案の定、Aは食堂にいなかった。
コーヒーを飲みながら花子に聞いてみるけれど、彼女もAの行方は知らないと言う。この旅館から出られない以上完全な失踪はあり得ないけれど、ともかくそうしてAは一時的に行方をくらませてしまった。
広い食堂の中心にちんまりと三人で陣取って、朝食のついでに今後についてを話す。花子はざる蕎麦を食べていた。チャカは和風の定食をおぼん付きで出して、いただきますと両手を合わせる。
そんな行儀のいい彼女が、味噌汁を一口啜ってから言ったのが、
「で、青ウニくん。昨日の夜はどうだったの?」
だった。
Aから「死ね」とまで言われたのだ。本人が目の前にいなくても、俺はその問いに明るくは答えられない。思わず助けを求めるように花子の方を見ると、同情的な苦笑を返される。
質問に答えないわけにはいかないし、嘘をつくわけにもいかない。どんなに遅くともきっと二日後にはチャカだって俺の部屋に来るのだから、ここで嘘をついたところで仕方がないのだ。だから俺は答える。
「食事中には適さない正確な答え方と、それをにごした答え方があるんですけど、どっちがいいですか……?」
「前者」
即答。こちらが腹をくくる暇もない。
「……Aさんが吐くまでイラマしました。吐いたあともやめませんでした。その他にも飲尿とか首絞めとか、いろいろ……」
「へぇ〜。……あ、そっか」
焼き魚と白米をぱくぱくと口に入れて、それをしっかり咀嚼し飲み込んでから、チャカが言う。
「念じて叶える力で掃除が出来るんだ?」
「え? えぇ、まぁ……」
「いいねそれ」
「まぁそれで俺は、Aさんから死ねと言われたわけですけど……」
「あははっ」
チャカは笑う。うっかり気を抜けば、自分が面白い話をしたのかと錯覚してしまいそうなほどに明るく。
彼女はそのまま、意図を測りかねる軽い調子で言った。
「あんなハンドルが付いてたら、そりゃイラマもしたくなるよね」
「…………いや、えっと」
ほんとですよね、とは、いくらなんでも言えなかった。
頭の中に、優先順位のはっきりしない思考がいくつも渦巻く。イラマは元々自分の性癖で相手の髪型は関係ないのだとか、AがNGラインを初めから伝えてくれていれば自分はそれに従うつもりだったのだとか、しかし状況が状況なので向こうとしてもそれが出来なかったのだということをこちらが察せなかったことが悪かったのだとか、チャカのそれは他人事だと高をくくった上での発言なのか? だとか……。
そして最終的に、俺はそれら全ての思考を、コーヒーと共に胃の奥に流し込んだ。そうしてから聞くべきを聞く。
「……チャカさんは、自分がされる分には、どこまでを許容できるんですか?」
「私? それは、どこまででも。……あぁでも、あんまりハードすぎると困るかな」
「あんまりというと、具体的には?」
「人間だったら救急車を呼ばなきゃいけなくなるくらいの怪我をさせられるとね、たぶん魔力の採算が合わなくなっちゃうから。そういうのは困る」
「……それだとAVの中で一番えげつないくらいの内容ならセーフってことになりますけど」
「AVって合法のってこと? それはもちろん全部セーフだね」
「……なるほど」
本当かよ、と思ってしまう。自分は元々それなりに疑い深い性格ではあるけれど、それに加えてやはりAの件が大きく引っかかっていた。
身の丈に合う合わないに関わらず、何にせよ、「なんでもドンと来い」と口にした女にこの青ウニという男はゲロイラマを強いた。……サキュバスたちにとってはそれが「この牢獄の中で魔力をより多く得ること」に関わる事実であり、彼女らは自分の命とその情報が天秤にかけられた状態で、毎夜の判断を下すことになる。本当は嫌でも、キツいと思っていても、怖くて仕方なくても、それをひた隠すという選択は確かに妥当な範囲で存在していて、それは実際にパンクした同胞を見た上でもおそらく変わらない。
状況が状況であるからには、俺は彼女らの言葉を何一つ鵜呑みにしてはいけないのだ。取り返しのつかない失敗一つ分の学習として、自身がそういった立場に居ることを自覚した。そしてそのついでに、俺はハクレナのことを思い出しもする。
