アクマレコード 魔法少女ヒットマンDIAVOLO! 作:形のない者
深淵。漠然とした浮遊感。そこは確殺ではなくなったウワサの地下空間。
全てが漆黒の瘴気に彩られた絶望世界で、やおら悪魔はまぶたをひらく。
「────…………ここ、は……」
まぶたを開いて目に映るは、闇。
次いで、美しく幻想的な蝶々の羽根。それは巨大なクリムゾン色の毛糸玉の両側に付いていた。そして赤い毛糸玉は水色の頭巾を被っており、前面には切り取った三つのキウイと一つのレモンが貼り付いている。どことなく目や鼻、口のように見える。そこまで全体像が見えると、蝶々の羽根がネズミの耳を模していることが分かる。まるで今にも寂しさで死んでしまいそうな、穴だらけのチーズのような、氷のような、透き通る耳はね。
つと、背筋に冷感。じんわりキチキチと氷のような冷たさが背中、後頭部、ふくらはぎと、全身についていく。
頭上に千秋理子が佇む。その顔は渦巻く闇に覆われていた。その足元から赤い毛糸が束ねられて伸びていき、ハエのような形をした毛糸玉と合流している。それは千秋理子の
「理子、なのか……?」
悪魔は直感する。頭上に佇む千秋理子は、偽物であって本物だ。
今の千秋理子は、とても深い絶望に包まれている。
「……オレの、せいか……」
正直、この展開になることは予想していた。悪魔が究極超直感で目にした光景の中では、
「……くっ……そ……最後の、最後で……気が、緩んだ……」
少なくとも、この状況。三つ目の例外を当て嵌めなければ、その光景には辿り着けないのだろう。だが、それだけは回避するため、悪魔は叛逆魔法で666のヘルリングの《幸運》を封印し、千秋理子の周りで起きる不幸を覆すため取っておいたのだ。
しかし悪魔が気を失ったことで叛逆魔法による封印が解け、666の幸運を任意のタイミングで発動させることができなかった。そして当の《幸運》は、どうやら既に別の場所で発動してしまったらしい。そう直感できる。なぜならヘルリングには魂が宿っているため、既に666のヘルリングの中に全てを覆す《幸運》が無いことが超直感で分かるのだ。
「ごめん……ごめんな……マメジ……理子……」
ドッペルの絶望を直感する。マメジが死んだ。千秋理子の目の前で。落石に押しつぶされて圧死。その最期は大好きな主人を助ける立派なものであったという。
「誰も……死なせないと……言っておいて……これか……」
悪魔は脱力していた全身に力を漲らせる。震える胸を押しこらえて分厚い氷上に片手を付く。起き上がる。
「────!」
氷の下に千秋理子が眠っている。寝息もなく、健やかな表情で、目尻に涙を溜めて、寂しさを我慢している。
「ッ……」
握力だけで氷の表面が砕ける。泣きはしない。泣きたいのは彼女の方だ。
「────
「っ!」
氷上の千秋理子が何かを喋る。それは人間の耳には奇異な咆哮として聴こえる。だが超直感を持つ悪魔には理解できる。その咆哮の意味が。去来する寂しさが。
「────
「……」
赤い毛糸が悪魔の体に優しく巻きつく。逃げれば氷の底に沈めるつもりで。
「逃げはしないさ」
泣くように笑った悪魔はバトルグローブも付けずに両手から炎を灯す。それは大空の死ぬ気の炎。純度の高い──しかし黒々とした混じり気のある。されど──透き通るような橙色の炎が、その矛盾を調和するように、じんわりと氷を解かしていく。
そして悪魔は直感した。
「仮に名付けるなら────手繰りのドッペル。その姿は月下氷人。誰かと誰かの愛を取り持っても、自分が愛されるわけじゃない。結ばれた人はいつか離れていく。それだけなら良かったのに。それだけなら我慢できたのに。結ばれなくても離れていく
死ぬ気の炎で氷を解かした悪魔は底まで辿り着く。
眠り姫は凍てつく世界に包容と調和の温度を感じ、やおらまぶたを開かせた。
「────────悪魔……お兄さん……」
凍結していた千秋理子の目尻から熱い涙が流れる。悲しそうに微笑みかけた悪魔は静かに問い掛ける。
