(な、何が起きたの!?)
轟音と共に吹き飛ばされ、私は地面に叩きつけられた。空気が一気に肺から押し出され、呼吸ができない。
ほんの一瞬だったはずなのに、時間が止まったように感じた。
痛む身体をなんとか起こすと、少し離れた場所に──全身真っ黒の人がこちらに背を向けて立っていた。
その肩に、女の人がしがみついて号泣している。
「ま、魔王しゃま~~っ!」
……様子がおかしい。
泣いているのに、言葉の響きがあまりに幼い。まるで小さな女の子みたいで──でも、声は大人の女性のものだった。
『マスター、私、言いましたよね? 89パーセントの確率で……あれ、“嬉ション”ですって』
エリの声が頭に響いてくる。
ツッコミどころが多すぎて、言葉が出ない。
ふと気づくと──お兄ちゃん、ユキちゃん、クロちゃんが、私を見ていた。
その視線。無言の圧力。
まるで、全部を見られてしまったような……そんな気まずさに、私は顔が熱くなる。
「ご、ごめんっ! ヒナの……ヒナの勘違いだったみたい……!」
しゃべりながら、思い出す。
あんなに必死に、あんなに真剣に、私はユキちゃんたちを説得したのに……。
「ユキちゃん、本当にごめん!!」
胸がギュッと苦しくなる。
私は……一体、何をやっているのだろう……。
ユキちゃんは困ったように眉を寄せて私を見ていたけれど──やがて、ふっと口元に微笑みを浮かべた。……許して貰えたようだ。
でも、次の瞬間。
ユキちゃんの目が鋭く細められ、視線は真っ黒の人物に注がれる。
その顔にはもう笑みはない。
険しい──敵を前にした時の表情だ。
(あれが……魔王?)
お兄ちゃんも、クロちゃんも、既に構えを取っていた。
視線は一点に集中している。
あの“全身真っ黒の人”……魔王に──。
その人物は、未だ動かない。
肩にしがみついている女の人は泣きじゃくったまま、顔を上げようともしない。
私は歯を食いしばりながら立ち上がる。
身体の所々が痛むが、この程度であれば問題ない。
私はこの後、何が起こっても対処できるよう、ゆっくり構えた……。
───
「まおうしゃまぁぁぁ……こわかった! オコメこわかったよぉぉぉぉ!!」
(ちがう……こんな話し方、私は──私は……!)
自分の口から出た言葉に、自分が驚く。
こんな言葉遣い、もう何千年もしていない。
それどころか、誰にも見せたことのない、もちろん魔王様にも見せた事のない“私”が、今この瞬間、私の身体を支配していた。
宙を舞ったと思った瞬間には、私はもう、魔王様の腕の中にいた。
温かく、強く、静かなその腕の中で、何かが決壊する。
仮面の奥の、あの澄んだ青い瞳と目が合った瞬間──。
(ああ……駄目だ)
理性が、どこかへと消し飛んだ。
魔王様の肩に、私は縋りついていた。
嗚咽が止まらない。
涙も、声も、もう抑えが効かない。
「こわかったぁ……まおうしゃまぁ……こわかったぁ……!」
子どものようにすがる私に、魔王様は何も言わない。
ただ、腕を緩めることもなく、私を受け止めてくれている。
(ごめんなさい……こんな私を、見せるつもりじゃ……)
それでも、涙は止まらなかった。
……
「魔王様、取り乱してしまい、申し訳ございません……」
ようやく、落ち着きを取り戻した私は、深く頭を垂れる。
あの情けない声も涙も、もう止まっていた。
顔を上げると、目の前の魔王様の肩……。
私がしがみついていたその場所は、涙と鼻水と、唾液でぐっしょりと濡れていた。
(……ひどい有様)
すぐに拭いたかったが、拭おうにも私にはもう──腕が無い。
白魚のように美しかった私の腕は肩口から先は切り落とされ、今はただ醜いだけだ。
「服を汚してしまい、申し訳ございません……先ほどまでの言葉遣いも……」
口では謝罪を述べるが、ただ空しいだけだ。
“お許しください”などと、口にできるわけがなかった。
なぜなら、私は──。
魔王様のご命令も果たせず、敗北し、今や達磨のように醜く転がるしかない女。
そして不敬な事に、この無価値な女は、魔王様の子まで孕んでいる。
手足もなく、尊厳もなく、ただ魔王様の慈悲に縋って泣いていた──そんな私が。
「……生きて、お顔を拝することすら、恐れ多いのです……」
声が震えていた。
羞恥でも後悔でもない。
ただ──心からの、絶望。
もう、いいだろう……。
恥辱に塗れて生き続けるくらいなら、潔く、魔王様の手で私の命を……。
私は魔王様に最後の慈悲をかけて頂くため、口を開いた。
「魔王様……」
「オコメよ、私の下した命令を、見事成し遂げたな……」
「……えっ?」
魔王様の言葉の意味が、一瞬、脳に届かなかった。
いや、届いていたけれど──理解できなかった。
「ま、まおう……さま……?」
