※この作品はR-18です。

性的虐待の被害者を暴かなければ出られない部屋   作:氷菓くん

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13/15 悪意に蒸される臨界点

 コンコンコン……コンコンコン……と夢の中から、俺を急かす音がする。早く出てこい、早く出てこい……。ノックの音が俺を呼ぶ。

 どうしてそんなに急かすのか、見失った心当たりを、ぼやけた思考では見つけられない。なのにそれでもお構いなしに、そのノック音は鳴り続ける。ひたすらに俺を急かして、叫ぶかのように、コンコンコン、コンコンコン。早く出てこい、早く出てこい……。

 ……しかしある時ふと、その音は俺に「出てこい」と言っているわけではないのだということに気づいた。鳴り続ける音は初めからずっと、俺にこう訴えていたのだ。

 

 早くここから出せ。

 

 早くここから出してくれ。

 

「ねぇ〜! みんな起きてるんだけど、まだ寝るの!?」

「あっ?」

 バッと飛び起き、夢から目が覚めた。

 コンコンコンコン、と苛立ったノック音が玄関から鳴っている。そして同じ方向から、苛立った女性の声もする。

 勘違いでなければ、それはAの声だった。念じれば叶う力で即座に着替えを済ませ寝癖を直し、俺は自室の扉を開く。

 案の定、むすっとした顔のAが俺を待ち構えていた。

「やっと起きた」

「……すいません」

「朝ごはん行くよ」

「はい」

 踵を返したAが俺の前を歩く。昨晩自分をレイプした男に背を向けて、爪の先ほどの栄養にもならない朝食を摂るために、まるで何事もなかったかのように。

 食堂に着くと、いつもの席順で花子とチャカが待っていた。水すら置かれていないテーブルに肘をついて、二人とも何か他愛ないことを話していたようだ。

 こちらを見て、親しみをこめて侮るような笑みを浮かべたチャカが言う。

「起こさない方がよかった?」

「いえ。素で寝坊しました」

 心がけずとも不甲斐なさが声に乗った。するとそれを聞いた、同じくらい夜更かししていたはずの花子もほのかに笑って、

「わたしたち、毎日が日曜日だもんね」

 と言う。俺は苦笑いで頷いた。

 そう、毎日が日曜日。仮に四人全員が毎日昼まで寝ていたって、この生活には何の支障もきたさない。なのに俺たちはいつも朝に起きる。全員で集まって朝食を摂り、夜には眠る。おそらく全員が頭の片隅で、規則正しい生活が少しでも精神を安定させることを直感しているから。

 昨晩の夜食の影響で今朝はなおのこと食欲がなかった。それでも少量のヨーグルトくらいは食べておく。付き合いで食事をするというサキュバスの感覚を少しだけ身近に感じながら、酸味のはっきりしたプレーンに少しだけジャムを入れた。

 サキュバスたちは三人ともパン系の物を食べていた。トースト、サンドイッチ、そしてコンビニでも売っているような小さなサイズのハンバーガー。昨日一緒に夜食を貪った仲間であるはずの花子は、そのハンバーガーに勢いよくかぶりつきながら、すでにおかわりを手元に用意していた。

「朝マックって、なんで朝しかやってないんだろう」

 食べながら思いついたのか、花子が素朴な疑問を口にする。

「……ググれないのが不便だね、こういう時」

 興味なさそうにAがそう応じた。

 空間どころか時間軸からも隔離されているこの旅館内ではネットが使えない。本ならば望めば何でも手に入るけれど、朝マックがなぜ朝にしか売っていないのかなんて問いの答えがどんな本に書いてあるのかなど見当もつかない。学問的な問いよりもむしろ、素朴な疑問の方が容易に迷宮入りしかねないのだ。

 しかし今回は幸いにも、俺が元々答えを知っている。

「スペースの問題らしいですよ」

「え?」

「作業を妨げない範囲で厨房に置いておける食材の量って限りがあるじゃないですか。一度に扱うメニュー数を増やしすぎるとそれで支障が出るから、朝パートとそれ以外で配置を変えてるらしいです」

「なんでそんなこと知ってんのアンタ」

「昔、俺も気になってググッたんです」

「へー」

「なるほどだ」

 Aは相変わらず興味がなさそうだったけど、花子は納得してくれたようだった。

 と、会話はそこで一旦途切れるのかと思ったところで、

「そういえば、オーバークックってゲームがあってさ」

 と、意外にもAが語り始めた。

 たしか彼女の母親はゲーマーで、彼女自身もそれによく付き合っているという話だったはず。なのに考えてみれば、彼女の口から自発的にゲームの話を聞くのはおそらくこれが初めてだった。

「最大四人で協力して料理を作りまくって、時間内に出来るだけたくさん注文通りにサーブするゲームなんだけど。そこでメニューの種類が増えると具材の数も組み合わせのパターンも増えて、超テンパるんだよね」

「あぁ、動画だけなら見たことありますそのゲーム」

「四人で出来るなら、このあと皆で遊んでみる?」

「あ、いや、オススメは出来ない。ウチの両親、そのゲームで一回ガチ喧嘩して半日口きかなかったことあるから」

「そんな殺伐としたゲームなの……?」

「見た目は可愛いけど、ピーク時の飲食店バイトみたいなゲームだから……」

「なるほど……」

 ……話を聞きながら、俺はいろいろと邪推してしまう。

 ゲームが原因で……いやむしろ原因など関係なく、子どもの前で親が露骨な喧嘩を繰り広げることは、家庭環境が良い家の風景だと言えるだろうか? 家庭環境の悪さが必ず虐待に繋がるとはいえないけれど、家庭環境の良さと虐待が絶対に両立しないことは確かである。