「今から難しい話をする。魔法少女は一度キュゥべえに願いを叶えてしまったら、もう二度と願いを叶えることはできない。ただしオレは魔法少女を元の人間に戻すことができる。するともう一度だけキュゥべえに願いを叶えてもらうことができる。ただし元の人間に戻るためには、以前叶えた願い事を無かったことにしなければならない。理子は何を願った?」
「……お姉さんを、結婚させたい……お姉さんの結婚が、みんなに認められますように……って……」
「もしその願い事を無かったことにしたら、お姉さんは大好きな人と離婚してしまうかもしれない。あるいは、結婚を反対されている状態に戻っているかもしれない。世界が変わるんだ。もしお姉さんが思い詰めるような人なら、長いこと結婚を反対され続けたせいで自殺した世界に変わるかもしれない」
「そんなの……ダメ……、だって、お姉さんには、もう赤ちゃんが……」
「そうか。新しい命の因果は大きい。ならば、お姉さんは駆け落ちして二度と連絡が取れない世界に変わっているか、妊娠したのに結婚を許されずシングルマザーになっているかもしれない。いずれにせよ嫌な未来だな」
悪魔は俯く。ここでマメジの話をすれば、それは拷問だ。これからする話も拷問のようなものだが、マメジの話は悪魔契約への誘導でもある。故に、できるだけ千秋理子の冷静な考えで物事を選択できるように言葉を選ぶ。それは責任逃れのようなものなのではないかと、自罰的になりつつ。
「……ところで、もうひとつ大事なことを教えなければならない。それは魔法少女の真実だ。キュゥべえから聞かなかったか? あいつは都合の悪いことはわざわざ言わないからな。聞かれない限り答えない奴なんだ」
「…………」
「魔女の正体は魔法少女だ。魔法少女はソウルジェムが真っ黒になると魔女になってしまう。魔法少女は絶望すると周りに呪いを振りまく魔女になってしまう。多くの魔女はそんな存在にはなりたくないと、魔女になっても思っている。この現実を受け入れることが、理子にはできるか?」
「────」
「そして魔法少女の本体はソウルジェムだ。ソウルジェムが割れたり、壊れたりすると、魔法少女は死んでしまう。なぜかというと、ソウルジェムは魂なんだ。目に見えない魂を宝石の形に変えることで、魔法少女は魔女と戦う力を手に入れる。そういうルールなんだ。理子はその事実を、受け入れることができるか?」
千秋理子のまぶたが開ききって瞳が揺れている。到底許容できない情報に胸中が揺さぶられている。
「オレが嘘をついていると思うか?」
ゆっくりと、千秋理子は悩み、悩んで、懊悩し、身動ぎ、首を否と振るような、縦に頷くような、曖昧な角度で斜めに俯いた。
「悪魔の言っていることは本当だよ」
「────キュゥべえ」
天上の闇の奥深くからDキュゥべえが落ちてくる。ふわりと氷の上に降り立った白い小動物は、無機質な赤い瞳で千秋理子を促す。
「マメジを生き返らせたくないのかい? 君は魔法少女として、とても高い素質を秘めている。もし悪魔の契約に応じれば、一度の願いで二回分の祈りを叶えることも可能かもしれない」
「魔力係数が高いという意味か」
「そうだね」
「リスクは?」
「千秋理子が強く思う方の願いしか叶わない可能性がある」
「最悪のリスクは?」
Dキュゥべえは尻尾を振って、観念したように答える。
「二兎を追う者は一兎をも得ずと言うだろう? あまりに大きな願い事を叶えようとすると、魔力係数が足りなくなり、願い事を無理やり実現するため、かなり歪曲した方法で願いが叶う場合がある。たとえば、とある少女が両親を生き返らせたいと願ったけど、深層意識にあった現実逃避や表層意識にあった動揺が、魔力係数の不足と複雑に絡み合った結果……
「……最初に“リスクは?”と聞いた時点で、その“最悪のリスク”も含めて答えてもらいたいもんなんだがな」
悪魔は辟易するが、今はインキュベーターと喧嘩している場合ではない。
「今の話は、この戦いが終わったあとでゆっくりと考えろ。それより、この深淵から脱出するんだ」
千秋理子の魔法衣装は《施術》の魔法で変化させれば、一応は光景通りになる。この戦いを切り抜けるために、再契約して魔力係数が二乗された千秋理子の力が必要だったとしても、その分は悪魔の逆転勝利と叛逆でなんとかしてみせる。
(光景が同じなら結果も同じになるはずだ。確率は収束する。故に
