花の香りが胸を締めつける。
淡い色の花びらに囲まれた純白の棺の中で、お姉ちゃんは静かに横たわっていた。
その顔には、ほんのりと微笑みが浮かんでいる。
それは安らぎなのか、それとも私たちへの最後のメッセージなのか……。
「生きているみたい……」
思わず漏れた私の呟きに、緑髪の女神は静かに答える。
「……魔王様は不死身。今は仮死状態のようなものです。いつの日か、必ず復活します。……お別れは、済みましたか?」
喉がきゅっと締めつけられて、声が出なかった。
お兄ちゃんが静かに頷く。私も、力いっぱい頷いた。
「ヴァーギナー、お願いします」
次の瞬間、白い糸がヴァーギナーのお尻から音もなく噴き出し、棺の蓋をゆっくりと閉じていく。
花の香りが、胸に深く刻まれる。
やがて、微笑みも、顔も、完全に糸の奥に隠れてしまった。心にぽっかり穴が開いたような感覚だけが残る。
(お姉ちゃん、しばらくさようなら。復活したら、たくさん話をしようね……お姉ちゃん……)
突然、柔らかな風が吹き抜け、花びらが舞いあがる。
涙で滲む視界の中、ひらひらと散る花びらが、まるでお姉ちゃんの指先が触れてくれたみたいで……。
お姉ちゃんが私に返事してくれたような気がした。
……また会える日を、待っているよって……。
───
ヴァーギナーは背を向け、棺と揺り籠を抱えたまま、ゆっくりと花園の奥へと歩き出す。
歩くたびに足元で花びらが舞い散る。
次の瞬間、ヴァーギナーの輪郭が淡く溶け、真央の眠る棺もオコメが眠る揺り籠も、まるで初めから存在しなかったかのように掻き消えた。
残されたのは、俺たちと緑髪の女、コンマだけ。
花の香りが、やけに甘く、苦しい。
静寂の中で、俺は自分の鼓動の音だけを聞いていた。
残された俺たちの前で、緑髪の女がゆっくりと口を開く。
「……自己紹介がまだでしたね。私はコンマ。またの名を──女神テンプレーと申します」
俺は思わず言葉を失った。
目の前の緑髪の女が、俺たちをこの世界に呼び寄せた張本人だった。
テンプレーはゆったりとした仕草で一礼し、花園の光を背に受けて微笑む。
その笑みには、人のものではない温かさと威厳があった。
「カオル様、ヒナ様、ユキ様……ご無沙汰しております。クロ様は、はじめましてですね」
ヒナの怒声が花園に響き渡った。
「そんな挨拶はいいから、早くヒナの子供──アスカを返してよ! それに、ミユキちゃんも!」
男になった身体から迸る怒りは、花びらを揺らし、風を震わせるようだった。
俺は思わずヒナの方に手を置く。だが、ヒナの目は怒りに燃え、制止も届かない。
テンプレーの表情は微笑みのまま変わらない。
その冷静さが、逆にヒナの苛立ちを際立たせているようだ。
花園の静寂に緊張の糸を張った。
「……残念ながら、もうあの子たちはこの世界にはいません。そもそも、あの子たちは──」
テンプレーは静かに目を伏せ、言葉を選ぶようにゆっくりと語り始めた。
2人の赤子の身体が必要になったこと。そのため、ヒナとユキを妊娠させたこと。
「じゃあ、私がカオルの赤ちゃんを妊娠したのは……」
ユキの言葉にテンプレーは冷静に頷き、さらに告げる。
「ええ。私の力で、ユキ様に排卵してもらいました。ヒナ様の方は必ず受精する精子──“タイムリープ精子”によるものです」
ヒナは言葉を失い、固まっていた。
一方のユキは、頬をほんのり赤くしている。
どうやら、自分が妊娠したことが、嬉しかったらしい。
俺はぎゅっと拳を握り、声を震わせながら問い掛けた。
「……それで、生まれた子供たちはどうなったんだ?」
テンプレーは一瞬目を伏せ、長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「それを説明するためには、まず私の話を聞いてください。……当初、魔王様はカオル様とヒナ様だけを召喚するつもりでした」
