飛び起きた。
ベッドが反動に軋む。見慣れていることを忘れつつあった馴染みの壁紙やカーテンが目に映る。枕元ではスマホのアラームが鳴っていた。
顔に手を触れると、当たり前にも自分の顔がある。着ている服は寝巻きで、上半身からずり落ちた掛け布団は毛布だった。旅館の布団は毛布じゃなかった。
スマホで時刻を確認する。朝、十時一分過ぎ。日付は……体感の一週間前。俺が自宅のベッドで就寝した日の、ただただその翌日。
……戻ってきたのだ。元の世界に。
言葉が出なかった。安心するとか喜ぶとか、そういう感情は、状況の目まぐるしさについて来れなかった。俺はただ唖然として、困惑の渦中に落ち、そしてその末にようやく、黒幕の意図に思い至る。
自分が何に巻き込まれたのかを、正しく理解したその瞬間に。
「…………はぁ〜」
軽蔑と失意のため息が出た。
黒幕は、最後の最後にやってみせたのだ。トドメの尊厳破壊をやってみせた。彼女は俺に本名を名乗らせなかった。せめてもの誠意を見せることすら許さず、蚊帳の外という名の安全圏に意地の悪いタイミングで追いやった。あの性悪女はなぜそんなことをしたのか?
彼女がやったことは要するに、ニュース系メディアと同じことだ。被害者の名前は公表しておいて、加害者の名前は伏せること。黒幕はそれを実践した。きっと笑いながら、最後の最後まで俺たちを馬鹿にして。
元々記憶力がいいわけでもないのに、あの三人の名前が異様にはっきりと記憶に残っている。ヤカルチア・タクスニナ。アイルリ・ハースドート。フィロキュラ・イスペウィシアル。……これも黒幕が俺に強制的に与えた土産なのだろうか。
俺はしばらくベッドの上から動けなかった。あの三人も今頃元の世界に戻っているのか、自分と同じように目覚めているのか。そうであるなら、何事もなかったかのように日常に戻って行けたのか、あの旅館の中での出来事についてどう考えて、どのように今後を生きていくのか。……そして花子はどんな気持ちで今を生きているのか。想像と妄想の間の域を出ないことばかりが頭の中を渦まき、自分の人生を生きる気力をなかなか取り戻せなかった。
けれど、いつまでもそうしていることは世界の方が許さない。スマホから通知音が鳴って俺は我に返る。手に取って確認すると、そこにはハクレナからのメッセージが表示されていた。
「今日来れる?」
それで一気に現実に意識を引き戻される。
毎週土日のどちらか、会う約束をしている日のちょうど今頃の時間帯に、彼女はいつもこの手の確認メッセージを送ってくる。思い上がりかもしれないけど、それを見るとまるで彼女が自分に会うことを楽しみにしてくれているような気がして、いつも少しいい気分になる。
彼女と会うのはいつも午後一時前後。なんならべつにそれより早くてもいい。電車に乗って相手の家に向かう都合上……そして自分の遅刻癖が未だ治らぬ都合上、時間に余裕をもたせておくに越したことはない。俺はベッドから降りて、さっそく支度を始めることにする。
「行けます」
そう返信してから支度を終えるまでに約一時間を要した。時刻はまだ十一時過ぎ。片道三十分程度で目的地に到着できることを思えば余裕は過剰なほどにある。……が、ここからでも最終的に遅刻してしまえるというのが自分の悪癖だ。俺には、時間の感覚がよく分からないから。
ハクレナは俺が遅刻しても怒らない。同じように、突然タイムスケジュールを前倒ししたいと言い出しても、やはり怒らない。だからいつもは気持ちに余裕をもって……あるいは相手を舐め腐って、まぁ遅刻したらしたで仕方ないか……くらいの気持ちでちょうどいい出発時刻を見計らうのだけど。今日ばかりは、そういう気分にはなれなかった。
俺はハクレナに会うためにこの世界へ帰ってきたのだ。Aにトラウマを与え、チャカに最後まで頼りきり、花子を地獄に引きずり戻してでも、そのためだけにここへ戻ってきた。それなのに呑気に時計の針を気にしながら一人でしばらくだらけているなんて選択肢は、少なくとも今日に限ってはあり得ない。
「早く着いてもいいですか」
「今からでもいいよ」
そんな短いやり取りを経て、俺は正午よりも遥かに早く家を出た。
