そして数日後──
まだ新事務所は完成していない。
建設現場では今日も職人達が慌ただしく行き交い、事務所兼社員寮となる建物は、少しずつ完成へ近付いているらしい。
とはいえ、建物が完成するまで何もせず待っている訳にはいかない。
会社としての方針。
スタッフの配置。
今後制作していく作品。
決めなければならないことは山ほどある。
そのため本日は、北条院家の一室を借り、新会社設立後初となるミーティングが開かれることになった。
僕も夏休みで大学が休みということもあり、当然参加している。
一応、会社の所有者は僕と薫子という形になっているからだ。
もっとも、その薫子本人は不参加である。
「今のうちに片付けられる仕事は、全部片付けておきたいので」
朝食の席でそう言い残し、早々に執務室へ向かってしまった。
まだ出産までは時間がある。
それでも、自分が仕事から離れる時期を見越し、今のうちから周囲へ引き継げるよう準備を進めているらしい。
相変わらずというか、本当に抜け目がない。
お腹の子供のこともあるし、無理だけはしないでほしいものだけど。
「紘一様。お茶をお持ちいたしました」
「ああ、ありがとう。茜」
襖が静かに開き、茜が人数分の湯飲みを載せた盆を手に入ってくる。
今日の会議室として使わせてもらっているのは、北条院家の客間の一つだ。
畳敷きの広い和室。
中央には人数分の座布団と長机が並べられ、その一角だけは、周囲から少し浮いた近代的な設備が置かれている。
大型モニター。
集音用のマイク。
そして通信機器一式。
理由は単純だ。
「尊。そっちは聞こえてる?」
モニターへ向かって声を掛けると、画面の中で腕を組んでいた尊が、僅かに眉を動かした。
『問題ない』
「いつから繋いでたの?」
『会議開始の十五分前だ』
「早過ぎない?」
『直前に不具合が起きる方が面倒だろ』
相変わらず隙がない。
今日の会議には、尊だけが遠隔で参加している。
本人曰く。
『知らない人間が大勢集まる場所に、わざわざ行く必要があるのか』
とのことだった。
それを聞いた志織が、
『尊様は少し人見知りなだけです』
と柔らかく訂正していたが、多分どちらも間違ってはいない。
大人数での会話が苦手。
初対面の相手とは極力顔を合わせたくない。
必要がなければ部屋からも出たくない。
そんな尊らしい参加方法である。
もっとも、通信設備や資料作成については尊の担当だ。
会議で使用する資料も、ほとんど尊がまとめてくれたらしい。
人付き合いは苦手でも、仕事に手を抜く男ではない。
『それより紘一』
「ん?」
『資料には目を通したのか』
「……もちろん」
『間があったぞ』
「朝に一通りは読んだから!」
『一通り、か』
画面越しでも分かるほど、尊の目が冷たくなる。
まずい。
会議が始まる前から怒られそうだ。
「尊様。紘一様も本日は早くからご準備されていましたので、その辺りで……」
僕を庇うように口を挟んだのは志織だった。
彼女はモニターの正面に腰を下ろすと、画面の向こうへ柔らかな笑みを向ける。
『……志織がそう言うなら』
尊は少しだけ視線を逸らした。
分かりやすいなぁ。
「ふふっ」
そんな二人を見ていた茜が、楽しそうに微笑む。
『何だ』
「いや、仲良いなと思いまして」
「当然です。夫婦ですから」
志織は迷いなく答えた。
対して、尊は何も言わない。
ただし、僅かに耳が赤くなっている。
画面越しでも隠せていない辺り、まだまだ初心な夫婦である。
「……皆さん、本当に仲が良いのですね」
不意に、控えめな声が聞こえた。
振り向けば、少し離れた座布団に愛海さんが正座している。
白いシャツに黒いスラックス。
いつも通りの仕事着ではあるものの、今日は膝の上に置かれた両手が僅かに強張っていた。
「愛海さん、緊張してる?」
「……少しだけ」
正直に答えた後、愛海さんは困ったように笑う。
