北海道開拓異聞~薩摩隼人はアイヌの少年を愛でる~ 作:とけそうだら
「ただいまアル――ッ!」
朱塗りの門が勢いよく開いた。
夕陽をはね返す赤壁の向こうから、
その後ろを、観光で頬を紅潮させたヌイと宗太郎が駆けてきた。
店内では従業員たちが荷車を押し、仕入れた木箱を荷受け台へ運び込んでいる。
指揮を執るのは店主・劉玄真。
算盤を片手に客を見つけた笑みを浮かべつつも、数字の珠は一瞬たりとも止まらない。
「先生! 坂の上から港が全部見えたんですよ! 船なんか米粒みたいで! 怜花さんに奢ってもらったロシア茶も甘くて――」
宗太郎が武のもとに飛びつき、興奮で言葉を早口に転がす。
「……甘すぎて舌が麻痺した」
ヌイは眉根を寄せつつも、口の端は上がったままだ。
椅子に腰掛けていた武は
「怜花、案内ご苦労だったな。お前のおかげで弟子たちが存分に楽しんだようで何よりだ」
「いいネ! タケさんのお弟子さん、ホント可愛いアル。サービスしすぎちゃったかもネ」
「うむ。怜花には函館で何かと世話になっているからな。なにか礼をしたいと思うが、欲しいものでも、してほしいことでもあれば何でも言ってくれ」
武がそう切り出すと、怜花の瞳がキラリと輝きを増した。
胸を張り、すっと武に歩み寄ると、その袖をきゅっと掴む。
つやめいた唇が、悪戯っぽく弧を描いた。
「だったら――お礼に、今夜ワタシと一夜を過ごすネ?」
「ぶっ!?」
武は飲んでいた茶を盛大に噴き出し、激しく咳き込みながらのけぞった。
「れ、怜花!? 急に何を言い出すんだ!」
「……タケさんは、ワタシのこと嫌いアルか?」
怜花の瞳がみるみるうちに潤み、長い睫毛が震える。
完璧な上目遣いで、武の顔をじっと見つめた。
「いや、そういう問題ではなくてだな……!」
「ひどいアル……タケさんに出会ったあの日、函館の港で初めて声をかけてもらったときから、ワタシはタケさんに首ったけアル……毎日毎晩、こうしてタケさんに初めてを捧げたあの夜のことを想って、自分で自分を慰めて……」
「っ!? いや、お前、何を馬鹿なことを言って……!」
怜花の大きな瞳から、真珠のような涙がぽろぽろと零れ落ちる。
武は口をあんぐりと開け、茹で上がった蛸のように顔を紅潮させた。
「それともタケさんには……ワタシの愛が、重すぎるアルか?」
上目遣いに見上げる怜花の瞳が、悲しげに揺れる。
「い、いや……そんなことはないぞ! 私も、お前の気持ちは嬉しいし……しかしだな……その……」
しどろもどろになる武の背中に、氷のように冷たい二つの視線が突き刺さった。
「……やっぱり。タケル、ヌイというものがありながら、レイファと浮気してたのか?」
「先生……まさか怜花さんにまで手を出していたなんて……最低です」
宗太郎の声が裏返り、ヌイは目を三角にして武に詰め寄る。
「おいおい、待て待て! 勝手に話を飛躍させるな!」
武が額に汗を浮かべ、必死に両手を振って制す。
「怜花、冗談はやめてくれ! あの夜のことは……確かに何もなかったわけではないが、それはあくまで成り行きというか……!」
「ひどい……タケさん、ワタシとのこと、遊びだったアルか……!?」
怜花は泣き崩れるふりをしながら、ちらりと武にだけ見えるように片目を閉じてみせる。
その小悪魔的な仕草に気づかない武は、ばつが悪そうにこめかみを掻きながら目を逸らした。
その隙を、怜花は見逃さない。
するりと体を寄せ、武の体にぴたりと密着させた。
「れ、怜花!? いや、お前何をッ……!?」
「ワタシの気持ちに応えてくれないなら……せめて、一晩だけ……タケさんの恋人にしてほしいネ……」
耳元で甘く囁きながら、小さな舌を出して武の首筋をぺろりと舐め上げる。
「うわっ、やめんか!」
