ひとしきりゲームセンターで遊んだあと、俺たちは各々どこへ行くと告げることもなく一度解散した。四人とも大人なのだから、常に行動を共にしなければならない道理もなければ、所在を逐一伝える義理もない。俺は一人で三階の自室に戻った。
部屋にテレビはあるけれど、電源をつけたところで何の番組も映りはしない。しかしそれはそうだろう。俺たちは、クイズに正答した暁には「攫われる前の時間」に戻れるという約束をしている。にも関わらず「未来のテレビ番組」を見てしまったら、タイムパラドックスを引き起こす大問題になるというわけだ。……そしてだからこそ、今この部屋のテレビが映らないという事実が「黒幕は俺たちの記憶を維持させたまま元の世界へ帰そうとしている」ことを如実に表している。余計な心の傷はなるべく持ち帰りたくない物だけれど、そんなことは許さないという向こうからの意思を感じる。
心の傷といえば、Aに関してはすでに手遅れだ。彼女はこの旅館での出来事を大なり小なりトラウマとして記憶するしかない。……今改めて考えると、死に怯える彼女が俺に土下座なんてして見せたのは、俺が一日目の夜に裸の彼女を土下座させて、その頭を踏みつけたせいなんじゃないかと思えてくる。あれは単なる謝罪の誠意というだけではなく、俺の性癖に媚びるための手段だったのではないか。だとすれば、つまりは何から何までもが俺のせいなのである。
結局、反省してこれからは優しくするね……という対応では彼女は納得してくれなかったから、彼女のNGを半分だけ汲む形で、俺は己の欲に正直に傍若無人に振る舞うしかなかった。だけどその行為の数々もまた彼女に新たなトラウマを刻みつけてしまっただろう。俺はこの二週間のうちに、このようにしてあといくつのトラウマを、あの三人の心に植え付け続けてしまうのだろうか……?
あの黒幕の少女の性格の悪さは一級品だ。舞台に仕組まれた悪趣味さに押しつぶされないどころか結局は加害者になることを選べてしまう俺のような男を選定したことに加えて、そこにAのような人物を合わせるとはやることがえげつない。この調子では残りの二人に関しても、ハクレナのような単なる好相性の相手で済むということは見込めないだろう。
中でも、特に心配なのは花子だ。彼女の覇気の無さは少しだけハクレナに似ている。けれどハクレナが「無気力」である一方、花子は「無感情」を「装って」いるようにも見える。そしてその違いこそが不安の種になっている。
花子は一見感情の薄い人物に見えるけれど、きっと実際は違う。本当に無感情な人間は、逃げ去ったAにあんな恐ろしく冷たい目を向けはしない。あるいは皆であんなにゲームを楽しんだりはしない。俺はハクレナを見ていたから分かる。無関心と軽蔑は、鈍感な男にすら見分けられるほど明確に別物なのだ。花子の内心にはきっと隠された何かがある。そしてその何かとはどうせ、俺たちがお互いに傷つけ合うに至ってしまうような何かなのだ。そしてそう考えると、リーダーシップを発揮できるほどに精神が安定しているように見えるチャカについても、何か裏があるのではないかと勘繰らずにはいられない。
……と、無音の部屋の中で一人、ネガティブなことを延々と考えていた頃。コンコンコン……と、丁寧に扉をノックする音が響いた。
反射的に体が硬直する。全身に突如として張り巡らされた緊張感には、理由があった。
この部屋に尋ねてくる人物は三人しか考えられない。けれど、その誰だったとしても、解散してまだ一時間も経っていないこのタイミングでわざわざ尋ねてくる目的が分からない。……であれば何であれその目的はロクなことでない気がする。気軽に出迎えられる理由はない。
とはいえまさか居留守を使うわけにもいかず、俺は答えた。
「開いてます」
「あ、おじゃましまーす」
玄関の扉の向こうから現れたのは、チャカだった。
彼女は後ろ手に扉を閉めながら鍵はかけず、靴(といってもスリッパのような物。サキュバスは全員これを履いている)を脱いで部屋に上がってくる。床に座っていた俺がなんとなく出迎えようと立ち上がると、彼女は「あぁお構いなく」と手でそれを制した。
そして彼女は、テレビの傍にゲーム機を……Switchを召喚した。
「私の部屋テレビ映らないんだけど、青ウニくんはどう? 電源は入るんだよね」
「あ、俺の方もですね。たぶんあれでしょう、未来のテレビになっちゃうから」
「あー、やっぱり? だからかな、テレビゲームは使えるよね」
「あぁ、まぁそうなりますよね。未来が原因なら」
まだ自分で試してはいないけれど、チャカが言うならそうなのだろう。現にゲーム機の召喚にも成功している。
喋りながらも粛々とチャカが起動したゲームソフトは、ぷよぷよテトリスだった。当然のようにコントローラーを手渡される。……まさかゲーセンへ向かう際の雑談で話していた通り、彼女はただただここまで据え置きゲームで遊ぶために来たのだろうか? だとすれば、一人で来たことが不自然な気もするけれど。
