それからというもの、ヘルゲイは酒場から遠ざかり、アルコールを嗜む頻度も減った。
けれどそれとは対称的に、彼はシャーロットという少女が居る泉のほとりへと通い詰めた。
依然としてエルルとはまともに言葉を交わせていないが、それからまるで逃避でもするかの様、ヘルゲイはシャーロットとの会話の虜となった。
だが、そんな日々も長くは続かない。
ある日シャーロットが言ったのだ。
婚約者であるエルルと話して欲しいと。
向き合うべきだとそういうのかと、ヘルゲイは葛藤した。
そして少女は、躊躇うヘルゲイへと説いて見せた。
エルルの心は未だヘルゲイにあると。
「君は本当にそう思っているのかい?」
「ん、そう」
「何故だ?俺は不貞を働いたんだ。最低な男だろう?」
そう、ヘルゲイは己の罪を当然ながら話していた。
にもかかわらず、少女は軽蔑の色を表情に浮かべる事はなかった。
寧ろ何処か悲哀をその碧眼に宿し、シャーロットは只々ヘルゲイの言葉に聞き入っていた。
「ちがう。あなたはいいひと」
「本気で言っているのか?それなら勘違いだ。俺は君が思っている様な男じゃ無い」
だからこそ、ヘルゲイはそんな少女の清廉な心を目の当たりとして、より己の穢れが浮き彫りになる様に心地に苛まれた。
「エルルは」
だが彼の自嘲を意に介さず、シャーロットは言葉を紡ぐ。
その美しい声色で奏でられる一声はヘルゲイを自ずと聞き入らせる。
「あなたがすきなのよ」
と、少女はそう言った。
ただ理由を述べるでも無く、論理立てて物事を言うのでもなく、シャーロットは一言そう口とした。
「それは‥。だが‥」
確かに眼前の少女の言の通り、エルルはヘルゲイを一方的に弾糾する様な真似はしない。
責め立ててきた彼女の両親とは異なり、涙を流すのみであった。
そしてヘルゲイの弁明をすぐさま信じ、赦しを与えてくれた。
だが、共に生活していればエルルが疑心暗鬼になっているのが理解出来た。
以前は明るい女性であったが、現在は何処か陰のある表情が目立つ様になってしまったのだ。
だからこそ、そんなエルルを見ていられず、ヘルゲイは己が心労を与えてしまっているのを思い知った。
「だいじょうぶ」
─やはり向き合えというのか
ヘルゲイは少女の言葉に鼓動が早まるのを自覚した。
だからだろう。
彼は己の心の臓を衣服越しに片手でギュウと握り締め、その表情を苦しげに歪ませた。
「だいじょうぶだよ。あなたなら」
すると、そんなヘルゲイを前にして少女は僅かながらに微笑して見せた。
まるでその姿はヘルゲイを安心させるかの様。
そして彼に近付いたシャーロットは、不意に手を伸ばす。
つま先立ちとなり身長差を埋めた少女は、ヘルゲイの頬を優しげな手つきで撫でた。
慈愛の感じられる色白の、まるで白磁の様な指先からは、それに反して暖かな人肌が触れる。
初雪の様な純白の少女から与えられる熱に、ヘルゲイは息を呑んだ。
これまで幾度も言葉を交わしたが、今まで少女を何処か希薄な存在として見ていた。
けれど今し方触れたシャーロットの五指は、確かにヘルゲイの頬に触れていた。
艶やかな眉毛に彩られた少女の碧眼が、一心にヘルゲイを見上げている。
見据えられた彼は、少女の眼差しから己の内に新たな感情がもたらされたのを理解した。
「君は一体‥」
先程までは暗く澱んでいた心がまるで洗われていくかの様だった。
以前までは酒場に入り浸り、穢れていた魂が眼前の少女によって浄化されていくかの如き心地だ。
泉のほとりへと、痛い程の沈黙が訪れる。
静謐な空気の中、シャーロットとヘルゲイの二人は互いに見つめ合う。
─あるいは
この穢れなき少女の言葉なら、無条件に信じてしまいそうになる。
ヘルゲイはこのシャーロットという清廉な少女であれば過ちを冒す様な事は無いのではないか。
そう、本来であれば馬鹿馬鹿しいと鼻で笑う考えさえ否が応にも抱いてしまった。
「俺はもう許されないんだ」
「わたしがゆるす」
少女はヘルゲイの懺悔にそう返した。
「エルルだって本当はッ」
