北海道開拓異聞~薩摩隼人はアイヌの少年を愛でる~ 作:とけそうだら
明治九年、七月――炎天の北海道。
小樽港に停泊する函館行きの蒸気船が、甲高い汽笛を鳴らした。
白い蒸気が勢いよく空へ立ち上り、甲板の手すりには、これから海を渡る人々が鈴なりに並んでいる。
武、ヌイ、宗太郎の三人もその中にいた。
夏の陽射しを浴びた海はきらめき、港から漂ってくる潮の香りが鼻先をくすぐる。
「先生、函館って背の高い金髪の人とか、変な帽子被った異国の人がたくさん歩いてるって聞いたけど、本当なんですか?」
宗太郎は落ち着かず、欄干から身を乗り出す。
「落ちるぞ。はしゃぎすぎは禁物だ」
武は苦笑し、少年の肩を軽く押し戻した。
隣ではヌイが無言のまま、沖へ広がる青に目を奪われている。
オンカミサㇺの内陸で育った彼にとって、この果てしない水平線は、世界そのものを広げる光景だった。
ほどなく出航の合図。
蒸気船の船体が揺れ、港がじわじわと遠ざかっていく。
三人が乗るのは三等船室――一人一円二十銭。労働者が何日も働かなければ稼げない高い運賃だが、海路こそ最速かつ確実な函館への道だ。
船内は商人、出稼ぎの漁師、旅の浪人と、さまざまな人間で混み合っていた。
飛び交う方言、油や魚の匂い、荷物の包みからこぼれる香辛料の香り……それらが渦となって鼻腔を満たす。
「うっ……タケル、揺れる……気持ち悪い……」
顔色を青くして呟くヌイの背を、武はそっとさすった。
「我慢しろ。船ってのは最初はこういうものだ」
甲板の先、きらきらと光る海面の向こうに、まだ見ぬ街がある。
今回の旅は、オンカミサㇺのコタン(村)にとって欠かせない薬、宗太郎の成長に合わせた新しい衣服。
そして暮らしに必要な必需品を手に入れるため――
守るべき者たちのために武は舵を切った。
♦
半日ほどの航海の末――船は函館港へと滑り込む。
北海道最大の都市、人口三万人弱の賑わい。
三人の目は、これまで見たことのない光景に釘付けになる。
赤煉瓦で組み上げられた西洋の倉庫群。
屋根の緑が鮮やかなロシア正教会。
空を突き刺すマストが林立する。
人々もまた彩り豊かに行き交う――着物、洋装、
まるで世界の境界線をまたいだような異質さだ。
「行くぞ。気を抜けば呑まれる街だ」
少し緊張したヌイと宗太郎を連れて、武は大三坂へと足を向ける。
目指すは、清国商人・劉玄真が営む豪奢な雑貨商『万宝楼(まんぽうろう)』――函館でも知られた異国の香り漂う店だ。
入口に着くなり、ヌイは思わず歓声をあげる。
「うわぁ……ここ、すごい……和人の店にだって、こんなもの並んでないぞ」
色鮮やかな天幕が夏の風に揺れる。
扉の上では金色の龍が牙を剥き、市場の騒めきと違う異国の律動を空気に漂わせている。
店先には薬の瓶が並び、鮮烈な香辛料、鉄鍋や異国の菓子、見たこともない品々が所狭しと積まれている。
甘く漂う香辛料の香りに混じり、薬草の鋭い香気が鼻をくすぐる――
その時、ふと奥の帳の影が揺れた。
軽やかでしなやかな足音。
灯りに照らされ、波打つように艶やかな長い黒髪が背中を流れ落ちる。
真紅のチャイナドレスをまとった人物が一歩、また一歩と歩み出てきた。
涼やかな瞳に秘められた光と、唇の弧に滲む妖しい笑みを浮かべる美しい少女――。
「いらっしゃいませ、尊きお客様方……あら? タケさんじゃない。久しぶりネ」
柔らかな声がほのかに挑発を含んで響く。
灯の下、真紅のドレスは絹のように艶めき、深く切り込まれたスリットが歩みのたびにふわりと揺れた。
雪のように白い肌が覗き、その冷ややかな美貌の奥には、小悪魔的な企みの影が潜んでいる。
