいものかと考え込むように。チャカは俺から一度視線を外す。それからやがて苦渋の決断として、再びその口を開く。
「Aちゃんは、君との関係が再起不能になることを心配してた。自分は二度も裏切ったからもうダメだって」
「……酔ってる間のことを覚えてるんですね」
「そうみたい」
「飲ませたのは俺です。悪いことをしました」
「いや、酔った彼女がああなるとは私も知らなかった」
事故だよ、とチャカは言う。後ろめたそうに、苦虫を噛み潰すような表情で。
きっと彼女にも負い目があるのだ。拳銃自殺とは何の関係もないことだけれど、チャカはあの時確かに怒ってしまったから。「それは言い過ぎだ」とAを叱りつけるつもりだったから。その直後に相手が自殺したとなっては、たとえそれが目に見えない力に強制されたことだったとしても、自身の怒りとは欠片の因果関係もないことだったとしても、本人にはそうそう割り切れない物なのだろう。
誰がAを殺したのか。その答えは「黒幕」の一択であるべきで、それ以外は断じて否定されなければならない。けれど、それが嫌に難しい。俺だってそうだ。俺がAを殺したのだと言われれば、その通りであるような気がしてしまう。だからこそ、Aはもう俺の顔も見たくないのではないかと想像することも容易に出来る。
……だけど、なのに、俺という人間は、やはり決定的に何かが欠けている。俺の心臓は白々しい速度でしか動かない。そしてそれは、心臓だけに限った話でもない。
「……それで、もう彼女のことは抱けなさそう? さっきのことを思い出して萎えちゃうとか」
「いや。それはなんというか、…………言っては何ですけど、大丈夫だと思います」
「そう……?」
「たぶん……。何せ本人が言っていた通り、俺は彼女から死ねと言われたあとに、いじめとレイプの悪いところ取りみたいなことが出来てしまったわけですから」
「……怯えた女の子に抱いてほしいって言われたら、興奮する?」
「…………それは」
当然、する。
けれどその内心は、口に出してもいいものなのだろうか。……迷った末に、俺は頷く。
「ならよかった。じゃあ、呼んでくるね」
そう言ってチャカは部屋を去った。
「よかった」だなんて、きっと本心では思っていない。俺にまともな人間の心があれば、ノーマルな性癖だけがあれば、そもそも初めからこんなことになどなっていなかったのだということを、チャカだってとっくに理解しているはずだ。ただそれを口に出さないというだけで。
……それから五分待ったのか十分待ったのか分からないけれど、とにかく一人の時間が長く感じた。俺は時計を見なかった。Aを待つということ自体に罪悪感があって、まるで彼女の来訪を期待しているみたいに時刻を確認することは出来なかった。
コン、コン、コン。……と、ある時不意に、慎重なノック音が鳴る。その音に向かって「開いてます」と告げると、芋虫の歩みのような速度でじわりじわりと、扉が開いていった。
俺の座っている位置から廊下を挟んだ玄関まで、はたして何メートルほどあっただろうか。現れたAは、すでにその距離からこちらの顔色をうかがっていた。
「……失礼します」
蚊の鳴くような声で、柄にもない挨拶をされる。まるで脅されてここへ来たかのように。
……いや、実際に脅されているのだ。彼女は自分自身の体の構造によって命を人質にとられて、仕方なくここへ来ている。自由と尊厳の確保された本来の世界の生活であれば、サキュバスたちは皆セックスを適切に選り好む。そして本人たちがそれを楽しんでいるおかげで外野は忘れがちだけれど、性行為をしなければ生きていけないという彼女らの性質は、冷静に考えればとんでもなく残酷な物だ。
俺はこれから、その残酷さに加担する。いつものように欲望の発散に手を染める。それは本当に相手のためか? そんな理屈はただ自分の欲望を満たすための口実に過ぎないのではないか? ……どう悩んだところで、サキュバスにとっては関係がない。より純粋で濃い性欲から、必要なだけの魔力を得られるかどうか。それが全てであり、そこに善悪は介入できない。
