◆
そのひとつひとつの言葉は静かに呟かれていく。
暗闇に染まっている空間の中、柚子の顔はやはりいつまでも覗くことができない。
それでも、その言葉のそれぞれは耳に届いた。
あまりにも受け止めることができない事実の羅列に、私は、息をすることを忘れていた。
「──」
──あれ、呼吸ってどうするんだっけ。
息を吸うことができない。息は既に吐ききっているのに、うまく酸素を取り込むことができないままだ。
苦しい、苦しいけれど、こんなの苦しくないと思う。違う、苦しい。わからない。
「──」
息ができない。ずっと、いきができない。でも、そんなことはすべてどうでもいい。
──私のせい。
──ぜんぶ、ぜんぶ私のせいだ。
私が嘘をついたから。私がお姉ちゃんに嘘をついたから。
私が嘘をつかなければ、こんなことにはならなかったんだ。私が嘘をつかなければ──。
「──?」
何か、声が聞こえる。聞こえるけれど、何を言っているかわからない。
胸が苦しくて仕方がない。力が入らない。足にも力が入らない。
あれ、私、立ってられてる? わかんない。そんなことを考えている場合じゃないのかもしれない。
謝らないといけない、そうだ、柚子に謝らないと。謝って、それから──。でも、謝ってどうするの? 謝って、私はどうすればいいの?
謝ったところで、その罪は贖えないのに、どうすればいいのだろう。
「──? ──?!」
声が、聞こえる。
でも、わかんない。なんて言っているのか、ずっとわかんない。
ごめんね、ごめんなさい。
ちゃんと言えてるかわからないけれど、それでも、ごめんね。
ごめんね。お姉ちゃ──。
────────。
────。
──。
◆
でも、呼吸は楽になった。
◆
なぜか、楽になった。
◆
わからない。わからないけれど、楽になった。
◆
「──」
楽になっている。
息を、されている。
◆
「──」
暗い景色の中にいる。
呼吸は、ずっと楽なまま。
◆
「──んん」
そこで、ようやく音も聞こえる。
意識が落ちそうになる感覚はある。でも、呼吸は楽になって、次第に自分が自分であることを思い出せる。
声が、聞こえる。
息が、聞こえる。
私の中に、聞こえ続けている。
「──んふ」
「──んっ」
呼吸がやってくる。
無理に呼吸がやってくる。
次第に吸い方を思い出す。
息の吸い方、吐き出し方。
力が失われていく中で、確かに息をする方法を思い出していく。
──それは、とても心地よかった。
「──」
寒いだけの場所で、凍えている唇に、その温もりは伝わっている。その温もりは絶えず私の中で鼓動していて、それが安心させてくれる。
安心? そんなこと、私に許されてはいけないはずなのに。
「──ん」
「──んひゅ」
それは、舌を絡ませない単純な口付け。
ゆっくりと運ばれていく空気の塊。肺の動かされて、楽になって、苦しくなる。
息が漏れる。口元から息が漏れる。
「──ぶはっ」
「──はぁ、はぁ。だ、大丈夫っ?!」
口が離れて、一気に楽になる。こんな私を心配してくれるお姉ちゃんの声がすぐ近くにある。
けれど、そんな優しいお姉ちゃんに、私はどうすることもできない。
唇が離れた拍子に私は柚子から遠ざかる。いつの間にかに落ちていた腰に、足から力を入れて、後ずさる。
「み、蜜柑……」
「……ごめんなさい」
後退りながら、すぐそこにいる柚子に言葉を紡ぐ。それでも償えない罪の大きさは、柚子の近くにいることを許さない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。……本当にごめんなさい」
「……蜜柑」
「わたし、本当にだめなんだ。本当にいけないことをしちゃったんだ。だから、だめだ、だめなんだ。お姉ちゃんのすぐ近くにいちゃ、だめなんだ」
「……」
そうして私はお姉ちゃんを拒絶する。柚子は優しいから、それでも私に近づいてきてくれる。けれど、それに甘えちゃいけないってわかっているから、ゆっくりと距離を置く。
謝っても許されないことをした。それでも謝ることしかできないし、距離を置くことしかできない。
