常識が通用しないこの環境で少しでも安全に暮らすために、プライバシー以外の情報は基本的に四人全体で共有される。
その日の夕食時、全員が集まった食堂で、チャカは俺の部屋で話したことと同じ内容をその場の全員に語った。
「というわけで、みんなくれぐれも青ウニくんに楯突かないように」
「はーい」
「ふーん……」
「……申し訳ない」
責めるような目でAに射抜かれて、俺はとりあえず頭を下げるしかなかった。……そういった圧も彼女の虚勢の一部であるのかと思うと、なおのこと居たたまれない気持ちになる。
夕食を終えたあとは各々のタイミングで風呂に入る。すでに全員ともそれが暮らしのルーティンになっている。いつも通り着替えは脱衣場で召喚することにして手ぶらで青色の暖簾をくぐり、ロッカーにはなんとなく鍵をかける。
……今晩このあと自室で落ち着いた頃には花子が訪ねて来る。その時に俺はまた、遠慮した不味い性欲の提供を避けるのであれば、相応の暴力を振るわなければならなくなる。気が重いどころの騒ぎで済まないのは、間違いなく相手の方なのだけれど。
そんな風に花子のことを考えながらものぼせることなく風呂から出ると、暖簾から出てすぐのところでちょうどチャカと鉢合わせた。
「お、ナイスタイミング」
「どうも」
「青ウニくんってさ、サウナ入ってる?」
「え? いや」
大浴場内の設備は充実している。ジェットバスや露天風呂などバリエーションに富んだそれらの中に、たしかにサウナも採用されてはいた。それを知ってはいるけれど、単純に興味がないから利用はしていない。
チャカは愛好家なのだろうか? 答えてから想像したけれど、そのわりには向こうの返事にも気がない。
「そうなんだ」
「ええ。チャカさんは好きなんですか? サウナ」
「いや、私も大体入らないんだけどね。単純にこう、男の子にしては長風呂だなぁって」
「……あぁ。まぁ、このあとのことを考えるとちょっと、いろいろですね」
心の準備が必要だよね……という意味で言ったのだけれど、それに対してチャカは目を丸くする。
「えっ、一回抜いてるの……?」
「は……? あっ? いや、違う違う、心の準備がって意味です」
「あ、なんだ。びっくりしたぁ」
「こっちがびっくりですよ」
それはまぁ長くエッチを楽しむために一回抜いておこうなんてことをされた日には、死活問題である性欲まで抜けてしまいかねないとサキュバスたちが気が気じゃなくなるのも分かるけれど。そんな愚行を俺が犯すと思われていたのは心外だ。どんなサイコパスならこんな環境下でオナニーなど出来るというのだろうか。
……とはいえ言われてみれば、ただ男が長風呂をしているというだけでもサキュバスたちにとっては不安の種になるのかもしれない。それについては正直考えたことがなかった。やはり今の自分の立場は、本当にちょっとした一挙手一投足で他人を脅かしてしまうものらしい……と再認識させられる。……が、それは正直、こちらとしても中々にしんどい。
そのうちまた精神的に追い込まれたAが男湯に乗り込んできて「アタシのこと見捨てるの……?」とか言い出したらどうしよう……。そんな一抹の不安を胸に、俺はチャカと別れて自室に戻った。
そしてそれから一時間もしないうちに、コンコンコンと三度ノックが鳴る。
「開いてます」
と答えてから、その言い方だとなんだか期待に胸を踊らせていたみたいで嫌だな……考えすぎかな……と、言ったあとに考えても仕方がない自意識が頭をよぎった。
部屋に入ってきた花子の淡いピンク色の髪は、まだしっとりと湯上りの雰囲気を残していた。相変わらず服は浴衣を着ている。あえて他の服にする理由もないのか、それとも浴衣以外の服を召喚することが出来ないのか、俺は知らないけれど、後者ならチャカあたりがすでに話題に上げていそうだから、たぶん全員が前者なのだと思う。
あの時、Aの陰口の聞き役をしていたはずの花子は、しかし一切の緊張を感じさせない素振りで俺の部屋にやって来た。むしろいま心臓の鼓動はきっと俺の方がはやいペースで鳴っている。
俺は今晩、ここで作戦を実行しなければならない。
「青ウニくんもお風呂入った?」
「あ、はい」
「汗かいちゃうかもしれないのに」
どこか機嫌よく、しかし同時に何にも無頓着な感じのする声で、花子は言う。そして、敷かれた布団の上にちょこんと座った彼女は、羽織ったコートでも脱ぐみたいな気軽さで帯を緩めて、下着の肩紐が伝う肌色をあらわにし始める。
