※この作品はR-18です。

憧れと欲情と   作:吉月和玖

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56.新たな一歩

そして数日後──

まだ新事務所は完成していない。

建設現場では今日も職人達が慌ただしく行き交い、事務所兼社員寮となる建物は、少しずつ完成へ近付いているらしい。

とはいえ、建物が完成するまで何もせず待っている訳にはいかない。

 

会社としての方針。

スタッフの配置。

今後制作していく作品。

 

決めなければならないことは山ほどある。

そのため本日は、北条院家の一室を借り、新会社設立後初となるミーティングが開かれることになった。

僕も夏休みで大学が休みということもあり、当然参加している。

一応、会社の所有者は僕と薫子という形になっているからだ。

もっとも、その薫子本人は不参加である。

 

「今のうちに片付けられる仕事は、全部片付けておきたいので」

 

朝食の席でそう言い残し、早々に執務室へ向かってしまった。

まだ出産までは時間がある。

それでも、自分が仕事から離れる時期を見越し、今のうちから周囲へ引き継げるよう準備を進めているらしい。

相変わらずというか、本当に抜け目がない。

お腹の子供のこともあるし、無理だけはしないでほしいものだけど。

 

「紘一様。お茶をお持ちいたしました」

「ああ、ありがとう。茜」

 

襖が静かに開き、茜が人数分の湯飲みを載せた盆を手に入ってくる。

今日の会議室として使わせてもらっているのは、北条院家の客間の一つだ。

畳敷きの広い和室。

中央には人数分の座布団と長机が並べられ、その一角だけは、周囲から少し浮いた近代的な設備が置かれている。

 

大型モニター。

集音用のマイク。

そして通信機器一式。

 

理由は単純だ。

 

「尊。そっちは聞こえてる?」

 

モニターへ向かって声を掛けると、画面の中で腕を組んでいた尊が、僅かに眉を動かした。

 

『問題ない』

「いつから繋いでたの?」

『会議開始の十五分前だ』

「早過ぎない?」

『直前に不具合が起きる方が面倒だろ』

 

相変わらず隙がない。

今日の会議には、尊だけが遠隔で参加している。

本人曰く。

 

『知らない人間が大勢集まる場所に、わざわざ行く必要があるのか』

 

とのことだった。

それを聞いた志織が、

 

『尊様は少し人見知りなだけです』

 

と柔らかく訂正していたが、多分どちらも間違ってはいない。

大人数での会話が苦手。

初対面の相手とは極力顔を合わせたくない。

必要がなければ部屋からも出たくない。

そんな尊らしい参加方法である。

もっとも、通信設備や資料作成については尊の担当だ。

会議で使用する資料も、ほとんど尊がまとめてくれたらしい。

人付き合いは苦手でも、仕事に手を抜く男ではない。

 

『それより紘一』

「ん?」

『資料には目を通したのか』

「……もちろん」

『間があったぞ』

「朝に一通りは読んだから!」

『一通り、か』

 

画面越しでも分かるほど、尊の目が冷たくなる。

まずい。

会議が始まる前から怒られそうだ。

 

「尊様。紘一様も本日は早くからご準備されていましたので、その辺りで……」

 

僕を庇うように口を挟んだのは志織だった。

彼女はモニターの正面に腰を下ろすと、画面の向こうへ柔らかな笑みを向ける。

 

『……志織がそう言うなら』

 

尊は少しだけ視線を逸らした。

分かりやすいなぁ。

 

「ふふっ」

 

そんな二人を見ていた茜が、楽しそうに微笑む。

 

『何だ』

「いや、仲良いなと思いまして」

「当然です。夫婦ですから」

 

志織は迷いなく答えた。

対して、尊は何も言わない。

ただし、僅かに耳が赤くなっている。

画面越しでも隠せていない辺り、まだまだ初心な夫婦である。

 

「……皆さん、本当に仲が良いのですね」

 

不意に、控えめな声が聞こえた。

振り向けば、少し離れた座布団に愛海さんが正座している。

白いシャツに黒いスラックス。

いつも通りの仕事着ではあるものの、今日は膝の上に置かれた両手が僅かに強張っていた。

 

