爆笑された時点でなんとなく察したけれど、結論から言って、お父さん作戦がチャカに与えた精神的ダメージは見るからにゼロだった。……あるいはいくら他人の内心が分からないとはいっても、これでチャカがひどく傷ついているようなら、もはや俺には何も分からず、この作戦自体にも意味がないと言わざるを得なくなる。
昨日の夜二回も歯をみがいて、朝起きてまた歯ブラシを片手に部屋を出ると、なんだか痴呆症にでもなったような気分になる。念じるだけで済むらしいチャカもまた歯ブラシを片手に隣を歩いていたのは、食事と同じで付き合いということなのだろう。
「ねぇそれで昨日の作戦には、いったいどういう意味があったの?」
「言えるわけないでしょう。ここに骨を埋めることになっちゃいますよ」
「え〜。本当はクイズとか関係ないんじゃない?」
「誓ってそれはないです」
「あはは」
談笑しながら二階に向かい階段を降りる。女子寮とでも呼ぶべき領域へ足を踏み入れることにもすっかり慣れてしまって、朝起きれば隣にサキュバスがいることへの慣れと合わせて、どんどん自分が人として擦れて行っていることを感じる。……サキュバスたちの方もこの生活にいくらか慣れていてくれると幸いなのだけれど、どうだろう? 「男慣れしていること」と「この環境から受けるストレスへの耐性」が必ずしも一致しないことだけは、ここを脱出するまでの間片時も忘れてはならないと俺も思ってはいるのだけれど。
……と、ちょうど階段の踊り場から二階廊下に出ようとした時、絶妙にトラウマを刺激する遠い距離感から、女性の声が二人分聞こえてきた。
思わずフリーズして立ち止まると、それにつられてチャカもつんのめる。
二人分の声はどんどん近づいて来ていた。
「……ずっと微妙に気になってたんだけどさ、偽名の由来ってある?」
「由来? Aちゃんは……?」
「アタシは普通に、パッと思いついたのがAだった。……あーでも、そういえば本名のイニシャルもAだ」
「へぇ〜。わたしは、トイレの花子さん」
「え、あれじゃなくて? なんか書類の見本とかに書いてある、山田花子的な」
「じゃなくて、トイレの方。……実は機会があったらいつか名乗ろうってずっと思ってて」
「へぇ……なんでまた。怪談好きなの?」
「じゃなくて、似合うでしょ? トイレだよ、トイレ」
「トイレがなに……?」
「だから、肉便器って…………あ」
ちょうど話にオチがついたところ……あるいは聞かない方がよかった内容が口にされたところで、俺はAと花子に鉢合わせた。
肩をびくつかせたAが、ギョッとした表情に怯えを滲ませる。俺と同じく、彼女にとってもこのシチュエーションはトラウマになっているのだろう。
一方で、どうにも気の抜けた表情の花子は、「あー」と少しの間だけ思考を挟んだあと、スッとAを指さして言った。
「Aちゃんがまた青ウニくんの悪口言ってた」
「……はぁっ!?」
その時のAの表情の移り変わりは、見ているこちらの胸が締め付けられるような悲痛なものだった。
「いっ、言ってなっ、言ってない! 言ってない!!」
泣き出しそうな顔で潔白を訴える彼女の必死さに、俺もハッとしてフリーズ状態から抜け出す。
「わ、分かってる! 大丈夫! 全部聞いてた! 本名ア行ね! ねっ!?」
「あっ、は、はぁ……!? また、まっ、また盗み聞きしてたコイツ!? ねぇ! 盗み聞きッ……!!」
「あははっ。あ〜なるほどね? おもしろ〜こんな感じか」
しれっと他人事みたいな顔をする花子、わめくA、焦る俺、過去の光景に見当がついて面白がるチャカ。踊り場と廊下の境目にて、朝っぱらから阿鼻叫喚の騒ぎ。
チャカとしては、目覚まし代わりに叩き起されたわりに自分だけ蚊帳の外だった話題に追いつけて満足したのだろう。この場で笑っているのは彼女だけだった。そして、この場に収拾をつけられるのも彼女だけだった。
ひとしきり笑ったチャカが、花子の頭に突然軽いチョップを入れる。
「いやー、笑った私も悪いけど、嘘はよくないよ。花子ちゃん」
「あ、ごめんなさい」
「Aちゃんもごめんね。階段降りてきたら、私も聞こえちゃった」
「え、あ、いや、べつに大丈夫だけど……」
「なら、よかった。……じゃあ青ウニくん、行こう?」
「あ、はい」
嘘みたいに速やかに、騒ぎは一瞬で鎮火した。こういう時、誰もチャカには悪感情を抱かない。リーダーシップとやらの賜物を見た気がした。