「いいの」
そして哀れみを与えられた。
最早ヘルゲイには少女に抗う術はなかった。
そも何故己はシャーロットの言葉に意を唱えていたのかが理解出来なかった。
彼女は己に赦しを与えてくれた。
あまつさえ哀れみを授けてくれたのだ。
ならば少女の期待に己は応えなくてはならない。
そう思えた。
暗澹に暮れていた心はまるで澄んだ小川の様であった。
だが、そんなヘルゲイとシャーロットの二人の空間に横槍を入れる声がある。
「ちょっとアンタッ。人の男と何話してんだよっ。ちちくりあってんじゃないよ」
唐突に聞こえてきたそれに視線を向ければ、其処には一人の女が居た。
その者は誰であろう、彼女はヘルゲイに純潔を散らされたと主張する人物その人であった。
─尾けられたか
女の顔を己の視界へと納め、ヘルゲイは顔を顰めた。
否、幾度もここへ通っていれば平素からヘルゲイが何処に行っているかなど特別跡を追わずとも見当は付くだろう。
─また俺は
彼は己の至らなさにその表情を歪ませて自己嫌悪を露わとした。
「だれ?」
すると、黙り込んでいるヘルゲイを見兼ねてか、シャーロットは心底から不思議そうな面持ちで女に問い掛ける。
「あぁ?誰だいこのチビガキは。私はアネッサだよ。こいつの妻さ」
「‥そう」
「成程ねぇ。その顔私の事は知ってたって訳かい?それでも横取りしようってんだから、とんだ売女だねぇ。ほら、こんな泥棒猫放っておいてアンタ、行くよ」
「やめてくれ、アネッサ」
そんな二人のやり取りを前に、ヘルゲイは心底から不快感を示し、言った。
「まぁっ、私は今までアンタがここに来ている事を知っててそれでも黙っててあげたって言うのに‥。今からアンタの元婚約者さんに言ってあげても良いんだよ?」
けれどアネッサは気にした素振りもなく、寧ろ口端をより一層吊り上げた。
「アンタが元婚約者は愚か私すらも見捨てて、こんな小さなガキを毒牙に掛けて浮気する様な男だったって」
そして邪悪な笑みを浮かべて挑発的な言葉を投げ掛けてくる。
「そうしたらあの子はこう思うだろうね。アンタが私に鞍替えして良かった、ってね」
ニヤニヤとした面持ちを晒し、妙に露出の多い服の女はそう一方的に語って見せた。
そう、アネッサという女はこの現場を抑えてヘルゲイを脅そうとしているのだ。
より自身の立場を強固とする為に、恐らく最悪は大声を出すのも厭わないだろう。
それ程までにこの女からは明確な悪意が傍目にも感じ取れる。
だから、ヘルゲイはアネッサを黙らせようと口を開こうとしたその瞬間、シャーロットの長髪が揺れた。
輝かしいプラチナブロンドが翻ったかと思えば次の瞬間には、少女は一歩踏み出していた。
そしてアネッサの真正面に立つと、それと共に片手を振り上げて、その勢いのままに平手をした。
振り抜かれたシャーロットの手がアネッサの頬を打つ。
ぱちんと甲高い乾いた音がして、叩かれたアネッサの顔が横に逸れた。
けれど所詮は非力な少女の平手打ちなど、成人している者に効く筈も無く、すぐさまアネッサは持ち直していた。
「な‥」
とはいえ相応の衝撃が与えられた様で、唐突にもたらされた平手にアネッサはその瞳を見開き唖然とした表情を無様にも晒していた。
「やめて」
ただそんな女など意に介さず、シャーロットは毅然とした振る舞いでそう言った。
「シャーロット」
すると今眼前で起きた信じ難い一連の出来事にヘルゲイとて驚きを露わとし、思わず少女の名を口とした。
「‥ん」
自らの名を呼ばれたシャーロットはまるでやってやったとでも言わんばかりにヘルゲイを横目に見て一つ頷いて見せる。
「クソガキが。子供だと思って優しくしてればつけ上がりやがってっ。このっ」
だが、そんな二人を他所に気を取り戻したアネッサは今度は逆上し、胸元から小振りな短刀を取り出した。
「アンタが悪いんだからね。まさかこんなガキにいいようにされちまうとはね。私も誤算だったよ」
そう何処か鬼気迫る面持ちで一人呟くと、アネッサは手にしたナイフをシャーロットに向けた。
