【小宮果穂とちょいワル男子のオトナ甘くてコドモ苦い】ぷらすえっくす! 作:形のない者
午前八時頃。
喉が渇いたいろはちゃんは、床に置いてある水入りペットボトルを掴む。
「なまえなんだっけ?」
「ワフ?」
「まめまる?」
「ワンッ!」
「……こまった。なにいってんのかわかんない。おまえいぬのひとか?」
「ワフ……」
それはともかく、いろはちゃんはサバイバルを始めた。
余計な体力は使えない。少し歩いただけで疲れるのだ。
小宮果穂が持ってきた旅行かばんをあさる。下敷きを発見。四つん這いになって食卓の椅子の下に入る。頭を少しずつ上げていく。ごつんと椅子の底面に当たる。おすもうさんのように四股を踏んで持ち上げる。
「んんっ……!」
全力を振り絞って、微かに浮いた椅子。その片脚に下敷きを滑り込ませる。その後、カバンの中をあさる。小宮果穂の着替えを発見。同じように椅子を持ち上げて脚の下に挟む。あとは椅子をズルズルと引っ張っていく。下敷きと洋服のおかげで、それなりによく滑る。そして、廊下の扉を開けるだけでひと苦労。椅子をズルズルと引きずっていく。リビングと廊下の境界線に当たる部分に、なぞの出っ張りがある。一センチの出っ張りだ。それは
「まめまる、ぶっこわせ!」
「ワフッ!?」
マメ丸は命令を無視する。ならば仕方がない。
ぜえぜえと息を吐くいろはちゃんは小休憩。台所に向かう。首を直角に曲げる。水飲み場が高すぎる。これは本当に困った。椅子は玄関に持っていきたいため、今ここでわざわざ来た道を戻って台所に持ってくる労力を払いたくない。それに台所が深い場合、落ちたら二度と上がってこられないかもしれない。リスクヘッジは大切だ。
「…………」
椅子を倒したら、沓摺りは越えられるかもしれない。その代わり二度と椅子を立ち上げることはできない。玄関口に向かう。鍵は二つある。自分の背の高さと椅子の高さを考えるに、一番上の鍵を回すためには、椅子は立っている必要がある。しかしジャンプすればギリギリ届きそうな予感はある。
「……………………」
いろはちゃんの視線は、吸い込まれるように────マメ丸に向けられた。
「……ワフ?」
いろはちゃんはリビングに戻って旅行かばんを漁る。たしか昨日は、小宮果穂はマメ丸にリードを付けていた。いつ外したのかは知らない。でも近くにあるはず。探していると、ようやく赤いリードを発見した。マメ丸の首に取り付けたいが、取り付け方が分からない。だが正規の方法で取り付ける必要もない。首を絞めるように回せばいいだけだ。
「ワ……ワフッ!?」
「だいじょぶだいじょぶ」
いろはちゃんは、マメ丸の首にリードを絡ませる。
そしてリードを引っ張り、すぐにはほどけないことを確認する。
「こっちこっち」
椅子の脚にリードを結びたい。結び方が分からない。仕方ないのでぐるぐると巻く。最後の先端はギュッと握る。
「……わすれもの」
いろはちゃんはリビングに戻って旅行かばんを漁る。
リコーダーを発見。馬を叩くムチとして持っていく。
「ワ……ワフ……?」
いろはちゃんは椅子の下で四股を踏む。着座部分の底面に頭を押し当てて持ち上げる。左手にはリード。右手にはリコーダー。次の瞬間、いろはちゃんは冗談交じりで言ってのけた。
「はしれ。たたくぞ」
「ワンッ!?」
いろはちゃんはリコーダーを“コンコンゴンゴン”と床に叩きつける。
マメ丸は、徐々に強まっていく音に驚いて逃げようとする。なんてやつだ。まさか脅しているのか。
「がおー!」
「……!!」
いろはちゃんが思いっきりリコーダーを振るった。しかし腕力がないため床に“ゴンッ”という程度の音が鳴る。だがマメ丸からすれば恐怖以外のなにものでもない。いろはちゃんから逃げるため走り出す。しかしリードが椅子の脚に絡まっていて距離を置けない。綱引きが始まる。すると椅子が傾き始めた。倒れるとまずい。いろはちゃんは頭突きする勢いでジャンプした。すると、いろはちゃんの頭突きを受けた椅子はかすかに浮かび上がり、一センチの沓摺りをうまいこと突破────できなかった。残り三十センチ足りないところで横転。
ガランガラン────と甲高い音を立てて、椅子は倒れてしまった。
倒れた椅子は奇跡的に、いろはちゃんとマメ丸には当たらず、ガランガランと転がり滑る。
「わお……まぁいっか!」
「ワフ……」
うまくいかなかったが、それならそれで先に進み、今の状態のままで次のやり方を考えて先に進むだけだ。
いろはちゃんはリコーダーを捨てると、怯えるマメ丸の頭を撫でて「ごめんね」と言う。
「よくやった。だがまだはたらけ」
「ワフ!?」
いろはちゃんはリードを引っ張って椅子を引きずる。
マメ丸もそのお手伝いをする。
やがて玄関口に辿り着いた。上がり框から椅子が落ちて、大理石に傷が付く。
「あーあー……まぁいっか!」