「俺、これ系のゲームど下手ですよ」
「あれ、そうなの? まぁじゃあボコボコにしてあげますか」
「わざわざボコボコにしに来たんですか……?」
言いながらとりあえず対戦を始める。そしてものの数分で、俺は本当にボコボコにされた。
あはは、本当に弱い。とチャカは笑う。そして苦笑いする俺の目を見て、まだ半分ほど笑いが収まらないままの軽い調子で、彼女は言った。
「青ウニくんさ、銃って出せる?」
「じゅう……? 十連鎖?」
「いや違うくて。ピストルの銃」
「さ、さぁ……? 出せるんじゃないですか? チャカさんのあだ名の由来ですし」
「じゃあ出してみてよ。今ここで」
「……なんで?」
「いいから」
銃なんて物騒な物、そもそも俺は一度も持った経験がない。プロが同伴してくれる射撃場でもない場所で、そんな危ない物をみすみす召喚したくはないものだけれど……。
しかし、なぜチャカがわざわざそんなことを言い出すのか? と考えると、一つの仮説が立てられる。……もしかして彼女は、銃を召喚できなくなったんじゃないか?
一度は召喚できた物が今は出来ないとなると、それは普通に異変である。まさか食堂が銃にふさわしい場所であるわけもないし、そもそも仮に彼女がその異変を検証するためにここへ来たのであれば、場所の問題くらいは彼女の方ですでに検証済みだろう。……だから彼女は「君の部屋のテレビもゲーム以外は映らないよね?」と確かめに来たように、「君も銃を召喚できないよね?」と確かめに来たのではないか?
だとすれば、異変の正体を突き止めないわけにはいかない。何せ人間である俺は、万が一食堂に飯が現れなくなったりすればそのまま餓死するしかないのだから、召喚に関する異変が起こっているなら一大事だ。そして俺が死ねば連動して死ぬしかなくなるサキュバスであるチャカも、きっと同じように危機感を抱いているのだろう。そうでなければ、彼女がここで俺に銃を出せと言う理由がない。
俺はゲームのコントローラーを床に置いて、銃の召喚を念じた。
すると次の瞬間には、もう拳銃が手の中にあった。ずしりと重く、金属の冷ややかな質感を持つそれは、詳しくはないけれどチャカが初日に出した物と同じデザインをしているように見える。柄の部分に弾倉が収納されるタイプの現代的な拳銃だ。
なんだ異変は検討違いか? だとすればチャカはなぜこんなことを俺にさせたのか……。と、こちらが考えた拍子に、
「あっ?」
チャカが俺の手から銃をひったくった。
するとその盗られた銃は、瞬きを挟む暇すらなく無へと消え失せてしまう。
チャカは、銃を失くした手のひらをまじまじと見つめていた。
……彼女が何をしたいのかが分からない。
「あの、何なんです……?」
「あ、ごめんね。ちょっと実験したくて」
「実験?」
「そう。……実はあれ以来銃が召喚できなくなっててさ。青ウニくんはどうなのかなと思って」
「はぁ。まぁ俺は、見ての通りでしたけど。……もしかして回数制限があるとか?」
「試してみてよ」
言われて再び念じる。すると問題なく、拳銃はまた俺の手の中に現れる。
そしてチャカがまた、その銃身をひったくるように握る。力んでうっかり引き金を引いたりしては洒落にならないからと、俺はパッとそれを手離そうとしたのだけれど。俺が手を離すよりも早く、銃はまたしてもフッと消滅してしまった。
そういえば他人の出した物を念じて勝手に消せるのかどうかは試していなかったけれど、念じる者が消したい物品に触れることがその条件なのか……? と俺は咄嗟に考える。
「回数制限じゃない。……というか、チャカさんが持つと消える?」
「みたいだね」
「そっちがそう念じてるとかですか? 消えろって」
「ううん、してない。……というか、私が消えろと念じても、どうやら他人の物は何も消せないみたいなんだよね」
「ほう……?」
「たとえばこのゲーム機は私が出した物だけど、対戦中、君のコントローラーに消えろって念を送ってみたところ、消えなかった」
「なんてこと念じてるんですか」
「いや、大事なことだよ。……私が言いたいことが分かる? もう一回対戦しよう」
「え?」
答えるよりも早く、そしてこちらがその言葉の意味を理解するよりも早く、彼女はリザルトのまま放置されていた画面から速やかに再戦を始めた。
当然、始まって早々にもう俺は負けかかる。相手のぷよは意味不明な速さでいかにも連鎖しそうな形に積み上がって行き、俺を一撃で屠る起爆段階に今にも突入しようとしているように見える。
そしてその時になって、チャカが言った。
「ほら青ウニくん。このまま私がコントローラーを握ってたら、また負けちゃうよ?」
「……あっ、なるほど」
そこまで言われて、俺はようやく彼女の意図を理解した。そして念じる。チャカさんの手元のコントローラーよ、消えろ……!