そうだ、俺は元々、ハクレナの言うことだって信用できはしないのだった。なぜならあの人は悪意の欠片もなく、自覚すらなく、息をするみたいな自然さで時々嘘をつくから。そんなハクレナと接してきた俺にとって、鵜呑みにできる言葉が一つもないなんて状況は、さほど特別な物ではないはずなのだ。ただそれを自覚することが出来れば……もっと早く自覚することが出来ていれば、Aをあそこまで深く傷つけることはなかったかもしれないのに。
……花子が蕎麦を啜る音が響く。
白い照明に照らされた、無駄に広い食堂のガランとした空気には、この場にいるべき人物が一人足りないことを実感させづらくする絶対値的な寂しさがある。一人また一人とここへ集う頭数が減っていっても、むしろそれがお似合いとばかりに、ここで特別な違和感を感じ取ることは出来ないのかもしれない。
俺はふと、このままサキュバス全員が自分の前から姿を消してしまえば、ヒントを失った自分は三分の二の確率で永久にここへ閉じ込められるのだ……ということを自覚した。ずっと足りていなかった危機感が、己の意識下へじわじわと忍び寄ってくる。
サキュバスたちも同じものを感じているだろうか? 見た目だけでは、全くそれを察知することは出来ないけれど。
「ところで、今夜の相手もジャンケンで決めるの?」
言ったのは花子だった。見るといつの間にか、彼女の前からは食器類の全てが消えている。完食したのだろう。
チャカが花子を見てから、俺の方にも目を向ける。どうする? と暗に尋ねられている。
「……いや、俺を見られても」
「え、でも女子だけで勝手に決められても嫌でしょ?」
「いえ別に……。というか、昨日も思ったんですけど、これって俺が左右できる話なんですか……? たとえばこっちの視点からだと、チャカさんたち三人の魔力がどのくらい足りないのかとかって分からないんですけど」
「あー、そんなこと考えてくれてるの? 律儀だなぁ……」
しみじみ言って、チャカは再び花子の方を見る。やはり「どう?」という風に。他人の性欲を察知できるというサキュバスでも、お互いの魔力量は察知できなかったりするのかもしれない。
一方で花子の方はというと、何を考えているのかいまいち読めない気の抜けた表情で、チャカからの視線を飄々と受け止めていた。
社交的に愛想のいいチャカと、若干ツンツンしているけれど今朝までは敵対的ではなかったAに比べて、花子の処世術は協力的ながらも無感情に振る舞うことに表れているように見える。受動性特化とでも言うべきだろうか。……だからこそ捨て台詞と共に去ったAに対するあの冷たい目が、ことさらに恐ろしく印象に残っているのだけれど。
「そういうことなら、わたしからでいい?」
俺ではなく、明らかにチャカに対して、彼女はそう言った。チャカが俺に同意を求める視線を送ってきたから、まぁ頷く。
……俺はこれと同じことを、最長であと十一回も繰り返すことになる。十四日ある監禁期間のうち、昨日と今日と、正午までが回答期限である最終日の計三日を除いた残りあと十一回もの間、嫌とは言えない立場に追い込まれた相手のうち誰を抱くかを決めながら過ごすことになる。はたして彼女らがそれに耐えられるのか、あるいは俺の方が平気でいられるのか、どちらにも確証はない。
できればさっさとクイズに正答して、この性根が腐ったゲームをはやく終わらせたいとは思う。しかし実際のところは、回答権利が一度しかないとなると慎重にならざるを得ない。そしてそれがこの共同生活の長期化を意味する以上、その「慎重さ」には、Aとの間に起こってしまった事の二の轍を踏まないようにする……という意味も含まれてくる。
……性的な興奮を抱く余裕を持つどころか、すでに頭が痛くなってきた。
「ところでなんだけどさ」
ごちそうさま……と、米粒一つ残っていない空の食器の前で手を合わせたチャカが、ついでのように言う。
「クイズに正解できる可能性って、今のところ体感でどのくらいある?」
「え」
眉ひとつ動かさない向かいの席の花子が、それでも関心を示したことが伝わってきた。
立場上、俺はサキュバスの言葉を鵜呑みにできない一方で、逆に嘘をつくこともできない。女性陣の心を傷つけるためにこそ仕組まれたようなこの環境下では、「信用」は最後の砦だからだ。その点においてあらゆる嘘はあまりにもリスキーすぎる。