悪魔は手を伸ばす。だが……少し弱って引っ込める。
「すまない……オレのせいで……きちんとした謝罪は後でする。謝られたところでマメジは帰ってこないが……どうか、オレと戦ってほしい。みんなのところに帰ろう。そして生きるんだ。それまでオレが生かしてみせるから」
千秋理子は手を取らない。もう一粒の涙を流して首を横に振る。目元を手首で拭う。
そこで悪魔は直感した。
「……」
本気か? そう問えば、彼女は否応なく頷くことも直感した。故に押し黙る。年長者に意見を問うても選択まで任せてはいけない。あくまで自分の意志で。それが悪魔の信条とする、悪魔のような
「────会いたいんです……マメジと……」
「……なら、オレに触れてくれ。今のオレは魔力発作という病が起きている。今は叛逆魔法で封じ込めているが、理子が触れてくるならそれを解く。するとオレは熱が出たように苦しみ出して、触れたモノから沢山の魔力を吸い取るようになる。そんな体に理子が触れると……あー……」
悪魔は赤面する。
「────味覚以外の管理を行う視床が愛情ホルモンと呼ばれるオキシトシンを放出し、ドーパミンが大量に分泌されて、眼窩前頭皮質の活動が抑制されることで恐怖や不安が取り除かれ冷静さを欠き大胆な行動を取りやすくなり、クスリでもやってるかのような快感に襲われるが、ある時を境に、すぐに副交感神経が働いて落ち着きを取り戻す────」
千秋理子はポカーンとした顔で目を丸くする。それからしばらく考えて口にした。
「えっと……学校で聞いたことがあります」
「!?」
「ドーパミンとオキシトシンと……あとセロトニンで、やる気スイッチがオンになるんですよね?」
「……」
悪魔は(そうきたか)と予想外の事態にうろたえる。ドーパミンやオキシトシンは汎用性の高い物質だ。何も性的なことだけに使われる分泌物ではない。
そこでDキュゥべえが端的に説明した。
「惜しいけど違うよ理子。悪魔が言いたいのは“性的絶頂”のことなんだ」
「キュゥべえ……」
「なんだい。君が回りくどいことを言うからじゃないか。相手に分かるように言えと口うるさいのはいつも君なのに。なぜ怒られるのかわけがわからないよ」
「お前はそろそろ羞恥心というものを察してくれ。あとたまに分かった上でやってる時あるの知ってるんだからな」
「察してはいるよ。ただ君が恥ずかしがると相手がその気になる確率が上がるから敢えて察しないのさ」
「だからそれをやめてくれと言ってんだ。察しろって言うのはやめろって言ってんのと同じだ」
「そこまで空気読みを要求するのは自分勝手というものじゃないかな? きちんと言われないとわからないよ」
「ならこのやりとり何回目だと思う? もう記憶にございませんは通用しないぞ?」
「ともかく千秋理子。性的絶頂する前にソウルジェムを飲み込むんだ。すると元の人間に戻れて、僕と再契約できる」
「話を逸らすな。合理が過ぎる」
悪魔は溜息をつく。いつも悪魔契約の説明をする時は締まらないが──締まっても困るが──是非もなしと悪魔は語る。
「まぁ……そういうわけだ。ちなみにキュゥべえと再契約すると、魔法少女としての能力が二倍になる。そのぶん“負債”と呼ばれるものが増える。契約の代償のひとつだ。一例を挙げると、魔法少女として強くなったぶん強敵が現れやすくなる。といっても二倍になった能力をちゃんと伸ばしていれば大抵は造作もない。きちんと努力していれば取るに足らない代償だ。油断さえしなければ基本的に魔女には苦戦しなくなる。むしろ、それくらい強くなるんだ」
そこで千秋理子が聞いた。
「あの……すみません。ひとつだけ……」
悪魔は直感する。
「絶頂って……なんですか?」
子供の純朴な問い掛け。さぁ大人(中学二年生)はどう答える。
「それは────」
「キュゥべえ。オレが話す」
Dキュゥべえの言葉を制して、悪魔が語る。
「────…………────…………、……オブラートに包む。…………そうだな。うん。要は、
「……、────!?」
千秋理子は顔が真っ赤になる。
「結婚した夫婦は初夜に何をすると思う?」
「……!!」
悪魔は直感する。“キス”という単語を。