「愛海さん、緊張してる?」

「……少しだけ」

 

正直に答えた後、愛海さんは困ったように笑う。

 

「これまでも会議には何度も参加してきました。けれど、今日は立場が違いますから」

 

これまでは副監督。

誰かが決めた方針を聞き、その通りに現場を動かす側だった。

だが、今日からは違う。

新会社の監督として、自分の考えを伝えなければならない。

責任も重さも、これまでとは比べものにならないだろう。

 

「大丈夫だよ」

 

僕はできるだけ軽い調子で声を掛ける。

 

「今日は何かを完璧に決めるための会議じゃないから」

「そうなのですか?」

「皆で、これからどうしたいか話すための会議」

 

僕一人で決めるつもりもない。

薫子が全て命令する会社にするつもりもない。

尊や氏綱、珠美。

そして何より、実際に現場で働く愛海さん達の意見が必要だ。

 

「だから愛海さんも、思ったことは全部言ってね」

「……全部、ですか?」

「うん。遠慮したら駄目」

 

そう答えると、愛海さんは一度だけ驚いたように目を見開いた。

やがて膝の上で強く握られていた指から、ゆっくりと力が抜けていく。

 

「……分かりました」

 

小さく息を吐き、愛海さんは姿勢を正す。

 

「本日は、監督として意見を述べさせていただきます」

 

先程までの不安は、まだ完全に消えてはいない。

それでも銀縁眼鏡の奥にある瞳には、確かな決意が宿っていた。

その時。

廊下から、複数人分の足音が聞こえてくる。

どうやら他の参加者達も到着したらしい。

茜が入口へ向かい、静かに襖へ手を掛ける。

まだ建物すら完成していない。

会社としての形も、これから作っていく段階だ。

それでも今日。

僕達は初めて、同じ未来について話し合う。

新会社として歩み始める、最初の一歩。

その記念すべき会議が、今まさに始まろうとしていた。

 

コンコン──

 

控えめなノックの音が部屋へ響く。

 

「失礼いたします」

 

襖が静かに開かれ、一人、また一人と参加者達が部屋へ入ってきた。

先頭は氏綱だ。

 

「おう、待たせたな!」

 

相変わらず腹の底から響くような声で笑いながら、大股で部屋へ入ってくる。

その後ろには、穏やかな笑みを浮かべた珠美。

 

「皆様、お待たせいたしました」

 

夫婦揃って一礼すると、自然な動作で用意されていた座布団へ腰を下ろした。

 

「お久しぶりです、氏綱さん」

「おう、愛海じゃねぇか」

 

氏綱は嬉しそうに目を細める。

 

「この前の歓迎会以来だな」

「はい。本日はよろしくお願いいたします」

 

愛海さんが深々と頭を下げる。

 

「そんな堅苦しい挨拶はいらねぇよ」

 

氏綱は豪快に笑った。

 

「今日からは同じ会社の仲間なんだからよ」

「……ありがとうございます」

 

その一言だけでも、愛海さんの表情は少しだけ柔らかくなる。

やがて、茜に案内されながら数名の女性スタッフ達も部屋へ入ってきた。

以前、黒田事務所で働いていたスタッフ達だ。

 

衣装担当。

制作進行。

大道具。

メイク。

 

それぞれ担当は違うものの、全員が映像作品作りに携わってきた人達である。

 

「し、失礼します……」

「よろしくお願いいたします」

 

全員どこか緊張した様子だった。

その気持ちは分かる。

ここへ来るまでの数日間で環境は一変した。

勤め先は無くなり、新しい会社へ所属することが決まり、これから先の人生まで大きく変わろうとしているのだから。

 

「皆さん、どうぞお座りください」

 

茜が柔らかく微笑みながら席へ案内する。

女性達は互いに顔を見合わせながら、小さく頭を下げて座布団へ腰を下ろした。

部屋には程よい緊張感が漂う。

誰もが、この会議が新しい人生の始まりになることを理解していた。

 

「……揃ったみたいだね」

 