……と、念じた途端に。画面上の相手の動きが不可解に衰えた。ぷよの落下速度は落ち、左右にまったく動かず、ただ無意味そうな場所へゆっくりと降下していく。
まさかと思って彼女の手元を見ると、そこからコントローラーは消え失せていた。俺はポーズボタンを押して試合にストップをかける。
「これって、もしかして……」
「うん……」
天井を仰ぐように、床についた両手を支えにして背中側に重心を傾けながら、彼女は気だるげに実験の結論を述べる。
「たぶん、青ウニくんだけが、他人に危害を加える形での願いを叶えられるようになってる。……いつからかは分からないけど、たぶんそうなってる」
「な、なんでそんな……?」
「分からない。けど、ついに私はコントローラーを念じて出すことすら出来なくなったよ」
「えっ、あ、そうか……」
確かに、ゲーム機を召喚できたのだから、コントローラーを消滅させられたところで、また新たに念じて出せばいいだけのはず。だけどチャカがそうしなかったのは、しなかったのではなく出来なかったかららしい。
俺が理解するのと同時に、チャラリと鎖の揺れる音が鳴った。それはキーホルダーの音だった。プラスチック製で平らな楕円形のそれには、三桁の数字が書いてある。201……チャカの部屋番号。
チャカの声に纏わった気だるさは、いつの間にか諦念に変わっていた。
「君はたぶん、機嫌一つでこれも消せる。それか、私たちの着る服とかも」
「なっ、そ、しませんよ、そんなこと!」
「そう? それはありがとね。……でもどうかな、あとの二人はもしかしてまだ、その気になれば自分の部屋に鍵をかけられると思っているのかも?」
「……実際かけられますよ。俺は何もしないんですから」
「あははっ。そう?」
何が可笑しいのか、彼女は愉快そうに笑う。
そして、事も無げに言った。
「でも青ウニくん、サディストでしょ? 興奮しそうだけどなぁ。油断してる女の子を、圧倒的な力で無理やり……って」
「そ、そんなことするわけがない」
「どうしてしないの? せっかくなのに」
「どうしてって……。……せっかく?」
その時脳裏によぎったのは、男子トイレの中のAの姿だった。自分を見捨てるのだろうと取り乱すAと、騒ぐ気力も削がれるほどに「汚い」と「精神的につらい」の二点からサディストの欲を見せつけられたAの姿が、俺をなじるように脳裏によみがえる。
だけど俺は、あの時だって一つも嘘は言わなかった。俺は誓って騙し討ちはしない。
「……これはAさんにも話したことなんですけど。俺はこの旅館の中で、脱出すること以外にもう一つ、一二を争うほど重要だと思っていることがあります。それは四人ができるだけ仲良く暮らしていくことです。それができないと、最長二週間という期間は、あまりにもしんどいから」
「うん。だから相手の嫌がることはしないようにするってこと?」
「当然でしょう?」
「でもサディストの青ウニくんは、私たちを力で屈服させても別にしんどくないわけじゃない。ならべつに、仲良くしなくてもいいんじゃないの?」
「……どうしてそんなこと言うんです?」
「さぁ……? どうしてだと思う?」
にこりと、まるで子どもをあやすような優しい微笑みを浮かべて、チャカが首を傾げる。
感じたことのない緊張が、冷や汗となって背中を伝った。それは、人間関係の行く先がどうなるかの瀬戸際に立っているが故のもの……ではない。そんな生半可な物ではない。
俺はいま生まれて初めて、ただ真っ当に会話をしているだけで、言ってしまえば命の危機を感じている。それはこの部屋で初めに黒幕の少女と会った時にすら感じなかった物だ。
俺は知っている。チャカは、咄嗟に銃の引き金を引き、さらにおそるべき速度で相手に飛びかかることも出来る人物なのだと。それを知っているから、自分の本能が警報を鳴らしている。
俺は、自分が彼女らの敵ではないということを証明しなければならない。彼女は……チャカはその値踏みをしに来たのだ。自分に銃は出せないが、あの男には出せる。自分にコントローラーは消せないが、あの男には消せる。他のあらゆる物についても同じだろう。……ではその男は安全だろうか? 彼を生かしておくことと、自分の命と引き換えにしてでも葬ること、どちらが「まだマシ」だろうか?
