※この作品はR-18です。

【小宮果穂とちょいワル男子のオトナ甘くてコドモ苦い】ぷらすえっくす!   作:形のない者

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sSR【ママ達はアイドル!】283

 

 休日の朝方。

 283事務所のリビング。

 

 L字型ソファの上では大崎甜花が横になって眠っており、四人が座れる広さの大部分を占めていた。テレビと向かい合う位置には園田智代子が静かに座っており、大量のお菓子を頬張っている。

 

 ふと廊下側の扉が開く。

 

「たのも~」

「ワンッ!」

 

 いろはちゃんとマメ丸が入ってきた。

 今日からプロデューサーと小宮果穂は一泊二日の地方ロケに行くため、その間は283が預かることになっている。

 

 園田智代子は小声で挨拶。

 

「わぁ~! いろはちゃん、マメ丸、おはよう!」

「おはようござまさー!」

「ワンワン!」

「あ、でも声は静かにね……! 寝ている子がいるから……っ」

「んー?」

 

 マメ丸はソファ横の絨毯の上で丸くなり、しばし休憩。

 いろはちゃんはソファの空いてる部分によじ登る。右側にある綺麗な脚。その上に視線をやると、胎児のように丸くなって眠っているお姉さん。ヨダレを垂らしている。

 

「ねてるね~?」

 

 納得したいろはちゃんは、左側に座るお菓子頬張りお姉さんに、首をかしげて小声で返す。

 

「でしょ?」(うっ……! 一挙一動が可愛すぎる……!! 目もくりっとしてて……とにかくかわいい……!! これは、反則……!)「──だからお姉ちゃんと、静かに過ごしてよっか! あ、お菓子食べる?」

「いらなーい」

「え、そう? 遠慮しなくてもいいんだよ~?」

「いろは、おかしあまりすきじゃなーい」

「────え゛っ゛!? そ、そうなの~……!?」

 

 お菓子が好きじゃない子供とは、これまた珍しい。

 しかし人の味覚は人それぞれ。そういう子もいるに決まっている。園田智代子はうんうんとうなずいた。

 

「じゃあ……何が好き?」

「なんでも~」

「あれ~? でも、お菓子は苦手なんだよね?」

「うん! ぴりからとか~。ほねなしさかなとか~、ジューシーとか~」

「あ~! お肉やお魚系が好きなのかな? それなら今は手持ちにないや……噛めば噛むほど味が出るスルメなジャーキーのお菓子でもあればよかったんだけど……ごめんねっ」

「? いいよ~!」

 

 何かを恵んでやりたかった園田智代子は、眉の下がった笑顔で微笑みかけた。

 その申し訳なさそうな表情を見たいろはちゃんは、何を思ったかハイハイして、園田智代子の膝の上に登る。

 

「うぇっ!? なになに? どうしたの……?」

 

 園田智代子の膝の上に座ったいろはちゃんは、座卓に置いてあるお菓子の袋に手を伸ばすも、これがなかなか届かない。

 

「……────」

「おかしとって~」

「! じゃあ何がいいかな……?」

「なんでも~」

 

 ならばと園田智代子は、様々な味の中から、甘さ控えめのコーヒー味ビスケットの袋を取ってあげる。お菓子があまり好きじゃないということは、もしや甘いものが苦手なのかもと考えてのことだ。

 いろはちゃんは袋をビリビリに破くと、お菓子のかけらをこぼさないように、なるべく気をつけて食べ始めた。美味しいのか、もきゅもきゅと食べ進める。

 

(…………もしかしてだけど、私……こんなちっちゃな子に、気を遣われちゃった……?!)

 

 園田智代子は、なんだかそんな気がしてならない。いろはちゃんはお菓子は好きじゃないと言ったのに、園田智代子の顔をじっと見るなり要求してきた。何を考えているのだろうか。まだまだ小さいように見えて、実は意外と人のことを見ているのか。

 

「────……う~ん……あれ? 今、何時……?」

 

 大崎甜花が起床する。

 

「あ、甜花ちゃん! 起こしちゃった? ごめんね……!」

「? ううん……園田さん、いたの、気づかなかった……、……えと、おはよう……」

「うん! おはよう甜花ちゃん!」

 

 いろはちゃんも挨拶したいが、今は口の中にお菓子があるため喋ることができない。

 大崎甜花といろはちゃんの視線がピッタリと合う。

 

