112 エンディング
鍋の中でルーがとろりと溶け、香辛料の香りが部屋いっぱいに広がっていく。
私は鼻歌を歌いながら、ゆっくりとカレーをかき混ぜていた。
背後では、二人の声が響いている。
「だから! あれはカニでしょ!?」
「姉ちゃん、ちゃんと見た? あれはクモだよ!」
「ほーら、喧嘩しないの!」
振り向かずにそう言うと、少しの間だけ静かになる。
……けれど、すぐに小声でまた言い争う気配がした。
(ふふ、元気なのはいいけど……)
そんなとき──。
ガチャリ。
玄関の扉が開く音がした。
「パパだ!」
二人の声が揃って響くと、ドタドタと足音が廊下を駆け抜ける。
私は鍋から顔を上げ、ため息をついて振り返った。
テーブルの上には散らばったクレヨン。
色とりどりの絵が何枚も重なり合っている。
(下手くそだなぁ……でも、わかる……)
ぱっくりと割れた、犬の頭。その胴体から生えた8本の脚。
これが、クモの脚か、カニの脚かで二人は争っていたのだろう……。
(カニに、一票……南極にクモは、いないはずだし……)
思わず微笑みがこぼれる。この小さな騒がしさも、日常の大切な一部。
廊下の向こうから、子どもたちの弾む声が聞こえた。
「おかえり、パパ!」
それを聞きながら、私はテーブルに近付き、手を向ける。
「……清掃」
…………何も、起きない。
散らばったクレヨンと子どもたちが描いた絵は、そのままだ。
私は小さく息を吐く。
「……ヒナママ、いまの、なに?」
ソファーに座って絵本を読んでいた[[rb:黒音 > くろね]]ちゃんが、顔を上げていた。
目をまんまるにして、少し首を傾げながら私を見つめている。
「……あ、えっとね……魔法でちょちょいと綺麗にできたらいいなーって思ったの」
私は苦笑いしながら、テーブルの上のクレヨンを拾い始める。
「ヒナママは、魔法が使えるの?」
黒音ちゃんの声には、好奇心と少しの驚きが混ざっている。
「昔は使えたけど、今は……もう、使えないんだ…………。クロちゃん、これはみんなには秘密だから、誰にもしゃべっちゃダメだよ?」
私がそう言うと、黒音ちゃんは小さく口に指を当てて、こくりと頷いた。
「……うん、秘密」
その仕草があまりにも愛らしくて、思わず笑ってしまう。
「パパー! 早く早く!」
ドタドタと足音が戻ってくる。
最愛の人が、子どもたちと一緒にリビングへ入ってくる──。
「お帰りなさい。アナタ……」
「ただいま。ひな、クロ」
その声を聞いた瞬間、お腹の奥がふっと熱くなる。
何年経っても、変わらない声。
私が心から求めてきた、日常の音。
子どもたちが最愛の人の足にしがみつき、はしゃぐ。
「パパ、見て! こないだの映画の絵! カニだよね?」
「クモだってば!」
賑やかな声に、思わず笑みがこぼれる。
「もう少しかかるから、子供たちと一緒に先にお風呂に入ってきてくれる」
「えっ、パパと!?」
「やったー!」
子どもたちが歓声を上げてお風呂場に駆けだす。
「クロちゃんも、ママの帰りが遅くなりそうだから、今日はパパとお風呂に入ってね」
「……うん」
黒音ちゃんは少し照れながらも笑顔で頷き、姉弟のあとを追って駆け出す。
子どもたちの足音が、遠ざかっていく。
リビングは急に静かになり、カレーの香りと湯気だけが、空気を満たしていた。
最愛の人が、ゆっくりと私に歩み寄る。心臓の鼓動が少し早くなるのを感じながら、私は自然と背筋を伸ばした。
そっと唇が触れた瞬間、全身の力が抜けるような感覚が走る。耳元で囁かれる低く柔らかな声──。
「……ひな、愛しているよ」
胸がぎゅっと締め付けられる。
ずっと、変わらない。これからもきっと、変わらないだろう。
耳元で囁かれたその声は、あまりにも優しく、胸がきゅっと締め付けられる。
「……私も、だよ」
そう返しながら、自然と手が彼の腰に回る。私の背中にも、彼の指先の温もりが伝わる。
そして、子どもたちの前では決して口にしない、特別な呼び方で彼を呼ぶ。
「お兄ちゃん……愛してる…………」
───
「……こうして、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
絵本をそっと閉じると、布団の中で[[rb:香織 > かおり]]と[[rb:朝日 > あさひ]]が大きないびきをかいて眠っていた。