窓一枚とて介さない直射日光を浴びながらそよ風を感じて、硬いアスファルトの上を歩くのは久しぶりの体験だった。言ってしまえばたった一週間閉じこもっていただけなのに、見ず知らずの他人とすれ違うことにも新鮮さと感動がある。そうだ、俺は元々こういう世界で暮らしていて、それこそがあるべき姿なのだ……と。
しかし、そんな感動が思考を占めている時間は、そう長くは続かない。駅へ向かう道中、ホームで電車を待つ最中、座れずとも空いた車内で揺られる間。移動時間の全てに、あの三人への想像がつきまとう。考えるなという方が無理だった。ほんの数時間前まで、俺は確かにあの場にいたのだから。
チャカは今頃、夫と子どもにいつもと変わらない「おはよう」を言って、何食わぬ顔でいつもの休日を過ごしているのだろうか。彼女の子ども……娘とは、いったい何歳なのだろう。あの旅館の中での出来事を踏まえた彼女の目は、自分の娘をどのように捉えるのだろう。彼女はこれまで通りに幸せな家庭を堪能することが出来るのだろうか。
Aは今頃、若さに満ちた活気と刺激の溢れる生活に戻っているのだろうか。二十三歳といえば大抵は社会に出ている歳だ。仕事、遊び、あるいは恋愛か? 彼女は二十三年ぽっちではどれもまだ味わい足りないのだと言っていた。おそらく三人の中で一番深刻に「新たな傷」を負った彼女は、それでもこの先の果てしなく長い人生を、人並みに楽しんでくれるのだろうか。
そして花子は。彼女は……いったい何者だったんだろう? 俺の想像は次第に花子にまつわることに収束していく。チャカやAのことはもはや未来を案じることしか出来ないけれど、花子に関しては違う。彼女に関しては、過去現在未来のすべてに理解が及ばない。十七歳だというあのピンク髪の少女が何者だったのか、考えれば考えるほど理解が追いつかず、恐ろしくなってくる。彼女は今頃もまた「慣れた行為」に、その尊厳と心を踏みにじられているのだろうか……。
俺には分からないことがある。もしも花子が見るからに精神を病み、しかし不死身であるがゆえに自死も選べず、仕方なしに生きているという具合の人物だったなら話は分かる。花子がハクレナのように無気力な人物だったというのならそれは理解できる。けれど実際のところ、彼女は全くそういう人物ではなかった。
なぜ彼女はあの演説の時、ずっとにこにこ笑っていたのだろう。普段はむしろ無表情な方だったのに。体を売らされていることをネタに脅されたことがあるという彼女は、なぜ自分の半生の開示を強制されて、あんなに悲惨な過去を、微笑みながら話せたのだろう。それを自分に強いる黒幕に、どうしてあんなに気さくな態度を取れたのだろう。二人はグルだったのか? いや、そんな俺や残りの二人の救いとなるようなオチを、あの黒幕が用意しているとは思えない。
責任転嫁をしたいわけではないけれど、しかしあえて言うのであれば、俺がクイズを間違えた要因は結局のところ「花子に悲壮感がなかったこと」にある。悲劇のヒロインらしさがなかったことにある。でもなぜ彼女はそのように振る舞えたのだろう? 本人が語った通りの……あんな過去を持つ十七歳の少女が悲壮感を演技で払拭してみせるだなんて、そんなことが本当に可能なのだろうか。それとも俺はずっと、ずっと何か大きな違和感を見落としていたのだろうか……?
一つ一つ振り返る。花子はクイズの出題内容について「薄々気づいていた」と言っていた。ではそれに気づいていた彼女の視点から、あの旅館での一週間はどのように見えていたのか。
俺に死ねと言い放ち逃げ出したAに向けたあの冷たい目。あれはやはり「その程度で音を上げられて羨ましい」という、地獄を知る者からの冷ややかな視線だったのか。
彼女の名乗った「花子」という偽名の由来は「トイレ(肉便器)の花子さん」なのだという。俺はそれを耳にした時、それを「この悪趣味な旅館に囚われた身の上の自虐」として言っているのだろうと考えていた。けれど本当は、その言葉の意図はもっと深刻な物だったのだろうか。あれは彼女の発した貴重なSOSだったのだろうか。
三日に一度の夜に彼女が俺から受けたハードSMは、「ロリコンにはサディストが多い」と知る彼女にとっては「慣れた行為」だった。しかし大人たちの身勝手による虐待を受け続けている彼女にとって、その「慣れ」と「軽蔑」はセットであるはずだ。なのに彼女はその軽蔑を態度に一切出さなかった。それは彼女の完璧な演技だったのだろうか。それとも彼女は、軽蔑する気力すらとっくの昔に失っていたのだろうか。……彼女が決まって朝方にフェラをしてくれたのは、それが「大人の男に対する処世術」であるからなのだろうか。
