※性交シーンはありません。リョナ成分を含みます。
執務室で大天狗は唸っていた。手に握られた書類は、本来彼女が決裁する様なレベルの内容では無い。秘書天狗を呼んで叱責しようかと思ったが、止めた。秘書の知らない内に、わざわざ術を使ってまで書類を差し込んでいく者までいるのだ。大天狗の種族でもある鴉天狗は、皆優れた能力を持っている。だが働き者は少ない。人格的に信頼のおける者も少ない。そんな中で不幸な事に大天狗も秘書も、事務仕事を真面目にこなせるタイプだった。
書類と格闘して三時間、大天狗は伸びをした。以前は余裕というものを全く持たないスケジュールで働いていた彼女だが、最近は竹林の薬師の助言を受けて生活リズムを変え始めていた。休憩、休暇を適度に用い、娯楽として“寝て”いる。それでも仕事の総量は変わらないが、運営が滞るのが嫌ならスタッフに応募すればいい、と大天狗は開き直っていた。自分が“いい子”になるのは、ある存在の前だけでいいとまで思い始めている。
窓際に設置した、河童のミル内臓コーヒーメーカーに近付き、黒い液体をマグカップに注ぐ。温かい黒の液体を口に運んだ時。
「大天狗殿!」
ドアを強引に開き、口髭を蓄えた鴉天狗が突然入ってきた。びっくりした大天狗は、うっかりコーヒーを服にこぼしてしまう。職人に特注したお気に入りの山茶花模様ブラウスが、茶色の不細工な迷彩で汚れてしまった。
「少し話を聞いて頂きたい。これは天狗社会の秩序に関わる重大な問題だ」
顔をしかめながら大天狗は服をハンカチでこすった。
「射命丸文、それと下等な白狼天狗の犬走椛。この二人についてだ。奴らを処断する許可を貰いたい」
大天狗は答えなかった。またカップにコーヒーを入れる。口髭の鴉天狗は大股で歩み寄って、香り高い飲み物を払い飛ばした。
「上級議員である私が直接頼み込んでおるのに無視とはな。天魔の覚えが無ければただの書類の虫に過ぎない貴様が! それとも、守矢の軍門に誇りを売り渡したか!」
表情一つ変えず、大天狗はコーヒーメーカーの蓋を開けて、指を振った。中から飛び出した熱い液体が議員の頭から降りかかる。天狗とはいえ、油断していたところへ熱湯をかけられればたまったものでは無い。更に大天狗が指を振ると、床に落ちていたカップが飛んで無様に喚く議員の頭を直撃した。
後ろ盾が無くても、十分大天狗は強い。天魔もそれを熟知しているからこそ彼女に留守を任せている。水ぶくれで爛れた顔を霊力で直そうとする相手に、彼女は近付いて一撃で叩き出そうとした。
「おっと、それ以上彼を虐めないでやってくれ」
穏やかな、だが背筋が凍る気配の声だった。大天狗の足が止まる。背後にいるのか、そうでないのか。確かめるのも怖かった。
「君の顔は見た事があるな。我々がここにいた頃は、確か別の者に仕えていたが、出世したのかい」
青ざめた顔で、顔の傷を治した議員を見る。彼は恐怖の色も浮かべず、笑っていた。
「どうだ。懐かしいか? 生憎私は慣れているのだ。近くにお仕えしていたからな。ただ震えていただけの貴様は、今も変わらずか!」
「おいおい、我々をあまり怖く言われると傷付くよ」
「失礼しました、この成り上がりに一度思い知らせておこうと思いまして‥‥もう充分でございます」
「分かった、それじゃ」
冷たい気配が消え、大天狗が倒れそうになった時。議員が素早く抱き止めた。
「おや、気を確かに‥‥してさしあげましょう」
腹へ拳が食い込み、大天狗は悶絶して倒れる。その身体へ、下駄を履いたままの蹴りが何発も叩き込まれた。
大量のアザを作り、床を血と吐瀉物で汚し力無く横たわる身体。議員は鼻を鳴らし捨て台詞を残す。
「今日二人の処分を決めさせるつもりだったが、日を改めるとしよう。考えておくのだな、一体何人の“鬼”がいるかと!」
相手が大股で部屋を出て行き、部屋が静寂に包まれてもまだ大天狗は動かなかった。
“鬼”に通している天狗がいて、それを発端にまた山へ彼らが戻ってきたら。最悪、山の覇権を賭けた戦争が始まる。妖怪の賢者ですら介入を躊躇う程の争いになるだろう。