僕が周囲を見回す。

モニターには尊。

部屋には氏綱と珠美。

志織と茜。

そして愛海さんをはじめとする新会社のスタッフ達。

誰一人として欠けることなく、この場へ集まってくれた。

すると、その時だった。

一人の若い女性スタッフが、おずおずと口を開く。

 

「あ、あの……」

「はい?」

 

愛海さんが優しく視線を向ける。

 

「田所副監督……」

 

そこまで言って、女性は慌てて口を押さえた。

 

「あっ……」

 

部屋の空気が一瞬だけ止まる。

以前の癖で呼んでしまったのだろう。

女性は申し訳なさそうに俯いてしまう。

 

「す、すみません……!」

「謝る必要はありませんよ」

 

愛海さんは穏やかに首を横へ振った。

 

「今までずっと、その呼び方でしたから」

 

少しだけ照れたように笑いながら続ける。

 

「ですが……今日からは、副監督ではありません」

 

そう言って、一度だけ僕へ視線を向ける。

僕は小さく頷いた。

 

「皆さん」

 

自然と口を開く。

 

「改めて紹介します」

 

部屋中の視線が集まった。

 

「今日から、この会社の映像制作部門を率いてくれる監督」

 

僕は愛海さんへ微笑みかける。

 

「田所愛海監督です」

 

その言葉を聞いた瞬間。

愛海さんの肩が、小さく震えた。

 

「……っ」

 

副監督ではない。

誰かを支える立場でもない。

今日、この瞬間から。

一つの作品を率いる責任者。

"監督"として紹介されたのだ。

女性スタッフ達も、その意味を理解したのだろう。

一人、また一人と表情が明るくなっていく。

そして。

 

「……愛海監督」

 

誰かが小さく呟いた。

その一言をきっかけに、

 

「愛海監督、よろしくお願いします」

「またご一緒できて嬉しいです」

「これからよろしくお願いいたします!」

 

部屋中から祝福の声が上がる。

愛海さんは驚いたように目を見開き──

やがて、ゆっくりと立ち上がった。

 

「皆さん……」

 

銀縁眼鏡の奥の瞳が、少しだけ潤んでいる。

それでも彼女は涙を堪え、深く一礼した。

 

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。皆さんと一緒に、胸を張って誇れる作品を作っていきたいと思います」

 

その言葉に。

部屋の空気が、ふっと柔らかくなる。

誰からともなく拍手が起こり、その音は少しずつ大きくなっていった。

その光景を見ながら、僕は自然と笑みを浮かべる。

きっと大丈夫だ。

この人なら、もう前だけを向いて歩いていける。

そう確信できるほど、愛海監督の表情は晴れやかだった。

 

拍手が落ち着き、部屋に再び静けさが戻る。

全員が自然と席へ着き、机の上へ視線を向けた。

 

資料を手に取る者。

深呼吸をする者。

緊張した面持ちで背筋を伸ばす者。

 

その誰もが、この会議の意味を理解していた。

 

「それじゃあ、始めようか」

 

僕はゆっくりと立ち上がる。

 

「まず最初に、この会社がどんな会社を目指すのか。その話だけは、皆さんに直接伝えておきたい」

 

部屋の空気が少しだけ引き締まる。

誰も言葉を挟まない。

皆、真っ直ぐにこちらを見つめていた。

 

「会社を立ち上げる理由は、人それぞれだと思います」

 

利益を出したい人。

有名になりたい人。

夢を叶えたい人。

どれも間違いではない。

 

「もちろん、この会社も利益は必要です」

 

会社である以上、利益がなければ社員を守ることはできない。

作品を作ることもできない。

次へ繋げることもできない。

だから、お金は大切だ。

 

「でも──」

 

一拍置き、皆を見回す。

 

「利益だけを追い掛ける会社にはしたくありません」

 

その一言に、数人の女性スタッフが目を見開いた。

 

「皆さんは、黒田事務所でたくさん苦しい思いをしてきました」

 

怒鳴られた人もいる。

理不尽な要求を押し付けられた人もいる。

作品を作る喜びを忘れかけた人もいる。

その傷は、簡単には消えない。

 

「だからこそ、この会社では同じことを絶対に繰り返しません」

 

言葉に自然と力が入る。

 