「わたしは何したらいい? してほしいこととかある?」
「……それなんですけど」
俺は服を着たまま、彼女の傍に膝で這い寄る。そして例の「必勝法」を、ついに口にした。
「…………俺のことを、お父さんと呼んでくれませんか?」
「…………お父さん?」
聞き間違いか? と、花子の顔に書いてあった。
しかし残念ながら聞き間違いではない。気を違えたわけでもない。俺は重ねて言う。
「そうです、お父さんです」
「……そう呼んでほしいの?」
「はい」
「ずっと?」
「ずっと……ていうか、まぁ、今晩は」
「へぇ……」
存外、その要求を受けても、花子に表情らしい表情は宿らなかった。いつも通りのどこかとぼけたように気の抜けた様子が、剥がされることなく今もそこにある。
正直、ちょっとホッとしている自分がいた。ドン引きされることも覚悟の上だったのだ。それも、自分の性癖に従った結果として報いを受けるのではなく、我ながら滑稽としか思えない要求で不服にもドン引きされることを覚悟していた。けれどそれはほとんど杞憂で済んだようで何よりである。
はだけた浴衣や下着をするすると脱ぎ捨てながら、愛想良くも淡々とした調子で花子は言う。
「いいよ。じゃあ青ウニくんは、今だけわたしのお父さんね」
「あ、はい。……それともう一つお願いしたいんですけど」
「なぁに?」
「大好きって、たくさん言ってほしいんです。してる最中とかに」
「うん。いいよ? ……ふふっ、ねぇお父さん。だいすきだよ♡」
「んっ」
気色の悪い要求をものともせず、あつらえたような妖艶な笑みを浮かべた花子に、俺は唇を塞がれた。
「ん……♡ お父さん、だいすき……♡ お父さんとキスできるの、しあわせ……♡」
……幸せと来たか。
さすがはサキュバスと言うべきか、細かい指示を出すまでもなくこちらの意図を汲んでいる。……なんて他人行儀なことを思いながら、俺はその後しばらく彼女を抱きしめたり、頭をなでたりしながらも、基本的にはされるがままにしていた。
無論、そのまま甘く平和なセックスだけで事を終えるようなことは、決してなかったけれど。
俺は悪趣味なエロが好きだ。だからこそ、俺は考える。悪趣味とは、そもそも何なのかと。この世にはどんな悪趣味さがあって、自分はどれだけそれを知っているのか。あるいはどんな悪趣味さが、まだ自分の知らない場所にあるのだろうか。……そんな性的探究心一つでインターネットの海を泳いで過ごした一日もあった。それも一度や二度ではなく。
するとそんな日々の中で、ある一つの話題に行き着いたことがある。それは「風俗嬢の愚痴」だ。そこには性行為を売り物にしている女性たちが赤裸々に語る「されて嫌だったこと」が書いてある。何をどうすれば彼女たちの尊厳をより徹底的に踏みにじり、その心に傷を負わせることが出来るのか。その具体例の山がそこにはあった。
俺がそれを見た当時、風俗嬢という職業はまだまだ人間の物だった。そこが今のようにサキュバスたちに取って代わられた世界ではなかったからこそ、愚痴には悪趣味の宝がわんさかと転がっていた。
そしてその話題のうちの一つに、こんな書き込みがあった。それは珍しく女性の書き込みではなく、客として風俗に訪れた男性が書き込んだものだった。
内容は、要約すればこのような物だ。
『自分の娘と同じくらいの歳の子を抱いた。こちらのことを「お父さん」と呼んでほしいと頼むと、彼女は笑顔の二つ返事でそれを承諾してくれた。……けれどプレイの最中、騎乗位をしている時に、彼女は突然泣き出してしまった。どうしたのかと訳を聞くと、どうやら彼女は子どもの頃、実の父親から性的な虐待を受けていたらしい……。話しながら、突然泣き出してごめんなさいと、彼女はしきりに謝っていた。謝らなければならないのはこちらの方なのに』
……俺はその話を今でもよく覚えている。だからこそ「お父さん」は必勝法で、だからこそ、黒幕は俺をこの旅館に連れてきたのだと思った。
性的虐待の主犯なんて、そのほとんどが父親だろう。俺はそう高をくくっていた。三人のうちの誰かの心を抉ることと引き換えに、それぞれに一度ずつそのプレイを試せば答えは容易に見つかるだろうと。……俺には能動的な手段がそれしか思いつかず、そして初日のAに振るった暴力と比較したそれが、今さら特別に禁忌だとは思えない。あるいは禁忌といえば、俺の発想することの全てがそうなのだろう。改めてそれを自覚するまでに、二日の時を要してしまったけれど。