テンプレーは静かに目を閉じ、遠い記憶を辿るように言葉を続ける。
「しかし、この世界で長い時を過ごすうちに……魔王様は己の邪悪さを失い、カオル様の呪いを解くことを決められたのです」
花園の空気がわずかに揺れ、淡い光がテンプレーの背後を包む。
「そのため……カオル様に好意を寄せ、接吻した者を、カオル様が初めて交わりを持つ直前に召喚することにしました。それが、あなた方がここにいる理由です」
「えっ!? それって……」
ヒナがジト目で俺を見つめてくる。
何か言い返そうとしたが、喉が詰まり、結局俺は目を逸らした。
ユキはと言えば、視線を落とし、頬を赤らめている。
その横顔に浮かぶ微笑みは、恥じらいと……わずかな幸福が混ざったものだった。
「どういう事か説明してもらいましょうね……ア・ナ・タ」
ヒナの声は優しいのに、こめかみに浮かぶ青筋が恐ろしくて、俺は思わず背筋を伸ばした。
このままでは本当に問い詰められる。そう思った俺は、慌てて話題を変える。
「そ、それより……呪いとは何なんだ?」
ヒナの視線が鋭く俺を射抜いたが、なんとか話題の流れは変わった……はずだ。
「カオル様の虜になり、そして虜になった者を破滅させる呪いです。ヒナ様ならご理解していますよね? カオル様の唇か性器と自らの性器が触れた時、どうなるか……」
その静かな声に、花園の空気が一瞬で凍りついた。
ヒナがわずかに息を呑み、ユキが不安げに顔を上げる。
俺自身、背筋に冷たいものが走る。
そんなものが……俺に刻まれていたというのか。
「……呪いは、この世界において奇跡を起こす事ができます。魔王様は当初、その奇跡を用いてカオル様を“自分と同じ身体”に変えようとしていました。おそらく、カオル様の御子を授かりたかったのでしょう。カオル様にも魔王様の御子を産んで欲しかったのだと思います」
テンプレーの淡々とした声が、花園の静寂に溶ける。
ヒナが息を呑み、ユキが視線を揺らし、俺はただ言葉を失った。
心臓が重く打ち、喉がひりつく。
あの真央──異常者が……望みそうな事だった──。
「呪いって、これだよな?」
俺はテンプレーに右手の甲を見せた。そこには細い傷が一本だけ刻まれている。
かつては三本あった、真央に刻まれた印──呪いの証。それが今では、残り一本。
テンプレーは静かに頷いた。
「ええ。その通りです。……その傷は、奇跡を使うための刻印です。一本につき、一度だけ奇跡を起こすことができます」
俺は思わず傷を指でなぞる。
「じゃあ……残りの二本は?」
「……ヒナ様が最初に身ごもった双子──アサヒ様とカオリ様が使いました」
花園に冷たい風が吹き抜けた気がした。
「二人は……生まれることを望んでいませんでした。おそらく、この世界にカオル様たちを縛り付けたくなかったのでしょう。ですが、カオル様たちを悲しませる事もしたくなかった。だから、奇跡の力を使い……魔道具として生を受けたのです」
ヒナが小さく息を呑む音が、静寂に響いた。
「……そんな……」
ヒナの声は震えていた。
両手を胸に当て、目を大きく見開き、信じられないという表情を浮かべている。
「……そんなこと、知らなかった……。アサヒとカオリが……そんな思いで……」
言葉が途切れ、唇がかすかに震える。
怒りとも悲しみともつかない感情が、彼女の全身を包んでいた。
俺はただ、ヒナの肩にそっと手を置くことしかできなかった。
胸の奥がざわめいていた。
正直、魔道具として生まれてきてくれて……ほっとしている自分がいた。
生きていてくれたこと。存在していてくれたこと。
それがどんな形であれ、ヒナを悲しませずに済んだこと。
魔道具であれば、この世界に残して、元の世界に戻ってもさほど良心が咎めないこと……。
……最低だ。
俺は、そんなふうに思ってしまう父親だ。
