※この作品はR-18です。

北海道開拓異聞~薩摩隼人はアイヌの少年を愛でる~   作:とけそうだら

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本作は、主人公・武が北海道開拓使となる以前の物語です。
幕末に「人斬り」として生きた過去を背負い、故郷で目的を失い苦悩していた日々に焦点を当てています。


回想録その1 薩摩隼人、過去の亡霊を背に

 —明治六年、春。

 

 幕末の激動がようやく落ち着き、徳川幕府が幕を閉じた後、新たに誕生した明治政府は、改革を推し進めていた時。

 人々は戦乱の終わりを実感し、ようやく安定した生活を取り戻しつつあった。

 

 戦は遠のき、世に秩序が戻るにつれ、ひとつの役目が静かに幕を閉じつつあった。

 かつて動乱の京で、薩摩藩の影となり、西郷隆盛や大久保利通らが描く新時代のため、その手を血に染めた男がいた。

 彼の名は「人斬り河端(かわばた)」。

 

 その異名は、新政府の太政官布告の陰で、もはや誰も口にしなくなった。

 新時代への礎として振るったはずの剣は、ただ過去の罪悪を刻んだ鉄塊となり、河端は役目を終えて薩摩・吉野郷の実家へ戻った。

 台地の上の小さな道場には毎夕、少年らが集う。

 

「足幅を半足広げる。踏み込みの音は、板を割らぬほどに」

 

「はい!」

 

 木刀が一斉に振り下ろされ、乾いた音が鳴る。

 

「構えを急ぐな。急げば、余計に遅くなる」

 

 言葉は自然に口をつく。

 手直しの指は正確に動く。

 弟子の肩を押し、肘を引き、足の向きを直す――その一つひとつは、かつて命を支えた身の働きの延長だった。

 

 だが、稽古が終わり、静けさが戻ると、胸の奥の空洞が音を立てて広がる。

 歓声が去った板間に膝をつけば、木の匂いも汗の塩気も、ただ遠い。

 

 朝、目が覚めても、体の上に見えない誰かが腰を下ろしているようで起き上がれない。

 昼、腹は鳴るが、箸を持つ手が鉛の棒のように重い。

 夜、灯を落としても、まぶたの裏に血の色の膜が張りついて、眠りがこちらへ来ない。

 

 夢は二種類――斬った者の顔が静かに並ぶ夢、そして誰の顔も出てこない黒い夢。

 前者は胸を裂き、後者は胸を空にする。

 

 剣の柄に触れると、掌が冷える。

 柄は、これまで幾度となく命をつないだ柱だったはずなのに、いまは冷たい水瓶に指を浸したような感触しか返さない。

 刀身を拭う布が、薄い霜のように重たい。

 刃紋に沿って布を滑らせるうち、気づけば指先が止まり、長い溜息が出る。

 

(もう、疲れた……)

 

 言葉にすればほどけてしまう気がして、唇は動かさない。

 だが、心の底では確かな声になっていた。

 

(ここに終いの道もある)

 

 刃先が胸に届く角度、背骨の位置、畳に落ちる音。

 想像の中で一度だけ、命を断つ動作をたどってみる。

 不思議と怖くはなかった。

 ただ、ひどく面倒くさかった。

 畳を汚す始末や、親の顔や、知らせを持っていく者の足取り――

 身内へかけるであろう端々の手間が、死ぬという一点より先に立った。

 

 外に出る。

 台地から坂を下り、港へ足を運ぶ。

 冬の名残りの風が吹く波止場は、白い息と煤けた煙で薄く曇っていた。

 

 漁師が網を繕い、子が石を蹴り、女が籠を下げ、犬が吠える。

 誰も武を知らないふうで、誰もが自分の生活をしている。

 

(誰も私を見ていない)

 

 胸の中で、安堵と空虚が同時に起きる。

 知られないことに救われ、知られないことに沈む。

 波止場の縁に立ち、指で欄干のささくれを撫でる。

 

(もう、疲れた……)

 

 波は何度でも打ち寄せ、何度でも引いていく。

 置き去りにされた泡の粒が、陽に溶ける。

 