前回の場にもチャカが同席していてくれたら……と思わず考えてしまう。やはりここに閉じ込められた四人の中で、人をまとめるのに値する人格者は彼女しかいないのだ。
今朝の食堂で、今後ジャンケンは行われないことが決定された。A→花子→チャカ……の順序をわざわざ変える理由も特にないだろうという方向で話がまとまったのである。
相変わらず昼間はすることがなく暇だった。初めのうちは、いつか話していた通りみんなでマリオパーティでもするか……という流れになり、階段から一番近いからという理由で選ばれたチャカの部屋に集合して遊んだ。Aがミニゲーム全般で頭一つ抜けて強かったけれど、彼女は不憫の星のもとにでも生まれているのか、すごろくにおいてはいつも最下位付近をさまよっていた。
ゲームが終われば全員が集まっておく口実もこれといってなく、各々行き先も告げずに解散の運びとなる。全員がその場で漫画でも読み始めてくれれば俺も居座ることが出来たのだろうけど、さすがにチャカと(というか誰とでも)二人きりで部屋に居るのは憚られて、かといって自室で昼寝と洒落込む気にもなれず、俺は暇つぶしに再度の旅館探索に出た。
探索の成果その一。食堂では一人でも飲食物を好きに召喚することが出来る。一人きりで訪れたことはそういえばなかったな……と気づきそれを確かめたけれど、どう考えても特に有用な情報ではない。
探索の成果その二。そういえばこの旅館には「一人用の物」が存在しない。トイレの標準的な広さを見て男は一人しかいないのに……と思っていたけれど、よく考えればそれは脱衣場のロッカーや浴場のシャワーの数、湯船やサウナ室の広さ、食堂の席数に開きもしない客室の数等々……全てのことに共通して言えることだった。ちなみに浴場内では蛇口に触れずとも念じることによって(しかも複数を一度にでも)シャワーから湯を出すことができることを知り、超能力者気分を味わえることを発見した。すべて、だからなんだという話だけれども。
そして、探索の成果その三。サキュバスたちは、あまり部屋の外に出ないらしいということ。俺は暇に任せてあちこち歩き回ったけれど、その中で三人のうちの誰に会うこともなかった。ゲームセンターで「ワニワニパニックを素手で叩くと電流が流れる」という原理不明のペナルティを設定出来ることを発見した時も、卓球台に自動で球を発射する練習用のマシンを召喚出来ることを発見した時も、そこには誰もいなかった。それが何を意味するのかについては、俺には分からない。
そんな意味のない発見だらけの生活も、だらだらと続けていればそのうちに終わる。いつしか夕食が始まって終わり、風呂に入って出て、俺は寝支度を終える。……そうすると次は、もうすぐここ三階の自室へと、順番通りにAがやって来る。
彼女の演技を見抜けなかった一度目と、男子トイレまで乗り込んで来られた二度目の光景がそれぞれ、否応なしに頭の中をぐるぐると回る。それらを踏まえた三度目が平和な物になるとは俺には到底思えないけれど、不安なのは向こうも同じだろう。
何はともあれ、俺は作戦を最後まで遂行しなければならない。もしAにお父さん呼びを強制して、彼女が過去に含みを感じさせる動揺を見せたなら、俺たちの監禁生活は晴れてここで打ち切りになる。二週間を待たずにさっさと回答を済ませて、全員ともここよりはマシであろう元の生活に戻ることが出来るのだ。その可能性があるからには、不安だろうと気が進まなかろうと、やるべきことをやらなければならない。
……けれど根拠のない予感として、俺は「そう上手くはいかないだろう」と半ば確信していた。そして案の定、その予感は当たってしまう。
部屋を訪れ、服を脱ぎ、作戦を目の当たりにしたAは、彼女自身の過去とは一切関係ないと思われる、素でドン引きしたリアクションを見せたのだ。
「え……そういう趣味まであるんだ……」
「ま、まぁ」
「……まぁやれって言うならやるけど」
しぶしぶの承諾。けれどそこはさすがに初日の夜を演技で乗りきったサキュバスらしく、いざ行為が始まれば花子やチャカと遜色ない愛想のよさで「お父さんだいすき♡」が飛び交う。その最中に泣き出すとか、嫌悪感を隠せなくなるとか、そういったことは一切なかった。
