※この作品はR-18です。

北海道開拓異聞~薩摩隼人はアイヌの少年を愛でる~   作:とけそうだら

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回想録その2 薩摩隼人はアイヌの少年と出会う

 明治六年。  

 血の匂いがようやく薄れ、秩序という名の陽光が世を照らしはじめたころ――ひとつの影は、居場所を失った。

 

 かつて動乱の京で、新時代の礎として振るわれ、畏れられた剣。  

 

 「人斬り河端」。  

 その忌むべき異名は、文明開化を謳う太政官布告の陰で、ひそひそと囁かれるだけになった。

 

 男は薩摩の片田舎で、鬱屈を噛み殺すように日を潰していた。  

 人を斬りすぎた心が、きしむ。――その音だけが、夜ごと胸の奥で鳴った。

 

 そんな折に届いた、西郷からの短い手紙。

 

 ――北の大地へ向かえ。

 

 錆びかけていた魂の芯に、ふっと火が入る。  

 河端武は、北へ行くと決めた。

 

 同年、秋。  

 出立の日。

 巨漢の恩人は多忙の身でありながら、わざわざ鹿児島の港に姿を現した。

 

「たけるどん。新しか時代は、臆病者のもんじゃなか。新しか道ば、己が手足で切り開く者のもんでごわす。北へ行け。おはんの想像もつかんほど、広かぁ大地(せかい)が待っちょる」

 

 武の胸に沈んだのは、野太い声より――どこまでも澄んだ眼差しだった。  

 西郷の分厚く温かい手が、武の肩をどん、と叩く。

 

 少年のころ侍の道を教わったときと、何ひとつ変わらない。  

 疑いようのない信頼を、その一撃に込めて。

 

 ――過去を燃やして消すな。  

 その痛みごと背負って行け。  

 新しい時代の火床(ほど)は、お前の手で起こせ。

 

 言葉にせずとも、眼がそう言っていた。

 

 河端武は北海道へ向かう蒸気船の甲板で、二冊の本を擦り切れるほど繰り返し開いた。  

 松浦武四郎が記した探検録『三航蝦夷日誌(さんこうえぞにっし)』と、アイヌ語の辞書である『藻汐草《もしおぐさ》』。

 

 墨の匂いが残る活字は硬い。

 だが、そこに載った言葉は不思議と温かかった。

 

 カムイ(神)――人に恵みを与え、そして人が畏れるもののすべて。  

 コタン(村)――ただ集まる場所ではなく、輪になって生きるところ。  

 オンカミ――祈り。

 

 名を知ることは、世界に触れることだ。  

 ならば、敬意をもって名を呼ぶのが礼儀の始まりになる。

 

 武は知っていた。

 紙の上の理解だけでは、人の心の扉は開かない。

 

 札幌には、コタンから町へ働きに出るアイヌも多かった。  

 港の荷夫が交わす短い呼吸の言葉、市の商人の太い笑い声、浜辺で遊ぶ子どもが口ずさむ節――武はそれらを、乾いた砂が水を吸うように拾い集めた。

 

「イランカラㇷ゚テ」

 

 ある日、アイヌの老婆がふいに武へ向けた挨拶。  その意味を、武はのちに知る。

 

 ――あなたの心に、そっと触れさせてください。

 

 挨拶ひとつに、こんな願いが宿るのか。  

 触れていいか、と許しを請う。

 その慎ましさが、武はたまらなく好きになった。

 

 そして雪深い札幌に降り立った武は、開拓使本庁で一介の役人として職を得る。  

 

 「人斬り」ではない人生が、静かに動き出した。

 

 

 明治七年。

 長い冬がほどけ、大地が息を吹き返す春。

 

 雑務に追われ、語学に齧りつく日々のなか、武のもとへ思いがけない辞令が届いた。

 

 主事(しゅじ)への任命。

 着任して半年に満たぬ男への大抜擢だった。

 

 不祥事で空いた席を巡り、西郷隆盛の口添えだの、警察部の真方源蔵が強く推しただの――噂は好き勝手に飛び交った。

 だが確かなことはひとつ。

 

 開拓使長官・黒田清隆の名で、北の未来の一端が武の肩に載せられた。それだけだ。

 

 任務は多岐にわたる。

 原野を切り拓き、農地を広げ、道筋を測り、時に無法者から入植地を守る。

 

 自然は苛烈で、人の思惑は複雑だ。計画の甘さも過ちも容赦なく炙り出される。

 

 そのなかで武に与えられた、とりわけ重い密命があった。

 カムイモシㇼ(神々の庭)の森奥、オンカミサㇺ周辺の調査。

 そして、そこに住まうアイヌとの折衝。

 

 オンカミサㇺ――「拝む肉」。神への返礼。

 獲物は森のカムイからの預かりもの。

 森に抱かれた小さなコタンは、狩猟採取で慎ましく、誇り高く生きていた。

 

 だが近年、和人との関係は荒れていた。

 無作法な役人が祈りの場を踏みにじり、視察では双方に負傷者まで出た。

 公文書の「小競り合い」の一行では、とても足りない血の重さが残っている。

 