 ピーク時の飲食店バイトみたいなという例えは、A自身の経験から来るものだろうか? それとも単なるイメージの話だろうか。もしも彼女が学生時代にアルバイトの経験を有しているなら、働く動機は何だったのか? それと家庭環境の話には関係があるのかどうか。

 ……そんな風に考えるうちに、ふと唐突に強烈な嫌気が差す。衝動的に、もうこんなことを考えるのは疲れた……と思ってしまう。それはほんの一瞬だけのことで、決してクイズに対して心が折れたわけではないのだけど。

 結局、オーバークックでは遊ばないことになった。朝食を終え次第いつも通りに、各々自由行動で解散する。俺は一度二階に上がってトイレを済ませたあと、少し考えてから再び一階に降りる。

 ゲームセンターではしゃぎながら対戦ゲームに興じていた頃の俺たちなら、殺伐としかねない協力型ゲームだって気軽に遊んでいたかもしれない。何せ旅館の外に出られない生活は暇だ。毎日が日曜日と表現されるほど潤沢な自由時間は、遊びの誘いへ無差別に乗り気にさせる効果がある。

 だけど誰も、喧嘩になる可能性のあるゲームをそれでも遊ぼうとは言わなかった。みんな何事もなかったかのような顔をしているけれど、大した不和もなく仲良く話しているように見えるけれど、内心では警戒しているのだろう。あの拳銃自殺を見てしまったからには、「失敗」の具体的な形を見てしまったからには、いよいよ慎重にならざるを得ないと。

 俺は気まぐれによって、ロビーに置かれたソファに一人で腰を下ろす。……この旅館内での生活は、不甲斐なさと比例して暇になる。

 クイズの答えを探る手段が思いついている時はそれに従えばいい。けれどそうでない時は、ゲームセンターに行くか、食堂に行くか、温泉にでも入るか。そうでなければ、オフラインのスマホと布団くらいしかない自室に引きこもるか。それらのどれでもなければ、あとはもう、女性陣の部屋に押しかけるくらいしか出来ることがない。俺はいつも最後の一つ以外を選んで、どうにか時間を潰していた。

 元々趣味で小説を書いているけれど、ここではそれも捗らない。俺の書く物は常にR18だから、オナニーをする気分にすらなれないような環境下では執筆意欲だって落ちる。その上そもそもの問題として、スマホのストレージにわずかばかりの下書きを保存したところでそのデータを元の世界に持ち帰ることが出来るのか? と考えた頃を境に、俺は執筆趣味を一時封印した。

 引きこもってばかりでも、無意味にうろついてばかりでも、サキュバスたちに要らぬプレッシャーを与える気がする。だから俺は出来るだけランダムな生活を心がけている。こうしてソファに腰を下ろし、無人のロビーを見渡して、ぼーっとしている時もある。たまたま通りがかった人物と成り行きで雑談をしたこともあった。だから俺は少なくとも一度、チャカが「せっかく二十四時間営業だから」と昼から温泉に浸かっていた日があることを知っている。

 日によっては誰かが三階の自室を尋ねてくることもあった。ゲームでもしようぜ、と気さくに接してくれる彼女らは、それが誰であったとしても、必ず二人以上で現れる。「抜けがけではない」ということを証明するためなのか、それとも特にAに関して、一人きりでは俺に会いたくないのか。理由は定かではないけれど、ともかく彼女らのそういった気遣いがありがたかった。……人間は孤独の中では簡単に加害性をもって狂うということを、おそらく彼女らは知っているのだろう。

 けれどこれまでに最も多く時間を費やしたのは、やはりゲームセンターであるように思う。作業があることと、開けていることが良い。黒幕は俺が誰かの部屋に向かうことを誘導したがっているようだけれど、意地でもそれに逆らおうとすると、自然とゲーセンに足の向かう機会が増えていく。

 実際、俺は今日もそこへ向かうことにした。きっとまたチャカあたりがメダルゲームをやっているのではないかと予想しながら、重い腰を上げて歩き出す。射幸心を煽る派手な音声が次第に近くなってくると、その中にわずかに、メダルでカチカチと硬い物を叩くような音が混じって聞こえた。

 ゲーセンに居たのは、チャカではなくAだった。

 チャカが召喚した巨大なメダルゲーム筐体が、撤去されることなくそのまま同じ場所に鎮座している。Aは長椅子に座ってそこにメダルを投入しながら、ディスプレイ上のスロットが回転しているのを眺める間、指に挟んだメダルで筐体をつついて何かのリズムを刻んでいた。たぶん鼻歌のようなものだろう。

「どうも」

「ん」

 声をかけると、ずいっとメダルでいっぱいのコップのように小さなバケツを渡される。俺は彼女の隣に座った。

 ゲーセンによく来るからといって、べつに誰かと一緒にメダルゲームをすることを恒例にしているつもりはない。むしろ無料であるのを良いことに、思いつく限りのジャンルのゲームを今まで遊び尽くしてきた。だからこそAの態度は、暗に「話があるからここに座れ」と言っているのだと察せられる。

 彼女はすぐには話し出さなかった。落ちたメダルがチャッカーを通りスロットが回る。リーチが何度か連続で空振りしたところで、バケツの中の尽きないメダルの山をじゃらじゃらといじりながら、まるで奮わないゲームへの愚痴を漏らすかのように、ぽつりと言う。