叱られるかもしれないが、その場合はペットボトルのキャップを緩めてくれなかった小宮果穂が悪いと言えばいい。理論武装は完璧だ。それに子供なら大抵のことは許される。……許されない時もある。だがそれに怯えていては何もできない。
玄関扉に椅子が接触。ようやくここまできた。いろはちゃんは不安定な椅子をよじ登る。かなりのバランス感覚が要求されることを悟る。落ちたら頭を打って痛いかもしれない。断念。リビングに戻って、小宮果穂の着替えや毛布などをありったけ持ってくる。椅子の周りに敷き詰める。これなら落ちてもふわふわで大丈夫だ。リスクヘッジは大事である。世の中は用意周到なやつが勝利するのだ。誰かが言ってた。
「ワンワン!」
いろはちゃんは椅子をよじ登る。マメ丸は心配そうに見上げて、うつむきながらその場をくるくると回り続けて、また見上げる。そして吠える。
「ワンッ!」
「うるさい」
「ワフ……」
「だいじょぶだいじょぶ」
「ワンッ!」
大丈夫ではないから
いろはちゃんは手を伸ばす。下の方の鍵は開けられた。上の方の鍵は届かない。やはりジャンプすればギリギリ届く気配。ただしチャンスは一回だけかも。着地に失敗したら落ちてしまう。そしたらまた登ればいいだけだが、それを繰り返していたら疲れ切ってしまう。一発で成功させなければ。さもなくばドアを開けることに成功したところで、外を出歩く元気がなくなる。一回お昼寝が必要だ。でも喉が渇いている。寝られるわけがない。
「────ほっ!」
ジャンプ。上の方の鍵をつまむ。粒みたいなロック部分をつまんで回す。成功。着地。足を踏み外して落下。
「ワンッ!?」
ぼふっ、ごつん、と毛布の上に、頭から落下した。
いろはちゃんは頭をさすりながら、でんぐり返しで起き上がる。
「……もうふあってよかった」
「ワフッ!?」(いま明らかに“ごつん”って音が鳴りましたけど!?)
いろはちゃんは涙目になりながら椅子に登り、落っこちる恐怖と戦いながら、縦に長いドアノブを押す。
「んー……!」
びくともしない。これは困った。もう体力が限界だ。ムカついてきた。一計を案じる。
「…………」
リコーダーで扉を叩き続けてみる。反応なし。
扉はムカつく生き物だ。なぜ自分の邪魔をするのか。いつもいつもどこでも自分だけ。コイツは自分に何か恨みでもあるのか。家の中が涼しくて外が暑くなると、余計に開かなくなるのも困りものだ。
「……────」
閃いたいろはちゃんは椅子を降りて台所に戻る。エアコンのリモコンを探す。テレビ台の横に置いてあった。安堵する。絶体絶命かと思った。エアコンはすでに付いている。涼しい風が吹いている。赤いボタンを押す。暑いのが吹いてきた。さて、これは時間との勝負だ。部屋が暑くなってからすぐ脱出しなければ、蒸し暑い部屋に取り残される。
それなら再び冷房をつければいいだけの話だが、その発想は今のいろはちゃんには無かった。一発勝負の覚悟がガン決まりである。
リコーダーを持って椅子の上に登る。部屋があったまるまでイメージトレーニング。なぜ、あったまるとドアの力が弱くなるのかは分からないが……経験則というものは馬鹿にならない。やる価値はあるだろう。ドアノブに突撃。扉が開く。最悪なのは、開いた扉が自動的に閉じてきて、自分が挟まれることにある。こうなると何もできなくなる。外廊下に誰かが通りかからないとジ・エンド。果穂が帰ってくるまでの間、苦しむことになる。まぁそのときは寝て過ごすしかない。なんとかなるだろう。……などといろはちゃんは楽観的に考える。
さて、いろはちゃんの理想は、ドアを開きっぱなしにすること。
そして、ペットボトルとマメ丸を外に持っていくこと。
「……」
温風が背中に届いてきた。そろそろ勝負の時間だ。決着を付けよう、にっくき
「にゃー!」
体当たり。ドアノブを頭と胸と腕で押し込む。足腰に力を入れる。椅子がどんどん後ろに滑っていく。
────ガ……チャ…………
あともうひと押し。
いろはちゃんは最後の力を振り絞って飛び込んだ。
────チャリ…………
いろはちゃんは椅子の先端から落下する。
「ワンワンッ!!」
予想通り、回避行動を取る暇さえなく、いろはちゃんの体はドアに挟み込まれた。だからこそリコーダーを持っていたのだ。リコーダーでドアの挟み込みをガードする。リコーダーごと挟まれて胸が苦しい。息ができない。なんとかジリジリと体をくねらせて、リコーダーを生贄にすることで脱出成功。玄関口に退却。ドアと壁の間にリコーダーを置くことで、ドアは開けっ放しとなった。理想通りだ。
「どうだ! いろはちゃんてんさいだろ!」
「ワンッ!!」
「わかればよろしい。これでおとうさんをびっくりさせてわらわせてきた。でもおかあさんにはおこられるからやらない。とくにおとうさんがわらってるのをおこられる。なぜか」
「ワフ?」(そうなの?)