ヒナの震える肩を見ながら、自分の中の罪悪感が重くのしかかってくる。
「アサヒ様とカオリ様──二人は魔道具として生まれました。それは、ヒナ様やカオル様、ユキ様の安全と未来を守るための存在です。ただの道具ではありません。奇跡の力を持ち、必要な時に導くために、この世界に生まれたのです。そして、別れる時にあなた方の悲しみを軽減できるように……意識も意志もありません……」
ヒナはその言葉を聞くや否や、胸の前で震える双子の魔道具──アサヒとカオリを抱きしめ、声をあげて泣き出した。
「ごめん……ごめんね、アサヒ、カオリ……!」
涙で頬を濡らしながら、必死に二人を抱きしめる姿は、まるで全ての痛みを自分が引き受けるかのようだった。
ユキはそっとヒナの肩に手を置き、優しい声で囁く。
「ヒナちゃん……悲しまないで。ヒナちゃんを悲しませたくないから、二人は魔道具として生まれてきたんだから……本当に立派よ」
ヒナはユキに寄りかかり、少しずつ落ち着きを取り戻す。
俺もその場で黙って見守りながら、胸にこみ上げるものを抑えた。
アサヒとカオリ──二人は魔道具として生まれたが、その存在は確かに、俺たちの子供だった。
テンプレーは静かに頷きながら、俺たちの顔を順に見渡した。
「これで、なぜ召喚されたのか、呪いのことは理解できたはずです」
その声は落ち着いているが、重みがあった。
「しかし、ここで想定外の事態が発生しました。あなた達が私の子宮から旅立った後、召喚されてしまったのです……」
俺たちは互いに顔を見合わせ、息を飲む。
「カオル様に好意を寄せ、接吻をしたヒナ様とユキ様──その二人に好意を寄せ、接吻した者も召喚されてしまったのです」
テンプレーの言葉にヒナとユキの身体が跳ねる。
「お、お兄ちゃん、ヒナはお兄ちゃんとしかキスした事ないよ!? 本当だよ!!」
ヒナは目を見開き、必死に俺を見つめる。
声は震え、肩も小刻みに揺れている。
「カオル! 私もよ! 正真正銘、カオルとのキスが初キスよ!! カオル以外とは誰ともしていないわ!」
ユキも頬を赤く染めながら叫ぶ。
普段の落ち着いた彼女からは想像できないほど、必死で、そして可愛らしい慌て方だ。
「ヒナ、ユキ……俺は全然気にしていないよ。それに、覚えていないだけかもしれない。たとえば、子供の頃とか?」
俺の言葉に、ヒナは首を振り、目を見開いて反論する。
「だから、してないって!?」
ユキも頬を赤らめながら、涙目で必死に言葉を重ねる。
「本当よ? 信じて……」
「私は二人と違って、カオルとしかキスした事ないよ?」
クロの淡々とした言葉に、ヒナとユキの身体が一瞬ぴくっと跳ねた。
「ち、ちがうもん! 私もお兄ちゃんとしかしてないよ!!」
ヒナは必死に言い返し、頬を赤く染めながら拳を握る。
「私だってよ! クロ、何言ってるのよ! 本当よ、信じて!」
ユキも同じようにムキになり、クロを睨みつける。
俺は慌てて間に入りたくなる衝動を押さえつつ、二人の必死な姿に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
二人が過去に誰とキスをしていようが、俺が二人を愛する気持ちは変わらない。
「……なにか、勘違いされているようですね…………」
テンプレーは小さくため息をつき、呆れたように空間に手をかざした。
その瞬間、空中に淡い光が集まり、静かに映像が浮かび上がる。
俺たちの視線の先に映ったのは、一匹の犬と一匹の猫。
犬の方は、ヒナの愛犬“レオ”だった。
「みぃちゃん!?」
ユキが目を丸くして、猫に向かって手を伸ばす。
どうやら、ユキが飼っている猫、“みぃ”なのだろう。
レオはちょこんと座り、尻尾を振ってこっちを見つめている。
みぃは優雅に毛づくろいをしていたが、時折こちらをちらりと見やる。