「おお、
武が目を細めると、怜花はわざとらしく唇を弓なりにし、裾をほんの指先でつまみ上げる。
「ふふ、いいでしょう? 上海から届いたばかりの流行ネ。タケさんにだけ、特別サービス……ほら、太もも、チラッネ」
深紅の布がわずかに持ち上げられ、艶やかな脚線美が灯りの下で一瞬きらめく。
その挑発的な視線に、武は肩をすくめ、苦笑を返すしかなかった。
「まったく、お前は変わらんな……」
一方、ヌイと宗太郎は揃って瞬きもせず固まっている。
頬がわずかに紅潮し、言葉を探して口をぱくぱくと動かすが、声にならない。
武はそんな二人の背を軽く押し出した。
「ああ、紹介しておくか。こいつは
視線だけで二人に合図する。
「ほら、ヌイ、宗太郎。ちゃんと挨拶しなさい」
二人は慌てて背筋を伸ばし、ぎこちない角度で頭を下げた。
「う、よろしく……」
「よ、よろしく……おねがいします……」
怜花はちらりと二人を見やり、首をかしげる。
「……あら? あなた……男の子?」
「えっ……!? あ、う……!」
ヌイは瞬時に頬を染め、半歩後ずさる。
怜花の視線は獲物を値踏みするようにヌイの長髪をなぞり、そのまま艶やかに距離を詰めた。
「ふふ、可愛い子ネ。――ねえ、今夜うちに来ない? お姉さんがたっぷり可愛がってあげるアル」
真紅の裾がさらりと揺れ、怜花は宗太郎にも視線を移す。
「そっちの短髪の子もどうアル? 二人とも……食べちゃいたいくらい可愛いアルよ」
「え、えぇ……!? あ、あの……っ!」
宗太郎も顔を真っ赤にし、言葉が詰まって後ずさった。
武はその様子を横目で見て、ふぅと小さく息を吐く。
「こら、怜花。あまりからかうんじゃない。それに……なにが“お姉さんが可愛がってあげる”だ」
武は片眉を上げ、にやりと口元を歪めた。
「――お前、そもそも”男”だろうが」
「えっ?」
ヌイと宗太郎は、揃って目を丸くして怜花を見つめ返した。
――劉怜花。
十四歳にして、その美貌で函館中を惑わす“絶世の美少女”(にしか見えない)れっきとした少年である。
「もー、タケさんたら! 恥ずかしがる少年たちを驚かせて遊ぼうとしたのに、ネタバレ早すぎアル!」
「こいつらは私の大切な弟子だ。妙なこと吹き込むんじゃない」
衝撃の事実に固まったままのヌイと宗太郎を横目に、武は肩をすくめて笑う。
「……まあ、気にするな。怜花は見た目こそこうだが、れっきとした男だ。異国で育ったせいか、自分の性別なんぞあまり気にしちゃいない」
怜花は自分の頬に人差し指を当て、ぱちりとウインク。
「ワタシ、女と間違えられるのはもう慣れたヨ。100回以上? 200回かも」
まるで人を転がす術を知り尽くした猫のような表情で、悪びれる様子など微塵もない。
「じゃあ、タケさん。今日はどんな用事アル? 買い物なら何でも揃うネ。たーっぷり買ってくれたら……ワタシ、特別にサービスしちゃうヨ♡」
冗談めかして、武の腕にすり寄る怜花――その瞬間、店の奥から算盤の珠を弾く軽やかな音が鳴る。
つづいて、低く威厳のある声が張りのある口調で店内に響いた。
「おお……タケさん、久しぶりネ。北海道の夏、堪えるでしょ? 薬にするカ? 布にするカ? それとも――もっと危ないお宝がお望みアルか?」
声の主は、辮髪を艶やかに束ねた老舗の商人――劉玄真。
色鮮やかな羅紗の上着をさらりと着こなし、唇の端に切れ者の余裕を滲ませる。
その指先では、珠玉の算盤が小気味よく音を刻んでいた。
珠の弾ける軽やかな響きが、この店の空気そのものを支配している。
武は背中の大きな背嚢をどさりと降ろす。