「アンタはさ、ここから出たいって思う?」

「え?」

「クイズに正解してさ。この旅館の外に出たいのかって」

「え、それはもちろん」

「どうして?」

「え?」

 聞き返してばかりの俺に、彼女は機嫌を損ねてしまったらしい。苛立たしげな目がこちらに向く。

「だって悪くないでしょ、ここの生活」

「えっ。……は? いや、最悪でしょう」

「なんで」

「……そうじゃなければ、あなたは昨日撃たれなかった」

 ここでの生活が悪くなければAは愚痴を言わなかった。愚痴を言わなければ、見えざる力に自殺を強要されることもなかった。そんなことは言うまでもないことなのに、なぜわざわざ言わせるのだろう。万が一またこの会話の流れで何かが起こったらどうするつもりなのか、苦しむのは彼女の方なのに……。

 と、俺はノータイムで思ったのだけれど。Aの方はしばらくの間、俺の言葉の意味が分からないとでも言いたげに怪訝な顔をしていた。そしてある時ふと、「あぁ……」と面倒くさそうにため息を吐く。

「もしかしてそれ、アタシ目線でのことを言ってる?」

「えっ?」

「だから、アタシから見たここの生活が最悪だって話をしてるんじゃないの? アンタは」

「えっと……。そうですけど? Aさんや、他の二人にとっても」

「そうじゃなくて、アタシはアンタの話をしてるの」

「……というと?」

「だーかーらー。アタシたちはともかく、アンタからすればここの生活は悪くないでしょって。ご馳走は食べ放題、ゲームもあって毎日が日曜日。女には困らない上に、誰もアンタに逆らえない。……こんな生活が、この旅館の外のアンアにある?」

「……まぁないでしょうけど」

「でしょ?」

 再びスロットがリーチに入り、画面から指示が入る。ボタンを連打しろ! ……Aは軽く握った拳で、何かを催促するような仕草で指示に従った。

 リーチはまたしてもハズレた。無尽蔵のメダルを使える俺たちにとってそれは痛手にならず、機嫌を損ねる理由にもならない。けれどAは、その結果に対して舌打ちをした。

 あるいはそれは、俺に対する苛立ちをカモフラージュした物だったのかもしれない。

「昨日、アンタにレイプされて分かった。確かにアタシはアンタに逆らえない。今は幸い慈悲をかけてもらえてるけど、もし今よりもっとひどいことをされても逆らえないのは同じ。……そう考えてやっと気づいたの。どうしてアタシは今まで、アンタがここからの脱出を目指すことを、呑気に信じてたんだろうって」

「……話がよく分からないんですけど」

「クイズに回答出来るのはアンタだけなのに、そのアンタ自身にここから出たがるような理由がないって言ってるの。分かるでしょ? …………絶望しちゃ悪い?」

「いや、いやいやいや」

 俺は思わず顔の前で「無い無い」と手を振る。

「俺はめちゃくちゃここから出たいですよ」

「はぁ? なんでよ」

「差し引きが合わないからです」

「はぁ」

「確かにAさんの言う通り、ここには俺に都合のいいことがかなりありますよ。けど、それはAさんたちの犠牲ありきじゃないですか。それだとさすがに寝覚めが悪いっていうか、何をしても気が重いんです。それにここではずっと事実上の時が止まっているから、未来がないせいで息が詰まる」

「……外の世界の方がマシだっていうの?」

「もちろん」

「…………ってことは女がいるんだ。外に」

「いますね」

 でなければ男という生き物がそんな殊勝なことを言うはずがない……とAは考えたはずだ。それで「外に女がいるんでしょ」と本人が今言ったばかりなのに、俺がそれを肯定すると、彼女は心底から驚いたような顔をした。

「えっ、いるの」

「いますよ」

「セフレ?」

「セフレです」

「……SM大丈夫な人?」

「間違いなく、ここにいる誰よりも大丈夫な人です」

「サキュバスってこと……?」

「そうです」

「名前は?」

「ハクレナですけど。……なんでです?」

「……いや、ううん。え、そっか、そうなんだ」

 へぇ〜、と彼女はなおも妙な感嘆を噛みしめる。思っているよりも桁が一つ多かった友人の預金残高を見た時みたいに、数字のかわりに虚空を見つめて何度も、そっか……ほ〜……と気の抜けた声を出す。

 そしてこの会話の総括として、彼女は言った。

「じゃあ、アタシたちよりもそのハクレナって人を抱きたいから、アンタは外に出たいんだ」

「まぁ、そうなりますね。言い方がアレですけど」

「いや、いいよ。全然いいよ。なんだ、それならよかった」

「ハハ。……ていうか、そうじゃなかったら俺がクイズのヒントなんか探ったりするはずないじゃないですか。傍から見ててもずっと露骨に、元の世界へ帰りたがってたでしょう?」

「え? ……あぁ、それはまぁ、そうなのかもだけど」

 青ウニにはクイズにより良く回答する気が確かにある。そう確信したことで気が緩んだのか、Aは応えながら半分笑っていた。そしてその軽い調子のまま、

「だってアンタ、あんまりクイズに躍起になってなかったし。その上お酒を飲もうとか言い出すから、あぁもうこれは、ここで楽しく暮らしていく方向にシフトしたのかもな……って思って。不安だったんだから、もうっ」