「……といっても、それをする必要はない。ただそれをした時と同じくらいの気持ちが訪れるってだけだ。それが絶対の頂きってやつだ。理子はオレの体に触れるだけでいい。オレの体に触れるということが、それと同じ意味を持つというだけだからな」
「なぜ“生殖活動”という単語を避けるんだい? 分かりやすく言わないと、この年頃の人間には分からないと思うよ」
「どうせお前が言うと思って委ねたんだ。もうハッキリ言うのはお前の仕事で構わない」
紅潮する悪魔は目を逸らす。
「……時間がない。今すぐ決める必要はない。悪魔契約は、この戦いが終わった後でもいい。アシュリーに相談するのもいいだろう。それよりみんなが心配だ。早く駆けつけたい。オレの手を取ってくれるか?」
悪魔は手を伸ばす。それに手を伸ばす千秋理子だが、少し思うところがあったのか胸の前まで引っ込めた。
「…………」
「……」
「……────う、受けます。お姉さんは結婚したままで、マメジも取り戻せるなら……私、悪魔お兄さんと契約、します……!」
「愚かな選択になるかもしれないぞ。もし失敗すればお姉さんは大変なことになって、マメジも生き返らないかもしれない」
「っ……それは……そうなんですけど……」
「その場合はもう一度悪魔契約することで、お姉さんは元に戻る。だがマメジは生き返らない。そして悪魔契約は二度と行わない。それ以上の悪魔契約は危険すぎるからだ。宇宙のルールを捻じ曲げる契約である以上、同じ人間に多用することはできない」
「…………」
千秋理子は怯えるように目をギュッと瞑る。そこで背後の冷たさを感じた。
氷の底で囚われている自分。寒くて、寂しくて、それを我慢するもうひとりの千秋理子は、
「……それで、お願いします。失敗したら、もう一度だけ悪魔契約……でも、きっとうまくいくって、信じてもいいですか……?」
それにキュゥべえが答える。
「君の魔力係数なら安全さ。なんならあともうひとつ小さな願いを叶えてもいいくらいだ。それくらいの素質が君にはある」
「信じるかどうかは、理子の中にいるお姉さんとマメジに聞くといい」
千秋理子はハッとして目を閉じる。
(────お姉さん。私、もしかしたらお姉さんを不幸な目に遭わせるかもしれません。キュゥべえと再契約してマメジを生き返らせる間、お姉さんと赤ちゃんには、私より寂しい思いをさせてしまうかもしれません。いいえ、させてしまいます。ごめんなさい……っ! ……でも、もし許してくれるなら……私にも、マメジを取り戻させてください……失敗したら、ちゃんとお姉さんが幸せな結婚生活に戻れるよう、もう一度────悪魔お兄さんと契約しますから────)
自分勝手なことを言っているのは理解している。それでもマメジを諦め切れない。
────大丈夫よ。理子ちゃんのおかげで、私は大好きな人と結ばれたんだもの。だから理子ちゃんにも、大切な存在と結ばれていてほしい。遠慮しないでやっちゃいなさい。私だって、もし目の前に悪魔のような神様がいたら、大好きな人と結ばれるために魂だって売ってやったもの。それが愚かしいことは承知の上で、それでも私は────大好きな人と、一緒に居たかったから……。
────ワンッ!
頭の中のふたりは否定しなかった。それは千秋理子が自分の都合のいいようにふたりの性格を解釈しているからだろうか。それともふたりなら本当にそんなことを言ってくれると信じていたからだろうか。いずれにせよ背負う罪は変わらない。運命を変えるとは、そういうことだ。一時的にでも、大切な人を不幸にさせるということだ。どんなに許してくれても、それは決してやってはいけないことなのだ。
(けれど)
罪が怖くて踏み出せない人生なんて後悔しか呼び込まないだろう。あの時ああしていれば良かった。こうすればよかった。そればっかり考える人生にはなりたくない。たとえ選んだ道で後悔しても、自分はそれを受け入れて進むのだ。
千秋理子は無意識に思っていた。人というものは、選んだ道で罪を背負うべきなのかもしれないと。それが覚悟というものなのかもしれないと。ならば覚悟を持って進もう。その先に、真の希望があるかもしれないのなら────!