正直であるべし、誠実であるべし。それがこの旅館の中で俺に求められる鉄則であるように思う。たとえ醜悪な性癖を改めることは出来ないのだとしても……。
「……正直今の時点では、三分の一を運で当てることと変わらない答え方しかできないと思います」
「まぁまだ二日目だもんね」
「すみません……」
「いやいや、ごめんね急かすようなこと聞いて。……でも一つだけはっきりさせておきたいんだけど」
「はい」
「この先、その正解率を上げられる可能性はある……? 何か、手がかりの目処とかは立ってる?」
「……それは、なくはないです」
もちろんその言葉にも嘘はない。
むしろ、俺はある種の必勝法を思いついている。
ただ、それを実行するにはそれなりの覚悟が必要であるがゆえに、俺は昨晩、一日目のチャンスにしてさっそくひよってしまったのだ。だから今はせめて、その旨を正直に伝える。
「ただ、その方法がなんというか……。ハードSMよりもさらに相手のメンタルに負担をかけるかもしれないといいますか」
「え、そういう系なの? 目処というか、クイズって」
「まぁ、はい」
「へぇ……」
チャカが視線を外して、思考に耽るようにどこでもない一点を見つめる。しかしきっと彼女は(クイズのルール上これは幸いなことだけれど)いくら考えたところで真実にはたどり着かないだろう。性的虐待の被害者を暴き出せだなんて、まともな人格の持ち主なら、そんな発想はまず出てこない。
けれど何にせよ、これで「脱出のためと称して、精神的に何かしらとんでもない負担を強いられるらしい」という認識が、Aを除く面々の間で共有された。となれば当然、嫌な方向への緊張感が高まってしまうだろうと俺は思っていたのだけれど……。
「でもまぁ、案があるならどんどん試してみてよ。夜のことならなおさら、ね? 私たちサキュバスだし」
こくこく、と花子まで頷く。二人とも、どんなプレイでもドンと来いだと言わんばかりの気概があった。……それこそ「生まれてから一度もセックスでギブしたことなんて無いし」とまで言い出しそうなほどに。
話がひと段落すると、全員どことなく手持ち無沙汰の感を覚えたらしい。花子が食後のデザートとしてなぜかわざわざ剥かれる前のみかんを召喚してそれを剥き始めると、俺とチャカも適当につまむ物を出し始める。俺はキャンディ系の駄菓子を、チャカは大きめのゼリーを。
各々食べながら、次の話題へ移る。
Aが現れる気配は、ない。
「ところで、昼間はどうする?」
「あー。たしかに、何をしたらいいのか分からないですよね」
「昨日の夜ヤってすぐだし、青ウニくんもさすがに昼からは……って感じ?」
「え? あー、まぁ……」
「だよね。……じゃあトランプでもする?」
「雨で予定が潰れた旅行みたいですね……。でもマジでそれくらいしかすることがないのかも……?」
「花子ちゃんは? 何かある?」
「う〜ん……。……卓球?」
「あー、せっかくあるもんね。あとゲーセン」
「よく考えたら、あらゆる筐体が遊び放題ってことになるんですかね、ここのゲーセンって。だとしたら結構すごいですけど」
「じゃあとりあえずゲーセン行く?」
「行こう」
「行きましょう」
……ということで、三人連れ立って食堂から出てフロントを横切り、お土産コーナーの密室クッキーを視界の端に見ながら、ゲーセンコーナーへと赴く。UFOキャッチャーから流れる独特のBGMや太鼓の達人から流れてくる懐メロが次第に近づいて来る。
俺はその短い道中を行く間、こんなことをしていて本当にいいのか……? という自問自答に陥っていた。まるで本当に遊びに来たかのような行動をしているけれど、何かもっとやるべきことがあるんじゃないか、いやいやこんな状況だからこそリフレッシュが重要なのかもしれない……と悶々。
そして到着したゲーセンで、四台並んだレースゲームの筐体を見た時にふと思った。そういえば、どの面下げて行けばいいのか分からない俺はともかく、他の二人ですら一言たりとも、「Aを探しに行こう」とは言わないのだな……と。特にチャカならそう言い出してもおかしくなさそうなのに。
