【小宮果穂とちょいワル男子のオトナ甘くてコドモ苦い】ぷらすえっくす! 作:形のない者
今日も今日とて芹沢あさひは、街の南側を散策していた。
街角の路地裏に入る。
「────?」
好奇心旺盛な白髪少女は、これまた珍妙なモノを発見した。
────人の指である。
何者かの
指の曲がり方から直感して、おそらく右手。
無彩色たるアスファルトに、冷え切った蒼い爪の指が一本。
何かの拍子に転がった訳でもなく、これ見よがしと置いてある。
「……なんだろ、あれ。指……?」
芹沢あさひは駆け寄る。
よく観察するためしゃがみ込む。
しばらく観察したのち、そっと右手の親指と示指をソレに伸ばす。
よもや掴み取る気なのか。
「……うーん。暗くてよく見えないや」
蒼褪めた示指を持ち上げて瞳の前に持ってきた芹沢あさひは、もっとよく観察するため、陽のあたる場所に持っていこうとする。もっと言えば、黛冬優子に見せに行こうとも考えていた。
立ち上がり、振り返って駆け出す。
────ポトリ。
小さくて柔らかい弾力のある何かが、アスファルトの上を跳ねて転がった微かな音。
もしや何かを落としたのか。
「?」
芹沢あさひは来た道を振り返り地面を見やる。
案の定、指を落としてしまっていた。コロンと転がっている。
すかさず駆け戻り、再び拾うため右手を伸ばす。
────伸ばした右手は存在しなかった。
「……え?」
今度は右腕をハッキリ持ち上げて伸ばす。
だが、目の前にあるはずの右腕は、どこにも存在しなかった。
芹沢あさひの右腕が紛失している。
「? ……? あれ……?」
しばらく脳内でエラーを吐き出していた芹沢あさひは、徐々に事態を突き止めていく。
「……右腕、無くなっちゃった……!」
§
一方その頃。街の北側にて。
黛冬優子は休暇を満喫していた。
(────ふぅ……今日は本当にイイ天気で散歩が楽しいわ、いつもお世話になってる店で新作の激辛料理を食べて大満足だわ、うるさいアイツもいないわで……なかなかの休日じゃない)
ご満悦の黛冬優子は街を歩く。
そこで思わぬ人物と邂逅した。
前方から歩いてくる青年の顔。それには見覚えしかない。
「────っ!」
「…………? おや、これまた奇遇な。おはようございます」
「お、おはよう~! 天道さんも、お散歩ですかぁ~?」
「まぁそんな感じっすね。ではこれで」
「あ、うん……ばいば~い」
二人は会釈してすれ違う。
「────っ?」
頭を下げた天道唯我は、黛冬優子の足元を目にして、強烈な違和感を抱いた。
咄嗟に快晴の青空を見上げる。すぐさま視線を下げて周囲の雑踏を観察する。
通行人のほとんどは、直射日光の逆方向に影が伸びていた。
しかし黛冬優子だけが────
(……おいおい、マジかよ……)
────影が存在しなかった。
ポケットの中からスマホの振動音。
何やら縁を感じ取ってすぐさま手に取る。
芹沢あさひからのチェインだった。
『助けてください。
右腕が無くなりました』 PM 02:34
天道唯我は思わず叫んだ。
「いやどういうことだよォッ!?」
「────っ!?」
突として叫ばれた天道唯我の大声。
ほとんどの通行人は見向きもせず、ただ黛冬優子だけが両肩を飛び上がらせて振り返った。
「よーしコレまた怪異案件だな! 黛さんだけが振り返ったってことはそういうことだ! つまりこれ俺も巻き込まれたクチだな? まず現在時刻は午後14時34分だが、なぜか先輩のチェインの時刻表示は2時の表記になってる、だのに
天道唯我はブツブツと言いながら、最寄りの自販機でスポーツドリンクのペットボトルを購入し、片眉をひそめる黛冬優子の前に立ち寄る。
「黛さん。頭にお水をぶっかけてもよろしいでしょうか?」
「────は?」
「文句があるなら先輩に言ってください。俺だって本当はこういうことやりたくないけどやるしかないんですごめんなさい!」
「っ!? え、ちょ、ま────ッ~~~!!?」
天道唯我は“キュッ!”とフタを開けると、流れるように黛冬優子の頭上にペットボトルを傾けた。
さすがにそれはドン引きと同時に後退する。訳が分からないまま逃げ出すほかない。
(────え、なに!? 頭おかしいの!? 急に……なにすんのよあの子は?!)
