北海道開拓異聞~薩摩隼人はアイヌの少年を愛でる~ 作:とけそうだら
明治六年。
血の匂いがようやく薄れ、秩序という名の陽光が世を照らしはじめたころ――ひとつの影は、居場所を失った。
かつて動乱の京で、新時代の礎として振るわれ、畏れられた剣。
「人斬り河端」。
その忌むべき異名は、文明開化を謳う太政官布告の陰で、ひそひそと囁かれるだけになった。
男は薩摩の片田舎で、鬱屈を噛み殺すように日を潰していた。
人を斬りすぎた心が、きしむ。――その音だけが、夜ごと胸の奥で鳴った。
そんな折に届いた、西郷からの短い手紙。
――北の大地へ向かえ。
錆びかけていた魂の芯に、ふっと火が入る。
河端武は、北へ行くと決めた。
同年、秋。
出立の日。
巨漢の恩人は多忙の身でありながら、わざわざ鹿児島の港に姿を現した。
「たけるどん。新しか時代は、臆病者のもんじゃなか。新しか道ば、己が手足で切り開く者のもんでごわす。北へ行け。おはんの想像もつかんほど、広かぁ
武の胸に沈んだのは、野太い声より――どこまでも澄んだ眼差しだった。
西郷の分厚く温かい手が、武の肩をどん、と叩く。
少年のころ侍の道を教わったときと、何ひとつ変わらない。
疑いようのない信頼を、その一撃に込めて。
――過去を燃やして消すな。
その痛みごと背負って行け。
新しい時代の
言葉にせずとも、眼がそう言っていた。
河端武は北海道へ向かう蒸気船の甲板で、二冊の本を擦り切れるほど繰り返し開いた。
松浦武四郎が記した探検録『
墨の匂いが残る活字は硬い。
だが、そこに載った言葉は不思議と温かかった。
カムイ(神)――人に恵みを与え、そして人が畏れるもののすべて。
コタン(村)――ただ集まる場所ではなく、輪になって生きるところ。
オンカミ――祈り。
名を知ることは、世界に触れることだ。
ならば、敬意をもって名を呼ぶのが礼儀の始まりになる。
武は知っていた。
紙の上の理解だけでは、人の心の扉は開かない。
札幌には、コタンから町へ働きに出るアイヌも多かった。
港の荷夫が交わす短い呼吸の言葉、市の商人の太い笑い声、浜辺で遊ぶ子どもが口ずさむ節――武はそれらを、乾いた砂が水を吸うように拾い集めた。
「イランカラㇷ゚テ」
ある日、アイヌの老婆がふいに武へ向けた挨拶。 その意味を、武はのちに知る。
――あなたの心に、そっと触れさせてください。
挨拶ひとつに、こんな願いが宿るのか。
触れていいか、と許しを請う。
その慎ましさが、武はたまらなく好きになった。
そして雪深い札幌に降り立った武は、開拓使本庁で一介の役人として職を得る。
「人斬り」ではない人生が、静かに動き出した。
明治七年。
長い冬がほどけ、大地が息を吹き返す春。
雑務に追われ、語学に齧りつく日々のなか、武のもとへ思いがけない辞令が届いた。
着任して半年に満たぬ男への大抜擢だった。
不祥事で空いた席を巡り、西郷隆盛の口添えだの、警察部の真方源蔵が強く推しただの――噂は好き勝手に飛び交った。
だが確かなことはひとつ。
開拓使長官・黒田清隆の名で、北の未来の一端が武の肩に載せられた。それだけだ。
任務は多岐にわたる。
原野を切り拓き、農地を広げ、道筋を測り、時に無法者から入植地を守る。
自然は苛烈で、人の思惑は複雑だ。計画の甘さも過ちも容赦なく炙り出される。
そのなかで武に与えられた、とりわけ重い密命があった。
カムイモシㇼ(神々の庭)の森奥、オンカミサㇺ周辺の調査。
そして、そこに住まうアイヌとの折衝。
オンカミサㇺ――「拝む肉」。神への返礼。
獲物は森のカムイからの預かりもの。
森に抱かれた小さなコタンは、狩猟採取で慎ましく、誇り高く生きていた。
だが近年、和人との関係は荒れていた。
無作法な役人が祈りの場を踏みにじり、視察では双方に負傷者まで出た。
公文書の「小競り合い」の一行では、とても足りない血の重さが残っている。
上は言う。和睦を、と。
だが黒田の指令書の末尾には、冷たい一文が添えられていた。
