北海道開拓異聞~薩摩隼人はアイヌの少年を愛でる~ 作:とけそうだら
打ち捨てられた時間が澱む路地裏の空き家。
湿った木材の腐臭、舞い散る埃、そして黒狼会の男たちが吐き出す、汗と安酒の入り混じった獣の臭い。
その全てがねっとりと空気に溶け込み、呼吸すらままならない。
その中心で、怜花の身体は荒縄に食い込むほどきつく縛められていた。
あでやかだった真紅のチャイナドレスは見る影もなく、泥と乾いた血で汚れ、切れ長の口の端からは一筋の血が白皙の頬を伝っている。
「どうした、怜花ちゃんよぉ。さっきまでの威勢はどこへ消えちまったんだ?」
その爬虫類を思わせる顔は暗い欲望に歪み、怜花のしなやかな肢体を頭のてっぺんから爪先まで品定めするように見つめている。
男は汚れた指で怜花の顎を乱暴に掴むと、ぐいと顔を上げさせた。
「これで思い知ったか、ガキ。この函館が、誰の庭か……俺たち黒狼会のもんだってことをなァ!」
「……なにを、馬鹿なこと言ってるネ。この町は、誰にも支配なんてされないアル」
か細いが、芯の通った声。
銀次は不快げに舌打ちすると、立ち上がって芝居がかった仕草で歩き回り始めた。
その目に、狂的な光が宿り始める。
「はっ! 清国の小娘はなんーんもわかっちゃいねぇな! 黒狼会にとって、函館みてぇな田舎……ただの始まりに過ぎねえんだよ!」
「……どういうことネ」
「ふん、冥途の土産だ。教えてやるよ。俺たちの本当の野望をな。……まずは函館の港湾利権を全て掌握する。相馬のような商人どもを一掃し、ここに住む外国人も、全て俺たちの管理下に置く。そして次は……」
銀次は懐から古びた地図を取り出すと、床に叩きつけるように広げ、その一点を指で突き刺した。
「札幌だ。開拓使だか何だか知らねえが、所詮は中央から来たお役人様よ。裏から金と女をくれてやり、それでも靡かねえ奴は……消す。そうやって、この北海道を丸ごと俺たちのモンにするんだ」
「……狂ってるアル」
「狂ってるだと? 違うね。これが現実ってもんよ。この世はな、力が全てなんだよ!」
銀次は勝ち誇ったように胸を張り、地図の上を次々と指でなぞっていく。
その目はもはや、怜花ではなく、まだ見ぬ未来の版図を見据えていた。
「北海道を手に入れたら、次は本州だ。函館から青森、そして帝都・東京まで……裏社会の根を日本中に張り巡らせ、政治家どもを操る。いずれは日本そのものを、この蝦夷黒狼会が影から支配するんだよ!」
その言葉に、背後で控えていた男たちが下品な歓声を上げる。
「すげえぜ、銀次の兄貴!」
「日本を手に入れたら、金も女もやりたい放題だ!」
「そうだ! 今は函館のチンピラでも、十年後には俺たちが日本の真の支配者だ! 天皇も総理大臣も、俺たちの掌の上よォ!」
銀次は狂気に満ちた甲高い笑い声を上げた。
「だからよぉ! お前みてぇに邪魔する奴は潰しておかなきゃならねえ! 特に、俺たち大日本に巣食うネズミみてぇな清国人はなぁッ!」
怒声と共に、乾いた打撃音が響く。怜花の頬が赤く腫れ上がった。
銀次は怜花の胸倉を掴み上げ、その耳元で囁く。
「……いい加減、負けを認めろや。そうすりゃ、少しは楽に逝かせてやるぜ」
怜花の唇から、血の味が混じる吐息が漏れた。
だが、その口元に浮かんだのは、絶望ではなかった。
血で描いたような、鮮やかなまでの嘲笑だった。
「……ふん。負けを認めろ、アルか?」
声は掠れていたが、その響きには鋼のような意志の力が宿っていた。
「ワタシがいつ、アナタたちのような卑怯者の集団に負けたアルか? 黒狼会などと大層な名前を掲げておきながら、群れなければ一人の子供も捕まえられない。そんな臆病者の集まりが……」
「……なんだと?」
銀次の目に、じりじりと怒りの炎が燃え上がる。
「言ったはずネ。アナタたちの野望、聞いていれば滑稽アル。函館の港ひとつ満足に奪えず、大勢で寄ってたかって子供をいたぶるのが関の山。そんな小物が、日本を獲る? ……夢を見るのも、大概にするがいい」
その言葉は、もはや単なる挑発ではなかった。
絶対的な確信からくる、侮蔑。
銀次の眉がぴくりと痙攣するが、怜花は構わず続けた。
「アナタたちは、函館の……この街の本当の価値を、なにも分かっていない。ふん、分かるはずもないネ。その濁りきった目と欲望にまみれた心じゃ、自分の醜い顔しか見えないだろうから」
「……なにを、ごちゃごちゃと」
「教えてやるアル、おバカなアナタたちに! この町に流れる本当の声を! 坂の上から見下ろす港のきらめきを! 市場で交わされる威勢のいい挨拶を! 教会から響き渡る、異国の鐘の音を!」
空き家に響く怜花の言葉は、まるで詩を紡ぐかのように美しく、そして激しい情熱に満ちていた。
