北海道開拓異聞~薩摩隼人はアイヌの少年を愛でる~ 作:とけそうだら
翌朝、函館の清国商会「
厨房からは威勢のいい鍋を振るう音と香ばしい匂いが立ち上り、円卓には、鶏の出汁が黄金色に輝く
別れを惜しむための、豪勢な
しかし、武はその滋味豊かな粥の味を、ほとんど感じることができなかった。
目の前で、何事もなかったかのように完璧な笑顔を浮かべ、甲斐甲斐しく皆の世話を焼く
「タケさん、そんな心ここに在らずな顔してたら、道中でへばってしまうアルよ! ほら、この肉まんは今朝できたての一番ネ! 皮はふわふわ、中身は肉汁じゅわーの絶品アル!」
怜花はそう言って、武の皿に大きな肉まんを乗せる。
その笑顔は完璧で、声の調子もいつも通りだ。
「先生、本当に帰っちゃうんですか? もっと函館にいてもいいじゃないですか」
「そうだよ、タケル。この肉汁、すごい。コタンに帰ったら、もう食べられない」
ヌイと宗太郎が、両頬をリスのようにぱんぱんに膨らませ、名残惜しそうに言う。
彼らにとって、この函館での数日間は、刺激的で、美味しくて、忘れられない冒険だったのだろう。
その屈託のなさが、今の武には少しだけ眩しかった。
「こら、お前たち。劉さんのご迷惑になるだろうが。行儀よく食べなさい」
武がたしなめると、店の主である劉玄真が、腹の底から「がっはっは」と豪放に笑った。
「迷惑なものか! むしろ、アナタたちのような元気な若者がいてくれて、この店も、ワタシの心も大いに活気づいたというものアル! だから、いつでも腹を空かせて帰ってきなさい。この万宝楼は、今日からアナタたちの函館の家だと思ってくれて構わんネ!」
「……劉さん。このご恩は、決して忘れません。本当に、お世話になりました」
武は深々と頭を下げた。
この恩は、言葉だけでは返しきれない。
食事が終わり、荷物をまとめ、いよいよ出発の時が来た。
万宝楼の従業員たちが総出で見送ってくれる。
その先頭に、怜花が立っていた。
「さあ、グズグズしない! 港まで送っていくアル。最後まで、ワタシがアナタたちの最高の案内人ネ」
♦
万宝楼から函館港までは、馬車を使えばさほど時間はかからない。
だが、彼らはあえて、ゆっくりと歩くことを選んだ。
昨日までの祭りのような喧騒が嘘のように静まり返った市場通りを、四つの影が朝日を浴びて長く伸びる。
石畳の道には、まだ夜の湿り気が残っていた。
「ここがあの有名なロシアのパン屋さんアル。ここの黒パンは、酸っぱいけど癖になる絶品ネ」
「あっちがイギリスの商館。紅茶は天下一品だけど、お値段も天下一品アル」
怜花は、まるで初めて函館を訪れた観光客に説明するかのように、一つ一つの異国情緒あふれる建物を指さしては、努めて明るく解説してみせる。
その声は、朝の空気に弾けるように快活だった。
「怜花さん、本当に色々とお世話になりました。俺、函館のことも、怜花さんのことも、大好きになりました!」
宗太郎が、その真っ直ぐな瞳で、心の底からの感謝を告げる。
「レイファ、また遊んでやる。だから、あの肉まん、また作っておけ」
ヌイも、アイヌ以外の人間には滅多に見せない、不器用ながらも素直な表情でそう言った。
「ふふん、当然アル! ワタシは函館一の案内人だからネ。いつでも来るといいヨ。次は、もっと度肝を抜くようなすごい場所に連れてってあげるアルから、覚悟しておくことネ!」
怜花は、小さな胸をぐっと張り、得意げに笑う。
その姿は、いつもの小生意気で、太陽のように明るく、愛らしい彼そのものだった。
しかし、その完璧な笑顔が、今にも張り裂けそうな別れの寂しさを隠すための、精一杯の強がりであることも、武には痛いほどに、そして哀しいほどにわかっていた。
やがて、一行は青函航路の発着点である
既に出航を待つ大きな蒸気船が、もくもくと白い煙を上げながら黒い巨体を水面に浮かべている。