「──あ……えと……」

「…………────」ごっくんと飲み込んだいろはちゃんは、元気よく手を挙げて挨拶した。「いろはちゃん! さんさい!」

「……お、大崎、甜花……17、歳……」

 

 その時、園田智代子は大変重大なことに気づいた。

 

「────はっ! しまった! 私、まだいろはちゃんと自己紹介してない! ごめんね、いろはちゃん! 私は園田智代子と言います! みんなからは気軽に“チョコ”って呼ばれてるよ!」

「お~……じゃあねー。えっとねー……」

 

 いろはちゃんは腕を組んで首をかしげて、何かを一生懸命に考える。

 

「そのた」

「ううん。そのだ!」

「そのたおおぜい」

「!?」

「ちょこせんぱ」

「!!」

「どっちがいーい?」

 

 “園田”からの連想で“その他”さらに知っている言葉を連想して“その他大勢”……悪意は一切ないのであろうが、自らの没個性に少々迷走していた時期のある園田智代子にとって、そのようなあだ名は勘弁願いたい。

 

「では……“ちょこせんぱ”の方で、よろしくお頼み申し上げます……!」

「ちょこせんぱはねー。かほがねー。よくいうからねー!」

「あー! やっぱりそうだったんだ~?」

「でねー」

 

 いろはちゃんの顔が、今度は大崎甜花に向く。

 

「おーさき」

「……!」

「おーおかさばき」

『!!?』

「てんか」

「……」

「どっちがいい~?」

 

 大岡裁きという言葉はどこで覚えてきたのか。

 その言葉の意味を知らない大崎甜花は、とりあえず後者の方でお願いした。

 

「て、甜花は……その中だと……“てんか”が、いいな……?」

「てんかー!」

「にへへ……なーに……?」

 

 特に用件は無いようで、元気に呼んだだけのようす。

 笑顔のいろはちゃんは、ふいにじーっと、大崎甜花の顔を見つめ始める。

 

 一方の大崎甜花はあくびが出た。スマホで時刻を確認。まだレッスン室が空くまで時間がある。テレビ台からコントローラーを取り出してゲーム開始。ピコピコとゲーム音が鳴る。

 園田智代子の膝の上から降りたいろはちゃんは、ソファの上をハイハイと移動していき、大崎甜花のとなりで通行止めを喰らう。もっと近くでテレビを見たいが、大崎甜花の背中が邪魔をする。ならばとソファの外に身を乗り出して、テレビ画面を覗こうとした。

 園田智代子は、なんとなく嫌な予感がして、無意識に腰が浮く。すぐ駆けつけられるように体が立ち上がろうとする。

 

 その時、ソファの座席の端っこを掴んでいたいろはちゃんの左手が、ツルッと滑った。

 

「────あぶないっ! ひゃあああ!?」

 

 園田智代子の悲鳴が上がる。マメ丸は驚いて頭を上げた。

 ソファから転げ落ちたいろはちゃんは、絨毯の上で横たわる。

 同じく驚いて振り返った大崎甜花は、足元で目をつむるいろはちゃんを見下ろして、思考が一瞬止まり、慌てふためいた。

 

「いろはちゃん、大丈夫!?」

「ワンッ?!」

「すべった~。だいじょぶだいじょぶ~」

「──!?! わ、わ……!?」

 

 マメ丸は座卓の下を潜って駆けつける。いろはちゃんの顔を嗅いで安否を確認。特に怪我はないようでホッとする。同じく園田智代子も駆けつけて、いろはちゃんの体を抱き上げた。大崎甜花は右往左往としながらコントローラーを置いて、いろはちゃんのことを気にかける。

 

「い、今のは怖かった~……! 机に頭とかをぶつけなくて本当によかったよ~!」

「う、うん……!」

「いろはちゃん、ごめんね~……っ! もう少し早く、私が気づいて動けていれば……!」

「て、甜花も……ぜんぜん……気づけて、なくて……!」

 

 園田智代子は、しっかりといろはちゃんを抱っこしてソファに落ち着く。

 大崎甜花は、彼女が子守をしてくれるなら安全だと安心して、ゲームに戻る。

 

「いろはもゲーム~」

「え……いろはちゃんも、甜花とゲーム、したいの……?」

「うん! そこにおすわりしたい~」

 