息を止めているのではないかというほど切羽詰まった顔をしたまま、Aはゆっくりと俺の方へ歩いてくる。それを出迎えようと俺が立ち上がると、彼女はビクッと跳ねるようにして一瞬固まった。……野良猫に対面しているような気分になる。
そんな彼女へ真っ先にかけるべき言葉とは何なのだろう? 俺が出来の悪い頭で考えている間に、先に向こうの方が喋った。
「……チャカさんに無理言われたの?」
「え?」
「頼まれたんでしょ。Aを抱けって」
「……あー」
その通りではある。しかし「はい、そうです」と答えるだけではあまりに冷たい。俺は言い方に困った。
罪悪感に苛まれる相手にとって、沈黙は常に毒だ。俺が答えを探している間にも、Aはどんどん卑屈になっていく。
「……いいよ、アタシのことはもう忘れて。どうせもう一回死んだし、青ウニくんももうアタシの顔見たくないでしょ」
短い間に、彼女は「もう」と三度も口にした。全てが手遅れであるとでも言いたげに。
それを聞いてようやく、胸の奥につっかえていた何かがプツリと切れてなくなった気がして、俺は自分の答え方を決めた。
「そんなことない」
「なんでよ? アタシがアンタの立場だったら、こんなクソ女二度と御免だって思うに決まってる」
「でも俺は思わない」
「なんで」
「なんでって……。言われた通り、性格も性癖も終わってるからだよ」
俺がそう言うと、うめき声のような、悲鳴のような、か細い相槌がAの喉から漏れた気がした。
それきり彼女は何も言わなくなった。それはそうだろう。責めるような物言いに、今の彼女では返事のしようがない。俺はそれを分かった上で言ったのだ。
Aは「言葉を口にすること」をひどく重要視する性格をしている。彼女の罪悪感は「ひどいことを言ったこと」にあるのであって、「ひどいことを思ったこと」にはない。でなければ、「二度も裏切った」という理由でここまで自身を追い込んだりしないだろう。内心で俺のことをずっと軽蔑していること自体には、何度目かもクソもないのだから。
なのに彼女は、俺がいくら「気にしていない」という本心を「言葉にして」も聞き入れてくれない。そういう意味では確かにクソ女だ。自分は自分のルールを絶対視するくせに、他人がそのルールに乗ろうとすると突っぱねてくるだなんて無茶苦茶すぎる。……ではそんな彼女にこちらの主張を聞いてもらうにはどうすればいいか?
俺には、言葉よりももっと雄弁な物に頼ることしか思いつかなかった。
「……え? きゃっ」
気まずそうに立ち尽くしたAの肩を掴み、力任せに押し倒す。願えば叶う力によって敷かれた布団が倒れ込んだ彼女の背中を受け止めるけれど、もちろんそのまま寝かしつけようというわけではない。
彼女の手には、本人も気づいていないだろう一瞬の間に手錠が取りつけられていた。口には開口具を付けられ、誰も触れていないはずの浴衣の帯は独りでにほどけていく。……そして見えざる力がきちんと俺の味方をしてくれているなら、彼女は今きっと、人並み外れた膂力を行使することまで概念的に封じられている。俺が、今だけはそうであれと願ったから。
Aは拘束された人間の少女のように無力化された。そうなればもうその体を押さえつけておく必要すらない。俺は空いた両手で彼女の細い首を握る。まだ絞めはしない。痛いことと苦しいことはしないと、あの時一応約束したから。
「あぇ……へ……? んぇ……?」
事態を飲み込めていない哀れな少女に跨り、目をしばたたかせる様を見下ろしながら、俺は言う。
「まだ俺が、チャカさんに言われて渋々こういうことしてるって思います?」
「……お、ぁ、おおいあぇん」
「伝わったならよかった」
満足に動かせない口で返事をしながら、Aは俺に握られている首をぶんぶんと横に振った。この男は己の意思で今から自分を強姦する気なのだ……と、それはもうよく伝わったことだろう。何せサキュバスはみんな、他人の性欲を察知する力を持っているのだから。
俺はAを見捨てない。……より正確に言えば、俺はAを餓死させない。それが俺にできる精一杯の次善だから。彼女を突き放すことで飢えさせようと、それを避けるための強姦で尊厳を踏みにじろうと、どちらにせよ彼女の心を救うことは出来ないというなら、もはや俺にはそれしか出来ることがないのだから。