……しかし結論から言って、少なくとも花子には、その必勝法が一切通用しなかった。
「あの子、Aちゃんは、これで音を上げたんだ?」
念じれば叶う力によって、荒れた部屋はあっという間にピカピカに整頓される。花子の体はサキュバスの不死身性によって、暴力を受けた証拠の隠滅としても完璧に、行為を始める前と変わらない綺麗な状態に戻る。
お父さん大好き。お父さんにいじめてもらえるの嬉しい。愛してる、もっとしてほしい。わたし、お父さんの娘に生まれてよかった。……そう言わされながらつい先程まで散々な暴力に晒されていた花子は、今は浴衣の帯を締めつつ薄らと笑っている。
俺の見当違いでなければ、それは嘲笑であるように見えた。……ただしそれは、俺に対しての物ではなかったようにも思える。
「わたしはこれくらいなら全然余裕だから、ムラムラした時は遠慮しないでね。もっと過激なのでもいいし」
そう言ってこちらに向かってはにかむ彼女も、内心は嫌悪に煮えくり返っているのだろうか? Aと違ってバレないようにと上手く注意した陰口を、俺の知らないところで明日には吐いているものだろうか? ……もしそうだったとしても、俺には無理だ、それを見抜けない。馬鹿みたいに、目に見える物の表面だけを見るしかない。
「あ、あぁ。ありがとう」
無責任に信用するわけではなく、ただ自分の鈍感さを諦めて、表面上の言葉に素直に礼を言う。すると花子はくすくすと笑って、「どういたしまして」と応えた。
……ハクレナなら絶対にしない反応だと思った。やはり花子はハクレナとは違う。きっと何もかもが違う。あらゆる被虐を平気で望む心の持ち主とは、何もかもが……。
と、別の女性のことを思い浮かべていた最中に。
「……ところで」
と言って、布団の上で脱力していた俺の手の甲を、花子がスッと細い指でなぞる。俺も脱いだ物は着終えていたから、そこから延長戦が始まるわけではなかったけれど、しかしその手つきは妙に艶かしかった。
そして花子はすべてを見通すような目で、上目遣いに俺を見る。
「今日、Aちゃんとはどんなことをしたの?」
「え……?」
「ゲームセンターからトイレに行った時、何かしてたよね?」
「……ま、まぁ」
「何をしたの?」
「いや、何かはしましたけど。……なんでそんなこと聞くんですか」
「……気になっちゃって。どうやって仲直りしたのかなって」
その言葉には、どこか恨みがましさがこもっている気がした。
陰口の聞き役を担わされた者として、俺とAの仲が修復されたことが気に食わないのだろうか……? 自分はこんなに頑張って媚びを売っているのに、どうしてあんなヘマをした女が許されるのかと。
「どうやってって、こう、普通に、お互いごめんねって感じですよ。で、仲直りのセックス……みたいな」
「ふーん?」
「なんですか……?」
「普通に……なんてことあるのかな。逆ギレして死ねなんて叫んで、そのあとずっとどこ行っちゃったのか分からなかった子と、普通に仲直りって……?」
今度は明確に、疑いの眼差しがこちらに向く。
……命の危険には程遠いけれど、何か一触即発に近い物がこの場に降りてきているらしいことが、鈍感な俺にもだんだんと察せてきた。
しかし、いったいなぜ……? 花子は何に不満がある? チャカといい花子といい、俺の部屋で緊張感をかもしだし始める人たちは、いつも何を考えているのかが分からない。
言葉を選ぼうにも、選ぶ基準が分からなかった。
「ま、まぁそうですけど……。でも実際、幸いにも、仲直りできたわけですから」
「……まぁね」
納得しているとは思えない相槌が返される。そして実際に花子は、
「単刀直入に言うんだけどさ」
と舌戦の火蓋を切り落とした。
「青ウニくんは、なんだか満足してるよね。わたしとする前から」
「え」
「Aちゃん相手にすっきりしちゃったのか、それとも、何か遠慮してるの……? ていうか正直お父さん呼びは、青ウニくんの性癖じゃないよね? 自分から頼んできたのに、なぜかずっと困惑してる感じだったし」
「あ、ちょっと待った! ストップ!」
「……なに?」
