指先で障子紙をゆっくりと撫でる。
すこし年季の入った和紙はひんやりとしていて、ざらざらと吸い付くような触感と、微かな緊張を返してくる。そのまま突き破いてしまいたくなる衝動に身体が疼く。力をかければ穴が開いてしまう、ただそれだけにも関わらず、大人になった今でもこの疼きは、私の中で息を潜めている。
「お願いだから破かないでよ」
もうどれくらい、そうしていたのだろうか。
隣室の襖の間から心配そうな顔でマリコが覗き込んでいた。大の字になって転がっている私は、取り繕う余裕もなく、ただ無言で障子から手を離した。
「だいぶ参っているみたいね」
マリコは小さくため息をつきながら視線を座卓に向ける。彼女につられて見なくてもわかる。
一畳ほどの大きさの背の低い机は、丸められたものや破られたもの、黒く塗りつぶされたものから白紙のものまで、あらゆる文字の暴力を受けた原稿だったもので覆われていた。寝食を共にし、艱難辛苦を乗り越えてきた私の代弁者たるあの万年筆でさえ、力尽きたように転がっている。
「天野はるかは詰まっていた。それも、かつてないほどに」
「あなたがポンポン仕事を引き受けるからでしょう」
「あの時は出来ると思っていたんだよう」
私の独白は直截に両断されてしまう。でも彼女の言う通りだった。書ける時に書いておくのだとお仕事を次々に受けて、気付いた時にはスケジュールはパンク寸前。お仕事をくれる人は誰だって仏様に見えるのに、遅れがちらつくとその顔は途端に鬼へと化ける。
加えて、急に筆が止まった。沈黙、完全なる沈黙だった。筆が止まること自体は珍しいことではないけれど、止まる時はいつだって最悪のタイミングなのだ。台詞も情景も、登場人物の息遣いさえ捉えているのに、文字にならない。
手のひらを筆ごと握りつぶされているかのように、動かない、動かせない。この沈黙は理由もなく訪れては私の予定を滅茶苦茶にして理由もなく去る、血族よりも遥かに厄介な自身の影だった。
仕事も作品の中身も、全てが制御できなくなってしまっていたのだ。
そんな鬼と納期と己の影に追い回される様を見かねたマリコは、東京から遠く遠く離れた、ひなびた温泉街に私を幽閉もとい避難させたのだった。やっと残暑が抜けてきた秋口の平日、紅葉を迎える前の観光地は人もまばらで、それが余計に心をくさくささせる。
「缶詰め、逆効果だったかしら」
「ううん、そんなことはない。そんなことはないけれど」
缶詰め、あるいは館詰め。作家にとっての最終手段のひとつ。外部からの連絡を絶った場所に閉じ込めて、執筆だけに集中させること。書くための意志と気力、それに適度な焦りのスパイスがあれば缶詰めはとても効果的だ。
「これでもちょっとは進んだから」
日常の喧騒から切り離されて思考は素早く、感覚は鋭く、閃きは確かな重みで筆に宿る。ずっとここで書き続ければいいんじゃないかと、そんな考えが浮かぶ暇もないほどに熱中する。この燃えたぎる欲求が冷めて朦朧としてくる頃には、疎んでいた家や喧噪が恋しくなっていて、とにかく書き上げてしまえる、こんな寸法だ。
「そう、どれどれ。詰まった、塞がった、断たれた」
理想的な缶詰めの妄想に逃避しようとしていた私に北極海並みの冷や水が浴びせられる。
いつの間にか側に立っていたマリコは、床にまで散らばっていた原稿を拾い上げ、書き殴りをおもむろに読み上げ始めたのだ。
「行き止まり、立ち往生、スタック、スタック、スタック」
「うぐっ、ぐうう」
普段であれば取っ組み合いのひとつやふたつありそうなマリコの所業にも立ち向かう気力が湧いてこない。そもそも、書いたのは自分だ。
「重症ね」ただただマリコの呆れた視線が痛かった。
そう。缶詰めは効果的とは言え、あくまで最終手段のひとつであって、解決を保証するものではないのだ。きらきら光る缶詰め生活とは程遠いところで倒れて伏しているのが今の私だった。
そして書けない時の缶詰めはとても恐ろしい。
何が恐ろしいって、それは缶詰め状態で書けなければ、完全に手詰まりということだ。一汁三菜、大きな浴槽に温泉、マッサージチェア、くたびれた遊戯室、謎スペースこと広縁、旅行であれば全てがリセットのきっかけとして立ち上がってくるはずのそれらが、閉じ込められると、監房のオブジェに変わる。
女将さんも仲居さんも、皆が獄卒に見えてくる。もちろんマリコは鬼だ。書くために来ているのだから帰るわけにもいかない、これこそまさにスタックだ。ここに来ることがリセットなのであって、ここをリセットすることはできない。逃げ場がないのであった。
缶の中身が詰まっていたら嬉しいけれど、詰められているのが自分というのはたちの悪い冗談で、始末のつかない皮肉だった。むしろ缶詰めの本当の意味は。
ぱん!