 上は言う。和睦を、と。

 だが黒田の指令書の末尾には、冷たい一文が添えられていた。

 

「万一、決裂せし場合は、武力をもって鎮圧することもやむなし」

 

 武は静かに目を閉じた。

 刀を抜けば人は死ぬ。憎しみが増える。

 その連鎖を、武は骨の髄まで知っている。

 

(刀を抜かずに通す道は、きっとある)

 

 主事拝命から三日後の早朝。

 武は誰にも告げず、たった一人でオンカミサㇺへ向かった。

 

 供は連れない。身分を示すものも最小限。

 腹を割って話す場に、威圧の人数は要らない――幕末の修羅場と交渉をくぐった男が辿り着いた結論だった。

 

 札幌を発ち、石狩川沿いを馬で北上し、さらに険しい山へ分け入る。

 季節は、冬の名残と春の胎動がせめぎ合うころ。

 

 残雪の白と若芽の緑が、森にまだらの彩りを描いていた。

 

「……綺麗な場所だな」

 

 武は思わず馬を止めた。

 梢の天蓋からやわらかな光が落ち、葉の隙間を抜ける光の筋が、森の呼吸に合わせてかすかに揺れる。

 

(ここが、カムイモシㇼ――神々の庭)

 

「……確かに、息の音が違う」

 

 漏れた声は、驚くほど素直に森へ吸われた。

 静けさが深い。耳の奥まで洗われるようで、逆に胸がざわつく。

 

 ――そのざわつきが、ぷつりと断ち切られた。

 

 気配が沈む。

 ざわめきが引き潮みたいに消え、糸を張ったような静寂が森全体に渡る。

 

(来る)

 

 武の直感が足をずらした。

 

 次の瞬間、白い矢羽が視界の端を切り裂く。

 さっきまで自分がいた場所へ、矢が音もなく突き立った。

 

 武は振り返らず、声だけを木々の奥へ投げる。

 

「名乗れ。挨拶より先に矢を飛ばすのは――礼の順が違う」

 

 声が冷たく響き、幹々に反射して返ってくる。

 茂みが揺れ、そこから一人の少年が姿を現した。

 

 アイヌの装束。肩に弓。

 瞳に宿るのは、剥き出しの敵意と、引けない警戒心。

 

「また来たか。強欲なシサムウタラ(和人)め」

 

 子どもの声だ。だが、子どもにあるはずの柔らかさが削ぎ落ちている。

 武は、思わず言葉を失った。

 

(……美しい)

 

 年は八つか九つ。

 森で鍛えられたしなやかな手足。乱れた薄茶の髪が光を噛んで、金糸みたいに艶めく。

 そして何より、紅い瞳。狼の鋭さと、どこか神の気配が同居していて――胸の芯を射抜かれた。

 

「君は、オンカミサㇺの子か?」

 

 武はゆっくり両手を上げる。敵意がないと、形で示す。

 

「俺は開拓使本庁の役人、河端武だ。話をしに来た。争いに来たわけじゃない」

 

 少年は瞬きもしない。

 矢をつがえる指先に、迷いが一切なかった。

 

「今すぐ帰るなら、命だけは見逃してやる」

 

 冷えた声。武は喉の奥で息を呑む。だが、退かない。

 

「帰れない。対話をしに来た――それだけだ」

 

「黙れ!」

 

 少年の怒号が森を打つ。

 

「神さまの森に踏み込んで、勝手に荒らして! 俺たちを汚したのも、お前らだろ!

 ……お前の魂、ここで洗ってやる!」

 

「待て!」

 

 届かない。

 弦が鳴った瞬間、白羽が殺気の線を引いて武の胸へ走る。

 

 武は軸を崩さず、腰で半身。

 矢は頭上をかすめ、背後の幹にドス、と深く刺さった。冷汗が背を伝う。

 

(刀は抜かない――そう決めた。だが……)

 

 覚悟と同時に、指が柄にかかる。

 一息で抜き放つ。太刀が森の光を弾き、きらりと空気を裂いた。

 

 上段。

 視線だけで圧をかける。

 

 少年の瞳に一瞬の揺れ。足が半歩、退いた。

 

 次の刹那、武が地を噛む。

 一足一刀。重心が滑るように前へ出る。

 

 パシィン――弦音。矢が連ねて放たれる。

 

 武は斬らない。

 鎬を立て、刀の腹で矢の根を叩く。

 

 キィン。キン。

 

 矢が軌道を失い、木々へ逸れて突き立つ。

 

「……っ、ぜ、全部……!」

 

 驚愕が固まる、その一拍を――

 

「キィエエェェェエ――ッ!」

 

 示現流の掛け声。腹から突き上げた猿叫が森を震わせ、葉の露が跳ねた。

 雷光みたいな初速で距離が潰れる。

 

「は、速――っ!?」

 

 弓を立て直す前に、武は中段へ落とす。

 刃筋が「斬る」という幻を作って足を止めさせる。次いで、肩線を残したまま踏み抜く。

 