 いろはちゃんは、最もテレビに近いソファの座席部分を指さす。

 

「あ、それじゃあ園田お姉ちゃんとそこに座ろうか?」

「え……あう……でも、そうすると……甜花、画面が、見えづらくになる……」

「ハッ! たしかに……! どうしよう……──あ、それなら甜花ちゃん……ひとつ提案があるのですが……」

「?」

「まず、いろはちゃんは誰かが抱っこしていないと、ソファから落っこちる危険があります……」

「……! うん……」

 

「いろはもうおちないよー!」

 

「なので、甜花ちゃんが、いろはちゃんを抱っこしながらゲームをするというのは、どうでしょうか……?」

「……!!」

「もちろん、抱っこしながらゲームするのは難しいかもですが。でも……いろはちゃんの身長なら、甜花ちゃんの前に座っていても画面は見えるだろうけど……そうなると────」

「……また、いろはちゃんが……落っこちるかも、しれない……!」

 

「いろはもうおちないよ~?」

 

 いろはちゃんは二度も同じ失敗はしないと抗議してくるが、それでも283アイドル達はいろはちゃんの安全を預かっている身の上。つまり監督責任というものがある。なのでそのあたりはきちんとしなければ、と思う園田智代子であった。

 

「甜花……いいよ……! だっこしたまま、ゲーム、する……!」

「ほんと? ありがとう! じゃあ……いろはちゃんを、甜花ちゃんに預けます……!」

「て、甜花……園田さんから、あずかった……っ!! 甜花、ちゃんと、面倒、見る……!」

 

 園田智代子と大崎甜花は、抱っこされているいろはちゃんの受け渡しを完了する。

 

「んー。いろはもーおちないってば~」

 

          §

 

 いろはちゃんは、すべすべしたカーディガンの暖かい柔らかさと、なんともほにゃっとした大崎甜花の肉感に包まれながら、三歳児のおててには大きすぎるコントローラーを持って、いっしょけんめい操作する。

 

 正直いろはちゃんは、ゲーム画面で今、何がどうなっているのか、まったく理解しきれていない。それでもなんとなくで楽しんでいる。よくわからないところは、どんどん大崎甜花の動かすキャラクターが突破していく。なんなら普通に置いていかれているまである。

 

 そのようすを見守っていた園田智代子は内心おどろいていた。

 

(て、甜花ちゃん……手心が、ない……!)

 

 ゲーム内容は、協力型のダンジョン攻略ゲーム。各プレイヤーは、通路の障害物となる岩石などを怪力で押したり、砕いたり、植物エネミーを居合い切りで切り倒したり、水辺は波乗りで移動したり、様々な難所を突破していくゲーム。

 単純な十字キーでの移動もままならないいろはちゃんは立ち往生や右往左往するばかり。ダンジョンには時間制限があるため、大崎甜花はずんずんと先に進んでいく。そしてゲーム画面の焦点は、1Pである大崎甜花が主導権を握っている。そのため大崎甜花が先に進めば進むほど、2Pのいろはちゃんは画面端に追いやられていき────画面外に出ると倒された判定でゲームオーバー。すぐにシャボン玉となってふわふわとゲーム画面を浮かんでいき、大崎甜花のキャラクターに触れると復活する。それを何回、何十回、何百回と繰り返している。

 

 園田智代子は心配そうに問いかけた。

 

「えっと……いろはちゃん。そのゲーム、楽しい……?」

「うんー!」

「にへへ……いろはちゃん、ゲーム下手だから……ダンジョン攻略は、甜花に任せて……!」

 

 本人達が楽しいのであればそれで良し。

 そもそも三歳児に、まともなゲーム操作を要求するのは、まだ早かったようす。

 

 ちなみにプレイヤーが動かすキャラクターには、5文字まで名前を入力することができる。大崎甜花のキャラ名は『てんか』だが、いろはちゃんのキャラ名は『あああああ』だった。

 

          §

 

 昼前。

 事務所のリビングソファ。

 

 大崎甜花はレッスン室に向かい、園田智代子は予定があるのか外に出かけた。

 そしてレッスン終わりのイルミネが、入れ違いで事務所に戻ってくる。

 

「た、ただいま、戻りました……っ!」

「いろはちゃんの子守を、智代子さんと甜花さんから引き継いできた、イルミネ子守隊です……!」

「いーろはちゃーん! どこにいるのかなぁ~?」

 