きっと、私が柚子にできる唯一は、そうして離れて、いなくなることで──。
「蜜柑」
柚子が私の名前を呼ぶ。感情がこもっていると感じてしま、そんな慈愛に包まれた声で名前を呼んでくれる。
私がそう思いたいだけかもしれない。
「ごめんね、ごめんなさい」
絶対に償えないことを謝り続ける。
「私、もうお姉ちゃんの隣にいちゃいけないね」
「……」
「本当に、全部私のせい。私が悪い。最初から、最後まで。お姉ちゃんがこんなことになったのも、私がお姉ちゃんを好きにならなければよかったのにね」
「……それは」
「私がお姉ちゃんを壊したんだよね。お姉ちゃんを壊しちゃったんだ」
お姉ちゃんから声は返ってこない。相槌も、肯定も否定も、何も返ってこない。
「だから、もうおしまいにしよ。お姉ちゃんの言う通り、ぜんぶおしまいにしなきゃ」
「……本当に、おしまいにするの?」
「わたしは、柚子に責任を取れないから」
罪を贖えないから。
償うとすれば、離れることしかできないから。
「──私が汚れちゃったら離れるんだ」
「──違うッ!!」
離れなきゃいけないとわかっているのに、それでも聞こえてきた言葉に、私は衝動的に言葉を吐いた。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんだもん! 私の大好きなお姉ちゃんなのッ!」
「でも、おしまいにするんでしょ」
私が汚れたら、男に犯されたら、それでおしまいにするんだもんね。そうしたくなっちゃうんだもんね。
「違う、違うよっ、そうじゃない! そうじゃないの!」
私はお姉ちゃんが大好きで、どんなことがあっても大好きで。
それだけは絶対に変わらない。
どこかの糞男が柚子を犯しても関係ないっ! 柚子が私以外の人と何をしてても関係ない。
私はお姉ちゃんが好き、お姉ちゃんが大好きなの。
「だから、いやだけど、……おしまいにしなきゃいけないって、離れなきゃいけないって、そう思って」
お姉ちゃんが大好きだから、自分を苦しめるために離れなきゃいけないって。
「あぁ、そっか。そうだ、そうだね。お姉ちゃん、犯されたんだもんね。それだったら、私も犯されたほうがいいよね。じゃないと、本当の意味で罰にはならないよね。うん、わかった、私、犯されればいいんだ。そうだよ、なんでこんなこと思いつかなかったんだろ──」
「みか──」
「あは、あははっ! ちょっと待ってて! いますぐ男の人に声をかけて──」
「──みかんッ!」
「──っ!!」
立ち上がって、そのまま柚子の横を抜けようとした。その時に腕を掴まれる。
振り解こうとした。それでも手は離れなかった。
「──なんでそうなるのっ! 自分がされたら嫌だってことがわからないのっっ?!」
「わかってるよっ!!」
「わかってない!!」
「わかってるっ!!」
「わかってないっっ!!」
怒鳴り声がすぐ近く。
腕を掴まれたまま、顔はいつまでも合わせられない。
掴んでくる手の力が強くなる。何度も何度も解こうとして、その度に力で押さえつけられる。
そして、壁に押さえつけられた。
「私がそういうことをされたって聞いてどう思った?! 辛い気持ちにならなかった?! 苦しくなかった?!」
「苦しいよっ! 苦しいに決まってるでしょ?! だから私は──」
「──だから、じゃないッ!」
押さえつけられて、腕は解けないままでいる。
眼前から怒声が聞こえる。
そして、聞こえた拍子に──。
「──」
「──」
唇が、重なる。
一瞬だけ熱が伝わって、そして離れる。
「私だって蜜柑が好きっ! 好きなんだよ! それをなに?! 私が汚れたら同じことをするの?! ふざけないでよっ!」
「──」
「同じことをされたら苦しいの! 自分だけの人を他人にとられることは苦しいのっ! それなのに、なんでそんなことをいうの!? なんでそんなことを平気でしようとするの?!」
「……だ、だって、そうしなきゃお姉ちゃんに償え──」
「──そんなの、償いなんかじゃないっ!」
唇が、重なる。