「命令を思い出せ。お前に与えた命は、“私の目の前に勃起を生きたまま連れてこい”だ。お前は敗れ、捕らえられ、恥辱の果てに汚された。そして今──私の目の前には、見事に生きたままの勃起がいる。違うか?」
そう言うと魔王様はゆっくりと振り返った。
私も、首だけをゆっくりと横に動かして、魔王様の視線を辿る。
視線の先には、今は娘の姿となった“勃起”の姿があった。
「見事な仕事ぶりだ。長く待つことになったが、その甲斐があったな……」
魔王様の言葉に、私は、震える唇で、どうにか言葉を返す。
「ま、魔王様、同情はおやめ下さい! 私は、魔王様の目の前に勃起を連れていく事はできなかったのですよ!?」
「フッ……」
魔王様が短く笑われた。
それは、私の懺悔も、否定も、悲鳴も──すべて見透かしていた者の笑みだった。
「オコメ、お前は勘違いをしているようだな」
その言葉と共に、魔王様は私の耳元に口を寄せ、囁いた。
「……最後に会った満月の晩から、私は姿と気配を隠し、ずっとお前と共に居たのだよ……お前の行為はなかなか、情熱的で刺激的であったぞ……」
言葉の意味を理解した瞬間、私は自分の全身が羞恥に染まっていくのを感じた。
(まさか……あれを……全部……!?)
昼も夜も、時にはミカたちや悪魔たちと共に……。
名を呼び、求め、疼く身体を弄んでいたその様を、魔王様は……見ていたというの?
「オコメよ。お前は、私の命令に、最も忠実な形で応えた。命を乞う必要などない。褒美を望め。……何でも望むものを与えよう」
魔王様の瞳は、揺らがなかった。
その確かな光に見つめられただけで、私の身体の奥底が熱を帯びた。
「だが、その前に……」
魔王様の手が、ふわりと私の頭に触れた。
瞬間、全身を黒い膜が包み込む。
それは恐怖ではなく、柔らかく温かい──まるで母胎の中のような、穏やかな闇。
膜の内側には、ぬくもりのある液体。
私はその中で、傷の痛みも、身体の重さも、何もかも忘れていく。
僅かに空いた裂け目から、魔王様の瞳だけが、私を見つめていた。
「私の羊水で満たされた……揺り籠だ。オコメよ、ゆっくりと傷を癒し、子を育むとよい……私とお前の子を、な」
「……まおう、さま……」
最後に呟いた言葉が、膜の中で泡となって消えていく。
ああ、なんて幸せな──
全身を駆け巡る幸福と心地よい熱に包まれながら、私の意識は静かに、静かに──眠りへと沈んでいった……。
───
オコメが、黒い何かに包まれて天へと昇っていく。
やがて、オコメが視認できなくなったのとほぼ同時に、“その人物”がゆっくりと振り返った。
先ほどまで背を向けていたその人物は、全身黒ずくめのマントに包まれていながら、その下は、完全に裸だった。
胸は、柔らかく重そうに膨らんでいる。
ヒナちゃんのそれよりも大きく、揺れるたびに色気と暴力が混じって空気を裂く。
しかし、視線を下げた先には──男性器が、厳然と、存在していた。
美しさすら宿したそれは、異様なまでの存在感を放っている。
長く流れる漆黒の髪が、風に舞う。
腰にまで届くその髪は、まるで黒い炎のように、静かに宙を焦がしている。
顔は、白い仮面で覆われていた。
口元は、一切見えない。が、目元の奥は青く輝いていた。
(……強いわね)
そう思った瞬間、背筋がぞわりと震えた。
理性が告げている。
「危険だ」「警戒しろ」「逃げろ」と。
でも──
……子宮が疼く。
女としての私の身体が、勝手に震えていた。
この存在と、交わりたい──そう告げてくる。
遺伝子が、叫んでいる。
(この人の子を孕めば、強い子が生まれる)
(私の血を残したい)
(私という器を使って、あの“力”を継がせたい)
なんて、浅ましい──なんて、獣じみた衝動。
私はそれを全力で否定する。
爪が掌に食い込むほどに拳を握り、理性をかき集めて。
(私は、ここで死ぬかもしれない)
(愛する人を、失うかもしれない)
(強い子孫を残したい訳ではない……私は、愛する人との血を残したい)
思考がようやく冷めはじめる。
熱に浮かされた肉体を冷やすように、冷静な眼差しを周囲へ向けた。
ヒナちゃんは、魔王を警戒しながらも、カオルの前に立っていた。
その背中には、迷いがなかった。
どれだけ傷ついても、カオルを守るという意志を物語っていた。
カオルは、ヒナちゃんの背に隠れるようにして立っていた。
それでも、魔王からは目は逸らさない。
恐怖に震えていても、カオルは──立ち止まってはいなかった。
私は、二人を見て……ふっと、息を吐く。
(二人とも、大丈夫。私はあの二人のために……)
いつでも抜けるように、刀の柄に手を添える。
(私は、どうなってもいい……全力で、二人を守るわ!)