あの夜、眠れなかった日の食堂で。彼女は俺に「白状できて偉いね」と、懺悔の聞き役を務めてくれた。あれは……あれも「処世術」だったのだろうか。ロリコンの多くはサディストなのだと花子は言った。であれば、サディストの俺が懺悔をするなら、ロリコンの誰かだって懺悔をするのではないか。花子はその相手役を求められることが多く、彼女はそれにも慣れていたのではないか。
俺はあの旅館の中で、それらのことから真実を見抜かなければならなかったのだろうか。花子こそが最も地獄と呼ぶべき世界に生きている人物なのだと、見抜かなければならなかったのだろうか。
……いや、しかし、それは無理だ。答えを知ってから振り返ればそのように見えてくるというだけで、答えの分からない状態でそれらの視点を持つことなど出来るわけがない。あのクイズは、まともにやってもクリア出来ない代物だった。むしろ当てずっぽうで挑んだ方がまだマシだったのかもしれない。
……そう結論付けかけるものの、まだ何かが引っかかる。正しい答えは、本当に気づきようがないことだったのか? 何かものすごく重要なことを、俺は未だに見逃し続けているのではないか。
最寄り駅までの道を歩き、ホームで電車を待ち、やって来た電車の中で揺られながら、俺はそこまで考えた。思考に集中するあまり乗り過ごしてしまったのではないかと不意に不安になり、車内のモニターの表示に目をやれば、目的の駅までは残り二駅。座席には様々な年代、性別の人々が座っていて、耳に無線イヤホンを入れたままの若い男が一人、器用に体のバランスを取ったまま居眠りをしていた。
……それを見て俺はハッとする。
俺はあの旅館での一週間で、一度もサキュバスの寝顔を見たことがない。
同じ部屋で眠ることはあっても、電気を消した暗い部屋で相手の寝顔をわざわざ確認したことはない。そして朝になれば決まって相手の方が先に起きていた。
一度、眠る段になってから改めてムラついてしまったことがあった。その時隣で眠っていた花子はすぐにその性欲を察知して目を覚まし、その解消に付き合ってくれた。
……あの時の彼女は本当に眠っていたのだろうか? ただ目を閉じ、穏やかな呼吸をしながら、起きていただけではないのか。
深夜の食堂で花子に遭遇した時、俺は驚いたけれど、向こうはどんな反応をしていたか? そこまで驚いてはいなかったのではないか。……俺が来たことには驚いていても、たまたま自分が初めて深夜の食堂に来た日にたまたま唯一の男と遭遇した時のような驚きは、奇遇さは、そこにはなかったのではないか。
もしも花子が、深夜の食堂の常連だったなら。
もしも花子が、一度も眠ったことがないのなら。
その不眠症こそが、彼女の心の病みの証明ではないか。
サキュバスは不死身だ。魔力さえあれば、眠らなくても生きていくことが出来る。俺はあの夜考えもしなかった。花子が深夜の食堂に居ることは特別なのか、それとも日常なのか。クイズのヒントを集めたいと言いながら、それを考えることすらしなかった。
思えば彼女は自身の半生を語る時、しきりに俺のミスに言及していた。青ウニくんはこれを間違えた、惜しかった、ダメだった……。にこにこと微笑んで、楽しそうに、ずっと「青ウニがいかに何も知らず、いかに的外れなことをし続けたのか」を語っていた。そしてそれと同時に、彼女は全員の生殺与奪の権を握っていた。彼女が「あんな世界に帰りたくない」と言えば、俺たちは何年経ってもずっとあの旅館から出られなかった。
自分の尊厳を、心を、人生を踏みにじり、遊び半分で蹂躙してきた者たちの同類に、お前は無能で何もかも間違っているのだ……と言えたなら。その上そいつの人生の行く末まで握れたなら。思い出したくもない過去を声に出しながらでも、人は笑うものなのだろうか。……いや、しかしそうだとすれば、彼女が俺たちのために「帰る」と言ってくれたことの意味が分からない。俺たちを救ってくれた彼女は、自身の人生に対する復讐鬼などではなかったはずだ。