 と、発破をかけるような調子で彼女は言う。

 ……俺はそれを聞いて、なぜだろう、初めてのことだ。この旅館へ来てからおそらく初めて、俺は心の底から「は……?」と思った。

 頭では分かっていた。Aはずっと同じことを言っている。今日ここで話し始めてからずっと彼女の言っていることは一貫している。彼女は俺がクイズを放棄することを危惧していた。第一声からずっとだ。俺はそれを聞いた時にはなんとも思わなかった。何せ彼女の挙げた根拠はどれも事実だったから。ご馳走、娯楽、時間の余裕、セックス、支配権。彼女の視点からは、ここには男にとっての全てがあるように見えて、そうであるからには、男が脱出を放棄する十分な理由があるようにも見える。それ自体は自然なことで、俺自身、聞かされても何の違和感も感じないことだった。

 けれど今は、まさに今この瞬間は、違う。俺は今初めて、彼女の目から俺がどのように見えていたのか、その真相を聞いたのだ。

 クイズに躍起になっていなかった? そうか、彼女にはそう見えていたのか。酒に誘ったのは脱出を放棄したからだと思われていた? そうか、彼女にはそう見えていたのか。それならさぞ不安だっただろう。その上レイプまでされたとなれば、確かに絶望することもやむを得ない。なるほど言われてみればよく分かる話だ、彼女の行動や言動と辻褄が合う。だから酔っぱらった時、彼女はあんな愚痴までこぼしていたのか!

 …………だけど、そうか。俺がどうにか少しでも手がかりを得られないかと、無い策をしぼりだしている間、彼女は俺のことをそんな風に見ていたのか。俺がここでただ毎日呑気に、娯楽の海を堪能していると思っていたのか。彼女の目には、俺という人間が、これっぽっちの罪悪感も持たない者のように映っていたのか。あぁそうか、そうだろう、確かにそうだ。何せ彼女は今日、「ここへ来れば青ウニに会える」と想定して、「ゲームセンター」という「遊び場」に陣取っていたのだろうから。俺のことがずっとそういう風に見えていたのだろう。

 実際、Aは悪くないのだと思う。何せ俺は本当にポンコツだから、「何もしていない」と言われてもあまり強くは言い返せない。それこそ「俺だって好きでそうなっているわけじゃない」程度しか反論がなく、そんな反論は、相手にとっては死ぬほどどうでもいいのだということも分かっている。だからAは悪くない。彼女は被害者だ、いつだって何の罪も無い。無いのだけれど……。

 でも、チャカは俺がクイズの攻略に挑んでいることを知ってくれているじゃないか。

 でも、花子は俺の罪悪感を聞いてくれたじゃないか。

 Aは……Aは三人の中で一番可哀想な人物だけれど、その点は気の毒に思うけれど、でも、彼女は俺に何をしてくれた? 俺は彼女のことをこんなにも気の毒に思っているのに。死ねと言われても、嫌われ続けても、気の毒さの方が勝っているというのに。

 俺が悪いのか。不真面目に見えた俺が、それを改善する気もないように見えた俺が、彼女をまたしても不安にさせた俺が、俺がすべて悪いのか。

 ……そう考えた時、頭の中にコルカの声が響いた。

 

『君は遅刻せずにいられればいいなぁと思ってるだけで、絶対に遅刻しないようにしようとは思ってもないでしょ』

 

 いつまで経っても遅刻癖の治らない俺に愛想を尽かして、元カノが吐き捨てた怒りの言葉。俺の心はそれを、未だに受け入れられていない。

 だから、同じことが起こるのだろう。俺が反省出来ていないから、必死になっているように見えないから、それを見た相手が傷つき、怒り、俺のことを真っ向から否定する。

 アンタはクイズに正解出来ればいいなぁと思ってるだけで、絶対に正解出来るようにしようとは思ってもないでしょ。……Aは今、言外の意図で俺にそう言ったのだ。

「……あっ?」

 そして気づいた時には、Aの姿が見当たらなくなっていた。

 筐体の上にはメダル入りのバケツが置かれたまま、Aの姿だけが、いつの間にか忽然と消え失せていた。

「えっ……? あれ? Aさん?」

 どこへともなく呼びかけても返事はない。

 俺がネガティブに陥り、過去の反芻に気を取られている間に、彼女はどこかへ離席したのだろうか? そうかもしれない。トイレにでも行ったのかもしれないし、部屋に忘れ物を取りに行ったのかもしれない。それもただのろのろと動くのではなく、卓球をした時に目の当たりにしたような人間の目には捉えられない速度で離席したのかもしれない。それなら、俺が気づかなかったことにも無理はない

 ……あらかじめストックされていた分の判定を消費して、ゲームの画面上ではスロットが回る。あれだけ連続でハズレていたそれが今はピタリと揃った。僅かばかりのメダルが、それが一大事であるかのように派手な演出と共に放出される。射幸心を煽る音声が、一人きりの俺の耳にむなしく鳴り響く。

 …………嫌な予感がする。

 いくらなんでもAだって、上の空の俺を放置して無言で離席なんてしないはずだ。「聞いてんの!?」とこちらの意識を引き寄せるくらいのことはしてくれるはずだ。それに、とにかくタイミングが悪すぎる。まるで俺が昔のトラウマを思い出したその瞬間に彼女が消えたかのような、このタイミングは本当に偶然だろうか……?

 ……いや、一つだけ危惧するべきことがある。俺に対する一線を超えた悪口が「拳銃自殺」に値する「攻撃」と見なされるなら。もしも、俺にトラウマを思い出させたことが「攻撃」として見なされた場合はどうなる? 彼女への報いには、どんな物が値するのか?