プレイ提案時のAの嫌そうな態度は、あえて考えるのであれば三人の中では一番「トラウマ持ちの反応」に近かった気もするけれど、それはあまりにも消去法に頼りすぎた見解だといわざるを得ない。彼女が嫌悪感を隠しもしなかったのは、すでにそれを隠すには手遅れである現状と、それを踏まえた上での彼女の性格……ただそれだけによることだろう。これをもってクイズの回答を決めるというのでは、いくらなんでもリスキーが過ぎる。
しかし、せっかく他の二人のような「これでトラウマ持ちならもはや何も分からない」という反応とは若干違うものに出会えたのだから、もう少しそれを掘り下げたいとも思った。……しかしセックスを終えてから具体的な掘り下げ方を熟考していたところで、俺は今さらながらにある致命的かつ根本的な疑問に思い至る。
ルール上、クイズの出題内容を説明して答えを直接教えてもらうのはアウトだ。こちらから説明せずとも内容を悟られて答えやヒントを直接もらうこともアウトだ。……では、相手にはクイズの内容を少しも悟られず、それでいて答えその物を上手く聞き出せてしまった場合はどうなるのだろう? たとえば俺の性癖を心底から軽蔑したつもりのAが、本当にただそれだけを意図して「アタシ父親にレイプされたことあるからマジで無理なんだけど」とでも言っていたらどうなる? というかそもそも、黒幕は俺たちの発言の「意図」を全て正確に把握できるというのか? どうやって?
と、考えた瞬間だった。
「そうだね。いい質問だよ」
デジャヴ感を伴う、数日ぶりに聞いたその声。それは目の前にいるAの声ではなかった。
……Aは、もうその時には、凍りついたようにその場で動かなくなっていた。瞬き一つせず、息遣い一つ感じさせず、仰向けの状態から起き上がりかけた不自然な姿勢で、彼女は彫刻のように停止している。
まるで時が止まったみたいだ……。そう素朴に感じた矢先に、それくらいの芸当をしてみせてもおかしくない人物の声が、視界の外から聞こえたのだ。
声のした方を振り向くと、ローティーンじみた少女の小さな体と、長い黒髪の内側を染めるブルーが目に映る。
俺もAも裸だけれど、彼女はきっちり服を着ていた。初対面の時にはそこまで気が回らなかったけれど、彼女の衣装はボタンで留める白いシャツにスカートといった至極普通の物で、けれどそれが、浴衣しか着ないサキュバスたちに囲まれて暮らすこの旅館の中ではひどく浮いて見える。
黒幕の少女が纏う底無しの自信は、相変わらず声だけではなく表情にも表れていた。
「クイズの内容を悟られずに、答えその物を聞き出せた場合はどうなるのか? というと、その質問に対する回答はね、「君たちの勝ち」だよ。わたしが今こうして現れて、こうして君の疑問に回答してる時点で察してるかもしれないけど、わたしには君たちの考えてることが読めてるんだ。つまり「悟られたのかどうか」はこっちで確実に判断できる。事故で失格になったらお互いつまらないだろう? だから出題内容を悟られていない場合は、答えを直接聞き出せたとしても合法ってことにするよ」
「……それでいいのか?」
「うん、いいよ」
「……わかった」
性悪なゲームマスターにしては意外なほどの譲歩……と、額面上は言える裁定だった。
しかし内心では、俺はむしろ希望を失っていた。彼女がそれでいいと言うならば、きっと俺の試みは不毛に終わるのだろう。それが分かっているからこそ、彼女は平気でそんな裁定を下すのだろう。そう確信できてしまう。もし俺が上手く答えを聞き出せてしまう可能性が今この瞬間に僅かばかりでもあるなら、この趣味の悪い少女はそれを不問になどしなかったはずだ。この悪趣味なゲームを考えた人物に、そんなフェアプレーの精神があるわけがない。
……という思考を、全知全能の力でも使って読み取ったのか。黒幕の少女は嘲るような笑みを浮かべながら、手を振りつつ空気に溶けるように「じゃあ、頑張ってね」と透けて消えていった。
途端、今度こそ仰向けから起き上がったAが苛立った声で言う。
「ねぇ、なんで好きでもないプレイなんかさせるの?」
「え」
「今までと全然味が違う。濃さも。……こっちはそのためだけにやることやってるのに」
「あ、あぁ。ごめん……」
あくまでもうっかり、といったスタンスを保って、俺は言う。
「誰しも実の父親とセックスなんてしたくないだろうから、擬似的にそれを再現したら、Aさんが今までみたいに良いリアクションをしてくれるかもって思ったから……。けど、やってみたら結構ノリノリだったから、ちょっと肩透かしだったかも」