口元に溜まった涎をティッシュで拭き、布団を肩まできちんとかけ直す。
「ふふ……」
思わず笑みがこぼれる。小さな胸の上下に合わせて布団が揺れるたび、二人の存在の愛おしさが胸に染み渡る。
隣の布団では、黒音ちゃんが静かな寝息を立てていた。
整った寝姿に目を細め、手をそっと頭に添えると、彼女の体温が指先に伝わり、心までじんわりと温まる。
(……ほんと、うちの子たちとは大違いだなぁ……)
そっと部屋の明かりを落とし、子供部屋を抜け出し、私は寝室の扉の前に立つ。
軽くノックして寝室に入ると、ランプの柔らかな明かりが部屋を包んでいた。
お兄ちゃんはベッドに腰掛け、ユキちゃんはその肩に体を預けていた。
二人の間には、長い時を越えて育まれた絆のような空気が流れている。
ユキちゃんが私を見て、柔らかく微笑んだ。
「……お疲れさま、ヒナちゃん」
「ううん、ユキちゃんこそ、お仕事お疲れさま」
ユキちゃんは小さく首を振り、笑みを絶やさない。
「……でも、こうして帰ってくると、全部が軽くなるの。不思議だわ。……クロはいい子にしてた?」
「うん、クロちゃんは落ち着いてて本当いい子、うちの子たちとは大違いだよ」
私は苦笑いしながら答えた。
「……ふふ、ありがとう。でもね、ヒナちゃん」
ユキちゃんは小さな声で続けた。
「うちの子も、香織ちゃんと朝日くんのこと……すごく好きなの。だから、あの賑やかさが羨ましいって」
「……ほんと?」
思わず笑みがこぼれる。
「ほんと。きっと、あの子たち……ずっと一緒に育っていくんだろうね」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「今日はユキちゃんの番だけど……これからするの? 出て行こうか?」
ユキちゃんは、静かに首を横に振る。
「今日は、しないわ……カオル、ごめんなさい」
「えっ!? ユキちゃん、体調悪いの!?」
ユキちゃんは小さく首を横に振り、微笑んだ。
「ううん、違うの。今日、早退して病院に行ってきたんだけど……」
ユキちゃんの手が、お腹にそっと触れた。
「……赤ちゃんができたの」
「……えっ……!」
胸が一気に熱くなり、思わずユキちゃんの両手を握りしめていた。
「本当に!? ……ユキちゃん……おめでとう! クロちゃん、ずっと弟か妹を欲しがっていたから、大喜びするよ!」
「頃合いをみて私から伝えるから、まだ子供たちには内緒にしておいてね……」
「うん、もちろん!」
私は微笑みながら頷く。
胸の奥がじんわりと温かくなり、自然と目尻が潤む。
お兄ちゃんもそっと私たちを見つめ、静かに頷いた。
お兄ちゃんの隣にそっと腰を下ろし、ユキちゃんと同じように、私もお兄ちゃんの肩に頭を預ける。
その瞬間、体の力がふっと抜けて、心まで柔らかくほどけていくような感覚があった。
「カオル……私、とても幸せよ」
「……俺もだ」
二人とも、声は静かで、でも心の奥から温かさが伝わってくる。
「お兄ちゃん、来年には5児のパパだよ? お仕事を頑張って、ガンガン稼がないとね……」
私は微笑みながら、そっとお腹に手を当てる。
この手の下に、小さな命が宿っている。
まだ見ぬ赤ちゃんの存在に、胸がぎゅっと熱くなる。
「……頑張って働くさ。ひなとユキ、子供たちのために」
そう言ってお兄ちゃんは笑みを浮かべた……。
私はその笑みに安心し、自然と頬が緩む。
そっとお腹を撫でながら、未来に思いを馳せる……。
「早く、会いたいなぁ……」
お兄ちゃんが肩越しに微笑む。
「気が早いな……まだ、性別もわからないんだぞ」
そのやり取りを聞いたユキちゃんが、柔らかくクスクスと笑う。
笑い声に部屋の空気がふんわり和む。
その温かさに包まれて、私はそっと目を閉じ、家族の笑顔を胸に描いた……。
……
隣ではお兄ちゃんとユキちゃんが静かに寝息を立てていた。
ユキちゃんの妊娠報告に胸が高鳴ったまま、私はなかなか寝付けないでいた。
目を開けると、棚の上に飾ってある写真が見える。
そこには、ウエディングドレスを着たユキちゃんが微笑み、その隣には新郎姿のお兄ちゃん。
そのお兄ちゃんを挟むように、同じくウエディングドレスを着た私の姿も写っていた。