布をめくると、中にはオンカミサㇺで丹念に加工された鹿や狐の毛皮、木彫りの器や匙、緻密な刺繍をあしらった細工物がぎっしりと詰まっている。
足元の手提げからは、包み布の隙間を抜けて、干し肉の香ばしい匂いがふわりと漂った。
「今回は衣服と薬、それに茶と酒も仕入れたい。あと鉄瓶と……この坊主たちの新しい履物もな」
そう言いながら、武の口元に商人らしい笑みが浮かぶ。
「もちろん持ってきたのは土産じゃない。オンカミサㇺの獣皮や手工芸、それに少しばかりの畜産物。劉さんの店なら、“巧く捌いて”くれるだろ?」
劉玄真の目が光を帯び、ざっと商品の山を一瞥する。
「ほほう……見事な上物ばかりアルな。しかし――」
軽く片手を振り、「物々交換は御免ヨ。家訓は“現金主義”ネ。タケさんが友達でも容赦しないアルよ。円でも砂金でも、望むだけ持ってくるといいネ」
その老獪な切り返しに、武は肩を竦めて苦笑する。
「やっぱり劉さんには敵わんな……でも、ここに来ると欲しいものが多すぎて困る。背負える荷は限られてるっていうのにな」
「お世辞で値は下がらないヨ!」
玄真はにやりと笑みを深める。
「――でも、久しぶりにタケさんと取引できて嬉しいネ。今日はゆっくりお茶でも飲みながら話そう。積もる話もあるしネ」
「それはありがたい。じゃあ、お言葉に甘えて……ヌイ、宗太郎」
武は振り返り、小袋を二人に差し出す。
「これで何か腹に入れてこい。腹が減ってちゃ力も出んだろ」
宗太郎は小袋を受け取り、小さく頷く。
武はそのまま店の奥へ進み、劉玄真も満足げに笑って後を追った。
――残されたのは、入り口近くで立ち尽くすヌイと宗太郎。
視線を泳がせ、互いに言葉を探すが、口からは何も出ない。
繁華な店のざわめきが、二人の間に流れる気まずい空気をより際立たせていた。
「……タケルが、メシでも食ってこいって。なあ、シサム(和人)、お前仕切ってくれ」
「は? 俺だって初めての函館だし、知らねーよ。ヌイ、お前こそなんとかしてみろよ……?」
言い合い寸前の雰囲気に、怜花がスッと二人の間に割って入った。
「もーっ! じれったいアル! 二人とも、まるで小鳥みたいネ。もっと自分から動くべきヨ!」
艶やかな黒髪を揺らし、怜花は堂々と腰に手を当て、ぐっと距離を詰める。
「さて、改めて自己紹介アル! 名前、年齢、出身、何でもお姉さんに教えてみるネ?」
宗太郎は慌てて応じる。
「あ、えーっと……宗太郎です。たぶん、さっき名乗ったけど……」
「……ヌイ……」
怜花は目を細め、満足げに頷く。
「
その勢いに押されて、ヌイと宗太郎は思わず腰が引ける。
「さて、ワタシ今ちょうど仕事休憩中アル。二人とも函館は初めてだし――ここは特別、大サービス!怜花流スペシャルツアー、いかがヨ?」
怜花の澄んだ声に押し切られ、ヌイと宗太郎は顔を見合わせ、小さくうなずき合う。
「そ、それじゃ……お願いしてもいいですか?」
「うん……案内、してほしい……」
満足げに微笑んだ怜花は、チャイナドレスの裾をひらりと翻し、二人の前を一歩踏み出す。
「さ、まずは上から町を見下ろすアル! 万宝楼を出て、大三坂の坂を登るヨ!」
怜花がチャイナドレスの裾を軽くつまみ、ひらりと翻す。
真紅の生地が夏の陽にきらめき、異国香る香水の香りが通りに漂った。
呼びかけられた宗太郎とヌイは一瞬顔を見合わせ、まだ見ぬ景色への小さな期待を胸に歩き出す。
♦
港から吹き抜ける潮風が、背中を押してくる。
通りは朝から熱を帯び、荷車を押す男や、天秤棒に果物を揺らしながら行き交う女、木箱を抱えて駆ける少年たちの声が溶け合っていた。