見えてくる物が増えたところで、俺にはやはり花子の心が分からない。恵まれた星のもとに生まれた人間が、たったの一週間でそれを理解しようということの方がおこがましいのかもしれない。理解できる前提で考えること自体、クイズの攻略に頭を毒されているのかもしれない。
目的の駅に着くまでの残り僅かな時間で、俺はスマホを使い検索してみた。フィロキュラ・イスペウィシアル。あるいはフィロキュラのみ、あるいはイスペウィシアルのみ。……当然めぼしい物はヒットしない。するわけがない。誰が本名で児ポなんか投稿するものか。
名前を知っているだけではどうしようもない。誰かが救わなければ、花子にとっての地獄は続く。もしかしたら俺の寿命よりもずっと長く続くかもしれない。なのにそれに対して、俺に出来ることはもう無くなってしまった。今の俺が花子に対して出来ることは、もう何一つ存在しない。
目的の駅で降りる。改札を抜ける。スマホで改めて時刻を確認すると、まだ昼前。急ぐ必要もなく、周囲の景色に目を向けながらゆっくりと歩く。花子のことは依然として頭から離れなかったけれど、俺に出来ることがない以上、それがどんなに残酷でも、「俺と花子の話」は「もう終わった話」でしかない。今さらあれこれと考えたところで意味はなく、何もかもが手遅れだ。考えるのなら旅館の中でするべきだった……と後悔することにすら、何の意味も持たせられない。
周囲を見渡せば目に映るあらゆる景色もまた、非日常の終わりを象徴しているかのようだった。十字路の車道で左折のタイミングを見計らう車、風に揺れて擦れる街路樹の葉、電柱の上のカラス。土日だというのにスーツを着たサラリーマン、自転車で駆け抜けていく小学生の集団、ベビーカーを押す母親、犬を散歩させるおじさん、一応はチラチラと前方を確認しつつ歩きスマホをする若者。……そんな日常の風景の中のどこに俺のようなクズが紛れているのか分かったものではないと考えることは、なおのこと今さらすぎる。
癖のようにそんなことを考えながらスマホをポケットに仕舞った時、ふと、漠然とした違和感を覚えた。デジャブのような、空くべきではない手がなぜか空いていることに気づいた時のような、何かがズレた感覚。どこからその感覚が生じているのか、俺はしばらく分からなかったけれど、そのまま内心で首を傾げながら歩いていくうちに、ついにその正体に思い至る。
違和感の正体はスマホだ。スマホに触れることが懐かしかったのだ。ちょっとした作業のためにそれを取り出し、またすぐにポケットに仕舞うような一連の所作が、俺にとっては懐かしかった。そのことをずっと、キャパオーバー気味の脳が見逃していた。
あの旅館の中ではネットが繋がらず、性欲が貴重な資源となっている状況ではオナニーをする機会すらない。そして趣味の小説執筆すら気分が乗らず、俺はずっとスマホを放置していた。だからその文明の利器を、一週間ぶりにまともに使っているのが今だった。
そのことに気がついた瞬間、嫌な予感が脳裏をよぎる。そしてそれは頭の中から染みだすように、煙のように鎖のように、全身に重くまとわりついていく。
……黒幕はなぜあの旅館に俺のスマホを持ち込んだ? 攫うなら俺の身一つでよかったはず。環境的に使い物にならないことが知れているスマホを、彼女はどうしてわざわざ充電器まで付けて持ち込んだのか?
その答えを、俺は知っている気がする。あの旅館の中で執筆趣味を断念した時、俺は何を考えていたか? 「そもそも書いた物を元の世界に持ち帰れるのか?」と考えていたはずだ。何せ元の世界に戻るということは、体感としては時間が巻き戻るということだから。その際にスマホの中身が巻き戻る可能性も無くはないと想像していた。
しかし、もしもスマホが巻き戻ってしまうのなら、いよいよ本当にそれの使い道が、存在意義が、わざわざ黒幕の手によって持ち込まれた意図が分からなくなってしまう。……とすれば合理的な結論として、きっと俺の記憶と同じように、スマホの中身も時を超えてきっちり保持されるように初めから仕組まれていたのだろう。そして中身が保持されるというのであれば、あの旅館内におけるスマホの用途は知れている。