……もし彼女がそのように考えているなら、万が一があり得る。
「……チャカさん。俺は誓って変なことはしませんよ。サディストであってもです」
「うん」
「なぜだと思います?」
「なぜなの?」
「それはですね。俺だって馬鹿じゃないからですよ。一人だけ銃が使える、相手の持ち物を消してしまえる。……だからなんだっていうんです? あなたたちサキュバスは、その気になれば完全武装した素人一人くらい、素手で殺せるじゃないですか」
「うーん。まぁ、そうだね」
「俺も分かってます、それくらいは。だから仲良くしたいっていうのも、善人やリーダーシップを気取って言ってるわけじゃない。むしろ、お願いする立場なんです、俺は」
極論、脱出を諦めて、ここで餓死することを選ぶのなら、彼女たちは単独ですぐにでも俺を殺せる。……だから「そうした方がマシだ」と思われることだけは絶対に避けなければならない。おそらく俺はそのことを、考えるまでもなくまず本能で把握していた。だから舞い上がったりしなかった。こんなエロ漫画じみたシチュエーションに連れてこられても、これで欲求を満たし放題だとは露ほども思わなかった。
そして実際、それで上手くいっていたはずだ。道中Aとは色々あったけれど、しかしついさっきまで俺たちは、仲良くゲームセンターで遊んでいたじゃないか。なのにチャカは、この世界が俺に味方していることに気づいた途端に、内心穏やかではいられなくなったというのだろうか。
浴衣姿で、へそはテレビの方へ向けて、軽く脱力した姿勢のまま首だけをこちらへ巡らせている彼女は、見た目だけは穏やかそうなままで言う。
「……そう、そこが問題なんだよね。私たちは……というか私は、その気になれば君を殺せる。でもそれがまずい」
「まずい……?」
「だってさ。あの黒幕が、そんなオチを望んでると思う? 調子に乗りすぎた君が後ろから刺されるとか、逆にびびった君が私たちのご機嫌を伺うことに終始するとか、そんなことを望んでると思う……?」
「……それは」
言われてみると、あまりそうとは思えなかった。けれどそう考える最も大きな根拠は、チャカが預かり知らぬところにある。……その根拠とはクイズの出題内容だ。
黒幕は、性癖的には俺の同志だと見て間違いない。少し話した限りでは、あの中学生じみた見た目をしたインナーブルーの性悪女だって、俺と同じように性的虐待を題材にしたエロ創作で興奮するような人物に違いない。しかも向こうに至っては、現実にしていいこととそうでないことの区別が完全についていない有り様だ。……そんな黒幕が、わざわざ俺に因果応報を下すためにこんな場を用意するだろうか? いや、しない。むしろ彼女が俺の同志なら、その手のオチにはこう思うはずだ。つまらない正義感を出すくらいなら、初めからこんな物を書くなよ……と。
けれど、チャカは黒幕の人柄をそこまでは知らないはず。……そのはずだけれど、この旅館の中に漂い続ける悪趣味の瘴気は、被害者にこそ強く嗅ぎとれてしまう物なのかもしれない。俺たちの見解は一致していた。
「でね。だからこれは警告で、なおかつ罠だと思うんだよ」
「罠……?」
「この旅館に漂う力は、明らかに君の味方をしてる。……そしてその力はまだ全力を出してないんだと思う。もしも私たちサキュバスの誰かがいざ君に危害を加えようとしたら、たぶんその時になって初めて「君の味方をする力」は本領を発揮するんだよ」
「……なるほど」
「問題は、その「危害」っていうのが、どの程度からのことを言うのかが分からないことなんだけどね。……案外私たちは、君をちょっと突き飛ばすだけでも、取り返しのつかない報いを受けるのかも」
「な、なるほど」
「……どう? わくわくしてきた?」
「してたらやばいでしょう……」
「そう?」
チャカはまた可笑しそうに笑った。これだけ自身に不利な話をしながらなお衰えないそれは、強者の余裕というやつなのだろうか? ……それとも、もはや笑うくらいしか出来ることがないのだろうか。
テレビ画面はいつの間にか真っ暗になり、傍にあったSwitchは消えていた。話すべきを話すだけ話したチャカは、それで立ち上がって帰り支度をする。支度と言っても、伸びを一つしただけだけれど。