いつの間にか、子宮の疼きが消えていた。
自分でも驚くほど冷静さを保っている。
私は今、女としてではなく、戦士としてここに立っている。
二人を守るため──たとえ、この命が散るとしても。
(クロ……私が倒れたら、あとは任せたわよ…………)
カオルの隣に立つ、クロの姿を見て私は安心した。
あの子は、全力でカオルを守ってくれるだろう。
たとえ、自らの命を散らせたとしても……。
(ッ!?)
魔王がゆっくりと私たちを見据える。
私、ヒナちゃん、クロ。
そして──カオル。
(えっ!?)
刹那、魔王の視線がカオルに吸い寄せられる。
それまで静謐だった空気が、ほんの一瞬で、ざらついた“何か”に変わった。
その存在は、確かに“王”だった。
そして今、その“王”の興味が、カオルに向けられた。
「ずっと、この時を待っていた……」
隆起した男性器の先端から液を滴らせながら、魔王は静かに言葉を告げる。
「勃起を差し出せ。そうすれば、お前たちに危害は加えないと約束しよう……」
「ふざけないで! お兄ちゃんは絶対に渡さない!!」
「カオルは、私が命に替えても守るわ!!」
魔王の言葉に、ヒナちゃんとクロが言い返す。
私は深呼吸をして、腰を落とし、刀の柄にもう一度、手を添え──同時に、肉分身に命令を送る。奴を、倒せ……と。
(私が、必ず、守る!! 二人とも、たとえこの身が滅びようとも……)
心の中で呟いた瞬間、魔王の瞳が妖しく輝いた。
「……そうか。では……」
魔王の姿が霞のように消えて──。
(ッ!?)
目の前に魔王が現れた。
両手には、私とクロの肉分身の首が握られていた。
「心の通っていない、人形に、用は無い……」
その腕に、血管が浮き上がる。無表情の肉分身たちの首がどんどん締まって……。
「私の子に触るなぁぁぁぁぁぁ!!!」
クロが飛び出すのが、見えた。
(バカッ!!)
クロの目前で、分身たちの頭は、身体から離れて、灰に還る。
そして……。
「うぐぅ!?」
クロの盾攻撃をやすやすと躱した魔王は、クロの身体を拘束していた。
「漏らすなよ……そそられるではないか…………」
クロの太腿の間から、魔王の男性器が伸びていた。
それを伝って、黄色い液体が、地面に降り注いでいる。
(クロ……バカね……でも、よくやったわ…………あなたは、カオルを守った)
この距離なら……届く。あの、魔王まで…………。
──クロごと、一刀両断可能だ。
あの子も、覚悟は出来ているだろう……私が彼女に最初に教えた事…………。
『あなたは、カオルを全力で守りなさい。そして、いざとなったらカオルのために死ぬのよ』
クロの顔を見る。最初は戸惑っていたが、やがて──。
私に対して微笑むと、瞼を閉じる。
何処からか、風が吹き、クロの漆黒のリボンが揺れた。
(クロ……許しは請わないわ。カオルのために、死んで頂戴……)
「カオル……愛している……ごめんなさい…………」
クロの言葉と同時に私は右手に力を込め、鞘から刀を引き抜き、魔王目掛けて切りかかった……。