初めてあの旅館で目を覚ましたばかりの頃、俺は自分のスマホが持ち込まれていることに気づいて「黒幕はきっと俺の性癖を知っている」と確信していた。なぜならそのスマホの中には性癖の象徴が入っていたから。イラストや漫画等の画像、ネットで拾ってきた動画、エロサイトのブックマーク。そして、コルカやハクレナとのハメ撮り映像が、その中に保存されていたから。
つまり黒幕は、俺に「保存媒体」を渡したのだ。自分に逆らうことの出来ない美女三人を用意すると同時に、彼女らの姿を映像に収めて持ち帰る方法を用意したのだ。結果としては、俺は彼女の思う通りには行動せず、発想にすら至らず、一度もスマホを使用しなかったけれど。
……けれど、それであの黒幕が諦めるだろうか。あの性悪女がこの企みだけは「あぁ残念」の一言で済ませるのだろうか。あれだけ露骨に俺を女性陣の部屋に押し入らせようとして、「俺の味方をする力」によって見事に俺を含む全員の心を引っ掻き回したあの黒幕が、ハメ撮りを意図したにも関わらずそれを促すことすらなく、望み通りの結果も出さず、それで丸っきり諦めるなんてことがあり得るだろうか。
そういうこともあるかもしれない……とは信じられないからこそ、嫌な予感が湧き出て止まらない。俺があの旅館から「記憶」を持ち帰ったように、このスマホもすでに「何か」を持ち帰っているのではないか。そう考えてみれば、その「何か」の内容にも大体想像がつく。きっとあの三人との性行為のすべてが超常的な力により映像化されて、すでに俺のスマホの中に入っているのだ。俺は今までハメ撮りをする時、必ず相手に同意を得ることを徹底してきたのに、それを嘲笑うかのように、あの三人の尊厳に唾を吐くかのように、黒幕は誰にも無断で「土産」を用意したのだろう。
自分の推理が当たっていることを確かめるべく、俺はスマホのギャラリーを開く。歩道の端に避けて前方に注意しながらも、動画ファイルのまとめてあるフォルダを確認する。……するとやはり身に覚えのないサムネが一つそこに紛れていた。たった一つだけというのは、あの黒幕のやることにしては少し意外だな……と。コンマ一秒の間だけ、俺は呑気にも思ったのだけれど。
……そのサムネに写っている物が何であるのかを理解した瞬間、冗談抜きに息が止まった。
思わずスマホをポケットに隠し、周囲の他人の目を窺う。キョロキョロと挙動不審に、誰にも画面を見られていないことを確認せずにはいられなかった。
あの黒幕は、俺の想像の斜め上を行くクズだった。
そこに写っていたものは、だらしなく太った裸の男。彼の醜く勃起した、無駄に巨大でグロテスクな陰茎。……そしてその前に呆然と立つ、ピンク色の髪をした少女。
膝を折っているわけでもないのに、その少女の背丈は男のへそ辺りまでにしか届かない。明らかに幼すぎる風貌の、見覚えのある髪の少女が、裸に剥かれてそこに写っていた。
花子の過去の映像が、俺のスマホに入っていた。
ポケットに隠したスマホを、太陽に照らされるこの公衆の表通りでもう一度取り出そうとは思えなかった。けれど本当なら、むしろすぐにでもそれを取り出し操作するべきなのだろう。俺の頭の中にはたった一つの強迫観念がけたたましく鳴り響いている。
……消さなければ! 動画を消さなければ! 今すぐに、あんな動画は削除して、この世から抹消しなければ!
……けれど俺はそれを実行できなかった。誰かに見られるかもしれないと恐れたからか? いや違う。……鳴り響く警鐘の裏で、悪魔が聞き耳を立てていたからだ。
あの時、円陣の中で花子が半生を語った時。チャカの腸はきっと、人の親を担っている者の義憤に煮えくり返っていただろう。無垢なAは、現実とは思えない地獄の話に耳を疑っていただろう。……けれどその時その場で俺は、いったい何を考えていたのか? あの場の三人のサキュバスは、他者の性欲を察知する者たちは、誰もそれを糾弾する機会に恵まれなかった。糾弾するよりも早く、黒幕が俺を逃がしてしまったから。
だけど俺は、すべての男に対して聞きたい。
もしもかつての同級生がAVに出演したと聞いて、それを見たいと思ってしまうことは罪か?
もしもそのAVが手元にあって、実際に見てしまうことは罪か?
その相手が「かつての同級生」ではなく現在の友人であれば、あるいは知り合いの妻であれば、あるいは親戚であれば、あるいは近所のコンビニの店員であれば、あるいは元カノであれば。それは罪になるのか?