 リビングを見渡しても、いろはちゃんの姿が見えない。

 デスクワークに集中していた七草はづきは、いろはちゃんを捜すため、大声でマメ丸を呼びかける。

 

「マメ丸さ~ん?」

『────────ワオ~ン!』

 

 会議室の方から遠吠えが響き渡る。

 

「あら~? トイレに行ってから、なかなか戻ってこないと思っていたら~。すみません、イルミネのみなさん。どうやらいろはちゃんは会議室にいるようなので、お迎えに行ってあげてください~」

『はーい!』

 

 八宮めぐるが人一倍元気な声で応える。

 イルミネの三人が会議室に入ると、そこには探索をしていたいろはちゃんと、近くに寄り添うマメ丸がいた。

 

「? だれだうぬらは」

 

 いきなり謎の三人が登場してきた。いろはちゃんは首をひねる。

 櫻木真乃と風野灯織は少し緊張しているようすだが、無邪気な八宮めぐるは屈み込んで視線の高さを合わせ、瞳を輝かせる。

 

「わぁ~……! かわいいな~? かわいいなぁ……! ね、ぎゅう~ってしていい!?」

「んー。いろはなぜかにんきもの」

「そりゃあ人気者だよ~! だってこんなにかわいいんだもーん! 摩美々のボンボンをぽふぽふしてた動画もすーーーーっごく、かわいかったしっ! あんなの見たら、みんなメロメロになっちゃうって~!」

「? ──ぎゅうっなら、やさしくならいいよ~!」

「ほんと!? ありがと~! もちろん優しくするっ!」

 

 いろはちゃんは、さぁ来るなら来いと言いたげに両手を広げる。

 対する八宮めぐるは、飛び込まん勢いでハグした。もちもちなほっぺに自分のほっぺをすりすりして抱き寄せる。

 

「ぎゅ~~~~~~っ!」

「んー……まんだむー」

 

 常に両目を閉じているいろはちゃんは、何やら悩ましそうに不服そう。

 それを見て取った風野灯織が注意する。

 

「め、めぐる……そろそろ、そのへんで……なんか、ちょっと嫌がってない……?」

「え────そう? もしかして、ムリさせちゃったかな? ごめんね……!!」

「んー……────だっこはすきー。ぎゅっはうれしー。でもくるしいのきらーい。でもいまのあたたかいからすきー」

「! ありがとう……! じゃあじゃあ、真乃や灯織にも、ぎゅっ! ってしてもらいたい?」

「おすきにどうぞ~。どりんくばーはむりょーでーす」

『……! ──あはは!』

 

 まさかの言葉選びにおかしみを抱いて破顔。

 いろはちゃんは両手を広げてハグを待つが、櫻木真乃と風野灯織は遠慮がちにもじもじする。

 

「でも、私はいいよ……」

「えー? 灯織もぎゅうってしたそうだったけどー?」

「そ、それは……! ……そう、だけど……」

 

 そこで櫻木真乃が先陣を切った。というより、興奮気味の八宮めぐると、緊張気味の風野灯織が忘れていることを、櫻木真乃は実行する。スカートをまとめて膝立ちとなり、にこっと微笑んでご挨拶。

 

「こ、こんにちは……! 私は、櫻木真乃ですっ。よろしくね、いろはちゃん! むんっ」

「こんにはー! いろはちゃん! さんさい! よろしくー! むん!」

「ふふっ……!」

 

 櫻木真乃は頭を撫でる。

 いろはちゃんは、へにゃっとした笑顔を見せてきた。撫でられてとても嬉しそう。

 

「っ……!!」

 

 何やら動揺する風野灯織は、いろはちゃんの横にそそくさと座り込み、一旦自分の胸を抑えて深呼吸。キッと両目を見開いて、首をかしげるいろはちゃんと見つめ合う。

 

「わ、私は、風野灯織……よろしくね、いろはちゃん……!」

「よろしくー!」

 

 風野灯織は、おそるおそる手を伸ばす。

 すると、眼前のお姉さんの言動に見覚えがあるのか。いろはちゃんは、やれやれと言いたげに演技を始めた。

 

「そんないぬねこじゃないんだからー」 

『……!!?』

「がうっ!」

「わぁ……!?」

「にゃー!」

「────っ!!」

 