チャカはむしろ、まったく別の話しかしなかった。
「青ウニくんって得意なゲームとかある?」
「え? あぁいや、俺ゲーセンはあんまり行かなくて」
「家でゲームはするの?」
「あー、しますね。一人用ばっかりですけど」
「へ〜。あとで誰かの部屋でゲームとかする? たぶん召喚できるでしょ」
「あーたしかに。まだ試してなかったけど、出来そうですよね」
「ねぇ二人とも、わたし、これにちょっと興味ある」
「うん?」
死角になっていた角度から花子の声がしてそちらを振り向く。すると、元々あった筐体は撤去されて、空いたスペースに乗り込み型のガンシューティングゲームが出現していた。タイトルは「デッドストームパイレーツ」。カラオケ目当てに行く近所のラウンドワンでゲーセンをチラ見することだけはある俺の知識から言うと、それはレトロの括りには程遠い一方で、お世辞にも新しくはないゲームだと思われる。
偏見かもしれないけれど、花子のような感情の希薄そうな振る舞いをするタイプが、ガンシューティングという激しめのゲームジャンルを選んだことは少し意外だった。それも古くも新しくもないタイトルを名指しとなると、何か思い入れでもあるのかと気になってしまう。
「これ系好きなんですか?」
聞くと、彼女は少し困ったように「んー」と考えてから、答えた。
「こういうのって、外から画面が見えないでしょ? だからちょっと、どんななのかなぁって」
「なるほど」
「でもこれ二人用じゃない?」
チャカがこれから乗り込むボックスの中を覗きながら言う。座席は横に広く三人でも問題なく座れるスペースがあるけれど、肝心のガン部分(この筐体は機銃のように本体と銃が一体化している)は二台しかない。動き回るにしては筐体内がそこそこ狭いこともあり「死んだら交代」等のルールでは遊びづらく、たしかに三人で遊ぶには勝手が悪そうだった。
けれどそれについては花子も考えていなかったわけではないらしい。想定内の指摘に答える人の素早さで、彼女は言った。
「わたしは見てるだけでいい。見てるだけが、いい」
「えぇ……?」
俺とチャカは顔を見合わせる。けれども結局、花子の希望を強いて断るような理由は、お互いに見つけられなかった。
機銃と機銃の間にはちょうど一人分のスペースが空いているので、席順は必然的に花子が真ん中になる。すると彼女はその時初めて、自分の目の前に「舵」があることに気づいたようだった。
このデッドストームパイレーツといういかにも海賊を題材にしたゲームには、シューティング要素だけではなく舵取りの要素もあるらしい。俺も今初めて知ったけれど、乗り込んで見えた正面の大画面では今まさにその舵取り要素のデモプレイが行われている。急流下りのようなパートで右へ左へ障害物を避けたりするらしい。
「ちょうどいいじゃん。花子は舵係ね」
「えっ」
「任せましたよ船長」
「えっ、えっ」
適当に軽口を叩きながら、手中に百円玉を召喚する。気軽に無限コンティニューできる大海原へいざ出航。
初めのステージでは、財宝の眠る遺跡らしき場所にて無数の骸骨が襲いかかってきた。リロードの概念がなく無限に連射できることが判明した銃で次々とそれを撃退していく。爆散しては次から次へと駆けつける骸骨の群れに、なるほどこの数はリロードを挟みながらでは捌ききれないと感じながら、乗り込み型ならではの音響も相まって、なんやかんやと俺たちは白熱していく。
それからしばらくの間、俺たちは思っていたよりも数割増しで壮大な冒険を楽しんだ。複数ある宝箱のうち一つを選ぶパートでハズレを掴まされたり、剣のゴーストに追い回されたり、例のデモ映像にあった急流下りで花子が完璧な仕事ぶりを見せたり、その直後に今度は巨大な蟹に追い回されたり、クラーケンと海賊船の力比べになって舵をぐるぐるぐるぐる死ぬほど回したり、ラスボスが尋常じゃない速度でかっこよく動き回ったかと思えば、最終形態の見た目が思いのほかキモかったり。
「すごいね、これだけ大きい蟹なら食べ放題だね」
「いやどっちかというと俺たち今食われる側なんですけど」
「花子船長〜! 引きずり込まれる〜!」
「これ以上回したら壊れそうじゃない……!?」
「なんだこいつ速い!?」