「この二匹がヒナとユキに好意を寄せていて、口を舐めた事がある……そういう事か?」
「……その通りです」
テンプレーは淡々と頷くと、少し困ったように息をつき、俺たちに向き直った。
「実は、この二匹と意思の疎通がうまくできずに困っていました。そのうえ、私の口の中で粗相するわ、走り回るわ…………」
俺は眉をひそめる。
「そこで……ヒナ様とユキ様に子を産んでもらい、生まれてきた子供と二匹の魂を融合させました」
ヒナの目が大きく見開かれ、ユキの口元がわずかに震える。
俺も思わず息を飲む。
「……つまり、レオとみぃの魂は、アスカとミユキの中に──?」
テンプレーは静かに頷いた。
「ええ。これで二匹の存在は、この世界で新たな形として生き続けます。二匹にとっても、そして子供にとっても、最善の方法でした」
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
──愛する存在たちの魂を守るため、こんな手段を選ばざるを得なかったのか。
「お兄ちゃん! 大変だよ!? アスカ──いや、レオ? ……とにかく、探しに行かないと!! 今、どこにいるの!?」
ヒナが叫んでテンプレーを睨む。
テンプレーがゆっくりと前に出て、静かに手を上げた。そして淡々と、しかし確かな口調で言う。
「待ってください、ヒナ様、ユキ様。……落ち着いてください。レオ様とミィ様は、元の世界に戻ることを望んでいません。この世界で子孫を増やし、王国を築こうと邁進しています」
「「「えっ!?」」」
俺たち三人は揃えて驚きの声を上げた。
クロだけがキョトンとして首を傾げていた。
テンプレーが手をかざすと、空間に新たな映像が浮かび上がった。
そこには……。
ベッドの上で激しく揺れている二人の人影。
四つん這いになっているのは……頭に猫耳が生えたユキだった。
『さぁ、早く儂に種付けするニャ! 濃いぃ子種汁をたっぷり注いで、儂を母にするニャ!』
そう叫ぶユキの腰に手を添えて腰を振っているのは…………爆乳をブルンブルン震わせている、こちらも頭に犬耳が生えた兎ありす……。
『ミィさん! ボクもう、限界だよ!?
「「ちょおぉぉぉぉぉ!」」
ヒナとユキの声がハモる。
ユキは顔を真っ赤にしながら手を広げて映像を遮ろうとするが、丸見えだった。
隣ではクロが、顔を掌で覆いながら、指はしっかり開いて、映像を凝視している。
ヒナは……震えていた。あれは……怒りだろう。
「……このように、邁進しております」
テンプレーの声色は先ほどと変わらない。
そして、映っている兎ありすの動きが止まり、腰が震えていた。
『もっと……もっとニャ! ご主人様は大量の子種汁を欲しておったニャ……もっと、もっと儂に注ぐニャ』
『……うん! ボクのご主人様も、何回も、何百回も“お兄ちゃんの精子をちょうだい”って言ってた……ミィさん、いっぱい
『おぉぉ……儂の中でまた膨らんできおったニャ……さぁ、続きを始めようニャ……。ええと、交尾の呪文は…………確かこうニャ……“カオル!! 私に赤ちゃんちょうだい!! ”』
『ボクのご主人様は “お兄ちゃん!! ヒナを早くママにして!! ”って言ってた。これも呪文かな?』
そう言うと、映像の中の兎ありすが腰を振り始め、同じく映像の中のユキは嬌声を上げ始めた。
「ミィ様は、敬愛するユキ様の姿を所望しました。職業は“ビッチ侍”です」
テンプレーの言葉に、ユキが、その場で崩れ落ちる……。
「そして、レオ様は“絶倫君主”です……姿は、ヒナ様がこの世界に来た時に、最初に設定した姿を参考にしました」
……ヒナも崩れ落ちた。
「……ご安心ください。性器へのボーナスポイントは私の方でサービスしておきました。二人ともMAXですよ……」
テンプレーの言葉に、ヒナもユキも何も反応しない。
「あれが、本物のユキ!? 胸が大きくてエッチだね!? あと、ヒナもエッチ♡」