 犬のように吠えて驚かせたいろはちゃんは、予想より驚いてくれたことが嬉しくて面白くなってきたのか、今度は猫のように飛びかかって、風野灯織の膝の上に飛び込んだ。しかしそれは飛びかかったというより、着地に失敗して、ほぼこけたようなもの。風野灯織はあたふたする。

 するといろはちゃんは顔だけ上げて、風野灯織の顔を見上げ────にこっと微笑んだ。

 

「……────」

 

 風野灯織は、いろはちゃんの頭をそっと撫でる。

 

「にゃ~?」

「──! ふふ……たしかに……そんな、犬や猫じゃないんだから……」

 

 きちんと子供の面倒を見ることができるのか。そればかり気にして緊張していた。普段なら子供相手で、ここまで緊張することもないはず。いろはちゃんのおふざけで緊張がほぐれた風野灯織は、その体を抱き上げてしっかりと立たせる。

 

「わたしもわたしも~! 挨拶が遅れてごめんね! わたしは八宮めぐる!」

「よろしくー!」

 

 八宮めぐるは頭を撫で回す。

 いろはちゃんはくすぐったそうに笑い、屈んで回ってくるりと逃げて、三人に振り返る。

 

「じゃーねー?」

 

 いろはちゃんは首をかしげて考える。

 

『……?』

 

 三人はお互いの顔を見合わせて、いったいどうしたのだろうと待ち受ける。

 

「そっちはね~」いろはちゃんは櫻木真乃を見ながら言う。「ひけん・さくらぎり!」

『……!?』

「まの!」

「!」

「まのちゃん!」

「……!」

「どっちがいい~?」

 

 呼び方を問われた櫻木真乃は、おずおずとしつつ「ま……“まのちゃん”……?」と応える。

 

「じゃあまのちゃん! たまにま(・)の(・)ね! ──じゃーねー」

「──……えっ。今度は私……!?」

「かざぐるま!」

「え?」

「ひおちゃん!」

「!」

「どっちがいいですーか?」

 

 ならばと風野灯織は、割と真剣に考え込み────

 

「……悩むけど、ひおちゃんで……!」

「ひおちゃんてっつい。きょっこーわはんてんする。ひかりをのめ。えくすかりばーもるがあーん!」

「────え……???」

「でねー?」

 

 今のはいったいなんなのか。なんだかゲームに出てきそうなカッコいい台詞だった。

 大崎甜花に聞けば、今のがなんなのか分かるのだろうか。

 よもや誰も、ちょうど十年前のゲームのセリフとは思うまい。

 

「次はわたし!? わくわく……!」

「はちみつやさん!」

「わぁ……! ぶんぶ~ん! ミツバチのめぐるだよ~?」

「めぐー!」

「お~!」

「どっちがいいっ?」

「う~ん……悩むなぁ……でも────やっぱり“めぐる”って呼んでほしいかな?」

「めぐー!」

「それもいいけど~!」

「きまり!」

 

 まのちゃん。ひおちゃん。めぐー。

 呼び方を決めたいろはちゃんは満足そうに、ふんすと鼻息を鳴らす。そして流れるように自然と、八宮めぐるの膝の上に座り込む。

 

「わぁ……! ねぇねぇいろはちゃん! 一回だけでいいから、わたしの名前、きちんと呼んでみて?」

「めぐー」

「めぐー“る”っだよー!」

「……めぐー」

「えー? 言ってほしいなぁ~? めぐ“る”~って!」

「やだー!」

「えー!! なんで~……? しゅん……」

「…………」

 

 いろはちゃんはあごをしゃくりあげて黙り込む。口をつぐんだつもりのようだ。

 八宮めぐるは少し落ち込んだようす。無理強いはできないため黙り込む。

 櫻木真乃と風野灯織は、どうしたものかと見つめ合った。

 

 やがて、いろはちゃんが重い口が開く。

 

「……────めぐりゅ」

「!! ──噛んだ!」

「かんでない!!」

「大丈夫だよ! もう一回チャレンジしてみよう!」

「んー!」

「あれー? だめー……?」

「……────めぐりュ……めぐー!」

 

 いろはちゃんは挑戦してみるが、無理そうだと判断したのか、あだ名呼びに戻ってしまう。

 すると風野灯織が、こういう事態も想定して育児本を読んでいたのか。冷静に分析を始めた。

 