詰められている最中でも、優先順位第一位からの脳内警報は鳴る。初日の自己紹介で偽名を提案した時にAから向けられた不満げな視線をトラウマ的に思い出しながらも、俺は努めて簡潔に説明した。
「お父さん呼びの件は、マジでノーコメントでお願いします。その……ぶっちゃけクイズ関連のことなので、ちょっと危ないです」
「あ、そうなの? わかった」
特に不服そうでもなく花子が納得してくれたのは、意外だけれど幸いだった。
クイズの「反則」は、サキュバスたちが「それと分かった上」で「答えやヒントを教えること」にある。言葉によっても男を手玉に取ることを生業とするサキュバスたちにしてみれば、そんな反則を回避し続けることだってお手の物なのかもしれないけれど、それでもクイズ関連の話題を掘り下げれば掘り下げるほど、言葉のやり取りが窮屈になっていくことは間違いない。そして何より、万が一にでもうっかりミスをしようものなら、俺たちはそれで一生ここから出られなくなってしまう。
向こうがいくら喋りの器用さに長けていても、俺の方は見ての通り、会話が数回往復すればもう追い込まれてしまうような弱小だ。お父さん作戦を自分の性癖だと言い張ることで真意を隠しながらなおかつ会話は進行させる……なんて芸当は到底出来そうもない。しかもその一方で、必勝法たるその作戦の進行度はまだ三分の一である。それならば今は危ない橋を渡るよりも「作戦の進行」と「事故を避けること」を優先して、話せない理由を正直に言った方がマシだと判断した。
……というのは方便だろうか? 俺の内心に、言い逃れのための意図が全くなかったといえば嘘になる。何せ俺はAのプライバシーを守ることを本人と約束したのだ。言い逃れは全力でしなければならない。
だけどそういう場合に限って、花子は思いのほかしつこかった。
「で、Aちゃんの件なんだけど。なにがあったの……?」
「……言えないんですよ。プライバシーに関わることなので」
「じゃあ青ウニくんのことは? Aちゃんが逃げ出した時、わたしは君を誘ったのに、朝はあのままわたしが黙ってたら、またジャンケンする流れになってたよね?」
「あっ……。それはまぁ……すいません……。やっぱりなんか、こっちから指名するとかって、結構いざこざがありそうで……」
「本当に?」
「え?」
「わたしのことが好みじゃないなら、そう言ってくれてもいいんだよ?」
「えっ、いやそれはない」
思わず即答してしまう。
脳裏によぎったハクレナが、遠くで「ふーん」という顔をしていた。青ウニくんってこういう女も好きなんだね……? と。
しかし、人間的にはいくらか不味かったかもしれないその即答も、サキュバス的にはむしろ功を奏していたらしく、
「……ならいいんだけど」
と、花子の態度が少しクールダウンする。
……皆、本当に不安に塗れた生活を強いられているんだなと、俺は自分の不甲斐なさを痛感させられてばかりいる。他のことならまだしも、どうして「性欲を提供する」という男にとって容易極まる課題の中で、こうも下手くそにしか立ち回れないものなのかと。
しかしその「立ち回り」という概念は、当たり前といえば当たり前なのかもしれないけれど、なにも男だけの物ではない。少し落ち着いた様子の花子が、それも愛想の一環なのか、あえてそのことを口にした。
「……わたし、正直Aちゃんには怒ってるの。あの子が陰口なんか言わなければ、青ウニくんにそれが聞かれることもなかった。それを聞かれることがなければ、青ウニくんは今頃もっとノリノリで、自分の気持ちに正直なエッチをしてくれてたかもしれない。なのに、始まって早々にあの子は……」
「あぁ……なるほど。そういうことなんですね」
「そういうこと……?」
「いや、花子さんはなんというか……耐性がある人みたいなので。そうじゃなかったAさんに、もっとしっかりせんかいみたいなことを思ってるのかと」
「あー、うん。それも思う」
「あっ」
「でもやっぱり、あの子が青ウニくんに余計な不安を感じさせたことが一番許せないよ。チャカさんだって少なからずそう思ってるはずだし……」
「ど、どうなんでしょう……?」
Aにはちゃん付けで、チャカにはさん付けなんだ。と素朴に思う。年齢が見た目に出ないサキュバスの上下関係なんて人間に分かったものではないが、もしかしてサキュバス同士には歳を見分けられる何かがあったりするのだろうか? それとも単純に見かけの精神年齢の問題か……?