「……はぁ?」
言われたAは、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていた。誰がノリノリだ……と。
その時点で俺は、あぁこの子も違うんだな……と察する。結局三人とも、トラウマを抱えているらしい反応を見せることはなかったのだ。
一応は俺の目論見通りに、Aには質問の意図が一切伝わっていないと思われた。だからこそ、彼女はなおさらに怒る。
「なにそれ。言っとくけどアンタの趣味に付き合うくらいなら、マジでパパとする方がマシだからね」
「したことあるんですか?」
「あるわけないでしょ!」
「ていうかパパ呼びなんですね」
「なっ……。わ、文句あるの……?」
「ないです」
実の父親とまぐわうより嫌。……その言葉に嘘がなければ、彼女にとってのトラウマはむしろ、今この瞬間にこそ続々と形成されている物だ。もしかすると彼女は、二度と晴れ晴れとした気持ちでは旅行に行けなくなるのかもしれない。そう考えると心苦しい。俺がサディストでさえなければ、この旅館の中でも外でも、Aはもっと楽に生きられたかもしれないのに。
……いや違う。自分が望んで彼女を連れ込んだわけではないのに、どうして俺がこんな罪悪感に苛まれなければならないのか? 久しぶりに黒幕の顔を見たからか、なんだか無性に腹が立ってきた。奴と俺とでは、趣味の悪さはいい勝負なのかもしれないが、節操の有無が違いすぎる。
「……で、今晩はもう終わり?」
「え?」
「もうスッキリして満足しちゃいましたっていうなら、アタシは帰るけど」
「……あー。すみません」
「ん」
建前として聞いて答えてをしたけれど、性欲を察知できるサキュバスにとっては聞くまでもなく分かっていたことなのだろう。今日の青ウニから、これ以上ロクな性欲は得られない。
作戦の失敗、黒幕への苛立ち、そしてノルマのようにある連日のセックス。諸々が重なって、今晩の俺はもう気持ち的に打ち止めになってしまっていた。
じゃあねの一言も無しに、Aは浴衣を着直して部屋を出ていった。黒幕に心の中すら読まれるこの旅館の中で、見かけばかりのプライバシーを取り戻した俺は、服も着ないままその場で布団の上に寝転がる。
……明日からどうしよう? 道徳と引き換えに得られる必勝法だと思っていた作戦が失敗して、俺は完全に手詰まりとなってしまった。
翌朝、四人揃って朝食を摂ったあと、自室に戻ろうとするチャカを俺はゲームセンターに誘った。「二人きりがいい」という誘い方をしても、彼女なら余計なストレスを感じずに来てくれるはずだと思ったし、そもそも俺がそれを話すべき相手は、やはり彼女一人だけだろうとも思ったから。
口実として誘った目的地にたどり着くまでもなく、その道中で、俺は正直に自身の手詰まりを告白した。詳しくは話せないけれど、必勝法があると思っていたのにそれは空振りに終わり、他に思いつく手がありません……と。
チャカからは、
「あぁ、そう」
と、あまり興味のなさそうな相槌が返された。
最後の方は俺自身ですらそう思っていたように、チャカもすでに心のどこかで「彼のやることは、そう上手くいかないだろう」と思っていたのかもしれない。さしたる絶望感も伴わず、彼女は淡々と言う。
「じゃあ、もう出来ることはなくなっちゃったんだ。これから先」
「……今のところ自力では、そうです」
「自力ではって。私たちが助言しちゃったら、うっかりすると失格でしょ?」
「そうなんですよね……」
だからこその手詰まり。目的を同じにする面々が四人も集まって、核心に迫る作戦会議一つも開けない。四人全員が賑やかかつ密かな孤独に苛まれていく様を、黒幕がにやにやしながら観察していることが肌で感じられる。
話の続きも思いつかないまま歩いているうちに、俺たちはゲームセンターに到着してしまう。遊びに来たわけでもなければ遊ぶような気分でもなく、さてどうしたものか、引き返すか……と考えた瞬間、目の前に巨大なメダルゲームが現れた。プッシャー形式の、幼児から暇なお年寄りにまで幅広く人気のジャンルの物だ。
