「そんじゃま、紘一に部下が増えたことに──」
『かんぱーい!』
「はぁぁ……乾杯……」
その日の晩。
全員の都合が合った事もあり、新事業開始の打ち上げを僕の身の回りの大人達で行っていた。
メンバーは、茜、尊、志織、氏綱と珠美夫妻。
そして──田所愛海さん。
ちなみに氏綱のところの彩里ちゃん、光里ちゃん、康治くんの三人は、氏綱家の侍女さん達が見てくれているらしい。
「あ、あの……私のような者が、本当にここに居て良いのでしょうか……?」
乾杯も終わり、それぞれが肴を摘みながら酒を飲み始めた頃。
田所さんは、どこか居心地悪そうに肩を縮めていた。
「なーに言ってんだ! お前さんも今日から紘一の下で働く部下なんだ。他の女達の代表だと思って胸張っとけ!」
豪快に笑いながら、氏綱がそう言う。
「そうですよ。向こうの女性陣にも、お料理とお酒は用意しておりますのでご安心ください」
「流石だね、珠美」
「勿体なきお言葉ですわ」
珠美は、いつもの柔らかい笑みを浮かべながら上品に微笑む。
そのやり取りを見て、田所さんの強張っていた表情がほんの少しだけ和らいだ。
「ああ。後、田所さん達は表向きは僕の部下ではありますが。ここにいる皆同様、家族や仲間だと思ってますので、意見があったりしたら遠慮せず言ってくださいね」
「は、はい!」
ちなみに、茜と志織はまだ二十歳前なのでソフトドリンクである。
「しかしよぉ、紘一」
酒を飲みながら、氏綱がニヤリと笑う。
「お前さん、また女を泣かせたらしいじゃねぇか」
「……はい?」
思わず聞き返すと、氏綱は豪快に笑いながら田所さんへ視線を向けた。
「大広間であんだけ泣かせりゃ十分だろ」
「ぶッ……!?」
その瞬間。
田所さんが飲んでいたお茶を盛大に吹きかけそうになり、慌てて口元を押さえた。
「う、氏綱様っ!?」
「はっはっは!悪ぃ悪ぃ!」
豪快に笑う氏綱。
対して、田所さんは耳まで真っ赤になっていた。
「いや、氏綱?誤解招く言い方やめて」
「だが実際、お前さんの言葉で泣いたんだろ?」
「それはそうなんだけど……!」
「ふふっ……」
すると、小さな笑い声が聞こえた。
見ると、志織だった。
「でも、少し分かる気がします」
ジュースを片手に、志織は優しく笑う。
「紘一様って、“その人自身”をちゃんと見てくださいますから」
「お、惚気か?」
「事実を言ったまでです」
茶化す尊に対し、志織は涼しい顔で返す。
だが、その耳はほんの少し赤かった。
「……仲良いよね、君達」
「それは夫婦ですので」
「お前さん達も大概だろうが」
尊が呆れたように酒を飲む。
すると今度は、珠美がくすくす笑いながら口を開いた。
「でも、本当に良かったですわ」
「ん?」
「愛海さん達が、こうして安心出来る場所へ来られて」
その瞬間。
場の空気が少しだけ静かになる。
田所さんは、手元のグラスを見つめたまま小さく俯いた。
「……正直、まだ実感が無いんです」
ぽつり、と。
静かな声が零れる。
「数日前まで、全部終わったと思っていましたから」
その声には、まだ僅かに恐怖が残っていた。
仕事を失う恐怖。
居場所を失う恐怖。
未来が消える恐怖。
それらを、彼女達はずっと抱えていたのだ。
「……でも」
そう言って、田所さんはゆっくり顔を上げる。
その視線の先には、僕達がいた。
「こんな風に、“お疲れ様”って迎えていただける場所があるなんて……思っていませんでした」
銀縁眼鏡の奥。
その瞳は、少しだけ潤んでいた。
すると。
「当たり前だろ」
氏綱が即答した。
「頑張った奴には、飯食わせて酒飲ませて休ませる。それが大人の役目だ」
「あなた……」
珠美が呆れたように笑う。
けれど、その瞳はどこか優しかった。
「ははっ。氏綱らしいね」
「だろ?」
豪快に笑う氏綱。
そんな空気に包まれながら、田所さんは静かに周囲を見回していた。
夫婦で自然に酒を酌み交わす氏綱と珠美。
無愛想そうに見えて、さり気なく志織のグラスを気にしている尊。
そんな尊を当たり前のように支える志織。
料理を取り分けながら、周囲へ気を配っている茜。
誰も怒鳴らない。
誰も怯えていない。
誰も、“利用価値”で人を見ていない。
そんな空間を見た瞬間だった。
「……あぁ」