「いや私もこれくらいならいけるよ。見たでしょ昨日」
「どこで張り合ってんすか」
……とかなんとかわいわい騒ぎながら、俺たちは無事にロマン溢れる大航海をハッピーエンドで完結させたのだった。これが旅館の外だったらとてもではないけれど使えない枚数の百円玉を湯水のように投入しながら。
筐体から降りると、ただ遊んでいただけなのに何か一仕事終えたような気持ちになる。各々、ずっと座りっぱなしだった体を伸びでほぐし、腕時計なりスマホなりで時間を確認する。どうやら一時間以上遊んでいたらしい。
「いや〜、思いのほか楽しかったね」
「うんっ」
「ですね。俺、これ系のゲームをちゃんと最後まで遊んだの初めてかもです」
「私も。いくら使ったんだろう」
「考えたくないですね」
「あはは」
そんな風に談笑していると、なんだかこれまでで一番彼女らとの距離が縮まったような気がした。
……集められた四人が全員人間だったら、こんな風に遊んでいるだけで居られたかもしれないのに。と、言っても仕方のない妄想が一瞬頭をよぎる。そしてそれは、生理現象的な衝動によってあっという間に流されていった。
「すいません、ちょっとトイレ行ってきますね」
「はーい」
ゲーセンから階段やエレベーターまではやや距離がある。こういう時、二階にしかトイレがないというのは普通に面倒だなと思いながら、俺は離席ついでに握り拳の中に百円玉を召喚しながら二階へ向かった。
二階廊下にたどり着いた時点で握った手を開くと、案の定百円玉は消えていた。食堂でしか腹にたまる食事が召喚できないことやゲーム筐体をゲーセンコーナー外には出現させられないことと同じで、百円玉も他の場所では召喚できない上に、すでに召喚した物を維持することもできないらしい。正直、その実験結果に俺はホッとした。ゲーセンの外に持ち出せない物を旅館の外に持ち出せるわけがない。元の世界に帰る時に余計な野望を抱く必要はないということが分かった。
男子トイレに入ると、自然といえば自然に、タイル状の床に小便器や個室がいくつか並んでいる。洗面台や鏡も複数設置されていて、そういったことがこの悪趣味な旅館の中においてはどうにも滑稽に映る。
まるで複数人が同時に利用することを想定しているかのような男子トイレ。サキュバスたちは食料源が俺という男一人しか居ないから媚びだって売らざるを得ないというのに、いったいいつ複数人の男がここへ来るというのだろう? こちらを薄らと馬鹿にしているようにしか思えない。
ともあれ、さっさと用をたしてチャカや花子のもとに戻ろう。俺はなんとなく一番奥側を選んで立ち、ズボンのチャックを下ろす。すぐ傍には採光のための小さな窓があって、そこの鍵が絶対に開かないことはもはや確かめるまでもない。
……それから数秒後、チャックを上げた俺が、手を洗おうと振り返った時のことだった。
心臓が止まるかと思った。
俯いた顔のAが、いつの間にか目の前に立っていた。
「うおっ!? …………えっ?」
思わず周囲を見渡す。男子トイレだよな、間違いないよな? と、今の今まで小便器の前に立っていたというのに何を見渡す必要があるのかという発想すら出ないくらい、さすがに気が動転していた。
そして、こちらが冷静さを取り戻す暇もないままに、目が飛び出そうになるほど衝撃的な出来事は連鎖する。
Aが、その場にうずくまった。……いや違う、もっと正確に言うとそれは……。
彼女は、浴衣姿のままタイル状の床に額をこすりつけて、別人かと思うような卑屈さを小柄な体に宿しながら、俺に向かって土下座していた。
「ごめんなさい……!」
「えっ」
「悪口……陰口を言ったのと、そのあとひどいこと言ったのと……。本当に、ごめんなさい!」
「いや、えっ? あの……」
俺の胸中に真っ先に浮かんだ感想は、「誰?」だった。目に見える姿、耳に響く言葉、どちらも今まで自分がAに持っていた印象とは一致しない。しかし現実として、A以外の誰でもない人物がいま目の前でそれをしている。
いったい誰が、こんな我が目を疑うことの連続に冷静に対処出来るだろう。俺がまごついてしまったことにも情状酌量の余地があるというものだ。……そんな保身の思考をどこまでも抱きつつも、俺はさすがに言う。