瓦屋根の商家からは威勢のいい呼び込みが飛び、軒先には昆布が干され、色とりどりの反物が吊るされている。
石畳をカツンと響かせる馬蹄の音。通り過ぎる馬車の窓からは白い日傘の異国の淑女がこちらをうかがい、すれ違いざま、シルクハットの紳士が軽く礼をして通り過ぎた。
「すげぇ……本当に外国人が歩いてるんだな。札幌よりずっと多い……」
宗太郎が感嘆交じりに呟く。
「……服も変だ。あの傘、骨が鉄みたいだ」
ヌイは見慣れぬ構造の日傘をじっと見つめ、低く囁いた。
やがて道は大きく傾斜し、坂の勾配が足にずっしりとかかってくる。
石畳の隙間からは夏草の匂いが立ちのぼり、遠くから港の汽笛がかすかに届く。
そして――坂を登り切った瞬間、景色が一気に開けた。
群青の海と空が眼前に広がり、潮風が頬を撫でていく。
怜花は両手を大きく広げ、胸いっぱいに海の匂いを吸い込んだ。
「どうネ、この眺め! 港、赤レンガ倉庫、林立する帆船……ほら、あそこ、緑の屋根はロシアの教会ヨ。写真機なくても目と心に焼き付けるネ!」
港には大小さまざまなマストが林立し、帆船や蒸気船がゆったりと揺れている。
日の光を受けた海面は金銀の粒を撒いたように輝き、そのきらめきが二人の瞳を映した。
「でかい船が……あんなにたくさん……」
ヌイの声は驚きと感嘆が混じり、潮の香りとともに零れ落ちた。
「教会の屋根が緑色なんだな。あんな屋根、初めて見た」
宗太郎もまた視線を奪われたまま呟く。
「さて、お次はちょっと異国へ――この辺は外国人居留地、教会や商館が並ぶヨ!」
怜花の軽やかな足取りに合わせて坂を下りると、白い壁と翡翠色の屋根を持つロシア正教会が、真夏の青空を背に堂々と聳えていた。
鐘楼から響く低く澄んだ音色は、和の寺社とはまるで異なる異国の響きだ。
「……なんか胸の奥がぞわっとする音だな」
宗太郎が背筋を伸ばし、目を細めて鐘の余韻を追う。
ヌイは教会前に漂う香炉の薫煙に鼻先を近づけ、静かに息を吸い込んだ。
「……森では嗅いだことのない匂いだ。甘くて、重たい」
石畳の通りには、背筋を真っ直ぐにした洋装の紳士、色鮮やかなドレスの令嬢、辮髪姿の清国商人が行き交う。
舗道脇では異国の子どもたちがパンを抱えて笑い、近くの商館の窓からはバターと紅茶の甘い香気が流れ出してきた。
怜花は片目をつむり、口の端を上げる。
「ここはね、世界が混じる町ヨ。ロシア茶に焼きたてクッキー、商館を覗けば面白いものが“こっそり”手に入るかもネ。――ヌイちゃん、鐘の音はどう感じた?」
「……コタン(村)のカチョー(太鼓)とは全然ちがう。……ちょっと冷たい響きだ」
ヌイが耳をすませ、微かに眉をひそめながら呟く。
「俺は……悪くないと思うな。なんか、背筋がシャキッとするっていうか」
そう返す宗太郎に、ヌイは口の端を吊り上げた。
「ふーん、お前、稽古のときよりずいぶん楽しそうだな。だったらヌイのコタンから出て、ここに残ってもいいんだぞ?」
「は? お前こそ、目をキラキラさせてんじゃねーか。紅茶でも飲んだら、そのまま根を下ろすんじゃねーの? ここには珍しいもんが山ほどあるし、お前こそここで暮らすのも悪くねーんじゃねーの」
「な、なんだと!? 弱っちいくせにヌイに逆らうなよ!」
「何様だよ。先生に言いつけるぞ」
挑発するように顔を近づけた宗太郎と、それに応じて鋭い目を向けたヌイ。
二人の間に、パチパチと見えない火花が散る。
その緊張感を断ち切るように、怜花がコホンと咳払いした。
「ほらほら、二人とも! ケンカはそこまでネ」
軽やかな声とともに、両者の肩をポンっと叩く。
宗太郎とヌイは、ジロリと互いを睨みつけ――同時にぷいっと顔を背けた。