「……」
天道唯我は無言の真顔で追いかける。
黛冬優子は身に恐怖を感じて脱兎の如く逃走。
街中で鬼ごっこをする男女。目立たないはずがない。
だというのに通行人のほとんどは、疾走する男女に無関心だった。存在すら認識していない様子。
(な、なにこれ!? ────っ! うそ、前……人だかり!?)
何かのイベントだろうか。
ともかく黛冬優子は急カーブで路地裏に入る。
「ハァ、ハァ……!」
「あの、さすがに人目のつかない場所に入るのは愚策じゃないっすか?」
「っ────」
息せき切る黛冬優子は怒り心頭で振り返る。
「き、急にどうしたのかな~? 天道くん。もう色々と、説明が欲しいんだけど~?」
さすがは黛冬優子。
こんな時でも猫かぶりは絶対にやめない。
「分かりました。俺の経験則だと今からここで“シャドー”が“ボクシング”を始めますので、今しばらく耐えてください。対戦よろしくお願いします」
「────ん~?」
「それと俺の考察が正しい場合、絶対に南下だけは避けてください。南に行けば行くほど影がどんどん強くなって、黛さん、普通に死にますので」
黛冬優子は張り付いた笑顔で、内心眉間をピクピク言わせている。
分かる言葉で話せ、と言いたげだ。
「じゃ、俺はあさひ先輩を助けに行ってきます。……優雅な休日だったのに、よーわからんことに巻き込まれた点は心底同情しますが……ま、それだけ先輩にとって縁深い相手だった、ということで諦めてください。あ、ちなみにこれ、塩分がかなり多めのスポドリなので、めっちゃ汗かいたら飲んでくださいね。物理的に負けることはなくても、脱水症状で死なれては本末転倒なので」
それだけ言って天道唯我は、全力疾走で街を南下していった。
(────…………え? マジでなんだったの……?)
呆然と佇む黛冬優子。
その背後、その足元から────残穢の影が人の形を取って立ち昇る。
「…………、────」
黛冬優子は、なにがなんだか分からないものの、ふしぎと背筋に悪寒が走った。
(────背後に、誰か居る……すぐ、真後ろに……誰か、居る……っ!!)
おそるおそる、振り返っていく。
薄闇の路地裏。その只中に。
黛冬優子ではない“人型の影”が、立体的に屹立していた。
「────────は……?」
刹那、視界が揺れて、肉が破裂するような快音。
あまりにも不意の出来事だったので、黛冬優子は今、自分が平手打ちをされたことに気付かなかった。
ジンジンと痛む頬に手を添えながら、見開いた
人型の影は両腕を八の字に構え、足元のフットワークを軽く、連続ジャブ。
「っ────!?」
咄嗟に顎を引いて躱すも、すぐさま影は追撃を仕掛ける。
そこで黛冬優子は気づいた。殴ってくる影は、自らの足元から伸びている。そのため逃げても意味はない。
これからは、常にゼロ距離の殴り合いが始まる。
これだけ近ければ防御も無意味。
互いにノーガードの応酬となる。
「なん────だってのよぉ────!!?」
路地裏にこだまする困惑と憤りの絶叫。
されど後退は即ち、方角的に南下を意味する。
人影のストレート、黛冬優子の頬を掠めて壁伝いのパイプを粉砕した。
「ひっ────!?」
どうやら人影の命中精度は対象者依存の様子。
黛冬優子は殴り合いなんてしたことがない。ムカつく相手をビンタしたことはあるが、きちんと殴打した経験なんてあるわけがない。格闘技なんて未履修だ。今回はそれが功を奏した。
────南下したら死にますよ。
ふっと脳裏によぎる、先ほどの天道唯我の言葉。
黛冬優子はたたらを踏み、これ以上の後退を避ける。
勇気を以て突撃を敢行した。
(さっきは平手打ちされたと思ったけど、あれってもしかしてジャブだった……?! 南に行くと力が強くなる────ふゆの後ろは太陽の位置からして南側! じゃあ前に進むしかない! ぺちぺち攻撃なら死ぬことはない……!)