「立場が上だから偉い。新人だから我慢しろ。作品のためなら何をしてもいい」

 

そんな考え方は、この会社には必要ない。

 

「現場で困っている人がいたら、役職に関係なく助ける。意見があるなら、遠慮せず言う。誰か一人に負担が偏るなら、皆で支える」

 

それが、この会社の当たり前になってほしい。

静まり返った部屋に、僕の声だけがゆっくりと響いていく。

 

「演者も。スタッフも。監督も。誰一人として、使い捨てにはしません」

 

その瞬間。

愛海さんが小さく息を呑む気配がした。

女性スタッフ達も、真剣な表情で僕を見つめている。

 

「映像作品は、一人じゃ作れません」

 

どれだけ優秀な監督がいても。

どれだけ有名な俳優がいても。

照明がいなければ撮れない。

音声がいなければ声は届かない。

美術がいなければ世界は生まれない。

メイクがいなければ役は完成しない。

そして、その全員を支える制作スタッフがいるからこそ、一つの作品が形になる。

 

「だから、この会社で一番大切なのは、人です」

 

才能だけじゃない。

実績だけでもない。

ここで働く一人一人を大切にできる会社。

それが、僕達の目指す会社です。

言い終えると、部屋はしばらく静まり返っていた。

やがて。

 

『……悪くない』

 

モニターの向こうから、尊の声が聞こえる。

 

「珍しく素直だね」

『勘違いするな』

 

尊は腕を組み直しながら続けた。

 

『理念としては理にかなっていると言っただけだ』

 

その言葉に、部屋のあちこちから小さな笑い声が漏れる。

 

「ふふっ。尊さんらしいですね」

 

珠美が上品に微笑み、氏綱も豪快に笑った。

 

「はっはっは!相変わらず素直じゃねぇな!」

『うるさい』

 

短く返す尊だったが、その声音はどこか柔らかい。

場の空気が少し和らいだ、その時だった。

 

「……代表」

 

静かに立ち上がったのは、愛海監督だった。

 

「一つ、お話ししてもよろしいでしょうか」

「もちろん」

 

頷くと、愛海監督は一度だけ部屋を見回す。

そこには、かつて同じ現場で苦楽を共にした仲間達がいた。

そして今は、新しい会社の仲間として同じ場所に座っている。

その光景を胸に刻むように見つめた後、愛海監督は静かに口を開いた。

 

「私も、この会社の監督として約束します」

 

その言葉に、全員の視線が集まる。

 

「作品だけではなく、現場で働く皆さんの笑顔も守れる監督になります」

 

その決意に満ちた一言は、部屋中へ静かに、しかし力強く響き渡った。

 

こうして、新会社としての理念は全員の胸に刻まれた。

しかし、これはまだ始まりに過ぎない。

これから決めるのは、理念ではなく"現実"だ。

初めての作品。

初めての撮影。

そして、それぞれが背負う役割。

新たな一歩を踏み出した僕達を待っているのは、希望だけではない。

それでも──

この仲間達となら、きっと乗り越えていける。

そう信じられるだけの覚悟が、今の僕達にはあった。

 

 




最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!

今回は、新会社としての「最初の一歩」を描いたお話でした。

派手な展開こそありませんでしたが、個人的には物語の土台となる、とても大切な一話になったと思っています。

特に、愛海が正式に「監督」として皆の前に立つ場面は、以前から書きたかったシーンの一つでした。

これまで誰かを支える立場だった彼女が、自ら先頭に立つ決意を固める──そんな成長を感じていただけていたら嬉しいです。

また、紘一が語った会社の理念は、この作品における一つの軸でもあります。

作品を作ることはもちろんですが、それ以上に「人を大切にする」という想いを、これから先の物語でも描いていきたいと思っています。

そして次回からは、いよいよ新会社が本格始動!

それぞれの役割や初めての仕事、そして新たな作品作りへ向けて物語が大きく動き始めます。

新しい仲間達がどのような未来を築いていくのか、ぜひ温かく見守っていただけると幸いです。

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いただいた応援は、いつも執筆の大きな力になっています。

それでは、また次回お会いしましょう!

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