三人で肩を寄せ合い、笑顔で未来を誓ったあの日の瞬間。
大っぴらに式を挙げられない私のために、お兄ちゃんとユキちゃんがこっそり計画してくれたサプライズ……。3人だけで挙げた結婚式。
あの日のことを思い出すと、胸の奥がぎゅっと熱くなる。
静まり返った小さな会場に、キャンドルの柔らかな光が揺れ、二人が笑顔で「ヒナのために」と差し出してくれた花束。
私はその瞬間、嬉しさと感動で堪えきれず、涙をぽろぽろとこぼしてしまった。
(……あれからもう5年かぁ……あっという間だったなぁ……)
写真の中で微笑む私。この時にはもう、お腹の中に香織と朝日がいた。
奇しくも、夢の世界と同じ、双子と知った時には驚いたけれど……。
妊娠していること、産むつもりであること、未婚の母になること。
パパとママに伝えた時は猛反対されてギクシャクしちゃったけれど……。
「俺が、父親代わりになる!」
あの時の、お兄ちゃんの声の震えを思い出す。
私の手を握りながら、まっすぐにパパとママを見据えてくれた。
そんなお兄ちゃんと私に、渋々折れてくれたパパとママも、今では、すっかり孫にメロメロなおじいちゃん、おばあちゃんになってしまった。
結婚が決まったお兄ちゃんにこの家を譲って、パパとママはお姉ちゃんの療養施設がある県に引っ越してしまった。
なんでも、リモートワークが可能になったので、仕事を続けながらお姉ちゃんのそばにいられるように、とのことだった。
こうして私は、新婚の兄夫婦──お兄ちゃんとユキちゃんが住む家に居候することになった。
当初はユキちゃんの両親から反対されるかと思ったけれど、実際にはお兄ちゃんの誠実さと、私たち家族の思いを理解してくれて、すんなりと受け入れてくれた。
お姉ちゃんは、順調に回復しているようだ。
まだ言葉を話すことはできないけれど、優しい笑みを浮かべて私たちを迎えてくれる。
半年に一度、子供たちを連れてお兄ちゃんと会いに行くその時間は、家族みんなにとってかけがえのないひとときだ。
子供たちはお姉ちゃんの手を握り、無邪気に笑いながら過ごす。
そんな姿を見て、私もお兄ちゃんも自然と微笑む。
パパとママも、少し離れた場所から優しく見守っている。
お兄ちゃんたちが結婚してしばらくして……ユキちゃんが妊娠した。
ユキちゃんからそのことを告げられたとき、すっかりお腹が大きくなった私は、思わずユキちゃんに抱きついて喜びを爆発させてしまった。
ユキちゃんの赤ちゃんが女の子とわかった時、ユキちゃんの強い希望で“黒音”と名付けられた。
夢の世界での出来事については、二人とちゃんと話したことはないけれど……。
(……ユキちゃんも、私と同じ選択をしたんだろうな……)
その思いが胸をよぎると、夢の世界に置いてきたクロちゃんのことを思い出し、少しだけ涙がにじむ。
そして……私は双子の姉弟──香織と朝日を産んだ。
次の年にはユキちゃんが黒音ちゃんを産んだ。
こうして、三人家族だった私たちの生活は、一気に六人家族へと広がった。
笑い声が絶えず、日々が賑やかで温かいものに変わっていく。
来年には、さらにもう二人、新しい命が加わり、八人家族になるだろう。
胸の奥がじんわりと熱くなり、未来への期待と希望で満たされる。
(……こんなに、幸せでいいのかな……)
静かにそっとお腹に手を当て、私は小さな命たちと共に、これから続く日々の温もりを感じていた。
隣で寝ているお兄ちゃんに抱きついて、そっと頬にキスする。
お腹の奥がじんわりと熱くなった。
どうやら、私の身体はもう4人目を望んでいるみたいだ……。
妊娠がわかってから、しばらく控えていたけれど、明日は……。
(……おねだりしてみようかな)
胸の奥で芽生える期待と少しのドキドキを感じながら、私はお兄ちゃんの温もりに包まれて、夜の静けさに身を委ねて目を閉じた。
いずれ、子供たちには本当の事を伝える日が来るだろう。
私とお兄ちゃんが、実の兄妹であること。
二人の父親が、お兄ちゃんであること。
黒音ちゃんとは、異母姉妹・兄妹であること。
香織と朝日の反応を想像すると、少し不安になるけど、きっと大丈夫。
私には、お兄ちゃんとユキちゃんがいる。
この先、何が起きるかはわからないけれど、ひとつだけ確かなことがある。
私は今──幸せだ……。