武が怜花の両肩を掴むと、二人の視線が至近距離で絡み合った。
しん、と場に流れる、奇妙な静寂。
「タケル……」
「先生……」
ヌイと宗太郎の地の底から響くような声に、武の背筋を冷たい汗が伝った。
それを見て、怜花は悪戯が成功した子供のようにくすりと笑い、武からふわりと離れる。
「半分本気アルけど、今日のところは可愛いお弟子さんたちに免じて引いとくネ」
あっさりと肩をすくめ、呆然とする少年二人にいたずらっぽくウインクした。
そこへ、算盤の音を鳴らし終えた劉玄真が、絶妙なタイミングで歩み寄ってくる。
「いいこと思いついたネ。遠路はるばる函館まで来たタケさんたちのために、今夜は広東式の大宴会を開くヨ! 魚も肉も、山ほど用意するアル!」
玄真は豪放に笑う。
「わぁ!! 広東式宴会ですかっ!? 楽しみです!!」
「肉、いっぱい!? たくさん食べていいのか!?」
先ほどの修羅場などすっかり忘れたかのように、ヌイと宗太郎が目を輝かせる。
「もちろんアル。ただし、食材が足りないネ」
玄真は店の隅で帳簿をまとめていた若い従業員に声を張る。
「ミン! 怜花と市場で買い出し行くヨ。豆腐に青菜、白身魚、香辛料、タケさんの好きな春巻きの皮も忘れないネ!」
「了解っス、旦那!」
まだ声変わり途中のミンが辮髪を揺らし、元気よく返事をする。
怜花はくるりと踵を返し、チャイナ服の深いスリットをひらめかせながら悪戯っぽく笑った。
「じゃあ坊やたち、ここで大人しく待ってるネ。この時間は、町を知らない子が危ない裏通りを歩いたら悪い人に攫われちゃうかもアルから!」
「ええ~っ!」
二人は揃って抗議の声をあげるが、武がこほんと咳払いをすると、渋々口をつぐむ。
怜花は満足げに頷き、ミンを連れて夕刻の市場へと駆けて行った。
その足取りは、港町の潮風さえも追いつけないほど軽やかだった。
♦
市場は夕刻の仕入れ時を迎え、活気が頂点に達していた。
氷が砕ける音、豆腐屋の包丁がまな板を叩く音、香辛料を量るための青竜刀が鈍く光る。
その喧騒の中を、怜花は真紅のチャイナ服の裾を片手で巧みにさばきながら、値切りの応酬を繰り広げていた。
「それ半斤で十分アルよ。高いネ、もっと勉強するヨ!」
年季の入った店主が額の汗をぬぐい、苦笑いを浮かべて頷く。
怜花の言い値に落ち着くのを横目に、ミンは尊敬の眼差しを送った。
「姐さん、ほんとすげえ……」
「当然ネ。“商売は度胸と笑顔”アル。……あ、ミン。香辛料は任せるネ。ワタシ、料理の準備あるからちょっと先に行ってるネ」
買い物籠がいっぱいになる頃、怜花はミンに後を任せ、人通りの少ない裏通りへと足を向けた。
湿った土と古い木材、そして油の匂いが、市場の喧騒を遠ざけていく。
「ここが近道アル。ここを抜ければ万宝楼まであっという間――」
その言葉が空気に溶けるより早く、路地奥の古びた空き家から野太い笑い声が漏れ聞こえてきた。
怜花の足がぴたりと止まる。
壁際に身を寄せ、息を殺して耳を澄ませた。
(――黒狼会の連中ネ。またろくでもない悪だくみアルか)
酒瓶がぶつかる音。
中では黒装束の男たちが二十人ほど、酒盛りをしているようだった。
「しかし兄貴、この港の連中は腑抜けばかりですぜ。ちょいと脅しゃ、すぐ金出す」
「ああ。こんなチンケな町、さっさとシマごと乗っ取っちまえばいいものをな」
(……好き勝手言ってくれるネ。この町の良さも知らないで)
怜花は唇をきゅっと噛みしめる。
だが、今は関わっている場合ではない。
早く帰って宴の支度を――そう思考を切り替えようとした、その時だった。
男たちの一人が酒杯を置き、声を潜めた。
「兄貴、それより“例の話”ですが……本当に大丈夫なんですかい?」
「心配いらねえ。
(――相馬さんを!?)