 この神隠しのような状況が、すでに下された報いなのだとしたら。突然行方をくらませたAが、どこかであっけなく死体になっているとは限らない。神隠しが人の手による「誘拐」であるのだとすれば、攫われた少女は誰にも知られていない場所で、いったいどんな目に遭わされるのか。

 俺には、黒幕の趣味が嫌というほど分かる。一言たりとも言葉を必要とせず、まるで共鳴するかのように、奴の考えていることが察せてしまう。……きっとこれは「イエローカードの二枚目」だ。下される処分は当然、一枚目よりも重くなる。

 頭の中で警鐘が鳴る。俺は、今が緊急事態であることをようやく理解する。

 Aはこの旅館のどこかにいる。それを早く見つけなければ、きっと取り返しのつかないことになる。探す人手が必要だ。チャカと花子に声をかけなければ。

 ……と思い椅子から降りて振り返った矢先に、目の前にその二人が立っていた。

「うおっ!?」

 こちらが驚くと、向こうも二人揃って目を丸くして肩を跳ねさせる。この場の三人全員が、お互いにお互いの存在へ驚いていた。

 その反応を経て、俺は直感的に理解する。この二人は今、自分の意思でここへ来たわけではないのだ。きっとつい数秒前まで別の場所に居たのに、気づいた時には瞬間移動じみてここに来ていたのだろう。……なぜそんなことが起こったのか? それは彼女らに対して絶対的な優位を約束されている俺が、「声をかけなければ」と強く思ったからではないか?

 見えざる力が人に自殺を強要する光景を目の当たりにしたからだろうか。サキュバス二人はもう、自分たちの意思に反する現象には驚いても、それが起きるということ自体には驚かなくなっているらしい。あっという間に気を取り直したチャカが、おそるべき速度で事態を把握して言う。

「何があったの?」

 俺は彼女の物分りの良さに慄きつつ、なんとか答えることが出来た。

「えっと、さっきまでここにいたAさんが消えたんです。急に、あれっ? って思った時にはいなくて。……それで、直前に少し口論みたいになってたから、もしかして、こう、食堂の時みたいな……」

「それで私たちを呼んだ理由は?」

「あ、もしかしたらまだ、どこかでAさんが生きてるかもしれないから。早く見つけないとまずい状態かもしれないじゃないですか。二回目は、一回目とは違う気がするんです。悪い意味で」

「なるほど……。じゃあ手分けして探そう。私は一階、花子ちゃんが二階、君は三階。いいね?」

「分かりました」

「うん、分かった」

「じゃあ隈なくね!」

 俺たちは駆け足で散る。人間の俺と違って素早い二人は、風だけを残して早々に視界から消えた。……いや正確には、まずチャカが消えて、それを追うかのように花子も走り去った。俺はさらにそれを追うような形になる。

 三階へ向かうべく、階段とエレベーターの隣合う様を見た時、頭の中に空気の読めない問いが浮かぶ。「どっちの方が必死っぽい?」。……自分自身に嫌気が差しながらも、俺は階段を選んだ。

 三階についたら、片っ端からドアノブを捻る。自分の部屋以外は開かないことは知っているけど、あの黒幕ならこういう時「今だけ開くようにしてたのに」とも言いかねない。同時進行で全部屋の鍵を、そしてA本人そのものを「現れろ」と念じてもみる。……が、どれも不発だった。どこも開かず、何も現れない。

 勢いのままに自室へ駆け込む。テーブルの下を見た、押し入れの中を見た。ここに居てもらっては困ると思いつつ、冷蔵庫も開けた。けれどAの姿はどこにも見当たらない。三階は空振りだったのか? ほかに探す場所を思いつけず、俺は部屋から出る。

「青ウニくん!!」

 廊下の向こうからチャカの叫び声が響いた。

 そして次の瞬間には、彼女がもう目の前にいた。

「見つけたかもしれない、来てくれる?」

「えっ、あ、はいっ」

 言われるがまま、人間に合わせた速度の彼女と共に階段を駆け下りた。見つけたのならどうして本人の姿がなく、俺が呼ばれているのだろう? ……と、当然抱くべき疑問を抱いたのは、二階の廊下に繋がる踊り場を通り過ぎてさらに下った頃のことだった。

「こっち」

 チャカが俺の手を引く。

 ロビーを抜けて、多少入り組んだ廊下を抜けて、やがて見えてきたのは、青と赤の見慣れた暖簾。

 彼女はその暖簾の、赤い方へと俺を連れて行く。

「えっ」

「言ってる場合じゃないでしょ」

 確かにそうなのだけれど。

 俺はそうしてあっさりと、女湯の敷居を跨いだ。

 脱衣場も浴場も、男湯の方とほとんど変わりない。男女といえども服を着た者ばかりで訪れれば、そこは単なる男湯を鏡写しにした施設であり、侵入することに何の特別感もなかった。

 Aの姿はなおも見当たらない。俺はここに来てもまだ、なぜわざわざ自分が呼ばれたのかを理解出来ていなかった。

 浴場の中には花子も居た。彼女はなぜか、壁のある一点を見つめている。

「たぶんここに居る」

「え」

「この扉がね、どうしても開かないの」

 チャカの人差し指が、花子の視線の先と同じ地点を指し示す。……そこにあるのは壁ではなかった。壁に埋め込まれるかのように備え付けられた、一枚の扉があった。

 それを見た途端……もとい、その扉がどこへ繋がる物であるのかを理解した途端。俺は、その場に立ち込める熱気を急激に感じ取って、全身からぶわっと汗が噴き出す感覚を味わった。