鼻腔をくすぐる潮の香りと、時折、腹の底に響くように鳴り渡る汽笛の音が、否応なく別れの時が近いことを告げていた。
「……じゃあ、ワタシはここまでネ」
怜花は、まるで地面に根が生えたかのように、ぴたりと足を止めた。
その先は、乗船する者とその関係者しか入れない別れのための場所だ。
「怜花さん、本当にありがとうございました! 俺、絶対、また必ず会いに来ますから!」
宗太郎が、声が裏返るのも構わずに叫び、深々と頭を下げる。
「……レイファ、これ、やる」
ヌイが、懐からおもむろに小さな木彫りの熊を差し出した。
それは、彼が昨夜、夜なべをして慣れない小刀で彫り上げたものだろう。
指先には、まだ新しい切り傷がいくつも見て取れた。
「……ありがと、ヌイちゃん。ヌイちゃんからの贈り物、世界で一番大事にするネ」
怜花はそれを受け取ると、ぎゅっと胸に抱きしめた。
そして、最後に武と怜花が、まるで世界の中心に二人だけ取り残されたかのように、静かに向き合う。
周りの喧騒が、潮騒が、カモメの鳴き声が、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。
「……怜花」
「……タケさん」
何を言えばいいのか、どんな言葉を選べばいいのか、全く見つからなかった。
感謝の言葉も、再会の約束も、昨夜、互いに触れてしまった心の柔らかな部分の前では、すべてが薄っぺらく、虚しく響いてしまう気がした。
「……元気でな」
武がようやく絞り出したのは、そんなありきたりな言葉だった。
「……タケさんも、ネ。あんまり無茶しちゃダメアルよ。タケさんが怪我したら、ワタシ、本気で悲しいから」
怜花は、溢れそうになる涙を見せまいと、ぐっと唇を噛みしめ、わざと空を見上げて、精一杯の笑顔を作った。
その痛々しいほどに健気な姿に、武は胸が張り裂けそうになった。
このまま、この小さな身体を力いっぱい抱きしめて、どこか世界の果てへ連れ去ってしまえたら。
そんな、決して許されぬ衝動に焼かれそうになりながら、ぐっと拳を握りしめて耐える。
「……行くぞ、お前たち」
武は、二人の弟子を促し、まるで逃げるように船へと続く桟橋を歩き始めた。
その背中に、魂の叫びにも似た、怜花の声が突き刺さる。
「タケさんっ! 約束、絶対に忘れないでネ! 絶対、また会いに来るって、約束したアルからねぇぇぇっ!!」
武は、振り返らずに、ただ無言で片手だけを高く上げた。
振り返ってしまえば、もう二度とこの場所から、一歩も前に進めなくなってしまうような気がしたからだ。
♦
乗船手続きを済ませ、船に乗り込もうとした、その時だった。
「――おっと、これは失礼。そちらの旦那様、元薩摩藩士、
不意に、すぐ背後から声をかけられた。
それはまるで背中に張り付いていたかのような妙に耳に残る声。
武が鋭く振り返ると、そこには一人の男がいた。
人混みの中に埋もれるでもなく、かといって目立つでもなく、ごく自然に佇んでいる。
着ているのは警察の制服だ。
だが、その物腰は職務に忠実な官吏というより、どこか芝居がかった、
「……いかにも。貴殿は、何用かな」
「いやはや、これは失敬。わたくし、警視庁の
男――藤田は、そう言って人好きのする笑顔で、大げさに頭を下げた。
「奴らの残党は、こちらで責任を持って処理いたします。つきましては、開拓使の役人であられる河端殿に、事後処理のご報告をと思いましてね」
「……ご苦労」
武は短く応じた。
この男、食えない。
人当たりの良い笑みの裏に、底知れない何かを隠している。
「それで、黒狼会の背後関係は掴めたのか」
「ええ、現在鋭意調査中でしてね。どうやら、遥か東京にいる大物が一枚噛んでいるようで。なんでも、元を辿れば、かの会津あたりのご出身だとか……おや、そちらの坊ちゃんも、会津のご出身でしたかな?」
藤田の視線が、一瞬だけ、武の後ろに隠れるように立つ宗太郎へと流れる。
その視線に、宗太郎はびくりと肩を震わせた。
「……そうか」