 地鳴りの一拍。

 

 少年は捌く。だが、根の瘤に踵を取られ、体勢が崩れて土へ転がった。

 

「――勝負ありだ」

 

 刃先は紙一重。降りない。

 武は呼吸を一つで整え、刃を微動だにさせず見下ろした。瞳は凪いでいる。怒りも、恨みもない。

 

「……くそ。殺せよ……!」

 

 悔しさが土に滲む。

 

 武は柄を返し、鞘口が短く鳴った。

 

 カシャン。

 音とともに、斬意が途切れる。

 

「殺す気はない。――それより、聞かせろ。なぜ挨拶より先に矢を放った」

 

 膝を落とし、同じ高さで目を合わせる。

 張り詰めていた敵意の糸が、ほんの少し緩んだ。

 

 少年の喉が、ひゅ、と鳴る。握り拳の爪が掌に食い込み、白い。

 

「……シサムが、嫌いだ。宝も、食べ物も、奪われた。女の人も泣いた。何回も……何回もだ」

 

 震える声が、目尻の光ごと落ちる。

 武の胸の奥で、さっきの気合が別の熱に変わって沈んだ。

 

「そうか……辛かったな」

 

 武は一度、言葉を選んでから続ける。

 

「だが、俺は奪っていない。君らを辱めに来たわけでもない」

 

「黙れ! お前もシサムだろ! どうやって信じろって言うんだ! この前だって、勝手にコタンに入って、宝を――」

 

 憎しみは武個人に向いていない。積み重なった層だ。

 武は受け止め、目を逸らさない。

 

「なら――これでどうだ」

 

 ゆっくり立つ。

 腰の刀を、鞘ごと外した。

 

 両掌で水平に捧げ、少年の前へ差し出す。刃文が木漏れ日を拾い、淡く息づく。

 

「これを預ける」

 

 沈黙が落ちる。鳥の羽音ほど薄い。

 少年は戸惑いの息を吐き、やがて両腕で刀を抱えた。

 

「……ばっかじゃないの」

 

 吐き捨てるように言うや否や、少年は立ち上がり、また弓を構えた。

 狙いは武の眉間。

 

「ほら。どうする、シサム。武器、ないじゃん。その軽い腹も命も、もう守れないぞ」

 

 笑みの形だけを作った顔。目が笑っていない。

 武は静かに首を横に振った。

 

「それでいい。納得するまで撃て」

 

 そして、声を少しだけ低くする。

 

「だが、その前に考えろ。俺を撃てば、次は仲間が来る。今度は、ここにいる“誰か”が斬られる。君のコタンの者がだ」

 

 言葉の重みで、少年の目がわずかに泳いだ。

 

「君は賢い。命を増やす矢と、命を減らす矢の違いが分かる」

 

「……っ!」

 

 矢が震える。弦の張りが緩む。

 苛立ちを隠せず、少年は弓を下げた。

 

 そして、刀を武の胸へ押し返す。

 

「いらない。シサムは嘘つきだ。それ、持って帰れ。今すぐ」

 

「いいや」

 

 武は受け取らない。

 

「その刀は……俺の覚悟だ」

 

「……覚悟?」

 

「師から受け継いだ……俺の過去で、務めの証だ。命より重い。それを――君に預ける。誠のしるしとして」

 

 そこで、武は一度だけ言葉を区切った。

 次に出てきた声は、さっきまでの剣客のそれではない。

 役人として、人として、相手の世界へ踏み込む声だった。

 

「私が開拓使の役人であっても、君らへの敬意なしに一歩も進まない。――受け取ってくれ」

 

 少年は武の覚悟を、言葉ではなく重さで飲み込んだ。

 抱えた刀が、さっきより重い。

 いや、同じ質量のはずなのに、腕に沈む“意味”が増えている。

 

 この男は、威嚇のために差し出したんじゃない。

 逃げ道を捨てて、こちらに託したのだ――身体が先にそう理解してしまう。

 

「……わかった」

 

 少年は唇を噛み、視線を逸らしたまま言う。

 

「お前の覚悟、信じてやる。……話だけは聞く。コタンに来い。ただし掟を破ったら――その時は容赦しない」

 

「ああ。心得た」

 

 武は胸の奥の息を整えてから、そっと問いを置いた。

 

「――名を、教えてくれないか」

 

 短い逡巡。

 少年は低く、警戒を残したまま名乗る。

 

「……ヌイ」

 

「ヌイか。いい名だな」

 

「まだ、呼んでいいって言ってない」

 

 悔しげに顔を背ける。

 その横顔に、武は笑みを薄く添えてうなずいた。

 

「イランカラㇷ゚テ」

 

「……え?」

 

「イランカラㇷ゚テ。――“あなたの心に触れさせてください”。そういう挨拶だと聞いた。好きな言葉だ。よろしく、ヌイ」

 

 森の静けさの中で、二人の間に一本、見えない橋がかかった。

 異なる世界を背負ったまま、それでも互いへ踏み出してしまった――そんな瞬間だった。

 

 

 

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