 ほのかに湯気をたてる広大な湯船からはまだ距離があり、湿気た熱気に温められた室温もたかが知れているというのに。ここが他の場所よりも暑いのだということを意識した瞬間に、額にはそれに矛盾するような冷や汗が流れた。己の心臓の鼓動が耳に聞こえるほど大きくなり、消えたAの捜索にはたして何分をかけたのかと、胸騒ぎに絞めつけられるような自問自答が脳裏に浮かぶ。

 …………俺の眼前には、サウナ室の扉がある。

 チャカが「ここだけ開かない」と断言するからには、男湯の方と同じように、普段ならその扉は何不自由なく開く物なのだろう。しかしこの旅館の中でそんな扉が突然開かなくなったなら、そこからの顛末は二種類しか考えられない。

 四人の中で最も強い権利を与えられている俺だけが、その扉を開けられるのか。……そうでなければ、その扉が開くことはもう二度とないのか。

 木製の扉に嵌められている窓は、磨りガラスになっていて中がよく見えない。俺はおそるおそるドアノブに手をかける。そして目を閉じ、ありとあらゆる不都合な可能性から目をそらし、思い切りそれを手前に引いた。

 スカッ……と抵抗の皆無な感触があって、俺はよろめきかける。扉は難なく開いた。部屋の中からムワッとした熱気が流れ出し、一瞬にして酷暑の不愉快の一端を味わわされる。

 その不愉快さを、死の面影が見えるまで煮詰めた部屋の中に、Aは座っていた。汗だくの額にはべったりと髪が張り付いて、それなのに彼女は、この期に及んでまだ帯も緩めずに浴衣を着たままでいる。

 脱ぐことが出来ないのだ……とすぐに分かった。炎天下の車内に閉じ込められた人間の遺体は裸で見つかるのだと聞いたことがある。死を感じるほどの暑さの中で、自発的に浴衣を着たままでいる者など居るわけがない。見えざる力が、黒幕の悪趣味が脱衣を許さなかったのだ。

 しかし幸いなことに、壁と一体化した大きなベンチに座る彼女は、意識を保っていた。扉が開くと首をめぐらせて、彼女は確かに俺の方を見た。目が合った。

 ……その虚ろな目は、瞬く間に憎しみの色に染まって行った。彼女は茹だる頭の中でも理解しているのだ。なぜ自分がここへ閉じ込められたのか。誰の機嫌によって、自分がこんな目に遭っているのか。

 けれど、その憎しみは一瞬でなりを潜める。慌てた速度で俺から目をそらしたAは、そのまま俯いて、二度と目を合わそうとしなくなる。……俺には彼女の考えていることが分かった。

 睨みつけることすら「攻撃」になるかもしれない。だからAはもはや、迂闊に俺に視線を送ることすら出来ない。たったそれだけのことにも恐怖が伴う経験を、理不尽を、彼女はすでに知ってしまったから。

 よろよろと立ち上がったAが幽鬼のようにこちらに迫り来る。ただ出口へ、それが閉じないうちに、ここから逃げ出そうと。

「…………ありがとう」

 足元に視線を落としたまま、彼女は不服そうに礼を言った。きっと、そうしなければまたひどい目に遭うかもしれないと考えてのことだろう。

 サウナ室から抜け出た彼女はチャカと花子の顔をチラと見たあと、ぐらりとよろめいた。あっ……と思った時には、チャカが倒れる彼女の体を受け止めていた。

 熱っ……という声が漏れたのを、俺は聞き逃さなかった。

 Aはそれきり意識を失ってしまう。チャカいわく呼吸はしているとのことだったけれど、安心して眠りについたわけではないことは誰の目にも明らかだった。

 Aは混濁した意識の中でうなされていた。そしてうわ言のように、か細い声で一度だけ言う。

「アタシ、なにか、悪いことした……?」

 ……重く張り詰めた空気の中で、全員がその言葉を黙殺した。

 仮に慰めの返事をしたところで、今のAに届くはずはなく。仮にそれが届いたとして、心に響くはずもない。そもそもチャカと花子に至っては詳しい経緯すら知らず、何が見えざる力の引き金になるのかすら分かったものではないこの状況では、危うくも悲痛なその言葉を聞かなかったことにする以外に、誰も適切な振る舞いを思いつけなかった。

「……私はAちゃんを部屋に運ぶから、二人はロビーで待ってて」

 Aの体を抱えてこの場を去るチャカに続いて、俺と花子も浴場を出る。脱衣場にはクーラーがほどよく効いていて、それで自分が顔に薄く汗をかいていることに気づいたけれど、それを拭うことは何だか忍びなくて出来なかった。

 ロビーに置かれたいくつかのソファーに、俺と花子はそれぞれ離れて座る。そしてただチャカが戻るのを待った。彼女がここで待てと言ったからには、このあと何らかの話し合いがあるのだろう。それが何であるのか具体的な予想はつかないけれど、明るい話題が一つも上がらないことだけはハッキリしている。

 ……しばらく待っても、まだチャカは戻ってこなかった。きっと意識の混濁したAを看病しているのだろう。Aに恐怖心を与えてしまう俺はともかく、花子くらいは応援に出した方が良いのではないかと考えもするけれど、チャカは「二人は」ロビーで待てと言っていた。であれば、俺に口出し出来ることは何もない。