「たとえ……この契約で後悔しても、わたし、後悔しません!」
「────そうか。理子は強いんだな。オレも努力する。理子の未来が、明るいものになるように────」
悪魔は肉体に掛かる魔力発作用の叛逆魔法を解除する。
「っ……!」
胸を掻き毟るように苦しみだした悪魔の体は深淵、氷の底から抜け出し、徐々に浮上していく。その背中に飛び乗るDキュゥべえ。
「悪魔さん……!」
それを追い掛けるように深淵、氷の底から起き上がり、立ち上がった千秋理子は、氷上に登り、頭上から見下ろすもうひとりの自分を見上げる。
「……ずっと無視してごめんね」
千秋理子は氷上から飛び立つ。運命の赤い糸を結び止めるため。二度とふたりの愛が死を以て分たれないように。
「悪魔さんっ!」
月下氷人のドッペルは羽ばたく。その風圧に押し上げられた千秋理子は、ふと下を見るとドッペルの姿が消えていた。
氷上の
勇気を振り絞って悪魔の胸に抱き着く。すると体内から大量の魔力が吸い取られ始めた。
「ひぅっ……!?」
なんだか変な声が出た。初めて経験した快感に、不思議と紅潮して膝をもじもじとしてしまう。
(っ……そうだ……ソウルジェムを……飲まなきゃ……)
一口サイズのソウルジェムを飲み込む。
「あっ……んっ!」
再び魔力が一気に吸い取られてピクリと体が痙攣する。
「…………」
なぜかは知らないが、とても屈辱的な気持ちになる。悪魔から目を背ける千秋理子だが、徐々に高揚してきて不安や恐怖が無くなってくる。ふと見上げると、意識を失っているのか悪魔は苦しそうな表情で喘いでいた。近付きたくなる。その顔に両手を這わせると、自分は何をしようとしているのか疑問符ばかりが脳内に湧いて、胸がドキドキと高鳴る。いたずらしたくなる。
「────」
必要な勇気は一瞬だけ。目を閉じて唇を閉じて──チュ──とほっぺたにいたずらしてみるだけ。
(悪魔お兄さんは必要ないと言っていたけど……どうやら
その瞬間、千秋理子の中で何かが弾けた。悪魔との間に白い光が放たれる。深淵を照らし、闇を払う光は、莫大な因果を断ち切って巻き取り、全てを元に戻す。
「ぁ────は────はふ、はふぅ……ふぅ……」
何度も体をぴくつかせる千秋理子は、ふと我に返り、自分はなんて恥ずかしいことをしてしまったのかと顔が真っ赤になる。悪魔の顔を見れない。まだ魔力は吸われている。もう手を離したいが、離せば深淵に落っこちてしまう。もし今の光が元の人間に戻った証拠なら、魔力を使えないため空も飛べない。試しに魔力放出をしてみるが、魔力というものをまったく感じ取れない。
(ほ……ほんとに……普通の女の子に戻ったんだ……)
魔女化。ソウルジェムの真実。信じがたい話は今、胸の中にしまっておこう。
「千秋理子。僕と再契約して魔法少女になってよ」
この白い小動物は、そんな大切なこと教えてくれなかった。とてもじゃないけど信用できない。でも希望がそれしかないのなら。今度は全部を知った上で、覚悟を決めて挑んでやる。千秋理子は魔法少女の世界で生きていくと、しっかり心に決めたのだから。
「────全てを元に戻して。お姉さんは結婚したままで、旦那さんも赤ちゃんもいて……そしてマメジを生き返らせて────」
「契約は成立だ。君の祈りはエントロピーを凌駕した」
「っ……!」
千秋理子の体内から魂が固形化して浮き出てくる。
「モスカ・ビアンカって言葉を知ってるかい? イタリア語で“飛び抜けて才能がある人”という意味だ。まさに君のことだよ、千秋理子────」
世界が、白い光に包まれる。
「────さぁ、解き放ってごらん。その素晴らしい力を!」
†