怜花の背筋に氷のようなものが走った。
相馬嘉兵衛―――。
北前船で財を成した豪商で、今は港の荷揚げと倉庫業を束ねる「相馬倉庫」の当主。
父・玄真が函館で「万宝楼」を開く際に、何かと力を貸してくれた恩人でもある。
「それに町の商人どもを束ねてる相馬がいなくなれば、後はバラバラよ。地上げもみかじめもやりたい放題だ」
「さすがは黒狼会次期総長候補、
(――大変なことを聞いたアル。一刻も早く、爸爸(パパ)に知らせないと……!)
怜花が身を翻そうと膝を浮かせた、その瞬間。
「姐さん、なにしてるんですか?」
背後から追いかけてきたミンの無邪気な声が響いた。
(――しまったアル!)
怜花の表情が凍りつく。
板壁の向こうの野太い笑い声が、ぴたりと止んだ。
「――誰だ!?」
地面を蹴る乱暴な靴音。
古びた扉が蹴破られるように開き、黒い影が複数、路地に躍り出た。
「ミン、走るヨ!」
怜花が叫ぶと同時、袖口から小瓶を抜き放ち、男たちの顔めがけて投げつける。
弾けた粉が男の目を焼き、一瞬の悲鳴と混乱が生まれた。
だが、その隙も束の間。ミンは恐怖のあまり酒瓶に足を引っかけ、派手に転倒する。
「痛ぁっ!」
「ミン!!」
背後から伸びた大男の腕が、ふらついたミンの肩を鷲掴みにした。
「おおっと、動くなよ嬢ちゃん。この坊主の首、へし折っちまうぞ」
黒装束の男がミンの首に腕を巻き付け、ぎりりと締め上げる。
怜花は唇を噛みしめ、その場に釘付けになった。
次の瞬間、背後から別の男に羽交い絞めにされる。
「おや、よく見りゃお前、嬢ちゃんじゃねえな。そうだ、万宝楼の怜花坊ちゃんじゃねえか」
「うるさいネ、この
「残念だがな、俺たちの話を盗み聞きしちまった以上、無事に帰れると思うなよ」
「くっ……!」
怜花は悔しげに顔を歪めた。
男たちの懐でドスが鈍く光っている。
「へへへ、ついでにこいつを使って万宝楼も潰すか。劉のじじいも、清国人のまとめ役みてえで邪魔だったからな」
下卑た笑い声が路地に響く。
ミンの脚は恐怖で震え、今にも崩れ落ちそうだ。
(このままじゃ、パパも相馬さんも……!)
その時、足元に転がる酒瓶が目に映る。
怜花の瞳に一瞬だけ鋭い光が宿った。
「ねえ……黒狼会のお兄さんたち。取引しないアルか?」
突然、怜花の声色が変わる。
媚びるような、甘えるような響き。
「はぁ? 取引だぁ?」
「ワタシたち、清国人アル。日本人の縄張り争いなんて興味ないネ。そこで提案ヨ。黒狼会と清国人、手を組んで……この函館を支配したらどうアルか?」
その言葉に、銀次の瞳が驚愕に見開かれる。
「……どういうことだ。話を聞かせろ」
銀次が部下に目配せし、怜花の拘束が解かれる。
「ワタシの
怜花は媚を売るように銀次にすり寄り、耳元で甘く囁いた。
「な、なに言ってんだ姐さん!」
ミンが悲鳴のような声を上げた。
「それにワタシ、野望を持つお兄さん、気に入ったネ。……お兄さんなら、ワタシのすべてを捧げてもいいアルよ♡ わかるでしょ?」
怜花は赤いチャイナドレスの裾から白い太ももを見せつけるように組み替える。
その扇情的な仕草に、男たちの下卑た笑いが広がっていく。
「へへ……大した度胸じゃねえか。気に入ったぜ怜花ちゃん……よし、あの空き家でじっくり話を楽しもうじゃねえか」
銀次が息を荒くし、怜花の腕を掴み上げた、その瞬間。
(――今アル!!)