「万一、決裂せし場合は、武力をもって鎮圧することもやむなし」
武は静かに目を閉じた。
刀を抜けば人は死ぬ。憎しみが増える。
その連鎖を、武は骨の髄まで知っている。
(刀を抜かずに通す道は、きっとある)
主事拝命から三日後の早朝。
武は誰にも告げず、たった一人でオンカミサㇺへ向かった。
供は連れない。身分を示すものも最小限。
腹を割って話す場に、威圧の人数は要らない――幕末の修羅場と交渉をくぐった男が辿り着いた結論だった。
札幌を発ち、石狩川沿いを馬で北上し、さらに険しい山へ分け入る。
季節は、冬の名残と春の胎動がせめぎ合うころ。
残雪の白と若芽の緑が、森にまだらの彩りを描いていた。
「……綺麗な場所だな」
武は思わず馬を止めた。
梢の天蓋からやわらかな光が落ち、葉の隙間を抜ける光の筋が、森の呼吸に合わせてかすかに揺れる。
(ここが、カムイモシㇼ――神々の庭)
「……確かに、息の音が違う」
漏れた声は、驚くほど素直に森へ吸われた。
静けさが深い。耳の奥まで洗われるようで、逆に胸がざわつく。
――そのざわつきが、ぷつりと断ち切られた。
気配が沈む。
ざわめきが引き潮みたいに消え、糸を張ったような静寂が森全体に渡る。
(来る)
武の直感が足をずらした。
次の瞬間、白い矢羽が視界の端を切り裂く。
さっきまで自分がいた場所へ、矢が音もなく突き立った。
武は振り返らず、声だけを木々の奥へ投げる。
「名乗れ。挨拶より先に矢を飛ばすのは――礼の順が違う」
声が冷たく響き、幹々に反射して返ってくる。
茂みが揺れ、そこから一人の少年が姿を現した。
アイヌの装束。肩に弓。
瞳に宿るのは、剥き出しの敵意と、引けない警戒心。
「また来たか。強欲なシサムウタラ(和人)め」
子どもの声だ。だが、子どもにあるはずの柔らかさが削ぎ落ちている。
武は、思わず言葉を失った。
(……美しい)
年は八つか九つ。
森で鍛えられたしなやかな手足。乱れた薄茶の髪が光を噛んで、金糸みたいに艶めく。
そして何より、紅い瞳。狼の鋭さと、どこか神の気配が同居していて――胸の芯を射抜かれた。
「君は、オンカミサㇺの子か?」
武はゆっくり両手を上げる。敵意がないと、形で示す。
「俺は開拓使本庁の役人、河端武だ。話をしに来た。争いに来たわけじゃない」
少年は瞬きもしない。
矢をつがえる指先に、迷いが一切なかった。
「今すぐ帰るなら、命だけは見逃してやる」
冷えた声。武は喉の奥で息を呑む。だが、退かない。
「帰れない。対話をしに来た――それだけだ」
「黙れ!」
少年の怒号が森を打つ。
「神さまの森に踏み込んで、勝手に荒らして! 俺たちを汚したのも、お前らだろ!
……お前の魂、ここで洗ってやる!」
「待て!」
届かない。
弦が鳴った瞬間、白羽が殺気の線を引いて武の胸へ走る。
武は軸を崩さず、腰で半身。
矢は頭上をかすめ、背後の幹にドス、と深く刺さった。冷汗が背を伝う。
(刀は抜かない――そう決めた。だが……)
覚悟と同時に、指が柄にかかる。
一息で抜き放つ。太刀が森の光を弾き、きらりと空気を裂いた。
上段。
視線だけで圧をかける。
少年の瞳に一瞬の揺れ。足が半歩、退いた。
次の刹那、武が地を噛む。
一足一刀。重心が滑るように前へ出る。
パシィン――弦音。矢が連ねて放たれる。
武は斬らない。
鎬を立て、刀の腹で矢の根を叩く。
キィン。キン。
矢が軌道を失い、木々へ逸れて突き立つ。
「……っ、ぜ、全部……!」
驚愕が固まる、その一拍を――
「キィエエェェェエ――ッ!」
示現流の掛け声。腹から突き上げた猿叫が森を震わせ、葉の露が跳ねた。
雷光みたいな初速で距離が潰れる。
「は、速――っ!?」
弓を立て直す前に、武は中段へ落とす。
刃筋が「斬る」という幻を作って足を止めさせる。次いで、肩線を残したまま踏み抜く。
地鳴りの一拍。
少年は捌く。だが、根の瘤に踵を取られ、体勢が崩れて土へ転がった。