傷付いた身体を治しもせず、大天狗は泣き出していた。彼女には天魔を呼び出す術は無い。そして頼りになる腹心も、友人も、いない。どうやってこの難局を乗り切るのだ。
肝心な時に、あの人はいない。
この一部始終を、秘書天狗は気絶していたため見ないで済んだ。そして、大天狗はしばらく口髭を生やした鴉天狗の意のままに、命令書にサインし続けた。山で何かが暴れ、死者まで出たという報告が来たが、彼女は内心必死に耳を塞いでいた。
屈辱の時に、彼女の鬱憤はまたも溜まる一方だった。秘書天狗を始め部下をひどく叱りつけてしまい、心身を病ませてしまう事もあった。竹林の薬師の元へも足が向かない。妖怪の山の頭が脅迫されているなど、他者に漏らせる筈も無い。
歯ぎしりしながら、隠していた酒の小瓶を取り出し、そのまま呷ろうとした。
突然、その小瓶が奪い取られる。何事かと眼前を見れば、茶色のフードとマントで身体を隠した長身が立っている。
「昼間呑むのがいけないって事は無いさ。でも場所をわきまえるもんだよ」
マントが宙を舞い、どういう仕掛けか威圧的な注連縄が現れた。赤と紫の衣装、男が憧れる以上に圧倒される大きさの胸には鏡が輝いている。
「少し気になる事を聞いたんで、お邪魔させて貰ったよ‥‥。誰も気付いていないよ、こう見えても“神”な端くれでね。目立つばかりが能じゃないのさ」
八坂神奈子は、目を細めて儀礼的な笑いを浮かべる。
「率直に言おう。あんたの所、ひょっとするとこの部屋に“鬼”が来たのかい?」
大天狗の顔が恐怖に引きつった。追い詰められていた彼女には、山がどうなるかよりももはや自分の身の事が優先になっていた。
「‥‥答えなくてもいい。辛い思いをした様だね」
神奈子は酒の小瓶を机に置いた。
「安心していい。件の鬼は、一部の天狗達と私達で身柄を確保した。嘘がつけないから、容疑も全部認めたよ。あんたを脅していた事も、共犯者もね」
呆然と聞いていた大天狗の穂から、涙が一筋流れ落ち、机に突っ伏して大声で泣き出した。神奈子はため息をつき、腕を組む。
(天魔の奴も困ったもんだね‥‥敢えて手を出さないにしても、少しは何かしてやってもいいだろうに)
しばらく軍神は考え込んでいたが、突然小瓶を手に取り、ぐっと口に含んだ。
「おや、本物のスコッチか。これはいい酔い心地になれそうだ」
そのまま、片手で大天狗の後ろ襟を掴むと軽々と宙に浮かせ、肩に担いでしまった。風の力で窓を強引に開け、外へ堂々と飛び出す。大天狗はうっかりすると見えそうになるスカートの中を必死でガードしながら、下に見えた警備に呼びかけよう、とした。
「天狗諸君! 大天狗の身はしばし用事のためこの八坂神奈子が借り受ける! 苦情は後で神社にて受け付けよう!」
大音声で神奈子が宣言し、高笑いしながら飛び去っていった。地上の天狗達は、呆然とそれを見送るばかりだった。
地底・旧地獄。
様々な事情で光の下に住めない者達が集まり、いつの間にか歓楽街を築いた場所。永遠の夜の街、とでも言えそうなここを仕切るのは“鬼”達である。
神奈子は顔色の悪い大天狗を連れ、ある料亭に来ていた。結界に覆われ、一部の客と関係者以外は出入りすら許されない場所。鬼は嘘嫌いだが、密談などをしなければならない時もある。また、高級な料理と酒を静かに味わいたい時にも利用される。
そんな場所の離れで、神奈子は立膝をしながら酒を飲んでいた。同じく席に着いた大天狗は、俯いたまま一言も発しない。軍神も敢えて声をかけず、静かに肴を口にし、また杯を傾ける。
廊下に無遠慮な足音が響き、戸が勢いよく開かれた。
「おう、待たせたな八坂さん」
肩を露出させ、まるで着物が乳房に“引っ掛かって”いる様に扇情的な恰好をしながら、大柄で顔に愛嬌がある。額から生えた赤い一本角と、それに浮き出た黄色い星印が、彼女を星熊勇儀だという証だった。