……一週間共に暮らしたサキュバスの、その過去の痴態を見られるなら見たいと思ってしまうことは、罪なのか? その過去というのが幼すぎるから、罪になるというのか? ……いや、それとも俺は、今まで機会がなかったから気づかなかっただけなのか……? AV女優の自殺を聞いたことがなかった頃には、自分がそんな物をオカズにする人間だとは想像すらできなかったことと同じように。ただ今までは偶然に、児童ポルノが目の前に流れて来なかったというだけの話なのか……? 俺は自分の抱いた花子が何歳でも、映像に残る過去の花子が何歳でも、何ら変わらずに彼女に対して興味を持つのに。「彼女が子どもだから興味を持つわけではない」のに。
動画を消さなければと、俺の良心が言っている。けれど俺の心は、良心だけで構成されている物ではない。性的なものを見て勃起する時、チンポの中に善意が詰まっているわけではないのは当然だろう。男とはみんなそういう物なんじゃないのか。
それでも良心があるから、相手を傷つけない範囲にとどまっておくことが出来る。もしも今俺の隣に花子がいて、動画を消してほしいと言われたら、それに従うことは造作もない。それに関しては当然だ。……だけど花子はここに居ない。会いたくてももう会えない。彼女は俺の手元に動画があることを知らず、その動画がどう扱われることになるのかも知らない。一生、彼女は何も知らず、知らないからには、傷つきようもない。
……俺は自分の良心の脆弱性を見た。「嫌だと言われたことは絶対にしない」というだけでは、偽善として見てなお片手落ちなのだ。
しかしこういう時、人の思考はおそろしく速く回る。「こういう時」というのはつまり……自らの正義その物が揺らぎつつある時だ。その揺らぎを抑え込むための思考は火事場の力で巡り出す。実際に俺は、今自分が直面している問題をどうにか解決するための手段を、早くも一つ思いついた。
ハクレナの家へ向かう足取りが速くなる。その手段を実行するためには、彼女の力が必要不可欠だった。頼れる相手は彼女以外に思いつかない。
やがて見えてきたアパートの階段を上り、いつもの部屋のチャイムを押す。待ち構えていたかのように扉の向こうに足音が近づいてきて、鍵の開く音がする。……あぁ鍵だ! 久しぶりに、鍵のかかっている部屋を見た!
出てきたハクレナは、スウェットにジャージというモロに部屋着な格好をしていた。こちらの世界では時間が進んでいないのだから、彼女がサキュバスであることを差し引いてもある種当たり前だけれど、その容姿には一切の変化がない。あごには届かない長さの金髪ショートに、両耳に所狭しと開いた多種多様なピアス。そして無愛想な……あるいはいっそ敵意を錯覚させるような無表情。
それは久しぶりに見た、俺の知っている通りのハクレナ・ナボハロキスだった。俺の会いたかったハクレナがちゃんとそこにいた。
「いらっしゃい」
「どうも」
「入って」
「はい」
そっけないやり取りで玄関に通される。俺は靴を脱ぎ、彼女の背中を追う形でズカズカとリビングへ向かう。
一時期は裸土下座で出迎えさせていたこともあったけれど、お互いに飽きたのでやめた。廊下を移動する間に何の予告もなく背後から襲いかかったこともあったけれど、今日はそういう気分ではない。……ただ確かなことは、そうした俺からの要求の全てを、彼女はこれまで一つの例外もなく涼しい顔で受け入れてくれたということ。性に関することで、彼女を怒らせたり、苦言を呈されるようなことになった試しは一度もない。ハクレナは徹底してそういう人として存在している。
その振る舞いはサキュバスの基準から見ても相当に異常なことなのだと、今の俺なら経験則的によく分かる。もしも彼女が三人に分身して、あの旅館の被害者役を埋めつくしていたならば、俺は少しも心を痛めることなくあそこで生活し続けることが出来ただろう。
だからこそ、俺はそんな彼女を頼る。今日になって初めて、性欲を解消することとは全く別の意味で、彼女を拠り所にする。
すでに布団の敷かれているリビングに足を踏み入れてすぐに、俺はポケットからスマホを取り出した。
「今日はどんな風に……」
「その前に、ハクレナさんにお願いしたいことがあるんです」
「……なに?」
例のサムネを表示させた状態の画面を、彼女に見せつける。
「この動画を削除してほしいんです」
「…………ん? いや、身に覚えないけど」
「え?」
「この動画、私は知らない」
「……あー。いや、だから、えっとですね。俺のスマホに入ってるこの動画、これその物を、ハクレナさんの手で削除してほしいんです。スマホを渡すので、今ここで」
「…………ごめんよく分かんないんだけど」
まぁ確かに、いきなり言われればそうもなるか。自分で消せばいい話なのになぜわざわざ人に言うのだろうと。
旅館での出来事は話したところで心からは信じてもらえないと判断して、俺はそこを省きつつも簡潔に事情を説明した。その動画が児ポであること、被害者は実在して今もどこかで生きているということ。そして……自分一人で消すには決心がつかないということ。
