遊戯室から転がるように飛び出した少年はそのままの勢いで廊下を駆け抜け、宿の外、建物が遠くに見えるまで走り続けた。息継ぎをする余裕もなかった。
最後の言葉は、どのような意味だったのだろうか。少年にも、言わんとすることはわかっていた。あの色々と大きなお姉さんは、彼にとって、これまで見た中で最も不思議な、それは多分、いやらしいと呼ぶべき表情を浮べていたのだから。
肩で息をしながら玄関を見つめる。誰も出てこない。追いかけてきて欲しかったのか、追いかけてこないことに安堵しているのか、少年にはわからなかった。
秋の風が吹き付け、額に流れる汗に気付く。
からかわれたのかもしれない。馬鹿にされたのかもしれない。
興奮が冷めてゆくにつれ、卑屈な考えがよぎる。驚きが憤りに変わり、再び熱を持つ。
せっかく人の来ないスペースを見つけられたのに、という最初に抱いた反感が湧き上がってくる。全くどうして、虚を突かれたのだ。単に居心地の良い部屋から追い出そうとしただけなのかもしれない。今頃ひとりで悠々自適にくつろいでいるに違いない。そう思っても、遊戯室に戻らんとする気迫を、彼は持ち合わせていなかった。
寒空の下でひとしきり地団太を踏んだ少年は、万が一にも彼女とすれ違わないようにと祈りながら、風のような速さで自室へ駆けて行った。
夜を迎えても少年は塞ぎ込んだまま。食事にもほとんど手を付けず、遠い目をしてぼんやりとしている。ただ父親に誘われても、大浴場に行くことだけは頑として拒んだ。
「大丈夫?身体でも冷やしたんじゃない?」
「朝早かったから疲れているだけじゃないか」
「でもなんだか熱っぽい感じね、体温計はどこに仕舞ったかしら」
「体調が悪いのなら、早く言いなさい。ほら、薬も持ってきているから」
「明日は帰ったら病院ね、空いているとこを探しておかないと」
心配する両親はあれやこれやと少年を診断すると、風邪であろうという結論に達してそれに満足し、早めの就寝を促す。少年は何も反論せず、ただ言われた通りにしていた。
暗くなった和室、敷布団の中ではるかの怪しい笑みと言葉を反芻して、もがく。
行き場のない憤りと得体の知れない期待が彼を興奮させ続け、苛む。彼は自身の感情を表す語彙を持ち合わせていなかったが、このまま眠ることは不可能だという確信はあった。
置時計の針、両親の寝息、冷蔵庫の作動音、そして心臓を叩く音が、轟く血の流れとともに騒々しく鳴り響く。
気の遠くなるような時間が経っても、少年の胸中に平穏は訪れなかった。彼の想像の海は荒れ狂い、今や彼女の扇情的な姿がはっきりと見える。そして彼に向かって言うのだ。
「ここ、夜中はだあれも来ないの」
置時計がかちりと不規則な音を伝える。夜中の0時を回った。
急に少年は恐ろしくなった。からかわれて馬鹿にされるより、もっと恐ろしいことに気付く。
もう二度と会えないかもしれない。
彼を燃やしていた気炎は喉の奥にすっかり沈んでしまい、煮えるような焦りが沁み出してくる。かもしれない、ではない。今夜を逃せば、絶対に会えないのだ。憤りも期待も、彼女にもう一度会えなければ全くの無価値だ。
たとえ何が起ころうとも、何も起きなくても、あそこに向かわなければ、この先ずっと記憶の中の彼女に囚われることになる。それが何よりも恐ろしかった。
少年は急速に膨らむ感情に突き動かされ、物音を立てぬようにするりと布団から抜け出す。畳の縁を四つ足で進み、ドアを抑えながら鍵のつまみをゆっくりと回すと、客室から滑り出た。
彼がいないことに両親が気付くかどうかも、どうでもよかった。ただ邪魔されたくない、その一心だった。
消灯時間を過ぎた廊下は薄暗く、肌寒い。
不安と焦りが暗闇を塗り潰してゆく。彼女は本当にいるのだろうか。そもそも彼女の言った夜中とは何時を指すのだろうか。もう過ぎてしまっただろうか、まだ何時間も先なのだろうか。あの部屋に他の誰かがいたらどうしようか。
遊戯室の明かりは点いていなかった。身体の芯が冷たく、重くなる。
絞られるような鈍い痛みを抱えながら、それでも少年は一歩を踏み出した。
「いた」
そして、あのお姉さん、はるかはいた。