そのジャンルの特徴は、だらだら長く遊べること。メダル投入口が二つある筐体の前には横長の高い椅子があって、チャカはそこの右寄りに座り、自分の分とは別にもう一つ、小さなバケツに山盛り入ったメダルを召喚しては、左側の投入口の傍にそれを置いた。「はい、君の分」と言わんばかりに。
俺はおとなしく彼女の隣に座る。筐体に合わせて調整された椅子は高すぎて、お互いに少し足が浮く。プッシャーが前後するタイミングに合わせてメダルを投入しながら、きっと無責任に聞こえるだろうと心苦しさを感じながらも、俺は正直な気持ちを話す。
「……これからどうしましょう? 俺はもう正直、どうすればいいのか……」
「……どうすれば、ね」
チャカは、いくらでも召喚できるメダルをそれでも一枚一枚大切に、タイミングを見計らって投入していく。時々払い出し口に落ちたメダルがチャリチャリと手元に流れて来たり、スロット始動の枠にメダルが通って、筐体内のディスプレイでリーチ演出が始まったりする。
彼女は一度もその画面から目を離さなかった。隣に座る俺の方には、一度も目を向けなかった。
「青ウニくんは、元の世界に帰りたい?」
「え……?」
「……私は、結構本気で帰りたいんだよね」
スロットが当たって、少量のメダルが払い出される。その払い出しが終わるまでの間、チャカはメダルを投入する手を止める。……そしてそこからもう二度と、彼女がゲームを再開することはなかった。
動かなくなったスロットを視界に眺めながら、あるいは機械的に前後するプッシャーや微動だにしないメダルの海を無為に眺めながら、彼女は言う。
「仮にね。仮に、女の子を殴ることで、クイズに正解できる確率が0.1%でも上がるなら、私はいくらでも殴ればいいと思う。もっとひどいことでも、死人が出るようなことでも、必要ならすればいい。その対象が私でも、他の子でも、私はそれを肯定する」
「…………」
「それでも出来ることはなさそう?」
「…………何も思いつかないんです」
チャカは頬杖をつく。前を向いたまま。
「そっかぁ」
「すみません……」
リーダーシップと余裕に長けているように見えたチャカですら切羽詰まっている。俺はその事実を、重く理解せざるを得なかった。
俺だって、もし人を傷つけることと引き換えにでも前進できるなら、ぜひそうしたい。何せ話が一歩も前に進まないこと自体が全員の心を傷つけるのだから、出来ることなら犠牲を払ってでも事を進展させていきたい。けれども、では具体的に考えて、他人の過去の闇を暴く方法とはいったいなんだ? 本当に三人の中にそんな過去を持つ人がいるのか? その過去を持つ一人は、初日のAのように、演技によってずっと俺の目をかいくぐっているのか? もはやそんなこと、俺の視点からはにわかには信じられないけれど……。
…………あるいは、その性的虐待には父親が欠片も関わっていないのか? だから必勝法はヒントにかすりもしなかったのか? もしそうだとすれば、父親が関わらない形で行われる性的虐待には、いったいどんな物が考えられる……?
「……あぁ!!」
俺はその時、自分が重大な見落としをしていたことに気づいた。
突然の大声に、さすがのチャカも肩を跳ねさせながら反射的にこちらを見る。俺はそんな彼女と目が合いながらも、痛恨の念に内心一人で悶えずにはいられなかった。
「な、なに……?」
「……ものすごい勘違いをしてました。思い違いというか、思い込みというか」
「はぁ」
「それで何かが解決するってわけじゃないんですけど。でも今気づけなかったら、それどころじゃなかった」
「……というと?」
「チャカさん。さっき、最悪は人を殴ってもいいって言いましたけど、もし今がこんな状況じゃないとしたら、俺に特殊な力なんて無いとしたら、突然男から殴られた時ってどうします……?」
「え……? それは、正当防衛でもするんじゃない?」
「ですよね。……そうなんだよなマジで、クソ」
「どうしたのよ。実際は、ここにいる三人は誰も君に抵抗しない、出来ない。そうでしょ?」
「そうなんですけど。……すみませんこれ以上は出題内容に触れるんです」
「ふむ……」
釈然としなさそうでありつつも、チャカはそれ以上深く聞こうとはせずにいてくれた。