この旅館の中で行われる全ての性行為が、事実上の脅迫のもとに成り立っている物でしかなかったとしても。全ての「同意」が建前上の物でしかなかったとしても、俺は今までその建前だけは頑なに守ってきた。もちろん外の世界で性行為に及ぶ時だって、その同意は最優先に確かめてきた。……けれど実際のところ俺という人間は、口実と、力と、必要性が手元に集まれば、その最後の砦すらあっさりと崩してしまえる。
さすがに心臓の鳴る速度は増していく一方だったけれど、それが罪悪感によるものであったのかは分からない。しかしそうであるにしては、俺の声は我ながら恐ろしいほど落ち着いていたように思う。
「痛いのと苦しいのはしないって約束は守りますけど、そっちの態度次第で気が変わる可能性はありますから。……分かってくれます?」
「ふ、ふぁい……」
ほんの少しだけ、苦しくない程度に彼女の首を絞めて脅すと、怯えた目がこちらを見上げて応えた。
その目の中に、もう見捨てられることの恐怖は残っていなかった。ただその結果だけが、俺に達成できることの唯一全てだった。
Aをレイプしながら、俺はいくつかの決め事を彼女に一方的に通達した。
一つ。A本人の意思に関わらず、俺は彼女の命を絶対に見捨てないこと。……つまりAの心持ち次第で和姦か強姦かの違いが生じるだけであって、その二つ以外の選択肢は、彼女がどんなに嫌がろうと、もはやあり得ないということ。
二つ。どうしてもそれに耐えられない場合は、チャカを経由してその旨を俺に伝えた場合にのみ抗議を受け付けること。A本人からの直接の抗議は一切受け付けないということ。
三つ。自分自身を対象にした物も含めて、Aの悪口は二度と許可しないこと。また彼女がこの約束を破った場合は、俺の方も「痛いことと苦しいことはしない」という約束を永久に破棄すること。
……これらの通達を、Aはきちんと聞き入れてくれた。無論、それは俺が彼女から「聞き入れる」以外の選択肢を根こそぎ奪い取った末の結果ではあるけれど。
彼女を犯している最中、俺は彼女に酒を飲ませた。経緯が経緯だから、「飲め」と言っても当然拒否されたけれど、無理やり飲ませた。身体に負担がかからないように……もとい心だけを狙い済まして痛めつけるために、度数の低い物をしつこく飲ませ続けた。呂律の回らなくなってきた舌で「もうわるぐちいいません」と宣言させられて、彼女もそろそろ理解出来てきたのではないだろうか? 自身が仮にクソ女だったとして、それは青ウニという男を萎えさせる理由にはならないのだと。自身のそういった振る舞いはむしろ、この男に新しい「ネタ」を与えるだけなのだと。
事が済んだあと、いつもならそそくさと自室に戻ろうとするAが、今日は布団の上にぺたんと座ったまま一向に去ろうとしなかった。けれども居心地が悪そうな顔はしているから、「もう部屋に戻っていいよ」と言葉にして伝えると、彼女は命令されたわけでもなく自ら布団へ額をこすりつけるように頭を下げたあと、「ありがとうございました」と言って逃げるように……そして「逃げた」ということを悟られまいと努めて緩慢な動きで、部屋を出ていった。
……その夜、俺は眠ることが出来なかった。事が済んだあとになってようやく風呂へ入り、歯をみがき、いつも通り布団に入ったのに。花子の言うような悪夢に飛び起きることさえなく、そもそも一瞬たりとも入眠に至ることが出来なかった。
明かりを消した部屋の中で布団に包まり、他にすることもなく、自分がなぜ眠れないのかを考える。
俺が眠れないのは、Aをついに狭義の意味でレイプしたからだろうか。今まで曲がりなりにも相手から同意を得てきた自分にとって今日のようなことは初めてだったから、アドレナリンが出過ぎて眠れなくなっているのだろうか。それともやはり、拳銃自殺を目の前で見たことが大きかったのか。あるいはそれら一連の出来事によって、Aの怯える顔を何度も見てしまったことで、罪悪感が眠気をかき消してしまったのだろうか。……トイレで彼女を犯した日の夜は眠れたのに?