「もしかして、まだ舌足らずなのかも……たとえば、ら行がうまく言えないとか……」

「ほわっ……なるほど……灯織ちゃん……すごいね……!」

「そっか~舌足らず! だから噛んじゃったのか~!」

「かんでない!」

「えっ。そんな、真乃、めぐる……このくらい、別にすごくないよ……。──それに、やっぱり違うのかも……」

『……?』

 

 風野灯織は考察を始める。

 

「舌足らずというか……それもあるかもだけど……なんか、いろはちゃんは、言葉の途中や最後の発音を端折(はしょ)る傾向があるよね……。たとえば“どちらさ(ま)ですかー?”とか、さっきは“こんに(ち)はー”とか……」

「おめがたかい」

「えっ」

 

 いろはちゃんの合いの手。

 それに惑わされず、風野灯織は考察を続ける。

 

「ほわっ……たしかに……」

「ほんとだー! なんでだろー……?」

「分からないけど……いろはちゃん、さっき明らかに噛んじゃったのに『噛んでない』って言い張ってるし……もしかして、舌足らずのせいで噛んじゃうのを恥ずかしがって……噛むのを避けるために、わざとそういう言い回しをしている、とか……? ──か、考えすぎかな……?」

 

 いろはちゃんは両目を閉じて「すー……」と息を吸い込ながら天を仰ぐ。やがて観念したのか降参するように、ぐったりとうなだれて床の上に寝そべる。そしてさながら、拗(す)ねすぎて死んでしまった人間のように「ぐでーっ」と仰向けになった。

 

「ひおちゃんきらーい」

「────っっッ!!?!」

 

 突として風野灯織は──さるピアノ楽曲の重低音で──脳天を殴られたような衝撃を受ける。

 あわあわと泡を吹かんばかりに青ざめて、ひおひおと涙目になり、がーんと絶望。

 

「────めぐーりゅ」

『──……!!』

「めぐー……りゅ!」

「……!」

「めぐー────」

 

 三人は思わず息を呑む。

 噛むのは恥ずかしいはずなのに、彼女のために頑張ってくれている。邪魔しないよう、三人は内心で応援する。ぐっと体に力が入る。

 

「────るっ!」

「ほ、ほわっ……!」

「い、言えた……!」

「わ、わぁ~……! ありがとう~! いろはちゃ~ん! わたし、うれしいよぉ~~~!! 頑張ってくれて、本当にありがとねぇ~!!」

「いろはがんばったー!」

 

 だから遊べ。早く抱っこしろ。

 そう言いたげに、いろはちゃんは両手を天に広げるよう伸ばす。

 

 すかさず八宮めぐるは「よっこいしょ……!」と抱き上げて、うまいこと腕の中にすっぽり収まるように、いろはちゃんを腕の上に座らせた。

 

「よーし! それじゃあお姉ちゃんたちと、いっぱいあそぼー! マメ丸も、こっちおいでー!」

「おー!」

「ワフ!」

 

          §

 

 正午。お昼ご飯の時間。

 風野灯織は台所で、三歳児用のお弁当を作っていた。そのあいだ櫻木真乃と八宮めぐるがいろはちゃんと遊び、時に八宮めぐるが脱走を防いで、時に櫻木真乃がスマホで絵本の読み聞かせをする。

 

 特徴的な声色を有する櫻木真乃の読み聞かせ。

 うとうとするいろはちゃんは、閉じかかるまぶたの重みと戦い始める。

 

 やがて爆睡。

 いろはちゃんと八宮めぐるは眠ってしまった。互いに肩を寄せ合って健やかな寝息を立てている。

 

 その少し後。

 風野灯織が台所から出てきた。

 

「ふたりとも、いろはちゃんのお昼ご飯ができたよ……って、真乃、これは……?」

「ふふっ……ふたりとも、おやすみしちゃった……」

 

 ひと通りのデスクワークを済ませた七草はづきは、デスクチェアの上でうんと背伸び。スマホを手に取って回り込み、ふたりの寝顔姿をパシャリと写真に収める。

 