「――勝負ありだ」
刃先は紙一重。降りない。
武は呼吸を一つで整え、刃を微動だにさせず見下ろした。瞳は凪いでいる。怒りも、恨みもない。
「……くそ。殺せよ……!」
悔しさが土に滲む。
武は柄を返し、鞘口が短く鳴った。
カシャン。
音とともに、斬意が途切れる。
「殺す気はない。――それより、聞かせろ。なぜ挨拶より先に矢を放った」
膝を落とし、同じ高さで目を合わせる。
張り詰めていた敵意の糸が、ほんの少し緩んだ。
少年の喉が、ひゅ、と鳴る。握り拳の爪が掌に食い込み、白い。
「……シサムが、嫌いだ。宝も、食べ物も、奪われた。女の人も泣いた。何回も……何回もだ」
震える声が、目尻の光ごと落ちる。
武の胸の奥で、さっきの気合が別の熱に変わって沈んだ。
「そうか……辛かったな」
武は一度、言葉を選んでから続ける。
「だが、俺は奪っていない。君らを辱めに来たわけでもない」
「黙れ! お前もシサムだろ! どうやって信じろって言うんだ! この前だって、勝手にコタンに入って、宝を――」
憎しみは武個人に向いていない。積み重なった層だ。
武は受け止め、目を逸らさない。
「なら――これでどうだ」
ゆっくり立つ。
腰の刀を、鞘ごと外した。
両掌で水平に捧げ、少年の前へ差し出す。刃文が木漏れ日を拾い、淡く息づく。
「これを預ける」
沈黙が落ちる。鳥の羽音ほど薄い。
少年は戸惑いの息を吐き、やがて両腕で刀を抱えた。
「……ばっかじゃないの」
吐き捨てるように言うや否や、少年は立ち上がり、また弓を構えた。
狙いは武の眉間。
「ほら。どうする、シサム。武器、ないじゃん。その軽い腹も命も、もう守れないぞ」
笑みの形だけを作った顔。目が笑っていない。
武は静かに首を横に振った。
「それでいい。納得するまで撃て」
そして、声を少しだけ低くする。
「だが、その前に考えろ。俺を撃てば、次は仲間が来る。今度は、ここにいる“誰か”が斬られる。君のコタンの者がだ」
言葉の重みで、少年の目がわずかに泳いだ。
「君は賢い。命を増やす矢と、命を減らす矢の違いが分かる」
「……っ!」
矢が震える。弦の張りが緩む。
苛立ちを隠せず、少年は弓を下げた。
そして、刀を武の胸へ押し返す。
「いらない。シサムは嘘つきだ。それ、持って帰れ。今すぐ」
「いいや」
武は受け取らない。
「その刀は……俺の覚悟だ」
「……覚悟?」
「師から受け継いだ……俺の過去で、務めの証だ。命より重い。それを――君に預ける。誠のしるしとして」
そこで、武は一度だけ言葉を区切った。
次に出てきた声は、さっきまでの剣客のそれではない。
役人として、人として、相手の世界へ踏み込む声だった。
「私が開拓使の役人であっても、君らへの敬意なしに一歩も進まない。――受け取ってくれ」
少年は武の覚悟を、言葉ではなく重さで飲み込んだ。
抱えた刀が、さっきより重い。
いや、同じ質量のはずなのに、腕に沈む“意味”が増えている。
この男は、威嚇のために差し出したんじゃない。
逃げ道を捨てて、こちらに託したのだ――身体が先にそう理解してしまう。
「……わかった」
少年は唇を噛み、視線を逸らしたまま言う。
「お前の覚悟、信じてやる。……話だけは聞く。コタンに来い。ただし掟を破ったら――その時は容赦しない」
「ああ。心得た」
武は胸の奥の息を整えてから、そっと問いを置いた。
「――名を、教えてくれないか」
短い逡巡。
少年は低く、警戒を残したまま名乗る。
「……ヌイ」
「ヌイか。いい名だな」
「まだ、呼んでいいって言ってない」
悔しげに顔を背ける。
その横顔に、武は笑みを薄く添えてうなずいた。
「イランカラㇷ゚テ」
「……え?」
「イランカラㇷ゚テ。――“あなたの心に触れさせてください”。そういう挨拶だと聞いた。好きな言葉だ。よろしく、ヌイ」
森の静けさの中で、二人の間に一本、見えない橋がかかった。
異なる世界を背負ったまま、それでも互いへ踏み出してしまった――そんな瞬間だった。