怜花はしなやかな足さばきで床の酒瓶を蹴り上げた。
瓶は鋭い回転を描きながら宙を舞い、ミンを拘束していた男のこめかみに正確に叩きつけられる。
「うがぁっ!」
鈍い音と共に男がもんどり打って倒れ込み、その腕からミンが転がり出た。
「ミン! 逃げるアル! 逃げてパパにこのことを伝えるネ!」
「は……はいっス!!」
ミンは泥だらけになりながらも路地を飛び出し、万宝楼の方角へ駆けていく。
「野郎ども、あのガキを逃がすんじゃねえぞ!」
蛇蝎の銀次が部下に怒声を浴びせ、数人がミンの後を追う。
そして銀次は、ゆっくりと怜花に向き直った。
「てめぇ……この蛇蝎の銀次様をコケにしやがって。タダで済むと思うなよ」
その表情は、もはや人間のそれではなく、獲物を見つけたトカゲのそれに変わっていた。
♦
万宝楼の中庭。
木陰が落ちる涼しい縁台で、武と劉玄真は芳しい鉄観音の湯呑を挟んで静かに語らっていた。
厨房からは宴の準備で大釜が吐き出す湯気が立ち上っているが、主役たるべき食材はまだ届かない。
「怜花が遅いネ。買い出しに夢中になって、荷駄でも雇ってるアルか」
「なに、あの賢い娘……いや、息子のことだ。品物を一銭でも安く手に入れようと、交渉に夢中になっているんだろう」
武の言葉に、劉玄真は薄く笑い、湯呑をゆっくりと回す。
「怜花は商売人としては優秀ネ。もっとも、まだ子供。手綱を握っておかんと、とんだトラブルを拾って来るアルが」
ふと、玄真の視線が鋭くなる。
「それにしても、タケさん。アナタの剣の噂は函館まで届いているヨ。だが、清国のことわざにこうあるネ。『
「心得ている。だが、世の中にはどうしても剣を見せねばならん相手もいるんでな」
武の声音がわずかに低くなり、その瞳に静かな決意の光が宿った。
その時、縁側ではヌイと宗太郎が板張りに座り、異国の菓子をつつきながら声を弾ませていた。
「シサム(和人)、見ろ。果物を蜜で固めてある」
「ほんとだ。甘っ! ……あ、これ、オンカミサㇺの子たちに持ち帰ったら喜ぶだろうな」
その無邪気な光景に、劉玄真が目を細める。
「二人とも、いい胃袋してるネ。今夜の宴は賑やかになりそうヨ」
「そうだな」と武も微笑む。
「清国人、アイヌ、そして和人。違う国の、違う民族が同じ卓を囲む。互いを知る、またとない機会だ。人種は違えど、みな血の通った人間だということを、今回の旅でヌイや宗太郎にも学んでほしい」
武がそう言って湯呑をあおった、まさにその時だった。
「た……大変です!」
表門の方から甲高い悲鳴が上がり、下働きの女が血相を変えて中庭に駆け込んでくる。
「旦那様! ミンが……ミンがっ!」
その知らせを聞いた瞬間――武と劉玄真の顔つきが、凍りついたように一変した。
女の言葉を追うように、裏口から何かが転がり込む。
「助けて……怜花……姐さんが……」
血に滲む額を押さえ、泥だらけのミンが床にへたり込んでいた。
「ミン! いったいどうしたアルか!」
玄真が駆け寄る。
「怜花姐さんが……黒狼会に……さらわれ……ました……!」
湯気と香辛料に満ちていた店の空気が、一瞬で氷点下に叩き落とされる。
次の瞬間、武は静かに立ち上がり、傍らに立てかけてあった軍刀をそっと手に取った。
「――宴は、後だ。怜花を迎えに行く」
その声には、怒りとも悲しみともつかない、底なしの静けさが宿っていた。
「ヌイも行く!」
「お供します!」
ヌイと宗太郎も、菓子を放り出して同時に立ち上がる。
武は二人を一度だけ見て、力強く頷いた。
「タケさん……ワタシは……」
玄真が、絞り出すような苦しげな声で呟く。
武は静かに、しかし燃えるような怒りを瞳に宿して言った。
「劉さんはここに。……必ず、怜花を連れて戻ります」
「……わかったヨ。タケさん、気を付けて……怜花を、どうか……頼むネ……」
夕闇が迫る函館の空の下、三つの影が走り出す。
その先には、友を待つ闇が深く口を開けていた。