柔らかい感触に包まれて、腕に力が入らなくなる。脱力して、掴まれていた手がするりと抜けて、手のひらに重なる。
手に指がかかる。かさなる。恋人繋ぎで、私の手を離さないようにされる。それが、その温もりがひどく痛い。
「──」
「──すき、すき、すき」
私の中で声がする。すき、と言ってくれる声が聞こえる。
その声は絶え間なく続くように思える心地よさを孕んでいる。けれど、それさえも一瞬で離れて、寂しくなる。
こんなこと、私がされちゃいけないのに。しあわせになっちゃいけないのに。
「はぁ、はぁ」
無理に交わした口付けに吐息が重なる。鼻先をくすぐるように息に震えそうになってしまう。
けれど──。
「……私も、ごめんなさい」
そんな、柚子の声に震えは止まる。
意図を捉えられない言葉に、私はただ呼吸を落ち着かせることしかできない。
「ぜんぶ、全部嘘だよ」
「──」
「蜜柑に、されたら嫌な気持ち、わかってほしかったの」
「──う、そ……?」
「そう、嘘なの」
その言葉を受け取ることができない。
だって、それが嘘なわけがない。
「──嘘だ……」
「これは、本当」
お姉ちゃんは優しいから、そんな嘘を教えてくれてるんだ。きっと、そうに違いない。
だって、そうじゃなきゃおかしい。あんなに詳細に話せるわけがない。
「嘘じゃ、ない」
視線が交わる。
その視線は私を確かに射抜くようにしていて、それだけに視線を逸らしそうになる。優しい嘘を信じたくなる。
「本当に、本当だから」
柚子はそう言いながら、静かにポケットから携帯を取り出した。
□
「……どうしよう」
勢いよくホテルの外を出たはいいものの、それでどうすればいいのか、というのは全く思いついていなかった。
蜜柑にも同じ気持ちを味わわせたい、その気持ちは変わらない。けれど、こうしてホテルに置き去りにするだけでそれができるか、と言われれば難しい。
とりあえず、一旦ホテルの外に出る。ホテルの前では少しの列ができていて、カップルのそれぞれが視界に入る。それを無視しながら、寒さを誤魔化すために最寄りのコンビニへと足を運んでいく。途中、行儀が悪いとはわかって入るけれど、歩きながらスマホに触れて──。
「──え?」
そして、通知画面を覗いた。そして、その通知に声が出てしまった。
『うそ』
『ぜんぶうそでした』
『ごめんなさい』
『おねえちゃん』
『私だけをみてほしくて』
『うそついちゃった』
『ほんとうにぜんぶうそです』
『ほんとうにごめんなさい』
「う、そ……?」
既読はつけないように通知だけに触れながら、ただただ信じたい文面を見て心が揺らぐ。
……けれど。
「……」
私にかまってほしいから、そういう嘘をついたっていうこと? それだけのために、そんな嘘をついたっていうの?
信じたいような、信じられないような。そんな猜疑心。
それはそれとして、それが嘘であったとしても私の憤りについてはおさまらなくて、この感情をどうしてやろうかな、とそんな暴れっぽい気持ちになる。
「……ふーん」
なんとかそんな気持ちを解消するために、いろいろなやり返しを考えてみる。やり返しなんて子どもっぽいし、本当はするべきじゃないんだろうけれど、それでもお灸を据えたい気持ち。
でも。
「どんな嘘をつけばいいんだろう」
私は、蜜柑以外とそういう関係になったことがない。だから、他の人がどういうふうに体を触るのかとか、そういう知識はあんまりない。
もし私が嘘をつくのであれば、それは実体験に基づいてのものになってしまう。そうすれば、蜜柑にも自ずとバレるような気がする。
『へー? 私にやり返したくてそんな嘘ついちゃったんだー?』
そんな微笑を浮かべて揶揄う蜜柑の顔が、瞬時に思い浮かぶ。
「……」
それは、なんか負けたような感覚になるから嫌だ。
でも、嘘をつくとして『他の女の子とえっちした』なんて言っても、やはり信じてもらえる可能性は低い。
……だったら。
「……相談するしかないか」
私は、そうして女バレの先輩に相談することを決めたのだった。
次回、ドチャエロ予定。