その熱量に、銀次の背後にいた男たちすら、一瞬たじろぐ。
「それだけじゃない! この街には和人も、アイヌも、清国人も、ロシアの者も、フランスの者も、アメリカの者も、イギリスの者もいる! 言葉も、肌の色も、信じる神も違う! それでもみんな、同じ空の下で、この港街で懸命に生きているアル!」
怜花の瞳に、きらりと光るものが滲んだ。
それは痛みや恐怖からではない。
愛する街と、そこに生きる人々への想いが、堰を切ってあふれ出したのだ。
「朝市のお婆ちゃんは、ワタシが『
怜花の声は、まるで歌うように響く。
「イギリスの領事は、ワタシが転んで怪我をしたとき、『大丈夫かね?』って心配してくれた。フランス人のお菓子職人は、ワタシの誕生日に小さなマドレーヌを焼いてくれた。アメリカの商人さんは、ワタシが英語を覚えたいと言うと、簡単な単語を教えてくれた」
銀次の顔が苛立ちに歪む。
「みんな、最初は言葉が通じなくても、心で通じ合ってきた! 笑顔は世界中で通じる宝ネ! その温もりを、アナタたちのような獣にわかるものか!」
言葉の奔流。
それは、銀次が信じる「力」とは全く異質の、しかし圧倒的な「力」を持っていた。
理解不能なその熱に、銀次の顔が苛立ちに歪む。
「だまれ、クソガキ!」
「アナタたちのような、力で人を縛り、恐怖で支配することしか知らない連中に、この町の価値がわかるはずない!」
怜花の啖呵が、薄暗い空き家を震わせる。
その声には、もはや恐怖などひとかけらもなかった。
あるのは、ただ燃え盛る誇り。
「アナタたちは弱い! 本当に弱いアル! だから群れるしかない! だから暴力でしか人を従わせることができない! でも、函館の人たちは違う! 一人ひとりが、互いを信じ、支え合っているから、強いのアル!」
「この、クソガキがァッ!」
逆上した銀次の、容赦のない平手が怜花の頬を打った。
肉を打つ鈍い音が響き、怜花の体がか細い悲鳴と共に柱に打ち付けられる。
びりり、と空気を引き裂く音。
銀次の鉤爪のような指が、真紅のチャイナドレスの肩口を引き裂いた。
雪のように白い肌があらわになり、下卑た男たちの獣じみた視線がそこに突き刺さる。
「ふざけやがって……! まぁいい。どうせ殺すんだ。その前に、テメェのその気高いプライドを、ズタズタに引き裂いてやるよ。何人もの男に好き放題にされて、その綺麗な顔が絶望と快楽に歪み、最後には俺の靴を舐めて命乞いする姿……へへ、想像しただけでゾクゾクするぜ!」
銀次の合図のもと、下卑た笑みを浮かべた男たちが、まるで腐肉に群がるハイエナのようにじりじりと怜花を取り囲んだ。
その目に宿るのは、獣のそれと同じ、純粋な欲望と暴力の色だった。
「ひひひ、こりゃ極上のタマだぜ」
「こいつ、男だって言うが……どう見ても女よりそそるじゃねえか」
「ねぇ、俺が先でいいんですよね?」
「馬鹿野郎、全員で
汚らわしい欲望を乗せた手が、憐れな獲物へと伸びていく。
しかし、その瞳は――怜花の瞳は、最後まで光を失わなかった。
「……アナタたちは、この街を知らない。この街の人々の、本当の強さを知らない。だから……」
涙で滲む視界の先、怜花は迫りくる獣たちを睨みつけた。
「だから、ワタシは負けない。この街も、
(――ここまで、か)
怜花の大きな瞳から、一筋の涙が静かに頬を伝った。
それは悔しさと無力感からくる
(ごめん、爸爸。ごめん、タケさん……でも、ワタシは最後まで、函館の人間として誇りを持って……)
男たちの汚れた指先が、その白い肌に触れようとした――まさに、その瞬間だった。
「ぎゃあああぁぁっ!」
夜の静寂を切り裂く、絶叫。
それは、空き家の外から響いてきた。
「な、何事だ!?」
銀次が怒鳴った、その時。
ばたり、と音を立てて入口の戸が蹴破られ、見張りだったはずの部下が転がり込んできた。
背中には、凄まじい力で叩きつけられたことを物語るように、衣服が破れ、皮膚が裂けて血が滲んでいた。
男は呻き声ひとつ上げることなく、床に崩れ落ちた。
その向こう。
月光を背に、三つの影が静かに佇んでいた。
夜の闇を溶かし込んだような黒い着流し。その瞳に、凍てつくような怒りの炎を宿す一人の剣士。
その両脇には、狼のように鋭い眼光を放つアイヌの少年と、固く拳を握りしめ、憎悪に顔を歪ませる和人の少年。
「……タケ、さん……」
涙で霞む視界の先で、怜花は確かにその背中を捉えた。
胸の奥で消えかかっていた希望の炎が、轟と音を立てて燃え上がる。
「――待たせたな、怜花」
武の声は、嵐の前の海のように静かだった。
だが、その奥底には、全てを飲み込み、破壊し尽くすほどの激情が渦巻いているのがわかった。
「私の友人に手を出したこと、きっちり返してもらうぞ。……蝦夷黒狼会」