「まぁ少なくとも、私を含めて今のところは誰も、青ウニくんに危害を加えようなんて思ってないよ。餓死するのは普通に嫌だし」
「……あー、まぁ、なんて言えばいいのか」
「あはは、いいよ気にしなくて。ごめんね物騒な話だけしに来て」
「いや、俺一人じゃ気づけなかった話ですし、助かりました」
「そう? じゃあ、また夕ご飯の時にね」
「あ、はい。また」
幸いそのようにして、チャカはこの部屋の平和を脅かすことなく帰って行った。
そしてまた自室で一人になった俺は、しばらく床に寝転がったあと、あることに気がついた。それは「ここへ来たチャカの目的とはいったいなんだったのか」が、冷静に考えてみると未だに全ては分からないということ。
一時はマジに一触即発の空気を感じたものだけれど、改めて考えるとそれでは話がおかしい。なにせ「誰かが君に危害を加えようとした時にこそきっと良くないことが起こる」と言い出したのはチャカだ。それは俺が言ったことでもなければ、彼女がここへ来て咄嗟に思いついたことでもない。彼女はいくつかの推測を持参してこの部屋を訪ね、そしてその推測が最もらしいことを確かめていっただけだ。ならば初めから彼女の頭の中には「青ウニに危害を加えるにはリスクが高すぎる」という発想があったはずで、そうだとすれば一触即発もクソもない。
チャカに「なぜ女たちを意のままにしないのか」と問われた時、俺はそれを「泳がせておいていい男かどうかを見定められている」と感じて、命の危険すら覚えた。けれどそれが俺の勘違い、被害妄想だったのだとすれば、つまり……。
……つまり、どうなるんだ? なぜチャカはあんなことを俺に聞いたのだろう? 一気に分からなくなってしまった。まさか単なる興味本位なのか? だとすればチャカという人物の性格がまったく分からなくなるが……。
重要なのは、この旅館内のサキュバスから感じるこういった違和感の、三人のうち一人の物は「ヒント」であるということだ。そのヒントを上手く拾えなければ、クイズには当てずっぽうでしか答えられなくなる。
振り返ってみれば、チャカはずっと「念じれば叶う力」に興味を示していたように思う。初日の方針を決める際に、旅館内の探索の提案とは別に「念じれば叶う力についてもっと調べたい」と言っていたのはチャカだ。彼女はなぜこの力にひときわ興味を示しているのだろう? ……それはたとえば彼女がかつて虐待されていた子どもで、そんな環境から自分の力と勇気を頼りに抜け出した経験があるからこそ、「自分の持つ力」や「男性との力関係」に敏感なのだとは考えられないか? あるいは初日に銃をぶっぱなした彼女のおそろしく早い割り切り方も、そういった過去の境遇から来ている物だとは考えられないだろうか?
……と勘繰ってはみるけれど、正直なところそういった深読みにはキリがない。Aのやや強気に見えて見栄のある性格は、信頼できる大人や家族に恵まれなかった子どものそれだと言われればそんな気もしてくるし、ハードSMに音を上げたAに対してあまりにも冷たい視線を向けていた花子の心中には、その程度のことで音を上げられることがどれだけ恵まれているのかも知らないで……という思いがあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。現状、そこかしこに怪しい点はあっても、断言できることは何もないのだ。
考えが煮詰まったまま寝返りを打つと、夜になれば自動的に布団が敷かれる畳のスペースが視界に入る。そして今夜、その敷かれた一面の白の上には花子が来る。……俺はわずか半日後に実現するその光景を想像しながら覚悟を決めた。
ここへ来てから経つ時間はまだ二日。けれどそれは回答期限までの七分の一、一週間に例えれば月曜日が終わろうとしている位置にある。受動的なままで正答にたどり着けると高をくくるには、いささか不安になり始めても良い頃合いだ。
だから俺は今夜、花子に対してある種の必勝法を仕掛ける。様々なリスクはあるけれども、向こうから来る物に対してああでもないこうでもないと煮詰まっているだけならば、そろそろ能動的に動いてみるべきだろう。
俺はまた、あの冷たい視線が今度こそ自分に向けられることを想像して、それに耐える心構えをする。「できるだけ仲良く」という目標の優先順位は、あくまでも「脱出」の次にある物だから。