クロだけが目を輝かせて、映像を凝視していた……俺もだ…………。
(久々の……兎ありす…………)
女の身体で、よかった……男の身体だったら、勃起していただろう…………。
……
「……つまり、盛ってたってこと?」
クロの問い掛けに、ヒナが渋々頷く。
スキンヘッドに陽が反射して、眩しい……。
「盛ったよ……ヒナはずっと、大きなおっぱいに憧れていたの。お姉ちゃんやユキちゃん、それに、兎ありす……お兄ちゃんはおっぱいが大きい女の子が好きなんだもん!!」
筋肉隆々の男──ヒナがそう、野太い声で返す。相変わらず、心は乙女のままだ。
クロがユキに向き直り、じっと見つめる。
「ユキ……あれは何? ただの変態じゃない……?」
ユキは一瞬で顔を赤くし、視線を逸らした。
「ち、違うのよ!? あれは……カオルとの理想の初エッチ、っていうか……その……」
クロはさらに首を傾げる。
「あのさ、……初エッチでいきなり“赤ちゃんちょうだい”はなくない?」
「う、うるさいっ!!」
ユキは耳まで赤くし、目が泳いでいる。必死に言い訳を探しているようだった。
そして、宙に浮かんだ映像の中では……。
『カオル!! 私に赤ちゃんちょうだい!!』
『お兄ちゃん!! ヒナを早くママにして!!』
レオとミィがそう叫びながら交わっている。
『
レオが目を瞑って叫びながら、腰を震わせていた。
ユキ──いや、ミィは恍惚の表情を浮かべながら、尻から伸びた尻尾をピンッと立たせて痙攣していた……。
『レオ殿……儂の子宮に子種汁が入って来たニャ…………これで、孕むかニャ?』
『……ちゃんと呪文を唱えたから、赤ちゃん、出来るといいね……』
その会話を聞いて、テンプレーが小さくため息を吐いた。
「……もう、ミィ様は新しい命を宿しています。レオ様との間に授かった子です。本人たちは……まだ自覚がないのかもしれませんが」
その言葉に、ヒナとユキは同時に息を呑んだ。
クロはぽかんと口を開け、俺は言葉を失った。
「絶倫×ビッチの子供だよ? …………ヤバイよね?」
クロがぽつりと呟き、テンプレーは静かに頷いた。
「ええ……産まれてくる子供たちは、間違いなく性のエリートでしょうね」
その言葉を聞いて、ヒナとユキは頭を抱えた。
映像がふっと掻き消え、花園の空気が静まり返った。
テンプレーは呆れた表情から真面目な表情に戻り、こちらをまっすぐ見つめる。
「……さぁ、これで全てをお話ししました。あなた達には、元の世界へ帰る資格があります」
淡々と告げながらも、その声は威厳に満ちていた。
「奇跡の力を使えば……今すぐ、元の世界に戻ることができます」
───
元の世界に戻れると聞いて、私は顔を上げる。
「……戻れるの?」
思わず漏れた私の声に、女神は静かに頷いた。
「塔の試練を乗り越え、魔王様を倒した時、奇跡の力を使用して元の世界に戻れるように設定しました。残念ながら、これは初期の設定なので塔の試練は非常に難しいままになってしまいましたが……」
そう言うと、女神は申し訳なさそうに俯く。
胸の奥がざわつく。
元の世界に戻れる──ミユキ……いや、みぃちゃんはもうすぐ母になる。
私の中で、どうしても心残りなのは……。
「……れるんだよな?」
澄んだカオルの声が、ふと耳に届いた。
その声に、思わず私は息を飲む。
胸の奥で、期待と不安が同時に芽吹く。
「……何と、言いましたか?」
女神のその声には、答えを誤魔化す余地がないほどの重みがあった。
カオルは一瞬言葉に詰まり、深く息を吸い込む。
私は横で息を詰め、ヒナちゃんも少し前のめりになる。
私の腕を掴むクロの手に力が入る。
全員の視線が、カオルに注がれる。
「…………クロも、連れて戻れるんだよな?」
女神は静かに首を横に振る。
「……申し訳ありません、カオル様。クロ様を元の世界にお連れすることは、残念ながらできません」