一方で俺は、自分の馬鹿さ加減に頭を抱えたくなる。そうだ、「サキュバスは男から暴力を振るわれたら正当防衛をする」のだ。言い換えればそれは、「サキュバスにはそれが可能だ」ということになる。どんなにか弱そうな見た目をしていても、気が弱そうな性格に見えても、全てのサキュバスには普通ならそれが出来る。なぜなら彼女らには不死身の体と、子指一本で大男をひねり潰せる圧倒的な力があるのだから。彼女らにとって「暴漢に対する抵抗」は、のろまな羽虫を手で払うが如く容易なことであるはずなのだ。
……では、なぜ子どものサキュバスもそれと同じであると考えなかった? 俺は詳しくないけれど、けれどもしもサキュバスが子どもの頃から怪力なら、そして父親が人間なら、あるいは父親でなくとも「その子に性的搾取を行おうとする者」が何はともあれ人間なら、全てサキュバス本人の「正当防衛」で身を守れる話じゃないか。ならば性的虐待は、尽くが未遂に終わるはずじゃないか。
俺は今の今まで、まったくその発想に至れていなかった。性的虐待の大半には父親が絡んでいるだろうと高を括るばかりで、そもそも人間の力ではどうしても、サキュバスに対して虐待だの搾取だのといったことを成立させられやしないのでは……という可能性を致命的に見落としていた。
つまり、もしも子どものサキュバスにも怪力が備わっているのなら。性的虐待を受けていた過去を持つサキュバスがいるということは、その加害者の中に少なくとも一人、人間ではない人物がいるということになる。推理の出発点はまずそこからであるべきだった。
痛恨だ。気づくのが遅すぎる。……けれどそれに気づいたのが二週間後でなかったことはまだ幸いだった。発想を得たからには、今からでもいろいろと情報を集められる。いや集めなければならない。
俺は椅子から飛び降りて、早口になりすぎないように気をつけつつチャカへ伝える。
「すみません、少し調べたいことが出来たので、一度部屋へ戻ります。ただ、自分の部屋では出来ない可能性があるので、その時はチャカさんの部屋に行ってもいいですか」
「え、いいけど。調べるって何するの?」
「本を読むんです。インターネットはどうせ通じないから」
言うべきを言って、自室に向かって駆け出す。エレベーターを待つことは明らかにわずらわしくて、階段で三階までを駆け上がった。そして自分の部屋の中でアバウトに念じる。サキュバスの生態に関して学べる本よ、現れろ……! ググることが出来ないのならそれしかないのだから!
……が、本はどこにも現れない。念じ方がアバウトすぎるのか、あるいは、やはり漫画すら召喚できない部屋でその願いを叶えることはできないのか。詳しいことは分からないけれど、しかし本が現れないこと自体は想定内だった。
今度は努めてゆっくりと、落ち着いて歩いて、チャカの部屋へ向かった。道中で誰かと顔を合わせることはなかった。まるで旅館全体が無人であるかのように静かな廊下の一番手前側、201号室の扉をノックする。
「開いてるよ」
その声を聞いて扉を開くと、部屋の奥で座椅子に座っていたチャカが、どこか照れくさそうな顔で立ち上がりながら「律儀だね」と言った。
「それで本は、やっぱり出せなかった?」
「えぇ。ここで試してみても?」
「もちろんどうぞ」
拒否されるわけもない。返事を聞き終える前に、俺はすでに必要な物を念じ終えていた。
すると、部屋の中にドスンという音が響く。期待しながら音のした方向へ振り向くと、数えきれないほどの冊数が積み重なって、おそらく目当ての物であろう本がテーブルの上に置かれていた。
アバウトな願い方だとこうなるのか……。と、ひとまず一番上にあった一冊に手をかけると、タイトルには「サキュバスと人間のちがい 〜サキュバスにしか出来ないこと、人間にも出来ること〜」とある。表紙の画風からして対象年齢はそれほど高くなさそうだ。
俺が無事に目的を叶えたらしいことを確認して、チャカは玄関の方へ向かいながら、
「それじゃあ私は邪魔にならないように、適当に外に行ってるね」
と言って、自身の部屋を後にした。
……と、廊下へ出た彼女が扉を閉じたその瞬間、俺の手の中にあった本が忽然と消え失せる。ハッとして見ると、テーブルの上に積まれていた本もすべて無くなっている。
冷静に考えればそんなに一分一秒を争う必要はないのに、部屋を飛び出してチャカの背中に声をかける時、俺は落ち着いてはいられなかった。
「チャカさんやばい! 部屋の主がいないと本が消える!」
振り返ったチャカは、お互いの傷を舐め合うような苦笑いを浮かべた。
「あぁそうか。本当にことごとくだね、この場所は」