先に少年が座っていたソファに、姿勢を崩してもたれかかっている。
「やっぱりきた」
電灯の消えた室内で外から差し込む月明りに照らされたその肢体は、とてつもなく淫らなものに見えた。少年の何時間にも及ぶ想像を遥かに超えて、目の前の女性は言いようのない妖しさを身に纏っている。はだけた浴衣から覗く女性らしい肉体だけによるものではない。表情だ。見たことはある気がしても、自身が向けられたことはない、そんな表情をしていた。
少年が安堵と、これから始まる何かに対する不安に立ち尽くしていると、はるかはもっと近くにくるようにと手招きする。
「おいで」
彼女はソファに優しく手を置いてみせた。その仕草に操られるように、彼は意を決した様子で近付くと、少しだけ離れて座る。うつむいた彼の顔は、不安と形容しがたい期待で埋め尽くされ、その瞳は何かを懇願しているように潤んでいた。
と、抵抗する暇も与えず、はるかは少年を一気に抱き寄せる。
少年はその力強さに驚いた。肩に回された腕は、有無を言わせないほどの意志を帯びていた。代わりに触れる太もものやわらかさ、たわやかな乳房、擦れ合う髪、彼の知る異性とはまるで似つかない女の香りが胸に満ち、彼女の吐息が頬にかかる。全身が包まれ、呑み込まれるような感覚に、彼はただ息を殺して耐えることしかできない。
はるかもまた、少年を思いのほか簡単に抱き寄せられたことに驚いていた。着実に大人に変わりつつある男であっても体格はまだまだ華奢で、力を入れ過ぎれば壊してしまいそうだ。燃える薪のように熱い身体は僅かに抵抗を示しているようでも、身を任せたいとねだっているようでもある。顔を近付けると、一層の炎が噴き上がるようだった。
はるかは少年のつむじを眺めながら囁く。
「これから何をするのか知ってる?」
彼は全身をこわばらせながら声を絞り出した。
「知ってる」
「ほんとかなあ」
彼は答えなかった。
「とってもいけないことなんだよ」
彼は堪え切れずに振り返った。うっすらと照らされたはるかを見て、淫らな表情が何に似ているのかを悟った。
それは獣の顔付きだった。獲物を強引に押し倒し、今まさに喉元に牙を立てようとしている猛獣だ。二つの眼光は彼の心の奥底まで見通し、彼の運命を全て握っているのだと語るようだった。
諦めたかのように少年の緊張は解かれ、その弛緩した身体がはるかに預けられた。
はるかは満足げに唸り声を上げた。その様は本人が思う以上に、動物的だった。身体を密着させたまま、少しずつ二人の衣服を剥いでゆく。布が落ちる乾いた音とソファの軋みに合わせて、二人の息遣いが猛る。
肌と肌が密着する。二人の間を阻むものは、もう何もなかった。はるかは無言のままで少年の顔を胸に押し当てた。
「好きにしていいんだよ」
慈しむような声で語りかけながら、少年の下半身に手を伸ばす。これまで散々に翻弄された彼の中の男は、気付かぬ内に激しく屹立していた。はるかがやさしく握ろうとした瞬間、
「だめっ」
悲鳴とともに少年の身体が大きく跳ねると、手のひらに熱いしぶきがかかった。彼の全身から放たれる歓喜と困惑の脈動が肌を通して伝わり、はるかの身体も震える。
「ごめんなさい」
少年は消え入るような声で謝罪を口にする。何が起きているのかわかっていない様子だった。
「あやまらないで。私こそごめんね」
はるかは抱きかかえた手で少年の頭を撫でながら、顔は見せないようにして優しく答える。
「ほら、見て」
月明りの中に、彼の熱を受けた手のひらをかざす。白く糸を引く粘液が輝いて、はるかには殊更に輝いて見えた。
「すごい、男の子だね」
胸で抑えられ、抵抗もできずに自身の体液を見せつけられた少年は声も出せずにいる。
はるかは少年の顔を見たくてたまらなかったが、向き合うことができなかった。
否、はるかは自身の顔を見られたくなかった。鏡を見ずともわかるほど、今の彼女の顔はケダモノめいていて、少年が見れば恐れて逃げ出してしまうと思った。そのケダモノは逃げ出した少年に止めを刺そうとするだろう。そんな風に、彼を傷付けたくなかった。
「あは、まだまだ元気だ」
溢れそうになる欲求を抑えつけながら、再び少年を弄ぶ。先よりも滑る手で優しく、包み込むように握り込むと、彼は小さく、押し殺すようにして喘いだ。彼は次々に涙を流した。