カオルの表情が瞬時に曇る。
胸の奥で、どうしても受け入れられない思いが渦巻く。
ずっと、一緒にいたのに……。
「やだよ!? 絶対!!」
カオルより先に、ヒナちゃんが叫んだ。
クロはぽかんとした顔のまま、まだ状況を理解できていない様子だ。
「クロちゃんはヒナやユキちゃんと同じく、お兄ちゃんのお嫁さんだよ!? どうして!? 一緒に元の世界に戻してよ!!」
テンプレーは深いため息をつき、静かに視線を落とした。
「……元の世界に戻れるのは、人間のあなた方だけです。クロ様は、ユキ様の肉分身です。現在はこの世界を覆う魔王様の魔力により、危ういバランスで身体を維持しています。もし元の世界へ転送すれば……その力は途切れ、クロ様の魂は耐え切れず、消えてしまうでしょう。何より、クロ様の魂を戻す器が、元の世界にはありません。ですので、クロ様はここに残るしかありません……」
ヒナちゃんが息を呑み、カオルは唇を強く噛みしめていた。
私は目を閉じ、胸の奥で重く深い絶望を押し殺す。
花園を吹き抜ける風の音だけが、耳に届く。
誰も何の言葉も発さない。
「……いいよ」
クロの声に、私は目を開けた。
クロに縋りついて泣いているカオルとヒナちゃんの姿があった。
そんな2人の頭を撫でながら、クロは小さく微笑んでいる。
その笑顔は、いつもの無邪気さを含みながらも、どこか覚悟を秘めているように感じた。
「クロ……?」
カオルが震える声で名を呼ぶ。
「私はね、カオルと今まで一緒にいられただけで幸せだったよ。ずっと一緒にいたかったけど、しょうがないよね……」
カオルは涙を堪えきれず、声を震わせながらクロの胸に顔を埋めた。
「クロ! 俺は……元の世界には戻らない。ずっと一緒にいる……! クロを置いていくことなんてできない……!」
クロの瞳が大きく揺れた。
だが、すぐに優しい微笑みを浮かべ、カオルの頭を撫でる。
「……ありがとう。でも、それはダメだよ…………。二人の子供がこの世界にカオルたちを縛り付けないために魔道具になったのに、私のせいでみんなをこの世界に縛り付ける事になったら、私、一生後悔すると思うもん……」
クロの声は震えていたが、その微笑みは揺るがなかった。
カオルはクロの胸の中で、何度も首を横に振った。
ヒナちゃんはそんな二人を見つめ、拳を握りしめていた。
「……そんなの……そんなの、嫌だよ……」
ぽつりと零れた言葉は、風に紛れてしまいそうなほど小さかった。
私と同じく、ヒナちゃんも察しているのだろう。
──もう、元の世界に戻る以外の選択肢が無い事を……。
テンプレーが静かに頷き、少し間を置いて口を開く。
テンプレーは静かに一同を見渡し、穏やかだが重みのある声で告げた。
「……時間は、まだございます。ですが──」
その言葉に、カオルたち全員が顔を上げる。
「明日の朝までに決めていただきたいのです。それ以降になりますと、奇跡を起こすための魔力が急速に弱まり……元の世界へお戻しすることが、叶わなくなってしまいます」
花園を吹き抜ける風が、妙に冷たく感じられた……。
───
花園に設置した恋人たちのコテージの寝室に私はヒナちゃんといた。
ヒナちゃんは子供のように泣きじゃくりながら、私の胸元に顔を埋めていた。
涙の熱が私の冷たい胸を通して伝わってくる。
「……嫌だよ、ユキちゃん……クロちゃんと一緒にいたいよ……」
その声が胸に突き刺さる。私だって同じ気持ちだ。
でも、今はヒナちゃんを抱きしめて、震える背中を撫でることしかできなかった。
「ヒナちゃん……今は、泣いていいわ。でもね……クロはきっと、私たちの笑顔を見たいはずだから……」
そう言いながら、自分も泣きそうになるのを必死で堪えた。
クロとカオルは別の寝室で過ごしている。
今頃、身体を重ねているだろうか?