 夜半、道場にひとり座る。

 教える声は通るのに、己に向ける声が出ない。

 木刀を握っても、昔のような腹の底の声が戻らない。

 千本打ち込む根の声ではなく、胸から空気が漏れるだけの音が出る。

 

 壁に掛かった師の書――「一撃入魂」。

 

 その一撃で、何を守り、何を壊したのか。

 筆の勢いが、今夜は責め口に見える。

 

(師を斬ったあの日から、魂は刃の中に置いたままだ)

 

 取りに戻る方法がわからない。

 戻らないなら、捨てるしかないのか。

 捨てるくらいなら、いっそ、終いに――。

 

 考えはそこまで行き、また戻る。

 戻ってきた場所には、冷めた茶と、拭き残しの刀油の匂いと、遠い犬の声だけがある。

 

 翌朝、両親の家に顔を出した。

 母は指先の荒れた手で茶を淹れ、父は庭の槙を剪っている。

 

「よく食べ、よく寝ろ。人はそれでだいたい持つ」――父は昔から同じことしか言わない。

 

「人は眠られぬ夜の分だけ、朝に少し強うなる」――母は昔から、新しい言葉で同じことを言う。

 

(もう、疲れた……)

 

 心で繰り返しながら、その茶を飲み干した。

 ぬるかったが、喉を落ちていく温かさが腹に灯を入れた。

 稽古場で子らに「もう一歩」と促すたび、自分にだけはその一歩が出ないことを思い知る。

 教えるほどに、空洞は広がる――そういう日も、ある。

 

 その日は、風のない日だった。

 雲は薄く、陽は白く、庭の槙の影だけが、じりじりと地面を移動していた。

 昼を過ぎても腹は鳴らず、何もする気が起きなかった。

 部屋に戻り、刀を膝に置き、鞘を二寸だけ引いた。

 刃が、ひやりと空気を吸う。

 胸の骨の間隔、呼吸の拍、腕の振り幅――体は熟知している。

 長年、斬るという行為だけは裏切らなかった。

 

(もう、終いにしよう)

 

 そう思えたのは、むしろ穏やかな感覚だった。

 怖れより前に、ため息のような安堵が来る。

 これでやっと休める、と。

 

 その時、戸を叩く音がした。

 二度、間をおいて、もう一度。

 昔の仲間が訪ねる時に使った、ささやかな合図に似ていた。

 武は刃を戻し、鞘を静かに納めた。

 

 戸口に出ると、近所の駆け出しの飛脚が、肩で息をしながら立っていた。

 

「河端さま、お手紙です。……城下の、加治屋町から」

 

 受け取り、礼を言い、戸を閉める。

 封紙の匂いに、甲突川沿いの湿り気と潮の気配が混ざっていた。

 封を切る手がわずかに震えた。

 中の紙は多くはない。

 いつもの、無駄のない文面が目に入る。

 

―――――――――

 

 手紙(加治屋町より)

 

 たけるどん。

 吉野の風は、いま頃はまだ冷かろ。加治屋町は甲突川の水ぬるみ、城山に霞がかかっちょる。人が多かところはせわしかが、息の仕方を忘れんで済む。

 

 人は、広いところに立てば広い息をする。狭いところにおれば、息も狭うなる。

 息が詰まったら、川か海へ行け。波でも流れでもよか。水の音は、考えを少し大きゅうしてくれる。

 

 北は広か。広いところで、大きゅう息ばしてみい。

 薩摩ん子は負けん気で持っとる。負けん気は剣の柄にはええが、己を責める刃にもなる。

 外の刃は納めらる。中の刃は、人の中に立つほどに鈍る。人の上に立たんでよか。人の中に立て。

 

 立てん日があってもよか。座ってよか。寝てよか。そのうちまた立てばよか。

 たけるどんの歩幅でよか。早うは要らん。休むことも、歩くうちに入る。

 

 北に、知己がおる。名は出さん。

 風の噂で、たけるどんのことを耳にしたと言うた。世話になるつもりは要らん。ただ、広か空の下で広か息ばしてくれやんと伝えた。

 それだけじゃ。

 

 追伸。

 この前の茶は、母上が喜んで飲んだ。加治屋町の婆さま方が集まって、湯呑みを二つ、三つと並べよった。次に帰るときは、本当に二つ置いて、ゆっくい飲もうや。

 