そう考え始めたことで、そういえば花子が俺に対して一ミリも敬語ではなくなっていることに気がつく。いつからそうだったかと記憶を手繰るに、おそらく逃げ出したAを追うに追えなかった時からだ。花子が「誘った」というあの時から、きっとすでに敬語は消滅していた。
それに今の花子はやけに……意外なほどに饒舌である。セックスしたことで距離が縮まったと見ていいのだろうか? それともやはり彼女は今のように、無感情を装った中に様々な物を溜め込んで、時々爆発してしまうタイプなのだろうか。爆発という表現をするには、まだ少しおとなしすぎる気もするけれど。
「で、だからあの子のことに納得したくて、どうやって仲直りしたのか気になるの。……どうしても教えてくれない?」
「ダメです。マジのプライバシーなので」
「……じゃあもう聞かない」
そう言ってくちびるをとがらせた彼女は、それでようやく、この件について聞き出すことを諦めてくれた。諦めて、拗ねて、そしてそのままその場の布団に潜り込む。
「ちょ、おーい。自分の部屋戻らないんですか」
「Aちゃんは戻ったの? 昨日」
「え? そりゃまぁ」
「へぇ〜。それは確かに、嫌われたんだね」
「……え、そういうもの?」
あの日のAは、後に演技だったと分かる機嫌の良さで「またよろしくね!」と元気に自室へ戻っていったことを覚えている。でも言われてみればそうか、あれは、一刻も早く俺から離れたかった故のことなのか。
そう言われると、こちらが完全な加害者であるにも関わらず、身勝手にも普通に心が痛くなってきた。そして俺はその日、それを慰めてもらおうとしたわけではないけれど、花子を部屋に入れたまま眠ることにしたのだった。
ハクレナや、それからコルカのおかげで、異性が真横で寝ていても爆睡できる精神を俺はすでに手に入れている。ただ、この旅館の中ではそれがかえってサキュバスたちを不安にさせてしまうこともあるのではないかと思うと、なかなか気が休まらなかった。消灯した暗闇の中で、すーすーと聞こえてくる花子の寝息が演技ではないことを祈って目を閉じる。そして彼女が翌朝になって忽然と姿を消したりなんてしていないようにと、同じように祈る。
……黒幕は男の味方をしている。チャカの導き出したそんな見解が、うつらうつらとしてきた頭の中によみがえってくる。そしてそれに対して今の俺は思った。本当にそうだろうか……? と。
黒幕の少女は、サキュバスたちが不安に苛まれ、時にはそれに屈し、尊厳を傷つけられながら苦しむ様を見てきっと喜んでいる。そしてその喜びを生む材料として、唯一の男である俺のことを優遇してくれている。それは間違いない。間違いないけれど……。
あの性悪女はそれと同時に、俺がこうしてそれなりに思い悩んでいることに対してもまた、手を叩いて喜んでいるのではないか。女性に暴力を振るい、そのくせ相手から嫌われたことにショックを受けるような男の滑稽な様を見て、今もどこかで笑っているのではないか。
俺には、そうとしか思えなかった。