あまりにも目が冴えて埒が明かず、俺はふとしたタイミングで、今晩に限り眠ることを諦めた。部屋の明かりをつけて少し喉を潤すことにする。小さな冷蔵庫を開き、中にあるペットボトルのお茶を飲む。そこにあった物は緑茶で、ごくごくと飲んでからふと、緑茶にはカフェインが含まれていたのではないかと思い出した。
酒に酔えば眠れるかもしれない。飲み物からのアプローチとしてそう思いつくけれど、いくら念じたところで、缶ビール一つとして一人きりの部屋の中では出すことが出来なかった。ついさっきAに無理やり飲ませるためにならいくらでも酒を出せたのに、そういう意図がなくなった途端にこの旅館に漂う力はそっぽを向く。
ならば仕方がない……と俺は自室を出た。今まで気にしたことすらなかったけれど、食堂は深夜でも使えるのだろうか? 使えるのだとすれば、そこで適当に飲んで酔ってから部屋に戻ろう。そう考えては階段を降りていく。……Aがいるであろう二階を通り過ぎる時には少しだけ緊張を覚えた。
一階に着くと、ほとんどの場所には夕食時と同じように煌々と明かりが点いていた。ロビーにも、大浴場へ続く廊下にも、そして食堂にも。ただ一箇所だけ、土産コーナーだけは消灯されて、閉店を表す黒いネットがカーテンのように引かれていた。俺はそこに黒幕からのおちょくりを感じる。
……と、そんな風に周囲を見渡していた時のこと。各々が就寝して静まり返っているはずの館内に、どこからともなく謎の音が響いていることに気づいた。
ジュージュー……ジュージュー……と、やや水っぽい何かが焼けるような音。それが食堂の方から微かに聞こえてくる。時刻は二十四時に近いはずだったが、まだ誰かがそこにいるのだろうか……?
未知との遭遇に身構えながら食堂に足を踏み入れると、遠くの方に人影が……見慣れたピンク色の髪が見えた。
「……こんばんは」
「わぁ。こんばんは」
意外そうな顔で挨拶を返してくれたのは、花子だった。彼女は両手に小さな銀色のヘラを持っている。
そして彼女の目の前では、今まさにお好み焼きが焼かれている真っ最中だった。まだ半面が液状のそれが鉄板の上でジュージューと音を立てている。……しかもその鉄板は家庭用の持ち運び可能な物ではない。花子の前には普段俺たちが使っている物と変わらない長テーブルがあり、今はそこに大きな鉄板が埋め込まれている。
念じれば叶うとはいうけれど、まさか普通のテーブルに後付けで鉄板を埋め込むことが出来るとは。その上その鉄板には、ガスや電気等の繋がっているべき物がどこにも見当たらず、どのようにして熱されているのかが一切不明だった。まぁこの際、きっと熱そのものを虚空から取り寄せることも可能なのだろうけど。
……しかしなぜこんな深夜にお好み焼きを?
「何してるんです……?」
「眠れなくて、夜食でも食べようかと思って。……青ウニくんは?」
「俺も同じ感じですけど」
「一緒に食べる?」
「あ、じゃあ、はい」
彼女の向かいの席につく。あまり腹が減っているわけではないので自分の分を作ろうとはせず、ただ目の前の調理風景を見守った。
正直に言えば、花子がここに居たことは少し不都合だった。あんなことが起こった手前、もはや人前で酒を飲むことは出来ないからだ。俺は焼き上がりを待っている間の手持ち無沙汰を紛らわすように水を飲む。
数分後に明らかになったこととして、花子はお好み焼きをひっくり返すのが下手だった。片面だけ火の通ったそれが、端だけめくれ上がるように折れ曲がった不格好な形で着地する。彼女はちょいちょいとそれをヘラで直して、
「だから一人で練習しようと思ってたのに」
と恥ずかしそうに言った。なるほど向こうにとっても俺が来たことは不都合だったのか……と分かって、少しだけ笑った。
けれど、俺が感じていた不都合さに関しては、そこからさらに数分後に一方的に払拭されることになる。焼き上がったお好み焼きを半分に切り分けて、ソースやその他トッピングをかけ、取り皿に慎重に乗せた花子が次に行ったことは、ビールジョッキの召喚だったから。
「飲むんですか」
「飲まない?」
「……飲みましょう!」