田所さんは、まるで噛み締めるように小さく呟く。
「これが……“居場所”なんですね……」
その声は、とても小さかった。
けれど確かに。
救われた人間の声だった。
「……あの」
和やかな空気の中。
遠慮がちに声を上げたのは、田所さんだった。
「ん?どうしました?」
そう尋ねると、田所さんは何故か視線を泳がせ始める。
「えっと……その……」
珍しく歯切れが悪い。
あれだけ鋭い目で現場を見ていた人とは思えないほど、今の彼女は落ち着きが無かった。
「た、田所さん?」
「……愛海、で」
「え?」
「その……もし宜しければ、“愛海”と呼んでいただけませんか……?」
銀縁眼鏡の奥。
その瞳が恥ずかしそうに揺れる。
「あー……」
氏綱がニヤニヤし始めた。
珠美も口元を隠しながら微笑んでいる。
「そりゃまぁ、名前で呼ばれたいわなぁ」
「あなた♪」
「いやだってよぉ?」
完全に面白がってる。
対して田所さんは、耳まで赤くなっていた。
「す、すみません!変な意味ではなく……!その……これから長くお世話になると思いますので……」
「ああ、なるほど」
そういう事か。
確かに、ずっと“田所副監督”とか、“田所さん”とか、役職や苗字で呼ばれてきた人なんだろう。
だからこそ、“愛海”と呼ばれたい。
それはきっと、仲間として認められたいという気持ちでもある。
「分かった。じゃあこれからは、愛海さんって呼ぶね」
そう言って笑うと。
愛海さんは、一瞬ぽかんとした後──
「……はい」
ふわり、と。
今までで一番柔らかい笑みを浮かべた。
その空気に、志織がほっこりしたように頬を緩める。
「愛海さん、凄く嬉しそうですね」
「っ……!」
すると愛海は、慌ててグラスを手に取り顔を隠した。
「し、志織さんは黙っていてください……!」
「ふふっ♪」
そんなやり取りに場が和んでいると、ふと思い出したように僕は尊を見る。
「そういえば尊。相談あるって聞いてたけど?」
「ん?」
すると氏綱も反応した。
「ああ、俺も聞いてたな。珍しく深刻そうな顔してたじゃねぇか」
その瞬間。
何故か尊が露骨に視線を逸らした。
「……いや。今日はいい」
「は?」
「ここではちょっと……」
珍しく歯切れが悪い。
いつもの尊なら、必要な事は即座に話す。
なのに今回は妙にごねている。
「何だよ。気になるじゃねぇか」
「だから別にいいって言ってんだろ……」
すると。
「うふふ♪」
珠美が、どこか楽しそうに笑った。
「あらあら。尊さんったら、まだ恥ずかしがっていらっしゃるんですか?」
「珠美!?」
尊が珍しく焦った声を上げる。
その瞬間。
全員が察した。
「あー……なるほど」
氏綱がニヤリと笑う。
「お前さん、そういう相談か」
「っ……!」
尊が完全に固まった。
「え?何の話です?」
まだ理解していない僕が首を傾げると、珠美が上品に微笑みながら口を開く。
「志織との初夜についてのご相談ですわ♪」
「ぶッーーーー!!」
次の瞬間。
尊が盛大に吹き出した。
「珠美ッ!?!?」
「ふふふ、声が大きいですわ♪」
珠美は楽しそうである。
対して志織は。
「……え?」
一瞬固まり。
「……えぇぇぇぇっ!?!?」
顔を真っ赤にしていた。
「た、尊様!?そのような事を相談しようとしてくださっていたのですか!?」
「いや違っ……違わねぇけど違う!!」
「どっちだよ」
氏綱が腹を抱えて笑っている。
「だ、だってしょうがねぇだろ……!」
尊は頭を掻きながら、珍しく居心地悪そうに視線を逸らした。
「俺も志織も、そういう経験ねぇんだから……」
その瞬間。
志織が完全に固まる。
「…………」
「男だけで集まった時に聞こうと思ってたんだよ。どういう風に大事にしたらいいとか……その……色々」
「尊様……♡」
次の瞬間。
志織の瞳が、じわぁ……っと潤み始めた。
「わ、私の事を……そこまで真剣に……♡」
「いやだから泣くなって!?」
「だって嬉しいんですものぉ……♡」
感極まった志織は、そのまま尊の腕へぎゅっと抱き付く。
対して尊は。
「っ……!」
顔を真っ赤にしながら完全に硬直していた。
「はっはっはっは!!」
そんな二人を見て、氏綱が豪快に笑う。
「お前さん、思った以上に初心だなぁ!?」