「これまでも会議には何度も参加してきました。けれど、今日は立場が違いますから」
これまでは副監督。
誰かが決めた方針を聞き、その通りに現場を動かす側だった。
だが、今日からは違う。
新会社の監督として、自分の考えを伝えなければならない。
責任も重さも、これまでとは比べものにならないだろう。
「大丈夫だよ」
僕はできるだけ軽い調子で声を掛ける。
「今日は何かを完璧に決めるための会議じゃないから」
「そうなのですか?」
「皆で、これからどうしたいか話すための会議」
僕一人で決めるつもりもない。
薫子が全て命令する会社にするつもりもない。
尊や氏綱、珠美。
そして何より、実際に現場で働く愛海さん達の意見が必要だ。
「だから愛海さんも、思ったことは全部言ってね」
「……全部、ですか?」
「うん。遠慮したら駄目」
そう答えると、愛海さんは一度だけ驚いたように目を見開いた。
やがて膝の上で強く握られていた指から、ゆっくりと力が抜けていく。
「……分かりました」
小さく息を吐き、愛海さんは姿勢を正す。
「本日は、監督として意見を述べさせていただきます」
先程までの不安は、まだ完全に消えてはいない。
それでも銀縁眼鏡の奥にある瞳には、確かな決意が宿っていた。
その時。
廊下から、複数人分の足音が聞こえてくる。
どうやら他の参加者達も到着したらしい。
茜が入口へ向かい、静かに襖へ手を掛ける。
まだ建物すら完成していない。
会社としての形も、これから作っていく段階だ。
それでも今日。
僕達は初めて、同じ未来について話し合う。
新会社として歩み始める、最初の一歩。
その記念すべき会議が、今まさに始まろうとしていた。
コンコン──
控えめなノックの音が部屋へ響く。
「失礼いたします」
襖が静かに開かれ、一人、また一人と参加者達が部屋へ入ってきた。
先頭は氏綱だ。
「おう、待たせたな!」
相変わらず腹の底から響くような声で笑いながら、大股で部屋へ入ってくる。
その後ろには、穏やかな笑みを浮かべた珠美。
「皆様、お待たせいたしました」
夫婦揃って一礼すると、自然な動作で用意されていた座布団へ腰を下ろした。
「お久しぶりです、氏綱さん」
「おう、愛海じゃねぇか」
氏綱は嬉しそうに目を細める。
「この前の歓迎会以来だな」
「はい。本日はよろしくお願いいたします」
愛海さんが深々と頭を下げる。
「そんな堅苦しい挨拶はいらねぇよ」
氏綱は豪快に笑った。
「今日からは同じ会社の仲間なんだからよ」
「……ありがとうございます」
その一言だけでも、愛海さんの表情は少しだけ柔らかくなる。
やがて、茜に案内されながら数名の女性スタッフ達も部屋へ入ってきた。
以前、黒田事務所で働いていたスタッフ達だ。
衣装担当。
制作進行。
大道具。
メイク。
それぞれ担当は違うものの、全員が映像作品作りに携わってきた人達である。
「し、失礼します……」
「よろしくお願いいたします」
全員どこか緊張した様子だった。
その気持ちは分かる。
ここへ来るまでの数日間で環境は一変した。
勤め先は無くなり、新しい会社へ所属することが決まり、これから先の人生まで大きく変わろうとしているのだから。
「皆さん、どうぞお座りください」
茜が柔らかく微笑みながら席へ案内する。
女性達は互いに顔を見合わせながら、小さく頭を下げて座布団へ腰を下ろした。
部屋には程よい緊張感が漂う。
誰もが、この会議が新しい人生の始まりになることを理解していた。
「……揃ったみたいだね」
僕が周囲を見回す。
モニターには尊。
部屋には氏綱と珠美。
志織と茜。
そして愛海さんをはじめとする新会社のスタッフ達。
誰一人として欠けることなく、この場へ集まってくれた。
すると、その時だった。
一人の若い女性スタッフが、おずおずと口を開く。
「あ、あの……」
「はい?」
愛海さんが優しく視線を向ける。
「田所副監督……」
そこまで言って、女性は慌てて口を押さえた。