が、はるかの獣性は、疼きは、それでは満足しなかった。壊せなければ、刻み付けたい。そう願ってしまった。彼女の昏い願望が指先にまで広がってゆく。
彼を弄ぶ手を急に止める。ただ耐えるだけだった少年は、甘えるように腰を揺すってみせた。
はるかはすかさず彼の手を掴むと、自らの秘部に強く押し当てた。
熱く煮えたぎった湯に突っ込んだかのような感覚に少年は腕を引こうとするが、はるかは彼を逃がさない。
「このまま触って」
ケダモノの声だった。
驚きに固まっていた彼の手が恐る恐る、はるかの秘部をなぞる。巧拙は問題ではなかった。触れさせることで、彼女は彼の内奥を、欲望を、全てを掴んでいた。手を通して、はるかは少年の男を呑み込んでいたのだった。彼女の中で、悦びが迸る。
逆らうことをやめた少年の腕を離し、はるかも彼を慰める。
もはや遠慮は要らなかった。彼を強く追い詰めるほど、彼もまた、はるかに応えようとする。
二人の手には互いの体液が滴り、荒い息と湿った水音が彼らを頂点まで押し上げてゆく。
その時、廊下から足音が聞こえてきた。そしてあろうことか、足音は遊戯室の前で止まる。
はるかは手を休めなかった。むしろ苛烈に、執拗に少年を責め立てる。その手は彼の最もか弱い部分を覆い尽くし、捕食するかのようだった。
かちかちと明かりを点けようとする音が、水音に混じって聞こえた。
思わず声を上げそうになった少年の顔を、乳房に目いっぱい押し付ける。はるかの女体を全身で吸い込んだ少年は激しく痙攣し、精を吐き出した。何度も何度も弾ける彼の精を手に受けるたびに、はるかも大きく身体を震わせる。
やがて二人の水音が止むと、遠ざかる足音が微かに聞こえてくる。明かりは点かなかった。
その足音も完全に消え去ると、部屋には二人の獣のように荒い息だけが残された。
少年は茫然とした様子ではるかを見つめている。そこには、彼の何もかもを壊した女がいた。
はるかも少年を見つめる。そこには、彼女で何もかもを染め上げた男がいた。
「えい」
はるかは秘部を慰めていた少年の手を取り指を絡ませる。体液が手のひらの上で混じり合った。
されるがままだった少年は繋がった手をぼんやりと眺めながら、その淫らな触感を得て、次第に意識を取り戻してゆく。何が起きているのかに気付いた彼は、おびえた様子でゆっくりと手を離そうとした。既に少年の拘束を解いていたはるかは、彼を引き留めようとはしなかった。
少年はよろめきながら立ち上がると、はるかの顔を一瞥し、何かを言おうとした。しかし言葉は紡がれぬまま、彼はたどたどしい足取りで遊戯室から去っていった。
はるかは指先を弄びながら、静かに少年の背を見送った。
「できた!」
「まさか、あの状態から一晩で書き上げるなんて」
「ふふふ、私はできる子なんだよ」
筆先を捕えていたあの沈黙は、まるで初めから存在しなかったかのように消えていた。そのまま一睡もせずに、否、一睡もできずに、長く長く苦しめられていた仕事を、私はとうとうやっつけたのだった。
「全く、ほどほどにしておきなさいよ」
心配そうなマリコに、ちょっぴり引け目を感じて、コーヒー休憩という名目でロビーまで足を延ばす。朝のロビーは独特の慌ただしさと、名残惜しさに包まれていた。
私は新聞に目を通すふりをしながら、椅子に深く腰掛けて、チェックアウトを待つ人々を眺める。そうしていると、身なりの良い夫婦に挟まれて、あの少年が現れた。
眠そうな目で辺りを見回していた彼は、私の姿を認めると、両親の陰にかくれてしまった。
彼の様子に気が付いた両親は、不思議そうにこちらに目を移してくる。
フロントの仲居さんが言う。
「あの方は有名な小説家様なんですよ」
合点がいった様子で彼らは会釈してみせた。こちらも軽く会釈する。
新聞があって良かった。今の私は絶対に人に見せてはいけない表情をしているに違いなかった。
彼らは少年に私のことを聞こうとしているらしい。
何も答えようとしない彼の姿を見て、私の指先は少し、ほんの少しだけ疼いた。
ああ、これは。とてもいけないリセットだ。
逸る指先(終)