 ……しかしそれからさらにしばらく待っても、まだチャカは戻って来なかった。看病をしているといっても少し遅すぎる気がする。花子も待ちくたびれを感じているのか、ソファーの上でぷらぷらと足を揺らし始めた。チャカさん遅いですね……とでも話しかければよかったのかもしれないが、どうにもそんな気分になれず、また彼女の方からも何かを話すことはなく、俺たち二人の間には長い沈黙が流れた。

 ある時、痺れを切らしたのか花子が立ち上がる。そしてどこへ行くのやら無言で歩き出したかと思えば、彼女はおそらく暇つぶしに、土産コーナーの品を手に取って眺め始めた。俺たちの全員をおちょくるためだけに作られた品、密室クッキー。南京錠柄の焼印を押されただけの特に変哲のない菓子を、花子は隅々まで眺めている。

 元の世界に帰りたくても帰れない状況で、誰が土産の心配をするのだろう。そんなふざけた品に対して、しかし今は花子が興味を向けている。……そんな無邪気な彼女の姿を見ていると、いつまでも戻らないチャカや、頼んでもいないのに報復を行う見えざる力、そもそもここに閉じ込められたこと、無理難題なクイズ、どこまでも気の毒なAに、明日からの暮らしのこと……。全てが混ざりあって、俺にやり場のない苛立ちを与え始めた。

「ねぇ、これさ。勝手に開けたら泥棒ってことで怒られるのかな?」

 呑気にそんなことを言った花子に、だから俺は返事をする気になれなかった。

 それだけ心が荒んできたところでようやく、少しやつれた様子のチャカが戻ってきた。彼女は俺の向かいのソファーにどかっと腰を下ろし、その勢いで背もたれに体を預けて天井を見上げたまま、動かなくなる。

 それを見た花子が元々座っていた場所に帰ってくる。三角形に並んで座った俺たちは、それからまたしても長い沈黙の中に旅立った。

 ……誰もがその沈黙に囚われたまま動けなくなっていた時、天井を見上げたままのチャカが不意に、

「Aちゃんを見つけるまでにどれくらいかかったっけ」

 と切り出した。

 俺は、はたしてそれを俺が言っていいのかと考えつつ、答える。

「……そんなに長くはなかったと思います」

「だよね。五分くらいだったんじゃないかな」

「それくらいだった気がします」

「……でも、Aちゃんは三十分は待ったって」

「え……?」

「体感だから、実際はもう少し短かったのかもしれないけど。でも絶対に五分ぽっちじゃなかったって」

「…………」

 黒幕の悪趣味な思考が、俺の斜め上を行った瞬間だった。

 あの性悪女が俺の前に現れる時、その場の時が止まっていたことがあった。奴にそんな芸当が出来るということは、隔離された密室の中に流れる時間だけを歪ませることも可能なのかもしれない。俺たちにとっての五分はAにとっての三十分だったということが、ここでは大いにあり得てしまう。

 うめき声を上げながら、チャカが姿勢をまともな形に戻した。Aほどではないにせよ心身ともに疲弊している彼女の両目が、ジッと俺を見る。

「それに、口論なんてしてないじゃない」

「え?」

「確かにAちゃんは、君に失礼なことを言ったみたいね。クイズのやる気がどうのこうのって。……でも彼女がサウナの中に閉じ込められたのは、君から何かを言い返される前だったって聞いたよ」

「あ、はい。そうでした」

「だったら口論ではないよね」

「かもしれません。…………えっと?」

 チャカの言わんとしていることが分からない。けれど、Aの証言と俺の証言を擦り合わせる彼女の目には、暗い物が宿っているように見える。

 その暗く刺すような念は、間違いなく俺に向かっていた。

「私は直接聞いたわけじゃないから、よく知らないんだけど。青ウニくんはさ、Aちゃんから死ねって言われたんじゃなかったっけ? 陰口の現場に鉢合わせちゃった時に」

「え……? あぁ、そうですね。その時は、はっきり言われました」

「その時はどうして、Aちゃんは無事で済んだんだろう?」

「え」

「お酒を飲んだ日の夜、食堂で、青ウニくんが生まれてきたこと自体を否定した時、Aちゃんは死んだ。青ウニくんの努力を侮辱した時、Aちゃんは死にかけた。……ならどうして、君に死ねと言った彼女は無事だったんだろう?」

「それは……。……な、なんででしょう? 言われてみれば変だ」

 死ねと言われた時のことが、もはや遠い昔のことのように感じる。それほどまでに、俺はその出来事を「地続きの物」としては見ていなかった。なぜ今までそこに思い至らなかったのだろう? 俺たちはずっとこの旅館の中にいるのに。ずっと同じルールを強いられてい生きているのに。

 ……けれどいざ考えさえすればすぐに見当がつく。あの時のAが無事だった理由として考えられる物は、およそ二種類しかない。

 一つは、俺が彼女を心底から気の毒に思っていたこと。死ねと言われてもなお、自分の感情の中で罪悪感が最優先だったこと。逆に言えば、報復が起きてしまった二度の例には、俺は少なからず腹を立ててしまっていたということ。

 そしてもう一つは、これは考えたくないことだけれど……。「攻撃」の判定が、日を追うごとに厳しくなっているという可能性もある。もし本当にそうなっているとしたら、今後の生活に三度目が無いとは言いきれない。