お付き合いという形で、俺も同じ物を召喚する。不健康極まりない深夜の宴会が、こうして突発的に開催された。
べつに二人して黙々と食べていたわけではなかったけれど、しばらくの間は俺も花子も、他のサキュバスの話題を出すことは避けていた。けれどある時どういう経緯だったのか、気になっていないはずがない「事の顛末」について、俺は聞かれた。
「ところで結局、Aちゃんとはエッチできたの?」
「……まぁ」
腹は減っていなかったはずなのに、気づけば俺は二枚三枚と追加の夜食を口に入れていた。それに伴って酒も飲む。そういった暴飲暴食のツケが、その質問を受けた途端に帰ってきた気がした。それまで機嫌よく食らっていたのに、俺は突然、胃からせり上ってくるような物を感じる。
ほんの少量のビールでその苦しさを腹の奥へと流し込み、喉を潤し、箸を置いて。俺は質問に正確に答える。
「出来たというか、無理やりしました。「この旅館の中で俺だけが使える力」で抵抗できないようにして、無理やり……」
「……へぇ」
花子はにやりと笑った。そして、軽快なジョークを口走るかのように言う。
「銃で脅したんだ?」
「ばっ」
馬鹿か!? と、危うく口に出るところだった。
けれどそれは、予想の斜め上を行く邪悪な発想が耳に入ったからではない。信じられない物言いに度肝を抜かれたからでもない。
俺はまったくのノータイムでこう思ったのだ。そんなこと、いくらなんでも、思いついたとして実行するわけがないだろう! ……俺は無理やり酒を飲ませることで妥協したんだ!
もしも俺が、銃で脅せばAのとびきり怯えた表情が見られるだろうなと、一瞬たりとも考えもしないような人間だったら。花子の物言いに耳を疑い、フリーズしてしまうような人間だったら。きっとこの旅館には呼ばれていなかった。
深夜の食堂。俺たち二人以外には人の気配がない、無駄に広いこの空間で。誰にも知られずに俺と向かい合って座る花子は、上達してひっくり返せるようになった自分の成果をぱくつきながら、ただの雑談みたいな素振りで言う。
「しなかったんだ。青ウニくん、そういうの好きそうなのに」
「好きかどうかの問題じゃないですよ」
「そう? じゃあ無理やりって、どんな風にしたの?」
「どんなって……」
聞かれても、答えなければよかったのに。その答えは俺だけでなく、Aのプライベートまで関わる物だったのに。俺はその時なぜだか、ただ聞かれるがままに答えてしまった。
無理やり酒を飲ませた。二度と悪口を言わないと約束させて、これからも三日に一回のペースで、嫌がってもレイプしてやると宣言した。……そう花子に話している最中に、俺は、胸につっかえていた物が溶けていくような感覚をおぼえた。
その感覚を受けて初めて、俺は自分のことを正確に理解する。あぁそうか、俺は酔っていたんだ。今も、あの時も。俺は、Aに何を言われたって「すいませんね」と聞き流していればよかったのに。酔っていたから「じゃあ俺はどうすればいいんだ」なんて聞き返してしまった。酒にも酔っていたし、何よりA以外の二人のサキュバスが自分の味方をしてくれているように感じたから、きっとそれで気が大きくなって余計なことを言ってしまったんだ。
結局のところ俺は、自分一人で物事を抱えておくことが出来ないのかもしれない。この悪趣味なクイズ大会に強制参加させられた唯一の男としての心を、相手の命を救うためにレイプでも何でもして見せなければならない自分の心を、そうは言いつつも加害的な欲望を抱き、それを解消して気持ちよくなってしまう自分の心を、ふとしたきっかけで外に出してしまう。外に出すことで気が楽になってしまう。
俺は花子に対して「馬鹿じゃないのか」と思いながらも、同時に嬉しくなっていたのだと思う。真っ先に「銃で脅す」という選択肢が出てくるのは同志だから。花子が同志であることが、今は妙に嬉しかった。
……なら俺は、同じく趣味の似ている黒幕のことすら恨みきれていないのだろうか?
「白状出来てえらいね、青ウニくん」
鉄板から立ち上る熱の向こうで、花子が俺に向かって微笑んでくれる。
俺はその日、それからすぐに眠ることが出来た。