いざ人影に体当たり。
次の瞬間、黛冬優子は胴体に衝撃を浴びた。
「ッ……!?」
体当たりは成功し、人影はたたらを踏んだ。
数センチほど北上に成功。だが黛冬優子の肉体は、まるで体当たりされたかのような打撃を受けていた。
(────影は体当たりされたのに痛がってる様子がない────当たり所は胸元だったはず────ふゆも胸元が痛い────つまり、ふゆだけが痛い────影────ふゆ────影はふゆの足元から────つまりふゆの影がふゆを攻撃してる────じゃあ、こういうのって、まさか……! まさか影のダメージは、ふゆといっしょ……? そ、そんなことって────り、理不尽すぎない……!? ざっけんじゃ────)
フックからのアッパー。
ジャブからのストレート。
そんでもってコークスクリュー。
その全てが、黛冬優子の顔面を────“ぺちぺち”と叩いていた。
さながら丸めたティッシュを全力投球で顔面にぶつけられているようなものである。
つまり全然痛くない。だが、わずらわしいものはわずらわしい。
「…………」
ぺちぺち。
ぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺち。
「……………………────────────────」
腕を組んで仁王立つ黛冬優子は、割と早く堪忍袋の緒が切れた。
「────なにアンタ。それで殴ってるつもりなの? シャドーボクシングでもやってるわけ?」
ぺちぺち。
ぺちぺちぺち。
「……って、元から
頭がおかしくなりそうな状況の中、黛冬優子は思ったことを叫んだ。
「いくらシャドーボクシングって言葉があるからってねぇ……。
────シャドー“が”ボクシングやってんじゃないわよぉ……っ!!」
§
黛冬優子、今日のツッコミが炸裂した頃。
天道唯我は、芹沢あさひに送信された位置情報に従って現場に急行した。
「──先輩! 25文字以内で状況を説明してください!」
「落ちてた指を拾ったら右腕が消えてわたしの影も消えた」
「まずなんで拾っちゃったんですぅ────!?」
とんでもない事の始まりに困惑するばかり。
だが説教は後回し────
「いや無理! 後回しにできない!! えっ!? なんで拾ったんすか?! 意味わかんないっす!?!」
「だって気になったから」
「あ゛あ゛これだから猫の命は九つあっても足りないんだぁーっ!!」
「? わたしは人間だよ?」
「なら命は一つなんですからお大事にーっ!」
「……? え……猫って命が九個もあるの? ほんとに!?」
「────とりま怪異の正体を突き止めましょうか……」
天道唯我は色々と諦めた。
すると芹沢あさひは視線を落として呟く。
「────
「!? ……その心は?」
芹沢あさひは推理を披露した。
「ハナワカにチェインを送った時、時刻表記がおかしかった。今は午後なのに午前になってた。あと14時が2時になってた。もし今度の怪異も言霊が重要なら、指と影の言葉遊びで『234』は『ひさし』になる。これを漢字に直すと
芹沢あさひは腕を組んで黙々と熟考。
どうやら推理はそこまで進んでいる様子。
「……そこまで分かっていれば及第点っすよ。ちなみに現在黛さんは
「────え? なんで冬優子ちゃんが出てくるの?」
天道唯我は解説する。
「山陽地方は中国地方の南側にあり、山陰地方は北側にあります。陰陽反転。庇は上にある。目の上のたんこぶってことわざ知ってます? 上に
すなわち。
「────わたしじゃなくて、わたしの上か下にいる人に、攻撃を仕掛けた……?」
「そうなります。あさひ先輩にとって黛冬優子が目の上のたんこぶなのか。それとも黛冬優子にとって芹沢あさひが目の上のたんこぶなのか。そこはどっちでもいいし、割とどうでもいいんです。問題なのは、本人たるあさひ先輩以外を攻撃するその陰湿さだ。……ったく、山陽地方の出身怪異なのに、陰陽としては思いっきり陰の属性っすね、この言霊の怪異は! ……つーわけで、どうします? とりあえず祀っときます?」
「どうやって?」
「そんなもん、ぶちのめして御神体を用意するしかないっすよ。例の指どこにあります?」
「そこに落ちてるよ」
芹沢あさひは左手で指差す。
「指を差す行為は危険なのでやめてください」
「そうなの?」
「本当は目で視るだけでもアウトなんすよ? 認識はイコール干渉っすからね。まぁそれ言ったら何もできないんであまり気にしなくてもいいというか、気にしても仕方ないと言いますか」