「……あの時は俺も気が動転して、腹を立てる暇もなかったから。たぶん、それが原因だと思います。だから言い争わなくても、俺が腹を立ててしまった時点で、おそらく……」

「……なるほどね」

 心を押し殺すように。重く、項垂れるように。チャカは頷いた。

 彼女の目は、「君は悪くない」とは言っていなかった。きっと彼女は今、ただ人の心の自由を理性によって尊重するために、暗澹たる感情を必死で押さえつけている。

 ……俺にだって彼女の言いたいことは分かる。自分の意にそぐわない相手を殺せる力を持ってしまったとして、その状況で無邪気に「腹を立てる」のは、殺人に当たるのかどうか、罪に当たるのかどうか。もはや自分自身ですら、「自分は悪くない」と自信をもって思うことはできない。

 チャカはきっといつだって、三人の中で一番他人のことを思いやっている。脱出のために他人を傷つける覚悟がある一方で、どうせここで暮らしていかなければならないのなら、その暮らしの中では自己犠牲も厭わないような性格をしている。だから彼女の腸は今きっと煮えくり返っているのだろう。仲間が二度も殺されかけたから。その仲間の声に、一番近くで耳を傾けていたから。

 愛想の才能が遺伝子に刻み込まれている生物……サキュバスの一人である彼女が、人目もはばからずに一つ大きなため息を吐く。それは全ての希望を奪われた者の呪いのように重く、けれど無力にも虚空に溶けていく。

「それで、クイズの進捗はどう……?」

 一欠片の期待もこもっていない声。それが俺への気遣いでないことは明白だった。

「……正直ダメです。確信できることは無くて、次の策も思いつきません」

「そっか」

 そっけない返事に、ため息はもう二度と続かなかった。

 彼女は、そっと置くように言葉を紡ぐ。

「ねぇ、それなら、もう今からクイズに答えちゃわない?」

「え……?」

「正直、私もAちゃんも精神的に限界なの。君と花子ちゃんはどう……? この先一週間、意味があるのかどうかも分からない時間を、耐えながら頑張っていけそう……?」

「…………それは」

 手堅いヒントも得られていないのに、クイズに前倒しで回答するとは考えたこともなかった。……けれどそれは、いざ言われてみれば想像を絶するほどに、もはやそれしかないと思えるほど腑に落ちる案だった。

 精神的な限界は、確かにきっともう目の前にある。Aは当然のこと、彼女の傍で神経をすり減らすチャカだって、もうほとんど魔力が残っていないのではないか。にも関わらず、拳銃自殺を強要されたAに魔力を譲り、その矢先に今も似たような状況に立たされている。彼女の場合は精神と同時に身体的にも限界が近く、それが負の相乗効果を発揮してしまうことは想像にかたくない。

 けれどそれよりももっと、一番に違和感を感じているのは、自分自身についてのことだ。

 俺は昨日、Aをレイプしてしまった。はたしてそれは本当に冷静な判断だったと言えるだろうか。確かにこの環境下でサキュバスと暮らしていくなら最終的には犯す以外に選択肢がない。けれどトイレにまで追ってきたAを犯した際には、俺はもっと出来る限りの言葉を尽くしていなかったか。どうして二度目はそれが出来なかったのだろう……と考えると、自身の精神の摩耗を考えざるを得ない。

 それに何より、俺はついさっきまで、チャカがいつまでもロビーに現れないことに苛立ちを感じていた。言い換えれば、「腹を立てて」いた。自由に振る舞う花子にも苛立っていた。あるいはいっそ、ここへ閉じ込められてからの全てに腹を立てていた。……しかし俺にそんな権利があるのだろうか? Aを二度も殺した俺に、黒幕に見定められてしまうような人間である俺に、冷静に考えればそんな権利はないはずだ。

 もしもこの「腹を立てて」いたことが「攻撃」として判定されていたら今頃どうなっていたか。きっとこの旅館からは俺以外に誰もいなくなっていた。そして俺は必死になって一人ずつ、惨たらしい死に様で隠されたサキュバスたちを見つけていくしかなくなっていた。今にして思えばそれほど危険なことなのに、俺はついさっきまで能天気にも苛立っていたのだ。メンタルが万全の状態であれば、きっともっと落ち着いていられたのに。

 花子の方をチラと見る。彼女の視線は床に向かって落ちていて、少しの意思疎通も起こらなかった。彼女の精神が今どんな状態にあるのかは俺には分からない。けれど、仮にそこにまだ余裕があるのだとしても、それは残りの面々の精神的摩耗を補いながら一週間を過ごし切れるほど大きい物ではないだろう。

 総じて、精神的な限界が来ている。チャカの見立てはおそろしく正しい。そして、そこから導き出されて提案された結論も、おそらく唯一無二に正しい。俺たちは進んでそれを選ぶのではなく、もはや消去法でそれを選ぶしかないほどに、自棄と捨て身の狭間にいつの間にか追い込まれていた。

「……チャカさんの意見に、異論ありません」

 俺が答えると、しんどそうに首をめぐらせたチャカが、次は花子に問う。

「花子ちゃんは、どう?」

「わたしも、青ウニくんに同じ」

「……じゃあ決まりだね」

 それで決まりになるということは、チャカはすでにAの同意を得た上でここへ戻ってきていたのだろう。

 クイズの参加者四人全員、被害者一同総意の結論が、これで固まったことになる。

 その瞬間に、俺たちはもう輪になって、だだっ広く真っ白な部屋に集められていた。

 

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