「おどし?」
「ハッ、そう思うんならいいけどね。私だってアンタには鬱憤が溜まってんだ。こっちは漸く男捕まえたっていうのに、こんなクソガキに‥」
「‥‥‥」
女の言い分に少女は言葉すら与えずに、まるで動揺した素振りも無い。
依然、凛とした眼差しでアネッサを真正面から見据えていた。
「うっ」
そんな少女の穢れなき碧眼に射竦められてか、女は僅かながらにその場からたじろいで一歩後退した。
けれど彼女はもう止まらなかった。
それもその筈、これ程までに幼い少女にコケにされてしまえば、凶刃を振り翳すのも厭いはしないであろう。
おろかしくも感情に身を委ね、衝動のままに女から振り抜かれたナイフ。
ただ、それはシャーロットには届かない。
何故ならばこの場には一流の手練たるヘルゲイが居合わせていたからだ。
彼は曲がりなりにも幾多もの魔物との死闘を繰り広げてきた猛者だ。
人間などより余程脅威を相手取ってきた彼だからこそ、アネッサの兇行にすぐさま反応出来た。
「あッ」
けれどヘルゲイも咄嗟の事で、己の内にシャーロットを抱き込むと、腰へと吊るしていた剣帯から自ずと長剣を抜き放っていた。
そして降りてきたナイフを下からかちあげる様にして軌跡を取った。
軌道はそのまま、ナイフの刀身へとまるで吸い込まれるかの様に振り抜かれた。
接触したその衝撃からか、アネッサの手からナイフは離れ、その際に彼女の五指はあらぬ方向へと折れ曲がった。
そう、女の行動があまりに唐突であった為か、必死のヘルゲイは思わず加減が出来なかった。
しかしそれもシャーロットの為を思い一心であったが故の不慮の事故と言えた。
無論本人は悔やんでいるが、それも最早後の祭りである。
今更そう思った所で時はもう前には戻らない。
「ぐッ」
女は自身の指があらぬ方向へと向いているのを視界に入れたせいかより一層痛みを覚えたに違い無い。
彼女は身に余る激痛にその場で蹲ると恨みがましい視線でヘルゲイとその男の腕に抱かれたシャーロットを睨み付けていた。
そんな女の激昂した表情は傍目に見ても恐ろしく歪んでいた。
ただ、そんなアネッサを他所に、ヘルゲイが今何よりも気に掛けている存在は別に居た。
「シャーロット、大丈夫か?」
「死んじまいなこのクソ男がッ。せっかくの金ズルだと思ってたのにとんだ災難だよッ!」
ヘルゲイの己の腕に抱いた少女への気遣わしげな声色に対して、更に女は眦を吊り上げて、凄まじい形相となる。
「ミチオ様にお前らの事を言い付けて、二人とも地獄送りにしてやるよッ!あのお方に掛かればアンタみたいな冒険者なんてすぐに消せるんだからねぇ」
そう何やら語り見せるアネッサは歪に口の端を吊り上げて、妙な笑い声を挙げた。
「一体何を‥」
女の言葉に何ら見当も付かないヘルゲイは訝しげな眼差しをした。
次いで問い掛けようとしたのか怪訝な面持ちのままに彼が口を開いたその時である。
「なッ」
驚くべき事に女はこの場からの迅速な逃走をはかった。
そして置き土産のつもりなのか、最後に地に落ちていたナイフを拾い上げ、再び手にしたそれを投擲してきた。
到底素人とは思えない様な、軌道をナイフは虚空に描き狙い違わず真正面からヘルゲイ等へと迫り来る。
無論それはヘルゲイの剣技の前には児戯も同然。
もれなくただの一振りで容易く打ち払われ、金属音を立てて先程にひびが入っていたらしく、刀身は無残にも次の瞬間には砕け散っていた。
それに伴い銀色の破片がキラキラとした眩い輝きを放ちながら宙を舞う。
次いで柄のみがストンと間の抜けた音をこの場へと響かせて、地へと落ちた。
そしてこの場へと後に残されたシャーロットとヘルゲイの二人は、アネッサから詳しい話を聞こうにも、当の本人は完全に姿が見当たらない。
どうやら既に女は視認出来る距離に、その身を置いて居ない様だった。
「逃したか‥」
そう一言、心底から無念そうに呟く共に、ヘルゲイは先程の出来事により張り詰めていた気を一度緩めたのであった。