前触れなくマリコは強烈な手拍子を放つと、ドアに向けて猛然と指を差す。
「はるか、お風呂!」
「はぁい」
面食らった私は、しつけのようなマリコの指示で部屋から追い出された。
大浴場を目指す廊下は少し肌寒い。のそのそと歩みを進めながら懲りずに思考を辿る。
閉じ込められると、お風呂と食事しか楽しみがなくなる。かつての文豪たちもこうなると辛くて辛くて、時には書く努力を犠牲にしてまで実に様々な手法でこの窮地から脱しようとした。お酒は缶詰めに欠かせないパートナーであり、仲間を呼んで浴びるほど飲み、果ては薬まで使ってなんとかやり過ごしていたという。現代の作家ではまず考えられないことだ。
でも私だってマリコがいなければ昼ビールに逃げ込んでいたはずだ。
手入れの行き届いたサーバーから注がれる涼やかな黄金色の液体、ああ、ビール。
「ご用意しましょうか?」
気が付くと私は銀色の筐体の前に立ち尽くしていた。我ながら呆れてしまう。
「まだ、まだ我慢しておきます!あはは…」
こんなところをマリコに見つかれば、目玉では済まされない。
獄卒の甘言に後ろ髪を引かれながらも、私は早足で逃げ出す。
滞在しているこの旅館は増改築を繰り返して巨大化した年代物で、和洋折衷、民宿と旅館とホテルの混合物となっている。泉質の良い温泉と広々としたラウンジが売りだ。
洋式に改装されたのであろうラウンジには暖炉を中心にふかふかのソファ、品の良い調度品が揃えられ、ドリンクコーナーには種々の茶葉からイタリア製のコーヒーメーカーまでもが備え付けられている。そして一際目を引くのがビールサーバーだ。獄卒がいれば注いでくれるし、セルフでも飲めてしまう。
ご丁寧にも客室から大浴場までの動線に配置されたここを通るたびに、心の底から恨めしい気持ちになるのだった。
そんなリセット向きの空間を泣く泣く通り過ぎると、浴場との間に小さな遊戯室がある。
こちらは部屋全体がかなりくたびれていた。卓球台とクッションのへたれた椅子。くすんだ色のカーペット。しわくちゃのソファ。そして木棚に詰め込まれた色褪せた本たち。改築の際に取り残されてしまったのだろうか、捨てるほどではないものを集めた押し入れのようであった。
入口も「遊戯室」と彫られたプレートが下げられているだけで素っ気ないものだ。電球は息絶え絶えの様子で、私が出入りする度に点くか点かないか、じれったい思いをさせられる。
数少ない宿泊者がラウンジに集まるのに対して、こちらは誰かがいるのをまだ見たことがない。お風呂上りにここで孤独と感傷に浸るのが、アルコールに逃避するわけにもいかない私のささやかなリセットだった。
昼間からの温泉が如何に気分の良いものであったとしても、お湯の音も広大な浴槽も、何度も何度も入っていると、ときめく気持ちは萎んでしまう。湯船は作家どころか人類にとってのアイデアのゆりかごだけれども、今ばかりは辛い。
血行が良くなって頭がはっきりしてくると、かえって書けていないという事実が実体をもって重くのしかかってくる。露天風呂のひさしから覗くお日様さえ、忌々しく感じられるほどだ。
「はあ」
怨嗟に染まったため息が、ひとりきりの浴場の隅々まで響いた。
風呂場で何をどうしたか、はっきりとしない。身体を洗うのはこの宿で何回目だったっけ。身支度を整えてのろのろと脱衣所から這い出す。
行きよりも重くなった身体を引きずりながら、遊戯室に向かう途中で私は思わず立ち止まった。
「明かりが点いてる」
普段であれば、あんな部屋にわざわざ入る同好の士の邪魔をしたくはないけれど、小さなリセットを譲るわけにはいかない。何より、好奇心に負けて部屋へと踏み込んだ。
私のささやかな聖域だったそこには、小さな先客がいた。