「こちらこそ会談に応じてくれて感謝しているよ。しかもこんな珍味と美酒を振る舞って貰えて、恐縮だ」
大天狗の顔が更に青ざめ、震えながら勇儀に礼をする。神と鬼は表面こそ友好的だが、一瞬で相手の実力を探り合った。それだけで、彼女は吹き飛ぶ思いだった。その上、昔の山の最高権力者の一角は、以前現れた鬼とは格が違う。精神状態が良くないせいもあったが、大天狗は恐怖に押し潰されかけていた。
かつての配下に冷たい視線を軽く向けたが、すぐに勇儀は神奈子と卓を挟んで胡坐をかく。
「さて、話があると聞いたが、まだ何かあるのかい?」
奇怪な言葉だった。顔を上げた大天狗が、思わず鬼の顔を盗み見る。神奈子はゆっくりと頷いた。
「下手人は諏訪子と早苗がもう引き渡した筈‥‥それはこちらも承知している」
「昔のヤマとは言え、下らん騒ぎを起こしたもんだね」
「こちらには死傷者が出ているのでな‥‥厳正な仕置を願いたいものだ」
「口出しは無用、だが懸念も無用だ。その小物を連れてきたのは、わざわざあたしの言葉を聞かせるだけかい?」
勇儀は残虐な笑みを浮かべながら、大天狗を見る。
「天魔が来るかもと思ってたが、事務屋がその代理とはね」
「小物で事務屋かも知れないが、今は我らと共に山を治める者だ」
勇儀は何気ないふりをして、神奈子に視線を移す。赤地に、細い黒の縦線で彩られた瞳。
先刻までは穏やかささえ感じる黒い眼が、毒蛇を思い起こさせる物に変化していた。
「怖い顔しなさんな。昔のよしみで、どうしても口が悪くなっちまうのさ」
「争うつもりはないが、やって貰えると助かる事がある」
「何だい?」
「旧地獄の鬼は今後妖怪の山に手を出さず、とその天狗に誓約して欲しいのだ」
鬼の眼が細められた。
「ほう? 鬼をして天狗風情に?」
「そうだ。星熊勇儀の名は天狗にとって絶対。その者には百万の軍勢に匹敵する価値がある」
「あんたが守ってやればいいだろう? あたしはもうヤマから手を引いてるんだ」
「私は神だが、“遠くの仏より、近くの鬼”と言う。彼女らの心に近いのは、良くも悪くもそなたらなのだ」
「軍神の名が泣くねぇ? 鬼の情けを買うには、色々足りない」
「ふふ、ならばこの身でどうだ?」
勇儀は酒を飲み損ね、むせた。蛇の眼が、薄笑いをしながらその様子を写している。
「戦いに飢えているのだろう? その相手をしてやっていいというのに‥‥星熊勇儀、案外初心だな?」
「げ、下世話な事を! ‥‥だが、気に入った。いつかお前の神社を強襲して、鼻っ柱を叩き折ってやる」
神奈子は無言で深く頷いた。勇儀は豊かな胸元に手を突っ込み、明らかに着物には収まりきらない巨大な盃を出した。大天狗が目を丸くしていると、鬼が真剣な顔で命じる。
「天狗、酌をしな」
大天狗は手元を狂わせない様に、恐る恐るだが無事に酒を注いだ、勇儀はそれを一口で干し、その杯を差し出す。
「飲め」
大天狗が受け取ると、自ら並々と酒を注ぐ。それが何を意味するのか、弱気になっている彼女の頭でも理解出来た。腹を据え、酒をぐっと注ぎこむ。
「よーし、盃を交わした相手を裏切るわけにはいかないね。旧地獄の鬼は私の目の届く限り、妖怪の山には手を出させない。戦なんて以ての外だ。ただし‥‥」
「もしそなたの手を潜り抜けた者がいたら、こちらで対処する」
「うむ」
鬼を以て鬼を制す。ただそれだけなら守矢の得にしかならないが、その席で実際に盃を交わしたのは大天狗。彼女を今後脅す鬼が現れても、守矢だけでなく星熊勇儀を敵に回す事になる。
「さーて、こっから先は無礼講! 神様、あたしと飲み比べしようぜ?」
「まあ待て。三人では寂しいだろう。あちこちから呼んでくる」
「おし、逃げるんじゃないぞ!! だったら、ほら天狗ぅ! えーとお前名前なんてったっけ? まあそれはいいからカラオケメドレーやるぞ!」
神奈子はか細い身体に巨乳が抱き着くのを尻目に、外へ出た、その瞳は元の穏やかな漆黒の色に戻っている。
「さて‥‥早苗は連れて来ない方がいいな‥‥」
つづく?