「あっ……」
部屋の空気が一瞬だけ止まる。
以前の癖で呼んでしまったのだろう。
女性は申し訳なさそうに俯いてしまう。
「す、すみません……!」
「謝る必要はありませんよ」
愛海さんは穏やかに首を横へ振った。
「今までずっと、その呼び方でしたから」
少しだけ照れたように笑いながら続ける。
「ですが……今日からは、副監督ではありません」
そう言って、一度だけ僕へ視線を向ける。
僕は小さく頷いた。
「皆さん」
自然と口を開く。
「改めて紹介します」
部屋中の視線が集まった。
「今日から、この会社の映像制作部門を率いてくれる監督」
僕は愛海さんへ微笑みかける。
「田所愛海監督です」
その言葉を聞いた瞬間。
愛海さんの肩が、小さく震えた。
「……っ」
副監督ではない。
誰かを支える立場でもない。
今日、この瞬間から。
一つの作品を率いる責任者。
"監督"として紹介されたのだ。
女性スタッフ達も、その意味を理解したのだろう。
一人、また一人と表情が明るくなっていく。
そして。
「……愛海監督」
誰かが小さく呟いた。
その一言をきっかけに、
「愛海監督、よろしくお願いします」
「またご一緒できて嬉しいです」
「これからよろしくお願いいたします!」
部屋中から祝福の声が上がる。
愛海さんは驚いたように目を見開き──
やがて、ゆっくりと立ち上がった。
「皆さん……」
銀縁眼鏡の奥の瞳が、少しだけ潤んでいる。
それでも彼女は涙を堪え、深く一礼した。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。皆さんと一緒に、胸を張って誇れる作品を作っていきたいと思います」
その言葉に。
部屋の空気が、ふっと柔らかくなる。
誰からともなく拍手が起こり、その音は少しずつ大きくなっていった。
その光景を見ながら、僕は自然と笑みを浮かべる。
きっと大丈夫だ。
この人なら、もう前だけを向いて歩いていける。
そう確信できるほど、愛海監督の表情は晴れやかだった。
拍手が落ち着き、部屋に再び静けさが戻る。
全員が自然と席へ着き、机の上へ視線を向けた。
資料を手に取る者。
深呼吸をする者。
緊張した面持ちで背筋を伸ばす者。
その誰もが、この会議の意味を理解していた。
「それじゃあ、始めようか」
僕はゆっくりと立ち上がる。
「まず最初に、この会社がどんな会社を目指すのか。その話だけは、皆さんに直接伝えておきたい」
部屋の空気が少しだけ引き締まる。
誰も言葉を挟まない。
皆、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「会社を立ち上げる理由は、人それぞれだと思います」
利益を出したい人。
有名になりたい人。
夢を叶えたい人。
どれも間違いではない。
「もちろん、この会社も利益は必要です」
会社である以上、利益がなければ社員を守ることはできない。
作品を作ることもできない。
次へ繋げることもできない。
だから、お金は大切だ。
「でも──」
一拍置き、皆を見回す。
「利益だけを追い掛ける会社にはしたくありません」
その一言に、数人の女性スタッフが目を見開いた。
「皆さんは、黒田事務所でたくさん苦しい思いをしてきました」
怒鳴られた人もいる。
理不尽な要求を押し付けられた人もいる。
作品を作る喜びを忘れかけた人もいる。
その傷は、簡単には消えない。
「だからこそ、この会社では同じことを絶対に繰り返しません」
言葉に自然と力が入る。
「立場が上だから偉い。新人だから我慢しろ。作品のためなら何をしてもいい」
そんな考え方は、この会社には必要ない。
「現場で困っている人がいたら、役職に関係なく助ける。意見があるなら、遠慮せず言う。誰か一人に負担が偏るなら、皆で支える」
それが、この会社の当たり前になってほしい。
静まり返った部屋に、僕の声だけがゆっくりと響いていく。