少年と青年のちょうど境界にいるかのようで、敢えて決めるなら少年だ。物憂げで大人びた雰囲気を纏っているが、よく見るとまだ顔付きはあどけない。肘掛けを枕にして、ソファに身体を投げ出しただらしない格好で、いかにも興味を引かれないといった表情で文庫本をぱらぱらとめくっている。目の前のテーブルにはお眼鏡に叶わなかったのであろう本や雑誌が乱雑に積まれていた。
その退廃的な様子が、朽ち果てつつある遊戯室に調和して、なかなか様になっている。
彼にとっても他の客が入ってくるのは予想外だったのだろう。驚いた様子で面をあげると、小さく会釈をして、持っていた本で顔を隠してしまった。
反応は今一つでも虎穴に入らずんば虎子を得ず、乗り掛かった船だと思って、えいと少年の前まで進む。何より、この風変りな少年に興味が湧いてしまっていた。
近付いてみると、少年はちゃんと男の子だった。骨格は大人の身体付きに変化している途中で、服の端から見える四肢には薄っすらと健康的な筋肉が張り付いている。肌は少し焼けていて、寡黙な態度の割には外でも活発に動いているようだった。散髪は少しさぼっているのかな、垂れた前髪がアンニュイな眼差しを隠していた。
再び目が合う。他人に、しかも大人の異性に観察されることに慣れない様子で居心地が悪そうだ。にも関わらず、文庫本越しに交差した視線はほどけなかった。
浮ついた気分になった私は、少年と真向かいのソファに落ちるように腰掛ける。気の抜けたソファが悲鳴をあげ、少年の目は不安を湛えた。まだ熱をもった身体が、館内着をしっとりとさせる。切羽詰まった気の迷いか、ぞんざいに扱われた本に理不尽な義憤を覚えたのか、単に少年をからかいたかったのか、とにかく、私は普通ではないようだった。
少年の真似をしてずりずりと姿勢を崩し、わざとらしく身体にしなをつくる。少年の顔を見つめたまま。怪訝そうに様子を窺っていた少年の顔は見る見るうちに赤くなった。
たぶん、私も同じだ。
それでも彼をじっと見つめる。彼も私をじっと見つめている。
我慢できなくなったのは少年の方だった。
「何か、用でも?」
斜に構えた口調と少し低い声が、背伸びをしているようでなんだか微笑ましい。
彼が大人であれば、こんな不審な女が目の前に居座ったら逃げるべきなのだから。
私が返事をする代わりに笑みを浮かべると、喉を鳴らす音が聞こえた。
「なんなんだよ、もう」
声を裏返らせた少年は不満げに唸る。赤くなっていた顔が一層鮮やかになる。
「おかしいんじゃないの」
「そうかもね。おかしくなっちゃったのかも」
私の返事が思いもよらなかったのか、少年はとうとう本で顔を隠すのを諦めたようだった。
男らしい凛々しさとまではいかなくても、青年の顔付きに変わりつつ面を認めて、ちらりと胸がときめく。一寸置いて、今度は私から切り出す。
「本は好き?」
「少しだけ」
「気に入ったのはあった?」
「まだ、見つけてない」
意外にも素直な返事に私は自然と顔がほころぶのを感じた。読んでいるものがたとえ私の本ではなくても、年頃の子が読みたい本を探している。それだけでも気持ちが晴れやかになる。
彼は急にばつの悪い顔をして、目の前に積み重なった本たちを片付け始めた。いい子だ。
「君は旅行かな?」
「うん。あんまり来たくなかったけど。連れてこられて」
起き上がった少年が本を整えながら背を向ける。まだまだ細い背中だった。
「お姉さんは?」
「んっと、お姉さんもね、旅行なの」
「ひとりで?」
「どう思う?」
「知らない、聞いてみただけ」
少年は背を向けたまま固まっている。本当に何という気も無しに聞いたのだろう。
意地悪し過ぎたせいか、押し黙ってしまった。それでも私の悪戯心は止まらない。
「もう何泊もしてるから知っているんだけれど」
真後ろから耳打ちする。
「ここ、夜中はだあれも来ないの」
「そう、なんだ」
耐えかねた少年は勢いよく立ち上がると「やっぱりへんだよ!」と短い声をあげて、遊戯室から飛び出していった。
残された私は、指先にあの疼きを感じていた。