けれどそこまで話してなお、彼女には話の内容がピンと来なかったようで。
「つまり、単純所持で犯罪になるのが問題なの?」
「えっ? ……まぁ問題の一つではあります」
「じゃあ、かわりに私のスマホに入れておくっていうのはどう? 見たくなった時は会ってもらう感じになるけど、それなら万が一の時に捕まるのは私だし」
「……いや、えっ、なんの話を?」
「動画を消さなくても済む方法の話」
「いや消してほしいって言ってるじゃないですか。……あー、だからつまり、犯罪かどうかに関わらずです。とにかく消してほしい」
「どうして?」
「どうしてって、被害者が実際にいるんですよ……? 彼女はこの手の動画を根絶やしにすることを望んでるはずです」
「本人にそう聞いた?」
「聞いてないですけど、普通そうでしょう」
「そうかな。私だったら、嫌だけどな。せっかく撮った物がこの世から消えちゃうなんて」
「は……? いや、ハクレナさんは……」
確かにあなたならそう考えるのかもしれないが……と言いかけて、ギリギリで言葉を呑む。そこは今言い争うべきことではないから。
しかし存外、向こうも自分を基準に話しているわけではなかったらしく。つらつらと彼女の言葉は続く。
「いや、私じゃなくてもさ。たとえばこの動画に映ってる子どもが、撮影当時死ぬほどつらい思いをしてたとする。でもそれは結局、もう終わったことでしょ? この動画が消えたら、大人になったその子の中から過去その物や、つらい記憶が消えるの? 消えるのは、死ぬほどつらい思いをしてせっかく撮ったこの動画だけだと思うんだけど……」
「……それでも消したいと思うものでしょう?」
「だからそれ、本人に聞いたの? って」
「いや、だから、聞いてないですけど……。そういうことじゃなくて……!」
まさかこうなるだなんて想像もしていなかったほどに、お互いの主張は平行線をたどっていた。
ハクレナが「自分なら消してほしくない」という話をしているわけではないことは、まぁ分かった。彼女はただ、本人的には消してほしいのかどうか……というあやふやな要素を一旦軽視して、「被写体の苦労ありきでようやく撮れた物が消える」という確固たる事実に最も深く注目している。そこまでは分かるのだけれど……。それはやはりどこまで行っても狂人の意見でしかない。
一方で俺は、常識的な観点からの意見を主張すればするほど、その白々しさに心が折れそうになった。何もかも、自らの手で動画を削除できない男の台詞とは思えない。けれどだからといって、俺が自分自身に一貫性を持ったらどうなる? 帰って試しにその動画を見てみて、気に入ったらシコったりして、それで何が良くなるのか? どうせシコるなら今からハクレナとハメ撮りでもして、それを見ながらすればいいだけなのに。
それに何より、俺は密かに傲慢すぎるショックを受けていた。あのハクレナが、俺の言うことをここまで意固地に拒絶するなんて。今まで何をしても受け入れてくれたのに、本当は興味のないことにも渋々付き合ってくれるほどだったのに、エロ動画を一本消すことがそんなに嫌なのか。
俺は彼女のことを舐めていたのかもしれない。何でも言うことを聞く女だから……という意味ではなく。性以外の全てから興味を失った人物の、性に対する執着の度合いを、軽く見積もりすぎていたのかもしれない。
ハクレナは今たぶん初めて、俺に対していくらかの憤りを覚えていたのだと思う。
「青ウニくんさぁ。考えてみてほしいんだけど、二十歳の女を作るには、二十年の時間と、その女を二十年生かすだけの資源と労力が必要になるの。その子を大切に扱っても、玩具みたいに扱って壊しても、そこに至るまでに二十年がかけられたことには変わりないんだよ? 同じように、今この動画の本人がどこで何しててどんなこと考えてるかってこととは関係なくさ、この動画を撮ろうと思ったら、子どもを一人地獄に突き落とさなきゃ撮れないんだよ。絶対にそうなんだよ? なのに、本当にこの動画を無に帰そうっていうの? その子が味わった苦しみを、何の意味もなかったことにしようっていうの?」
そう熱弁する頃には、彼女は俺の手からスマホをひったくっていた。まるで宝物を守るように、それを俺の手の届く範囲から外に出そうとする。
もしかして彼女にも花子と似たような境遇があるのだろうか。一瞬だけそんなことを考えかけたけれど、たぶんそれは違う。もしも俺が動画を消さず、彼女に所有権を譲ることで手打ちにしたら、俺がここを去ったあとに彼女は何をする? 間違いなくその動画でオナニーをするだろう。彼女の言う「意味」がそれであるなら、それのどこに尊さがあるというのか。
俺も、もしかすると知り合ってから初めてのことだったかもしれない。ハクレナの物言いに、純粋な苛立ちを感じたのは。
「それでも消してほしいって言ってるんです」