芹沢あさひは左手を確認する。
なんと左手の示指が、だんだん透けてきた。半透明である。これも指を差してしまったからだろうか。
「では手順を説明します。まず例の指には絶対に触れず、小箱かなんかの入れ物に収納します。次に名前は絶対に名付けず、ただ庇の怪異、庇の神として祀ることを、庇の怪異と約束する。なお言うこと聞かない場合は一回ぶちのめして言うこと聞かせる。言うこと聞いたら封神完了です。……ね? 簡単でしょ?」
「小箱……そういえばさっき、くじ引きで腰巾着が当たったよ」
「お、ちょうどいいっすネ! 最高の皮肉にもなります! そういうの効果てきめんなんで、じゃんじゃん小馬鹿にして行きましょう! ま、あんまやりすぎると天罰が怖いっすけどネ! ただ皮肉でカウンター喰らわすと弱るのもまた事実……なんせ神様は人の認識を酸素として生きていますからね。臭いもの嗅がせれば弱るのは当然っちゃ当然と言いますか」
「弱るんだ。じゃあ早速やろう! 冬優子ちゃんを助けなきゃ!」
そこで天道唯我は呆れ半分に指摘する。
「まず先輩が指に触れなければ、黛さんは今頃こんな目に遭っていなかった。その点だけは忘れないでくださいね~……反省するように」
「……分かってるよ。早く手伝って。右腕がないから難しい! 左手の感覚もなくなってきた!」
「そのうち全身が透き通って忘却の彼方に消えてしまうと思うんで、ホントこれからは気をつけてくださいね。──
天道唯我は、いつになくドスの効いた低音ボイスで釘を刺した。
しかし二度あることは三度ある。
三度目の正直という言葉を信じたいところだ。
§
路地裏のシャドーとボクシングし始めてから、約三時間が経過。
ペチっとボディーブローをみぞおちに喰らってもノーダメージ。
丸めたティッシュをみぞおちにぶつけられても痛くないのと同じである。
ただし────
「────んっ……んっ……んっ…………ぷはぁっ!」
────黛冬優子は、三度目の口づけで、スポドリのペットボトルをカラにした。
(くっ……なんでこんなにのどが渇くわけ!? そりゃあ三時間も殴り合いをするならのどは渇くでしょうけど、ふゆはただボーッと突っ立ってるだけよ!? たしかに三時間も忙しなくペチペチされてたらイライラして嫌になるけど……っ! 明らかにのどが渇くスピードがおかしい……
ぺちぺちぺち。
ぺちぺち。
(っ……ヤバイ、喉が渇きすぎて、めまいが……あのスポドリ、なんとか飲み干さないよう、一口目から我慢してたけど……もう、のどの渇きが限界で飲み干しちゃった……どうしよう……北上しても路地裏のさらに奥に入っちゃうだけだし、その先に自販機があるとは思えない……それにこの場を離れると、戻ってきた天道唯我に見つけてもらえなくなる可能性も高いし……八方塞がりね。────ハァ……もうイヤになるわ……なんでふゆがこんな目に……? ふゆが何したって言うのよぉ~……!)
ぺちぺち。
ぺちぺちぺちぺち。
「……アンタもアンタで、よくもまぁ意味のない攻撃を飽きもせず繰り返していられるわねぇ……なんか陰険よ? 言葉で勝てないから睨むことしかできない女子って感じがするわ……」
ぺちぺちー。
ぺちぺちぺちぺちー。
「……っ?」(なんか、攻撃の調子が変わった……? もっとイラつく殴り方に変わったっていうか……)「────なに? 今の、もしかしてクリーンヒットだった?」
次の瞬間、人影の拳は、その全てが黛冬優子の目の上を狙い始める。
「わっ! ちょ……! さすがに目はやめなさいよ……!! ────っ? ……いえ、もしかして目じゃなくて、眉毛を狙ってる? なんで……?」
困惑することばかりである。
そして待ちかねた救世主が現れた。
「お待たせしましたー!」
「冬優子ちゃーん! ごめんなさいっすー!」
「っ! あ、あんたたち……!」
天道唯我と芹沢あさひは、それぞれ黛冬優子の両手を取り、人影を置き去りにする速度で路地裏を一直線に駆け抜け、北上する。
「へ────!?」
「先輩! 日没まで時間がないっす! 現在時刻は五時半!」
「急ごう!」
「ちょ、え、なに……!? ま、まって……! 早すぎ……!! ふゆ、そんなに早く走れな────」(あ、あと……っ! のど、渇きすぎて……これ以上の運動は────キツいっ……ヤバイッ……い、意識が、飛ぶ……ッ!!)