藤田の言葉に、武の眉がぴくりと動く。
やはり、ただのチンピラの集団ではなかった。
「まあ、ご安心を。函館の治安も、我々が責任を持って維持いたしますので。……いやはや、しかし、河端さんのような方がいてくださると、我々としても心強い限りです。またいずれ、どこかでお会いすることになるでしょうな」
藤田は、そう言って人の好さそうな笑みを浮かべたまま、踵を返そうとした。
「待て」
武が、鋭く呼び止める。
「私は、貴殿に名を名乗った覚えはない。ましてや、その姓が『河端』であることも、私が薩摩の出であることも、函館に来てからは誰一人として知るはずがないのだが」
そうだ。
武は、素性を隠すため、「河端」という姓を函館では一度も使っていない。
ましてや、蝦夷黒狼会との後処理でも警察との接触など皆無だった。
この男は、一体どこで――。
藤田は、ゆっくりと振り返った。
その口元には、相変わらず人の好さそうな笑みが浮かんでいる。
だが、その瞳の奥の光は、一瞬だけ氷のように冷たく、鋭く光った。
「……さあ、どうしてでしょうな。これも何かのご縁。あるいは、同じ幕末を這いずり回った者同士、互いの匂いが分かるのかもしれませんな」
それだけ言うと、藤田は今度こそ人混みの中へと、まるで水に溶けるように消えていった。
「あの男……どこかで……」
武は、藤田の飄々とした立ち姿と、一瞬見せた鋭い眼光に、強烈な既視感を覚えていた。
思い出そうとするが、記憶に霞がかかったように、はっきりしない。
「タケル! はやくしないと船、出ちゃうよ!」
ヌイの声で、武は我に返った。
♦
武たちが船に乗り込むと、間もなく別れを告げる汽笛が響いた。
低く、長く、函館港の夕暮れを震わせる音。
船がゆっくりと岸壁を離れていく。
甲板の端に立ち、武は遠ざかっていく函館の港を見つめる。
桟橋には、まだ怜花の小さな姿が見えた。
彼は船が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けている。
その小さな影が、やがて港の景色に溶けていく。
「先生、怜花さん、何か言ってますよ」
不意に宗太郎が口を開く。
「何か叫んでるみたいですけど……遠すぎて聞こえません」
武が目を凝らすと、確かに怜花が何かを叫んでいるのが見えた。
だが、声は汽笛と潮風にかき消されて届かない。
「……なんて言ってるんだ、あいつ」
呟く武の横で、ヌイがじっと怜花の口元を見つめていた。
「怜花、こう言ってる。『タケさんのポケットに、お守り入れた』って」
「ポケット?」
言われるままに上着のポケットを探ると、指先に硬い小さな包みが触れた。
取り出してみれば、丁寧に畳まれた手紙と、小さな香袋。
手紙には怜花の少し癖のある、だが美しい文字が踊っていた。
――――――
タケさんへ
函館に来てくれて、本当にありがとうアル。
タケさんがいなかったら、ワタシも、爸爸(パパ)も、この店も、どうなっていたかわからないネ。
これは、感謝の気持ち。ワタシの一番好きなお香アル。
このお香はね、ただの香り袋じゃないアルよ。
大陸の特別な調合で、人の心を解きほぐして、気持ちを昂らせる不思議な力があるネ。
ヌイちゃんと、ソータローと、三人で使うといいアル。
きっと、忘れられない夜になるはずネ♡
また、必ず会いに来て。
タケさんの愛人 怜花より
――――――
武は手紙を読み終え、呆然と香袋を見つめた。
(やはり、あの部屋で焚かれていた香は……)
昨夜の、妙に火照った身体の感覚と、怜花の妖艶な姿が脳裏によみがえる。
「先生、なんて書いてあったんですか?」
宗太郎が興味津々で覗き込む。
武は慌てて手紙を懐にしまい、咳払いした。
「……いや、なんでもない。ただの、別れの挨拶だ」
胸に去来するさまざまな感情を押し殺すように、拳を握る。
函館の海は、そんな武の心中を知ってか知らずか——ただ静かに、青く広がっていた。