「うるせぇ!!」
氏綱の言葉に、尊は顔を真っ赤にしている。
「でも、二人にとっては特別な事だからね。応援したいよ」
「……ふん」
僕の言葉にも、尊はまだ照れ臭そうにそっぽを向いたままだ。
「とは言ってもなぁ……僕の場合、経験者である零奈と数年かけて色んな子と初体験してきたから、あまり参考になるか……」
そう言いながら氏綱へ視線を向ける。
が──
「ああ。この人のは何の参考にもなりませんよ」
珠美が即座に切り捨てた。
「痛がる私など気にもせず、勢いのまま
「うぐっ……!」
どうやら図星らしい。
氏綱は顔を青くしながら股間を押さえていた。
「いやでもよぉ!?若かったんだって俺も!」
「言い訳になっておりません♪」
「はい……」
完全敗北である。
「ふむ……」
何か参考になる事はないかと考えながら周囲へ目を向ける。
すると、不意に愛海と目が合った。
「───っ!」
愛海はビクリと肩を揺らし、慌てて視線を逸らす。
……いや。
流石に女性側からこういう話をさせるのも違うか。
そう思い、再び考え込もうとしたその時だった。
「あ、あのっ!」
愛海が突然声を上げた。
全員の視線が集まる。
「わ、私には……そういった経験もなく……! あ──」
そこまで言った瞬間。
愛海自身、“自分が何を口走ったのか”理解したのだろう。
「っ~~~~!!」
みるみるうちに顔が真っ赤になる。
そしてそのまま、両手で顔を覆って俯いてしまった。
「ま、愛海さん!?」
「愛海さん!?」
「わははははっ!!」
氏綱が腹を抱えて笑い始める。
「今日は初心な奴ばっかだなぁ!?」
「う、うるさいです……!」
愛海は耳まで真っ赤だった。
普段の冷静な副監督姿とのギャップが凄い。
「……意外ですね」
ぽつりと呟いたのは志織だった。
「愛海さんって、もっと経験豊富なイメージでした」
「そ、それは仕事柄そう見えるだけです……!」
愛海は羞恥で消えてしまいそうな声を出している。
「そもそも私……恋愛経験自体、ほぼありませんし……」
「へぇ?」
今度は茜が目を丸くした。
「愛海さんほどお綺麗な方でも、そういうものなのですね」
「き、綺麗とか関係ありません……!」
愛海は完全に涙目である。
そんな彼女を見ていた尊が、小さく鼻を鳴らした。
「……何だ。お前も同類か」
「っ!?」
愛海が勢いよく顔を上げる。
「ど、同類って何ですか!?」
「恋愛耐性低そうなところ」
「うっ……!」
どうやら図星らしい。
「ふふっ……」
すると、珠美がどこか楽しそうに笑った。
「でも、良い事だと思いますわ」
「え……?」
「初めてを大切にしたいと思えるのは、とても素敵な事ですもの」
その言葉に、場の空気が少しだけ柔らかくなる。
志織も、尊の腕へ身体を寄せながら小さく頷いた。
「はい……。私も、尊様との初めては大切な思い出にしたいです」
「っ……!」
その瞬間。
尊の顔が、再び真っ赤になった。
「し、志織……!」
「ふふっ♪」
そんな二人を見ながら、愛海は少しだけ目を丸くしていた。
そして。
「……良いですね」
ぽつり、と。
どこか羨ましそうに呟いたのだった。
「志織の言う通りだよ」
僕は苦笑しながら、尊へ視線を向ける。
「二人でちゃんと話し合って、“お互いが気持ちいい方法”を探していけば良いと思う」
「……お互いが?」
「ああ。初めてって、どうしても“失敗しちゃ駄目だ”とか、“痛くしちゃ駄目だ”とか考えがちだけどさ」
尊は黙ったまま僕の言葉を聞いている。
多分。
今の言葉、かなり図星なのだろう。
「そんな風に気負い過ぎるより、“二人で一緒に覚えていく”くらいで良いんだよ」
「……そういうものか」
「そういうもの」
そう返すと、尊はグラスを傾けながら小さく息を吐いた。
すると今度は、僕は志織へ視線を向ける。
「志織も、あんまり尊を焦らせちゃ駄目だからね?」
「っ……!」
その瞬間。
志織の肩がびくりと揺れた。
「……はい……」
みるみるうちに、しゅん……と小さくなっていく。
どうやら思い当たる節があるらしい。
「お前さん、何かやったな?」
「や、やってません!?」
氏綱の言葉に、志織は慌てて否定する。
だが。
「その反応は黒だなぁ?」
「ち、違うんですっ! その……!」