されど、それでも急がなければ命に関わる。
今は死に物狂いで走らなければならない。
「庇は雨除けの役割があります! つまり水を除去する! どれだけ飲んでも喉が渇くのはそのせいです!」
「急いで冬優子ちゃん! 陰陽逆転してるなら、影を陽の当たる場所まで連れ出せば元に戻るはず! じゃないとわたし、全身が透明になって死んじゃうんすよー!」
「は────はぁ……!?」
そんなこと急に言われてもいきなり信じることはできない。
しかし既に不思議なことの連続。さらに必死の形相で二人が必死に走ってる中、芹沢あさひが死ぬ、などと言われてしまえば、とりあえず走らなければいけない気概になってくる。
「っ……! あーもうっ!! あとで何があったのかちゃんと聞かせなさい! あさひぃ~っ────!!」
いつもの黛冬優子の怒号が黄昏に響く頃。
三人は薄闇の路地裏を抜け出し、ギリギリ陽の当たる大通りに飛び出した。
黛冬優子の背後に追随していた人影は、燦々たる陽光を浴びるなり震えながら沈んでいく。
やがて地面にベッタリと張り付いた人影は、徐々にその輪郭を元の持ち主の形に戻していき────
────芹沢あさひの右腕もまた、徐々にその姿を透明状態から戻していった。
『────ハァ……ハァ…………』
黛冬優子は両膝に手をついて息せき切る。
芹沢あさひは尻餅を搗いて宵闇の紫空を仰ぎ、九死に一生を得た。
軽く息切れする天道唯我は、腰巾着を取り出して見つめ、帰路に就く。
「今回は影系の怪異だから……おそらく夜になったら記憶が消えるかもしれません」
「────はぁ? ち、ちょっと待ちなさいよ……天道唯我……」
「口調崩れてますよ? いくら緊急事態でも“ふゆ”じゃなくて“冬優子”を出してもいいんすか?」
「っ……み、みず────ほしいん、だけど……ごめんけど……」
「あぁ、なるほど。近くに自販機ないか探してきますね!」
天道唯我はすぐさまスポドリを買いに行こうとする。
そこで芹沢あさひが呼び止めた。
「ハナワカ~! わたしも水ほしい~」
「はいはい……まったく世話の焼ける先輩っすねぇ~」
ハナワカは最寄りの自販機でスポドリを三本買ってくる。
戻ってくる頃には日が暮れていた。
完全な日没である。
黛冬優子と芹沢あさひは、壁際に移動して休憩を取っていた。
「お待たせしましたー」
「……? あ、天道さんだ~♪ こんばんは~! こんなところで奇遇ですね~?」
「──おやおや。やはりというか……あさひ先輩、これは?」
「あのね。さっきまで『何があったのか説明しなさい。ふゆに分かるように!』って、しつこく言われてたから、ちゃんと説明してたのに~。急にこうなっちゃった! なんでだろう?」
「それは俺と先輩に耐性があるからっすね。ま、忘れることは人間の正常な機能なので。それがない俺らの方がむしろ異常なんすよ。こればっかは仕方ないっすネ! ────というわけで、スポドリどうぞ」
「……? ──え、いいんですか~!? 実は、ちょうど、なぜか……すっごく! 喉が渇いていてぇ~……本当に助かりました~! ありがとうございます~♪」
「いえいえ。では俺はこれで。──先輩。本当に反省してくださいね?」
「分かったって! ……あと、また助けてくれてありがとね、ハナワカ!」
芹沢あさひは笑顔で感謝する。
その表情を目にした天道唯我は、既に反省の色を忘れていることを読んでしまった。
「……やれやれ」(ある意味ではその忘却も、子供らしい正常な機能なのか……? いやそんな莫迦な……)
「ねぇハナワカ。その腰巾着、どうするの?」
「近くの寺社にでも奉納しますよ~」
ごくごくと。
一口でスポドリを飲み干した天道唯我は、呆れ笑いで帰路に就く。
一方、黛冬優子と芹沢あさひも水分補給を済ませて、それぞれの家路に就くのであった。
今日も平穏無事に帰宅する。
その当たり前の幸福を、それぞれ無意識に噛み締めながら。
§