クロは夕食の間、まるでいつも通りの笑顔を浮かべていた。
冗談を言って、カオルやヒナを笑わせようとまでしていた。
でも、わかる。
その笑顔の奥で、どれだけ必死に涙を堪えているのか。
(クロ、あなたは……私自身なんだから……)
部屋の外では、風が窓を揺らす音だけが響く。
夜は静かに、しかし確実に更けていく……。
───
朝の光が差し込む中、ヒナちゃんは魔道具を抱えたクロにしがみつき、泣きじゃくっていた。
もう、昨日から何度目だろう、この光景を見たのは──。
筋肉隆々でスキンヘッドの大男──ヒナちゃんが、クロに泣きついている。
普段の強気なヒナちゃんが、ただただ弱く、必死に縋る姿。
胸の奥がぎゅっと締めつけられるような、何とも言えない気分がこみ上げる。
悲しみ、切なさ、そして少しだけ羨ましい気持ち──。
一方のカオルは複雑な表情で、二人の傍らに立ち、そっと見守っていた。
私たちの持ち物は、すべてクロに託した。
コテージも、武器防具も、そしてアサヒちゃんとカオリちゃんも……。
神々しい光に包まれて、テンプレーが静かに現れた。
その存在感に、私たちは自然と背筋を伸ばす。
「……さあ、決めてください」
テンプレーの声は柔らかいが、揺るぎない重みがあった。
カオルは深く息を吸い込み、決意を込めた声で告げる。
「俺は、元の世界に戻る……!」
その瞬間、私も耐えきれずに叫ぶように声を上げた。
「私も、元の世界に戻してちょうだい!」
ヒナちゃんは肩を震わせ、嗚咽をこらえながらも、震える声で告げた。
「……ヒナも、元の世界に戻る……!」
告げた瞬間、再びヒナちゃんの嗚咽が止まらなくなった。
肩を震わせ、声をあげて泣きじゃくるヒナちゃんの頭をクロが優しく撫でる。
テンプレーの声が響く。
「では、あなた達を元の世界に戻すため、奇跡の力を使います。最後の別れを済ませてください」
ヒナちゃんはクロをぎゅっと抱きしめ、耳元で小さな声をこぼしていた。
その言葉は聞き取れないけれど、胸の奥に込められた感情がひしひしと伝わる。
やがて、ヒナちゃんは名残惜しそうにクロから離れ──自らの涙と鼻水で汚したクロのチャイナドレスに清掃をかけていた。
カオルは最初、必死に笑顔を作っていた。
けれど、クロを抱きしめた瞬間、その笑顔は一瞬で崩れる。
しかし、クロは微笑みを絶やさず、そのままカオルの唇に自分の唇を重ねた。
その動作には、悲しみを和らげる優しさと、強い意志が同時に宿っているように感じられた。
カオルは一瞬動けず、戸惑いの色が浮かぶ。
でもその後、抱きしめる力を少し強め、クロの唇に応える。
花園に柔らかな朝の光が差し込み、二人の間の静かな時間を神聖に照らす。
二人は、何も言わず抱きしめ合ったままだった。
沈黙の中に、昨夜すでにお別れを済ませた痕跡が感じられる。
私は少し離れた場所で、そっとその光景を見守る。
涙も笑顔も混ざり合う、この静かな瞬間が、最後の記憶として二人の胸に刻まれるのだろうと感じながら。
……
クロは無邪気に笑いながら言った。
「少し寂しくなっちゃうけど、アサヒちゃんとカオリちゃんもいるし、ユキたちの子供が作る“絶倫ビッチ王国”も見てみたいし……」
その笑顔に、私は胸がぎゅっと熱くなる。
そっとクロを抱き締め耳元で囁く。
「クロ……あなたは、立派よ……母として誇らしいわ」
そっと抱擁を解くと、クロは少し照れたように笑みを浮かべていた。