「いや、ちょっと、頭上げてくださいとりあえず」
「……はい」
お世辞にも綺麗とは言えない床に三指ついたままで、彼女はおそるおそる顔だけを上げる。俺が手振りで「そうじゃなくて立ち上がって」と伝えると、彼女はそれにも従順に従った。
……そのまま立ち尽くして、判決を待つように目を伏せて黙りこくってしまったAに、俺はどういう言葉をかけるべきなのか? まったく分からなかった。そもそも分からないといえば、彼女にどんな心変わりがなぜあって今こんな状況になっているのか……ということからして何も分からない。
仕方がないから、俺はその疑問を正直に聞いてみることにした。お互いにだんまりのまま誰かが自分たちを探しに来てくれることを待つよりはマシだろうと考えて。
「……俺は、死ねと言われても仕方がないことをAさんにしました」
「そ、そんなこと」
「何かあったんですか……?」
尋ねると、Aは口を引き結ぶ。それがどういう感情なのか瞬間的には分からなかったけれど、やがてその口元がわなわなと震え出すと、泣き出しそうな声がそこから漏れ出した。
「……たくない」
「え……?」
「死にたくないんです……」
「死にたくない……?」
「青ウニ……くん? さん? ……わ、アタシのこと見捨てるでしょ……? 他の二人のことだけ相手にするでしょ……? でも、い、いやだ……。アタシまだ、一回も死んだことないんです。怖いんです……」
「……いや、いやいやいや」
見捨てるだなんてとんでもない! ……反射的にそう思うけれど、その瞬間ハッとした。
彼女はどうして自身が見捨てられると考えたのだろう。俺の機嫌を損ねればそうなると、捨て台詞のあとで一人思い至ったのだろうか? ……いやきっと違う。彼女が死を予感したのはきっと、誰も、彼女の行方を探そうとしなかったからだ。見捨てられたという実感を、それでAに与えてしまったのだ。
彼女は今までいったいどこに隠れ潜んでいたのだろう? 俺がトイレに来るまでずっと機会を伺っていたのか? ……それとも、楽しそうにゲームで遊ぶ自分以外の面々の騒ぎ声をどこかでずっと聞いていたのだろうか? 自分がいなくても問題なく楽しそうにしている男女の声をずっと……。
考えるほどに、自分はまた取り返しのつかないことをしてしまったのだと思い当たっていく。「どの面下げて」などと言っている場合ではなかったのだ。そんな及び腰は、相手の命を握っている立場の人間がしていい物ではなかった。俺はすぐにAを探しに行くべきだった。なのに、それをしなかった。
けれどそれでも、見捨てるつもりなんて毛頭ないという気持ちは本当のことだ。Aのことだって当然、数日のうちには戻ってくるだろうと思っていた。そして彼女が戻り次第、彼女を生かすために、また気まずいセックスをやらなければならないのだろうと考えていた。当たり前にそうするべきだと思っていた。そうなるだろうと思っていた。考えが甘かったことは認めるけれど……。悪気はなかったのだ。
しかし、それが今の有り様に繋がってしまったからには、もはや今さら俺が謝ったくらいではどうにもならない。この世で一番無価値な謝罪があるとしたら、それは今の俺の口から出る物がそうだ。いくら言葉で怒っていないと伝えても、謝るのはこちらの方だと伝えても、もう彼女は俺のことを信用してくれないだろう。
……だから俺はそれ以外の言葉を口にする。
「Aさん、俺の言い分を聞いてくれますか」
「はい……」
「俺はですね。俺は、死ぬほど白々しく嘘っぽく聞こえるでしょうけど、でも、俺はここから脱出することの次に、絶対に優先したいと思ってることがあるんです。……それはここに連れて来られた四人が、できるだけ仲良く暮らして、脱出までの間をやりすごすこと。だってそうじゃないと、つらいだけでしょう……? 俺たちは絶対にここを抜け出すべきだけど、より良く抜け出すべきでもあるはずです。だから見捨てるだとか、そんな選択肢は端から存在しないんですよ」
「……でもアタシは、その「仲良くする」を破った」
「それをやり直しに来てくれたんじゃないんですか……?」
「やり直せるの……?」
Aの小さな手が俺の腕を掴む。いや正確には、縋りつく。