息子が危険なことをしているのに、父親はそれを見て大笑いして「いろはは天才だなー!?」と褒め称えるのだ。
母親は再発防止のため、父と息子をまとめて「なに考えてんの!?」と叱り飛ばすのは当然といえよう。
ともあれ目的は達成した。旅行かばんを漁る。黄色い小さなポーチを発見。これなら三歳児の体格に合う。どうせすぐ紛失するため、ちゃんと中にあるものを捨てておき、ポーチの中に水入りペットボトルを入れる。そしてマメ丸のリードを片手に持つ。
リコーダーが最後の砦となってくれて、ドアを開けてくれている。椅子さんはご苦労。敬礼する。毛布と洋服もよくやった。撫でておく。リコーダーが開けっ放しにしてくれた隙間から、ドアを押し込みきれず圧迫されながらも、狭い間隙を力押しで抜けていく。が、途中で力尽きる。
「ハァ、ハァ……ちかれた……はさまれながら、おやすみ……」
五分ほどドアに挟まれながら小休憩。
圧迫されているためか、なぜか全身から汗がにじみ出てきたので、それを利用してヌルヌルと脱出する。
「まえまるー」
もはや疲れすぎて滑舌が回らない。
するとマメ丸は、いともたやすく、するりとリコーダーが開けてくれている隙間を通ってきた。それを目にしたいろはちゃんは逆ギレする。
「なんでっ!!」
「ワフッ!?」
自分はこれだけ苦労したというのに。マメ丸は簡単に抜けてきた。
この謎の気持ち、どうしてくれようか。
「…………まぁいっか……」
「……ワフ」
不満という名の未練を微かに残しつつ、「いやよくない!」と地団駄を踏む。踏んだら楽になった。物に当たるのはよくない。地面をなでて謝る。
外廊下を歩く。見上げると青空。エレベーターの前に到着。当然ボタンは届かない。階段を使う。一段ずつ降りていく。一段から二段が自分の身長の半分くらいだ。一段降りるだけで大変である。何回も椅子を昇り降りするようなものだ。まったくやってられない。おかげで体が鍛えられる。
しかし父親が言うには、もっと年を取らないと運動は筋肉にならないのだとか。困ったものだ。ならば今やっている努力は全て徒労に終わるということ。生きているのが嫌になってくる。さっさと筋肉をつけさせてくれと、自分の体に怒りが沸いてくる。
どのくらい降りたか忘れた頃。やっと終点に到着。エントランスロビーを通って外に出る。おそらく元に戻ることは不可能だろう。試しに来た道を戻り、透明な扉の前に立つと、やはり扉は開かない。仕方がない。
「あ。トイレ……」
まずい。少し急ぎ足で走り出す。通りすがりの人達から視線が集まる。
おまわりさんを呼ばれると面倒だ。
「はじめてのおつかいしてるの!」
目が合った大人に、大声で嘘をつく。
こうすると見守ってくれる。いろはちゃんにとって、邪魔者を協力者に変えるのは朝飯前だ。
公園を発見。トイレに駆け込む。和式便所じゃないと落っこちる心配がある。すでに洋式トイレでは一敗済み。つまり落っこちたことがある。家の中だから助かった。目の前で見守っていた父親がすぐに助け出してくれた。まったく恥ずかしい話である。
「ふぅ!」
スッキリ。
そしていろはちゃんは────ハッ! と気づく。公園の水道を見つけたのだ。しかし蛇口まであと数センチのところで手が届かない。怒りが沸いてくる。
「このやろ~……」
「ワフ……」
マメ丸は純粋に思った。幼い子供というのは苦労人だ。まさかここまで頑張っても水場にたどり着けないとは。やはり子供というのは守るべき存在である。必ず支える人が常に必要だ。かといって、やろうと思えばここまでひとりでやり遂げる能力があるため、あまり過保護すぎず、さりとて軽く手助けする程度が良いのだろう。
「んー……」
いろはちゃんは公園を見渡す。
ハトにえさやりをしているおじさんを発見。
「おじさ! これあけてくださー!」
「ん? おぉ、いいよ!」
おじさんは、キュッ! とキャップを開けてくれた。
ペットボトルを受け取ったいろはちゃんは、ごくごくと飲んでいく。
「わはは! いい飲みっぷりだね! そんなにのどかわいてたんだ?」
いろはちゃんは口の端から水をこぼしまくりながら、こくこくとうなずく。
「お母さんとかお父さんは?」
「ぷはっ……おつかいちゅーだから、いない!」
「そうかそうか! がんばってね!」
「ありがとう! いいひとだった!」
かくしていろはちゃんは、ペットボトルのフタを軽く締めて、命の恩人たるおじさんに手を振り、いざマメ丸と大冒険に繰り出した。
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