「どうして?」
「……不愉快なんですよ! それを見て俺がシコるのも、あなたがオナニーするのも、してるかもって想像するのも。そこに映ってる女性が、やっぱり動画を消してほしいと思ってるかもしれないとか、そういうことを想像しなきゃいけないのが全部、全部ぜんぶ不愉快で仕方ないんです! 俺が何のために相手から同意を取って性行為をしてると、何のためにそれを徹底してると思ってるんですか……!? あんたは、俺が善意でこんな話をしてると思ってるのか!?」
思いのほか大きな声が出る。
眼前で、ハクレナが目を丸くしていた。
口に出して初めて分かることがある。それは言葉を紡ぐ本人にとっても例外ではなくて、俺は自分の言葉に思っていたよりも重みが伴っていたことに、自分自身で驚いていた。
そうだ、俺は、全然幸せじゃなかった。あの旅館の中で、自分に逆らえない美女三人、圧倒的な力、毎日のように繰り返される欲望に忠実なプレイ。その他諸々の娯楽を浴びるような暮らしをしていても、これっぽっちも幸せじゃなかった。相手の心労を想像せざるを得ない状況で得る物なんて、それがどんなに貴重なものであっても全てクソだ。俺はそれを誰よりも確実に知っている。だからあの旅館からの土産は、何もかも全てがクソでしかない。
「……なのに、自分では消せないんだ?」
気まずそうに笑ったハクレナが、聞き逃しそうになるほどさりげなくそう言った。
彼女は俺から奪ったスマホを素早く操作する。そしてすぐにそれを返してくれた。
「はい、ちゃんと消したよ」
「え」
「ゴミ箱の方まで消しておいた。これでいい?」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
彼女は俺に譲歩してくれた。膨大な時間をかけて書いた小説の投稿がたった一つのクリックで完了するみたいに、最後の一歩は拍子抜けするほどあっさりしている。
どこかで聞いた話に「怒鳴り声とは暴力である。怒鳴ることは殴ることと何も変わらない」というものがあったことを俺は思い出す。ハクレナが突然譲歩してくれた理由は、俺が彼女に対してしたことは、そういうことだったのだろうか。
思えば俺は今初めて、彼女が唯一固執する物について否定的な立場を取ったのだ。遅刻癖がきっかけになってコルカには愛想を尽かされた。旅館に閉じ込められた三人のサキュバスに愛想を尽かされなかったのは、俺がそれをこの目で確認するよりも先に元の世界へ戻ってきたから。……なのにハクレナが俺を見限ることは無条件にあり得ないと、どうして今まで信じ込めていたのだろう?
手渡されたスマホの画面を確認したまま、顔を上げることが出来ない。ハクレナの顔を見るのが怖い。埋まらない溝を隔てた精神的な一線の向こうへ数歩引いた顔をした彼女が、今俺の前に立っているのかと思うと、それを見ることで自分の間違いが決定づけられる気がして、顔を上げられなかった。
……だって、だって俺は、ハクレナに会うためにこの世界へ帰ってきたのに。
「私のお願いも一つ、聞いてもらっていい?」
「え……?」
そう言われて咄嗟に、意思によらず勝手に、自分の視線が上がった。
いつも通りの、感情の読めない整った顔立ちが視界に映る。普段から愛想がない一方で、実際に心から愛想を尽かした時にも彼女はそんな顔をするのかもしれない……と、俺がそんなことを考えていられたのは、ほんの一瞬だけのことだった。
「青ウニくんのこと、今日だけパパって呼んでもいい?」
「えっ。……いい、ですけど。なぜ……?」
「さっきのサムネ見て思い出したんだけど。昔読んだ漫画にさ、父親に性的虐待を受けてる子どもが「パパ大好き。オチンチンありがとうございます」って言わされながら犯されてるシーンがあって。それがすごく好きだから、再現してみたいなって」
「……なるほど」
俺はその言葉を聞いて、二つのことを一気に確信した。
一つは、ハクレナがもう怒っていないこと。そしてもう一つは、この部屋の中では誰も傷つかないのだということ。
Aは俺に言った。「一緒に閉じ込められるのがもっとマシな男ならよかったのに」。我ながら、その言葉には非の打ち所がない。俺が俺であるからこそあの三人を傷つけてしまった。俺のような男は本来、そもそも女性と関わりを持つべきではないのだと思う。
だけどその「本来」は、この部屋の中には適応されない。ハクレナと俺の二人きりしかいないこの部屋の中でなら、俺がいくら俺らしく振る舞ったところで、きっと誰も傷つかずにいてくれる。
「……引いた?」
問いかけるハクレナに、俺はかぶりを振る。この期に及んでそんなわけないじゃないか、と。
本当に、本当にここへ帰ってこられてよかった。心からの喜びを噛みしめながら、俺は彼女の申し出に応える。
「性的虐待の漫画といえば、俺も一つ思い出しました。父親にバックで犯されてた中学生だか高校生だかが、背中にアイロンを押し当てられるんです」