直後。
ぐぅぅ~~……と、間の抜けた音が仲良く二人の腹から鳴り響く。
怜花は思わず吹き出した。肩を揺らしながら、にやりと笑みを浮かべる。
「お腹、すいたみたいネ? ご飯でも食べて仲直りするヨ! さぁ、ワタシおすすめの“食べ歩きツアー”に連れていくヨ!」
二人は互いに視線を合わせまいとしながらも、気まずそうに顔を赤らめ――
最後は、揃って小さく、こくりと頷いた。
港からほど近い魚市場へ足を踏み入れた瞬間、空気ががらりと変わった。
四方八方から飛び交う威勢のいい「らっしゃい!」。頭上で交錯する声に耳が痛くなるほどだ。
押し寄せる潮の匂いは鼻腔をくすぐり、行き交う人波が発する熱気が肌にまとわりつく。
氷の上で銀鱗をきらきらとはじかせる鰊や鯖、籠に山盛りの烏賊、長い氷柱のように吊るされた鮭が通路を彩る。
木桶の中では毛蟹が脚をきしませ、泡を弾きながら蠢いていた。
「うわ……なんだこの硬くて赤いの……初めて見たぞ……全部、生きてる……」
ヌイは桶の縁に身を乗り出し、ぎょろりとこちらを見返してくる毛蟹と目を合わせた。
途端、びくっと肩を跳ねさせ、一歩後ずさる。
「すっげぇ……この魚、俺の木剣より長ぇぞ!」
宗太郎は氷台に鎮座する巨大なマグロを見上げ、口をぽかんと開けた。
そんな二人を尻目に、怜花は人混みを蝶のように軽やかにすり抜けていく。
たどり着いたのは、赤提灯がゆらゆらと風に揺れる市場の一角。
湯気とともに立ちのぼるのは、醤油の香ばしさに八角の甘やかな風味が絡み合った、思わず腹の虫が鳴くような香りだ。
並ぶ屋台は、色鮮やかな干し果物や点心で彩られ、異国の空気を濃密に漂わせていた。
「ねえ怜花さん、これって清国の食べ物?」
「そうアル。肉まん、胡麻団子、干し果物……ぜんぶここの特製ヨ」
「へええ……なんか、すごい色してるけど……」
宗太郎は両手で受け取った肉まんをまじまじと見つめる。
「ふふ、見た目はアレでも、味は保証付きネ!」
怜花は手際よく紙を剥き、湯気ほかほかの包子を二人に差し出す。
「ホタテと昆布入り、“函館仕様”包子。おひとつどうぞ!」
「……ん。これ、食べたことない……あちっ!」
「アハハ、ヌイちゃん猫舌アルか? ゆっくり冷ませば大丈夫ネ」
あむ、と恐る恐るかじったヌイが、もぐもぐと咀嚼して目を丸くする。
その様子を見て、宗太郎も負けじと豪快にかぶりついた。
「う、うまっ……! なんだこれ!」
「うん……見た目はともかく、味は悪くない」
ヌイは肉まんを頬張りながら、静かに頷く。
すかさず怜花は、自分用に豆沙包(あんまん)と砂糖がけ饅頭をさらりと注文。そして当然のように――
「はい、支払い係はソータロー! 任せたネ!」
「えっ、怜花さんの分まで!? 俺、先生からこれだけしかもらってないってのに……」
「気にするナ! 旅は“持ちつ持たれつ”アル!」
渋々ながら銭を手渡す宗太郎。その後ろで、怜花は涼しい顔でふっくら蒸し上がったあんまんにかぶりついた。
さらに、屋台の主人と怜花が矢継ぎ早に漢語でやりとりすると――
「怜花ちゃんおまけだヨ」と、紙袋の中にもうひとつ饅頭がすべり込む。
「交渉ってこうやるネ。少年たち、ワタシから見て学ぶヨ!」
悪戯っぽくウインクを向ける怜花に、宗太郎は少し悔しそうに鼻を鳴らした。
こうして、温かな湯気と舌の余韻を胸に残しながら、三人は賑やかな函館の街並みへと肩を並べて歩き出した。
通りの両脇には異国風の看板や香りが入り混じり、潮騒と人声が絶え間なく耳を満たしていく。
♦
やがて大通りを抜け、怜花は二人を煉瓦造りの古い商家の前へと導いた。