その頬がほんのり赤く染まり、無邪気さと大人びた落ち着きが混ざった表情に、思わず微笑みが漏れる。
「いつまでも、元気で……」
私の声は少し震えていたけれど、真っ直ぐクロに向ける。
クロは優しく微笑み、少し照れくさそうに答える。
「お母さんもね……」
その短い言葉に、互いの思いがぎゅっと詰まる。
もう、会うことはできなくても、心は確かに繋がっている──そう感じながら、私たちは静かに目を合わせた。
少し離れたところで、カオルとヒナちゃんが抱き合っている。
二人の間には静かな緊張感と、深い愛情が漂っている。
おそらく、ヒナちゃんの体内にある魔道具“エリ”と話しているのだろう。
ヒナちゃんが、時折カオルに耳打ちするようにしている姿は、見守る私の胸をぎゅっと締めつける……。
……
並んで立つ私たち三人の前に、クロがひとり立っている。
柔らかな朝の光に照らされ、漆黒のリボンが風に揺れる。
その姿は、どこか遠くの記憶の中にいるようで、でも確かにここに存在している。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
クロの瞳が私たちを見つめる。
静かで、でも深い想いが宿ったその視線に、私は自然と背筋を伸ばした。
──さよならの時が、もうすぐ来る。
クロの瞳が静かに揺れて、最後の言葉を告げた。
「みんな……私から最後のお願い。この世界の記憶を、全部消して……元の世界に戻って……」
私は息を呑む。
その理由を察するだけで胸が痛くなる。
「私のせいで、みんなを悲しませたくないの……。だから……お願い」
クロの言葉に、私たちは渋々ながらも頷く。
その瞬間、クロの顔に満面の笑みが広がった。
「絶対だよ! 約束だからね」
その笑顔は無邪気で、でもどこか強い意志が感じられる。
心の奥がぎゅっと締めつけられながらも、私は小さく頷き返す。
クロの笑顔を最後に焼き付けるように、私はその場に立ち尽くした。
「では、皆様を元の世界に戻します。記憶を消すかどうかは、皆様の心の中で決めて頂ければよいです」
テンプレーが静かに手をかざすと、奇跡の力がゆっくりと世界を満たしていく。
カオルの右手の傷から、白い光がほとばしるように広がった。
その光はまるで柔らかな風のように、私たち三人を優しく包み込む。
胸の奥まで温かく、静かに震える感覚。
時間が止まったような、でも確かに動いている世界の中で、私はクロの笑顔と温もりを、光に抱かれながら胸に刻んだ……。
───
『電源をオフにします』
機械的な音声が響く。
私の膣内で動いていた9号が停止したのを確認し、ゆっくりと引き抜いた。
3号を停止すると、子宮口に伝わっていた振動が止まる。
キッチンの天井をぼんやりと見上げながら、私は荒い呼吸を繰り返す。
全身を貫いていた絶頂直前の強烈な感覚が、呼吸とともに少しずつ収まり、やがて静かに消えていった。
胸の奥に残る余韻と、まだ震える指先。
次の瞬間、視界は涙でぐちゃぐちゃに歪んだ。
「バカッ! 忘れられるわけないじゃない!! ……クロ、置いていった私を、許して!! クロッ!!!」
胸の奥から絞り出すように絶叫し、涙が止まらない。
置いてきたクロのことを思うと、痛みが心を引き裂くようだった。
声も嗚咽も、止めることができず、私は膝を抱えて、いつまでも号泣していた……。