「陰口叩いて、死ねなんて言った女のことを、今さらちゃんと抱けるの……? どうせまともに勃ちもしないんでしょ……。見殺しにするのは気が引けるからって、しぶしぶ相手にしなきゃならない女を抱いたって、男の人は……」
「それはまぁ、やってみたことはありませんけど、でも大丈夫ですよ。男の性欲なんて、思ってるより遥かに単純なものです。ヤれる時には勃ちますって」
「……本当に?」
「そうです」
「じゃあここで試して」
「えっ」
Aがサッと目の前にしゃがみこみ、さっき上げたばかりのチャックに手をかける。
思わず反射で身を引いてしまった。
「ちょっ、えっ? 今……?」
「ヤれる時には勃つんでしょ……?」
「それは、言いましたけど」
「……お願いします。アタシ、今朝のお詫びになんでもします。今日だけじゃなくてずっと、どんなことでもするから。だから、たまにでいいからアタシのことも選んでください。お願いします……」
再び彼女が頭を下げる。跪いたまま、汚い床へ落ちていくかのように。俺は慌ててそれを止める。
「いやいやいやいや。なんでもって、もうやめましょうよそういうの。無理しない方がお互い上手くやっていけますって。気持ちだけもらっておきますから……」
……するとAはキッと顔を上げた。目尻に涙を浮かべて、憎しみのこもった表情で。
俺は身勝手にも、そんな彼女の変化に一瞬ギョッとしてしまう。
「だって嫌だけど! SMとか本当はしたくないよ……! でも仕方ないでしょ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ? アタシにそんなこと言う権利、初めからないんだから!」
「いやありますから。嫌なことはやらなくていいんですよ。ね? だからそんなところに座らないで」
「そうやってつべこべつべこべ言って、アタシのこと避けようとするのやめてって言ってるのに……! なに、嫌なことはやらなくていいって……? 逆でしょ? アンタの方が、したいことしなきゃいけないんでしょ……? やりなさいよ。見捨てないっていうなら、アタシに性欲ちょうだいよ。アンタみたいなのの気遣いでにごった性欲なんて不味くて食えたもんじゃないって言ってるのがまだ分かんないの……!?」
泣きながらふるえた怒鳴り声が反響する。跪いたAの瞳が、悲痛な怒りを宿してこちらを見上げている。
へりくだって媚びたかと思えば、次は怒りをあらわにする。絵に描いたような情緒不安定がそこにあった。……あるいは彼女はずっと、本心とは違う演技を強制されて、自分自身の中に不安定な情緒を飼わざるを得なくなっていたのかもしれない。
俺のせいだ。俺が彼女をそんな風になるまで追い込んでしまった。こんな異常な環境に攫われてきて元々不安だっただろうに、本当は受けたくない暴力を受けながら「もっとして」と言わなければいけなかったあの夜は、いったいどれだけ彼女の心に癒しようのない傷をつけてしまったのだろう。その傷を自力で気休め程度にでも慰めようとして出た陰口がバレて、捨て台詞を吐くしかなくなってしまった時の彼女の心は、逃げ出そうとしてもどこにも行けなかった彼女の心は、どれだけ取り返しがつかないところまで傷ついてしまったのだろう。
……俺が彼女の言う通りのことをすれば、これ以上その心の傷は抉られずに済むのだろうか? そうであればどれだけいいことかと思うけれど……。事はそう単純になっているはずもない。
俺は選ばなければならなかった。人として正しい道を選んで、人ではなくサキュバスである彼女を消極的に見捨てるのか。それとも人にあるまじき悪魔のような道を選んで、彼女の心をさらに踏みにじることと引き換えに、サキュバスとしての彼女の命を助けるべきなのか。
AV女優の自殺をオカズにするような男には、その気になればどちらでも選べてしまう。なおかつ、俺はこの場で必ず今すぐに、そのどちらかを選ばなければならなかった。
けれど幸い、俺は知っている。こういう時の「より良い答え」は、決まって0か100の間にあるものだと。
俺はAを見下ろして言う。
「……じゃあ分かりました。こうしましょう、Aさん」
「なに……?」