潮風になびくのは、鮮やかな深紅のチャイナ服。
丈は膝上まで短く、深く入ったスリットからのぞく白い脚が、歩くたびにひらりと揺れる。
細かな金糸の刺繍が陽光を反射し、その華やかな姿は通りの視線をふわりとさらっていった。
道すがら──すれ違う清国人や西洋人、日本人から次々と声が飛ぶ。
怜花は笑みを浮かべ、流れるように漢語、日本語、英語、そしてロシア語を切り替えながら、まるで舞台役者のように軽やかに挨拶を返していく。
「ニーハオ!」「グッデイ!」「Здравствуйте!」——声色も所作もその相手にぴたりと合わせる熟達ぶり。
宗太郎は「こんなのアリか…」と呟き、まるで手品を見たように目を丸くした。
ヌイも無意識に足取りを緩めてしまう。
ちょうどそのとき、路地から小さな金髪の少女が駆け寄り、怜花の腰に飛びついた。
「レイファお姉ちゃん! この前くれたキャンディ、おいしかった!」
「アハッ、それは良かったネ! また持ってくるアルよ」
怜花は少女の頬を指先で軽くつつき、別れ際にゆらりとスカートの裾を翻してから手を振った。
次は老舗商館の前から英国紳士が現れる。
「Oh, Miss Reifa! That silk scarf fits you beautifully today.」
「サンキュー、ミスター・ブラウン。ネクタイの色も似合ってるアルよ」
にこやかにやり取りを交わす怜花。
その服のスリットにふと目をやった紳士が、小さく「チャーミング」と呟いたのを、宗太郎は聞き逃さなかった。
さらに果物屋の日本人主人が豪快に笑い、
「おう怜花ちゃん、今日はまた色っぽいなぁ。女の子のカッコがますます板についてきたじゃねえか!」
「アリガト。でもそれ、褒め言葉アルかー?」
店主も客も笑い、誰ひとり彼女の装いや出自に違和感を示さない。
その空気は、まさにこの港町の「なんでも受け入れる」懐の深さそのものだった。
宗太郎はその光景に感嘆の息を漏らし、ヌイも警戒心を解き、ぴたりと怜花の背に付いた。
怜花は鼻を鳴らし、胸を張る。
「函館はね、なんでもアリ。魚も、肉も、仏様も、恋も、命でさえも……いろんな国の人がいて、いろんな言葉があって、いろんな姿がある。だからワタシみたいに女の子の格好をしてる男の子がいても、誰も眉ひとつ動かさない。そういう町アル!」
「へえ……本当にこんな場所があるなんて……まるで夢みたいだなぁ」
宗太郎の声は素直な感心で満ちていた。
「まあね。怜花、ここに来てもう二年になるネ。爸爸(パパ)と一緒に商売で港から裏路地まで走り回って、いろんな人と知り合ったヨ。だから、この町のことなら何でも答えられるネ!」
小柄な体を反らせ、魅せるように裾を揺らす怜花は、通りの笑顔を引き連れる小さな町の女王のようだった。
その姿を眺めていた宗太郎の表情がふっと曇る。
「ん? ソータロー、どうした? なにか言いたいことアルか?」
「……あの、聞いちゃいけないことかもしれないですけど」
宗太郎は迷いながらも口を開く。
「怜花さんって清国の人ですよね。その……どうしてこんなに、国も違う人たちと仲良くなれるんですか?」
「ん? そうアルか? 別に普通ヨ」
「だって、清国と日本じゃ言葉も文化も違うし……考え方も……」
宗太郎が言葉を濁すと、怜花はふっと目を細めた。
「ソータロー、いいこと言うアルな。確かに、同じ国の人間同士ですら分かり合えないことが多い。異国の人間なら、なおさらネ」
少し寂しげに微笑み、しかし瞳に確かな光を宿す。
「でもネ、言葉が違っても、心が通じれば大丈夫アル。それにワタシはね——」