 

 西郷吉之助

 

 

―――――――――

 

 

 読み終えると、部屋の音が戻ってきた。

 紙の擦れる音、外の雀の囀り、遠くの汽笛。

 さっきまで頭の内側で鳴っていた黒い残響が、嘘のように消えている。

 

 西郷は、こちらの様子を承知の上で筆を執ったのだろう。

 けれど、手紙には「病」も「苦しみ」も一字もない。

 あるのは同じ語の反復――広い、広い、広い。

 

(広いところに立てば、広い息……)

 

 手紙を膝に置き、深く吸う。

 肺の隅々まで空気が染み込んでいく感覚が、かすかに戻る。

 障子の隙間から吹き込んだ風が、紙の端をひらりとめくった。

 

「人の中に立て」

 

 試しに声へと乗せる。

 部屋の空気が、ほんのわずか柔らいだ気がした。

 

 刀を見る。

 つい先ほどまで「終い」への道に見えていたそれが、いまはただの道具の輪郭を取り戻しつつある。

 刃は鋭い。だが、今は鞘の中だ。

 

(中の刃は、人の中に立つことで鈍る)

 

 その一節が、胸の内側の硬い部分に、そっと触れる。

 

 夕方、港へ出た。

 風はまだない。海の面は薄い雲を映し、白く光っている。

 波止場では、子どもが石を蹴り、犬がそれを追い、婆が「こけるな」と笑った。

 

 人の中――とは、こういうことかもしれない。

 誰も人斬りとしての自分を知らなくても、ここで人が暮らしている。

 その暮らしの輪郭へ、少しだけ自分を重ねてみる。

 

(戻れ、ではない。混じれ、だ)

 

 夜、父母の家へ戻ると、母が湯呑みを二つ出していた。

 

「どうせ来んじゃろと思いながら、出してみたよ」

 

 母は笑う。

 武は笑い返す自信がなく、軽く会釈して座った。

 湯気が上がる。ぬるい茶でも、腹に小さな灯が入る。

 

 手紙を取り出し、二人に見せはしなかったが、膝の上でそっと広げた。

 そして、西郷からの提案をおそるおそる切り出す。

 幼い頃、父の眉をうかがったあの感じのままに。

 

 父は庭の槙へ目をやり、ぽつりと言う。

 

「北は広い」

 

「……はい」

 

「広いところで、広く息をして来い」

 

 同じことを、別の口が言った。

 

 夜半、道場にひとり立つ。

 木刀を握る。千本を打つ力は戻らない。

 だが、一本なら打てる。

 床板が低く鳴り、外で竹の葉が風に擦れる。

 

 一本、打って吸う。

 一本、打って吐く。

 数は数えない。

 数えはじめれば、届かない遠さに負ける。

 今夜は一本で足りる――そう言い聞かせる。

 

 翌朝、開拓使の出張所へ向かった。

 机に向かい、短い願書を書く。

 

 赴任地希望――北海道

 理由――アイヌとの折衝・語学習得のため

 抱負――道と森の間に橋をかける。できる限り不殺。やむを得ず抜く場合は護るために限る。

 

 筆を置く。

 拙く思えても、いまの自分の言葉でしか書けない。

 封を閉じ、役所の箱に落とす。

 箱の底で紙が小さく鳴った。

 終いの音ではない。始まりの音でもない。

 ただ、続いていく音。

 

 しばらくして返事が届く。

 採用の旨、ならびに出張所での手続きを経て北海道へ赴任せよ、と。

 短い文面の最後に押された印だけが、静かに赤い。

 

 

 

 その夜、窓の外で風が起きた。

 風の匂いは、潮の匂いに似ていた。

 北から来たのか南から来たのか、武には判別がつかなかった。

 だが、どちらでもよかった。

 どちらにも、広いところがある。

 広いところで、広く息をする。

 その約束を胸に、武は灯を落とした。

 

 眠りは、すぐには来なかった。

 けれど、まぶたの裏の血の膜は、昨夜より薄かった。

 夢は――黒かった。

 誰の顔も出てこない夢。

 ただ、その黒は、昨日の黒ほど冷たくはなかった。

 

 

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