「痛い、苦しい、汚い、その三つのどれでもないけど精神的につらい。……この四つのうち、二つまではNGを聞きます。あとの二つは、申し訳ないですけど我慢してください。……っていうのはどうですか?」
「……わかった」
「じゃあ、どの二つにします?」
「……それって、二人きりの時の話だよね?」
「え?」
「二人きりでそういうことする時だけに……っていう話だよね?」
「……あぁ」
彼女の危惧していることが、なんとなく分かった。プライドの高そうな彼女はきっと、特に「四つめ」のことを言っているのだろう。他の二人の前で自分に恥をかかせることが、四つ目の要項には含まれているのか……と。
質問の意図をそう察せたことで、Aという人物の性格がかなり分かってきた気がする。
「もしかしてAさんは、あの時花子さんが隣にいたから、俺に死ねなんて言ったんですか?」
「……それは」
「二人きりになれる場所だから、男子トイレの中にまで押し入ってきた?」
「…………」
「いいですよ、もちろん。二人きりの時限定で。……さっきも言ったように、四人で仲良くすることが本望なんです。お互いの立場のためにも、他の人といる時は、何も変なことはしませんよ」
「……じゃあ、痛いのと苦しいのはやめて。ほかの二つは、がんばるから」
「わかりました。了解です」
確かに約束してから、俺は自らチャックを下ろす。
その後の数分間、その場で行われたことの詳細は、おいそれと他人に教えられたものではない。けれど間違いなく、Aはそこで、人を傷つけるための行為には痛みも苦しみも必須ではないのだということを思い知っただろう。それに加えて、それまでの紆余曲折には関係なく、とにかく女性を傷つければ反射のように興奮する男が確かに実在するのだということも。
しゃくりあげるように泣きながら、全身ずぶ濡れで「ありがとうございました……」と床まで頭を下げたAを、俺は物理的には痛まないように慎重に踏みつけて、建前上の仲直りの印とした。もちろん、彼女が今も心の底では「死ね」と思っていることは肝に銘じている。けれどこれをもって「仲直り」とする以外の方法が、俺には分からなかったのだ。
濡れた服や髪や体は、念じるだけで一瞬でカラリと乾く。泣き腫らした彼女の瞳が少しも充血していなかったのは、空間の力というよりもサキュバス本来の力だったのかもしれない。
ともかくそうして「何事もなかったかのように」を装って、俺たち二人は一階のゲームセンターに戻った。花子とチャカにも、俺たちが仲直りしたこと「だけ」は伝えに行く。
二人とも、俺の帰りがやけに遅かったことや、突然Aが姿を見せた理由については、大人の対応として一切言及せずにいてくれた。ただ、花子が一言だけ「仲直りできてよかったね」と、あのゴミを見るような目とは正反対の暖かい目をしてAに言った。
「ま、まぁね……。アタシもさすがに言いすぎたし、青ウニも反省してるみたいだし……ね」
そう言って目を逸らすAを見て、俺は「難儀だな……」と思わずにはいられなかった。この共同生活の中で最も精神をすり減らしているのは、性格から考えて間違いなくAなのだろう。
その後俺たちは、せっかく四人集まったということで、元々二台しか置かれていなかったマリオカートを四台に増設して遊んだ。それにはパーティゲームとしての盛り上げ要素なのか、筐体に内蔵されたカメラで顔写真を撮り、レース中の各カートの上にアイコンとしてそれを表示して「誰のカートなのか」を分かりやすくするシステムが標準搭載されていた。
昔はこういうノリが小っ恥ずかしくて苦手だったな……と思いながら写真を撮りレースに参加してみれば、画面を行き交うサキュバスたちの顔写真が、俺の持っている旅館の地図上に勝手に浮かび上がってきて消すことのできない、各部屋番号に対応して貼り付けられたサキュバスたちの顔写真のことを連想させる。
けれど、それはそれとして。Aが、
「ちょっ、ねぇ! これドリフトってどうやるの!?」
「曲がる前に一瞬ブレーキ踏むんですよ」
「ブレーキ踏んだら止まるでしょ!」
「止まんないんですって」
「はぁ!? Switchと違う! 何このアイテム!?」
と、はしゃいでいるのを見て、俺は心底ホッとしたのだった。