「演者も。スタッフも。監督も。誰一人として、使い捨てにはしません」
その瞬間。
愛海さんが小さく息を呑む気配がした。
女性スタッフ達も、真剣な表情で僕を見つめている。
「映像作品は、一人じゃ作れません」
どれだけ優秀な監督がいても。
どれだけ有名な俳優がいても。
照明がいなければ撮れない。
音声がいなければ声は届かない。
美術がいなければ世界は生まれない。
メイクがいなければ役は完成しない。
そして、その全員を支える制作スタッフがいるからこそ、一つの作品が形になる。
「だから、この会社で一番大切なのは、人です」
才能だけじゃない。
実績だけでもない。
ここで働く一人一人を大切にできる会社。
それが、僕達の目指す会社です。
言い終えると、部屋はしばらく静まり返っていた。
やがて。
『……悪くない』
モニターの向こうから、尊の声が聞こえる。
「珍しく素直だね」
『勘違いするな』
尊は腕を組み直しながら続けた。
『理念としては理にかなっていると言っただけだ』
その言葉に、部屋のあちこちから小さな笑い声が漏れる。
「ふふっ。尊さんらしいですね」
珠美が上品に微笑み、氏綱も豪快に笑った。
「はっはっは!相変わらず素直じゃねぇな!」
『うるさい』
短く返す尊だったが、その声音はどこか柔らかい。
場の空気が少し和らいだ、その時だった。
「……代表」
静かに立ち上がったのは、愛海監督だった。
「一つ、お話ししてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
頷くと、愛海監督は一度だけ部屋を見回す。
そこには、かつて同じ現場で苦楽を共にした仲間達がいた。
そして今は、新しい会社の仲間として同じ場所に座っている。
その光景を胸に刻むように見つめた後、愛海監督は静かに口を開いた。
「私も、この会社の監督として約束します」
その言葉に、全員の視線が集まる。
「作品だけではなく、現場で働く皆さんの笑顔も守れる監督になります」
その決意に満ちた一言は、部屋中へ静かに、しかし力強く響き渡った。
こうして、新会社としての理念は全員の胸に刻まれた。
しかし、これはまだ始まりに過ぎない。
これから決めるのは、理念ではなく"現実"だ。
初めての作品。
初めての撮影。
そして、それぞれが背負う役割。
新たな一歩を踏み出した僕達を待っているのは、希望だけではない。
それでも──
この仲間達となら、きっと乗り越えていける。
そう信じられるだけの覚悟が、今の僕達にはあった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!
今回は、新会社としての「最初の一歩」を描いたお話でした。
派手な展開こそありませんでしたが、個人的には物語の土台となる、とても大切な一話になったと思っています。
特に、愛海が正式に「監督」として皆の前に立つ場面は、以前から書きたかったシーンの一つでした。
これまで誰かを支える立場だった彼女が、自ら先頭に立つ決意を固める──そんな成長を感じていただけていたら嬉しいです。
また、紘一が語った会社の理念は、この作品における一つの軸でもあります。
作品を作ることはもちろんですが、それ以上に「人を大切にする」という想いを、これから先の物語でも描いていきたいと思っています。
そして次回からは、いよいよ新会社が本格始動!
それぞれの役割や初めての仕事、そして新たな作品作りへ向けて物語が大きく動き始めます。
新しい仲間達がどのような未来を築いていくのか、ぜひ温かく見守っていただけると幸いです。
「面白かった!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると、とても励みになります。
いただいた応援は、いつも執筆の大きな力になっています。
それでは、また次回お会いしましょう!