志織は顔を真っ赤にしながら、ちらちらと尊を見る。
「尊様が格好良いので……つい……」
「おい」
「えっと……少し距離を近くしてみたり……」
「おい」
「“楽しみにしています”って伝えてみたり……」
「おい志織」
完全に尊が頭を抱えていた。
「ははっ……」
思わず笑ってしまう。
確かに、それは尊からしたらプレッシャーだろう。
「……別に」
その時だった。
尊が、ぼそりと呟く。
「え?」
志織が顔を上げる。
尊は視線を逸らしたまま、ぶっきらぼうに続けた。
「嫌だった訳じゃねぇから」
「……っ」
「その……期待されんのは」
そこまで言って、尊は少しだけ眉を寄せる。
「……嬉しいし」
その瞬間。
志織の瞳が、一気に潤んだ。
「尊様ぁぁぁ……♡」
次の瞬間、志織は感極まったように尊へ抱き付く。
「ぐぇっ!?」
「ふふふっ♡尊様ぁぁ……!」
「く、苦しい……!」
だが、尊も本気で嫌がっている様子は無かった。
むしろ。
顔は真っ赤なのに、どこか嬉しそうですらある。
「はっはっはっ!!お前さん達、本当に初々しいなぁ!」
「うるせぇ!」
氏綱の大笑いに、尊が怒鳴る。
そんな騒がしい空気の中。
「……本当に、仲が良いんですね」
ぽつり、と。
愛海さんが静かに呟いた。
その視線は、じゃれ合う尊と志織へ向けられている。
どこか眩しいものを見るような目だった。
「羨ましいですか?」
不意に茜が尋ねる。
すると愛海さんは、一瞬だけ目を丸くした後──
「……少し」
そう、小さく笑った。
「こういう空気、知らなかったので」
その言葉に、場が少しだけ静かになる。
愛海さんはグラスを両手で包み込みながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「仕事の話ばかりでしたから。誰かとこうして笑いながら食事をしたり……相談したり……」
銀縁眼鏡の奥。
その瞳が、ほんの少しだけ細められる。
「安心して、人と一緒に居られる場所なんて……ありませんでした」
その声は静かだった。
けれど。
だからこそ、その言葉の重みが伝わってくる。
そんな愛海さんを見ながら、僕は自然と口を開いていた。
「じゃあ、これから覚えていけば良いよ」
「……え?」
「楽しい事も、騒がしい事も。ここでいっぱい経験していけばいい」
そう言って笑うと。
愛海さんは、少しだけ目を見開き──
やがて。
「……はい」
今度は、泣きそうなくらい優しい笑みを浮かべたのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
今回は少し箸休め回……と思いきや、個人的にはかなり大切なお話でした。
前話までの黒田事務所編では、一花を守る為の戦いや、その余波が中心でしたが、今回はその先のお話。
「救われた後、人はどう生きていくのか」
そんな部分を書きたかった回でもあります。
そして何より、田所愛海。
最初は一話限りの登場も考えていたのですが、気付けば想像以上に動いてくれるキャラクターになっていました。
優秀で真面目。
けれど不器用で、自分の事になると途端に弱くなる。
そんな彼女が少しずつ北条院の空気に馴染み、自分の居場所を見つけていく姿を書けたらと思っています。
また今回は、尊と志織にも少しスポットを当ててみました。
普段は万能に見える尊ですが、恋愛方面になると意外と初心。
そんなギャップを書いていて作者自身も楽しかったです。
志織もまた、尊を大切に想っているからこその可愛らしい一面が出せたかなと思っています。
そしてお気付きの方もいるかもしれませんが……
愛海が紘一を見る視線が、少しずつ変わり始めています。
それが尊敬なのか。
信頼なのか。
それとも別の感情なのか。
その辺りも今後ゆっくり描いていく予定です。
焦らず。
少しずつ。
彼女らしい歩幅で。
楽しみにしていただければ幸いです。
もし、
「愛海好きだわ」
「尊と志織が可愛かった」
「こういう日常回も好き」
と思っていただけましたら、評価・感想・お気に入り登録で応援していただけると励みになります!
皆様から頂く感想は、毎回楽しく読ませていただいております。
それではまた次回。
今後ともよろしくお願いいたします!