潮風が短いチャイナ服の裾と黒髪をさらい、その瞳がきらりと輝いた。
「“心”は、国も文化も性別さえも、すべてを超えると信じているアル」
港町の喧噪の中、その言葉は不思議なほどまっすぐに、宗太郎とヌイの胸へと響いていった。
一瞬、路地に吹き抜けた潮風が、三人の間の空気を静かにかき混ぜた。
宗太郎はしばらく怜花の横顔を見つめていたが、やがてぽつりと呟く。
「……心、か。ちゃんと伝わるものなんだな……」
どこか照れくさそうに頭をかく。
ヌイもわずかに目を伏せて、怜花が纏う異国の香りとその言葉の意味をしっかりと受け止める。
「……うちのコタンのみんなもそうだった。はじめの頃はタケルと……言葉がうまく伝わらなくても、一緒に狩りしたり火を囲んでると、なんとなく通じることがあったりして……」
宗太郎はヌイの言葉に小さく頷き、怜花に向き直る。
「なんだか少し勇気が出たな。異人が多い函館も、ちょっとだけ怖くなくなった気がします」
怜花は二人の反応が面白いのか、にやりと口元を緩める。
しかし、その仕草の奥にはどこか優しい光が宿っていた。
「ま、みんながみんないい人ばかりってわけじゃないアルけど……あ、噂をすれば……二人ともこっち来るネ」
怜花は急に声音を潜めると、軒先の柱の影へと二人を手招きした。
宗太郎とヌイは戸惑いながらも、怜花に続いて物陰へと身を寄せる。
「怜花さん、どうしたんですか……?」
宗太郎が小声で問うと、怜花は唇に人差し指を当て、向こう側の往来を鋭い目でうかがった。
その視線の先、幅広い通りを堂々と牛耳るかのように歩いてくる一団がいた。
黒い詰襟に狼の刺繍入り羽織、胸には「
髪を刈り上げた男や、銀のアクセサリーをじゃらつかせた若い連中。
目つきは鋭く、通りすがりの露天商や子どもたちを無遠慮に睨みつけては、町の空気ごと圧し潰そうとしている。
彼らが歩くそばを、道行く人びとは自然と身を縮め、距離を空けて避けている。
顔をしかめる老婆もいれば、慌てて子供の手を引いて裏路地へ逃げ込む母親の姿もあった。
「……あの連中、蝦夷黒狼会(えぞこくろうかい)ってヤクザ集団アル」
怜花がぽつりと呟く。
視線は一団を外さずに。
「町のみんなから金を巻き上げて、逆らったら商品壊したり、店に嫌がらせしたりする。有力な和人の後ろ盾もいるし、手が出せない連中ネ……」
「そんな……」
宗太郎が思わず拳を握りしめる。
ヌイも怒りと不安の入り混じった表情で、一団を凝視していた。
蝦夷黒狼会のリーダー格と思しき痩せた男が、頬に痣のある若い衆を引き連れ、果物屋の前で立ち止まった。
「おい、昨日の“上がり”が少なかったんじゃねえのか?」
野太い声に、主人は頭を下げて何度も詫びる。
その手元が小刻みに震えているのが遠目にも分かった。
「今日はもう一度払ってもらうからな。あとでシマの兄貴が回収に来るって伝えとけよ」
リーダーのその一声で、空気がさらに冷え込む。
恐れる人々、睨む若者、知らぬふりで通り過ぎる者――
それら全てを見守るように、怜花は小さく息を吐き、宗太郎とヌイにささやいた。
「ね? この街は自由だけど、誰もが幸せってわけじゃないアル」
怜花のチャイナ服の裾が、潮風に小さく揺れた。
「けど――」
その瞳が一瞬、鋭い意志を宿す。
「ワタシたち“みんなちがってみんないい”って信じてるから、負けないヨ。人でも、国でも、男でも女でも。どんな生き方だって、この街では胸張って歩くネ。そのために、怜花も負けないって、決めてるアル!」
怜花の決意に、宗太郎とヌイも自然と背筋を伸ばす。
その背後で、蝦夷黒狼会の男たちの笑い声が、不穏な波紋のように広がっていった――。