「ふふ……ふたりとも、かわいいですね~。いろはちゃんは顔が映っているから、ツイスタには上げられそうにありませんね~」

「はづきさん。……そうですね……なにか方法は……」

「ほわ……アイコンで、顔を隠すのとかは……?」

「あ、それはいいアイデアですね~。プロデューサーさんに聞いてみます~」

 

 七草はづきは休憩のため台所の冷蔵庫に向かう。水分補給である。

 一方の風野灯織は、せっかく作ったお弁当をどうしようか悩んでいた。

 

「うーん。起こすのも悪い気がするし……でも食べるのが遅れたら、夕飯に響くかもしれないし……」

「ほわ……じゃあ、心を鬼にして……!」

「え、えぇ~……で、でも、そうだよね……そうするしか、ないよね……うぅ、また嫌われるのが、怖い……!」

「だ、大丈夫だよ、灯織ちゃん……! いろはちゃん、本当はとってもやさしいから……!」

 

 その時、廊下側から──四人分のまとまった──足音が響く。

 扉を開けて入ってきた顔ぶれは、ノクチルだった。

 

「うぃーっす……あー、涼しいわ~。中」

「おはようございます。外は残暑ですね」

「ぴゃ……」

「今日は子供を預かる日だって聞いたので、遊びに来ちゃいました~!」

 

 櫻木真乃と風野灯織は、慌てて人差し指を口元に当てる。

 

『し────しぃ~……!』

『……??』

 

 福丸小糸はリビングに入った時点で、いろはちゃんと八宮めぐるの寝ている姿を見つけていた。

 樋口円香は押し黙る。浅倉透と市川雛菜は、互いに目配せして小声となった。

 

「あー……おひるねの時間だったか~」

「そっか~。……でも寝顔もかわいいかも~! 見れてラッキ~!」

 

 いきなり増えた人の気配。

 ぴくりと反応したいろはちゃんは、寝ぼけ眼で頭をフラフラと揺らし、目をこすって辺りを見渡す。

 

「ぴぇっ……」

 

 せっかく気持ちよさそうに眠っていたのに、ノクチルが騒がしくしてしまって起こしてしまった。

 焦る福丸小糸は、ぼのぼの汗を流す。

 

 いろはちゃんは室内に漂う良い香りを嗅ぐ。これは母親がお弁当を作る時の匂いである。

 

「おなかすいたー」

「……! あ、えっと……私、いろはちゃんのためにお弁当を作っていたんだけど……食べる?」

「たべるー」

 

 まだほんの少し眠いのか、スローでダウナーなテンションのいろはちゃんは、ソファから降りて絨毯に膝立ち。すると顔の位置と座卓の高さがちょうど良くなる。

 風野灯織は、テレビの前かついろはちゃんの右隣に正座。いろはちゃん用の食器とスプーンとストロー入りのコップを用意。自分用の箸も用意して置いておく。その箸を使って、お弁当箱から少しずつ食べ物を分け与える形式を取るつもりのようだ。

 

「んー?」

 

 しかしいろはちゃんは、風野灯織のもとにあるお弁当箱を持ち上げて、自分の前に持ってくる。さらにお箸も奪い取る。

 

「あっ……いろはちゃん?」

 

 フタを開けて「いただきまーす!」と言い、器用に箸を使ってもぐもぐと食べ始める。

 それを見た風野灯織はびっくりした。

 

「え……お箸、使えるんだ……器用なんだね……?」

「いろはおはしできるよー! じゃんけんもできるよー!」

 

 育児本では、じゃんけんのチョキが出せるようになれば、箸の練習のはじめどきと書いてあった。おそらくいろはちゃんの両親は、そのあたりのことをきちんと承知して教えていたのだろう。つまるところ、親の育て方と本人の育ちが良い。

 

「でもねー。つるつるはねー。すべるからねー。────かきこむ!」

「えぇっ!?」

 

 瑞々しいにんじんやじゃがいもといった野菜は、箸で掴もうとしてもツルツルと滑ってなかなか挟めない。挟むことができても口に持っていく途中で落ちてしまう。食器の底が浅いならば、口までの距離が近いため落ちる前に食べることもできる。しかしどんぶりのように底が深めだと、口との距離が遠いため食べる前に落ちてしまう。そこでいろはちゃんは勇ましくもかきこんだ。

 

「の、のどに詰まっちゃうかもしれないから、あまり口の中にいっぱい入れないでね……!」

 

 口の中いっぱいに食べ物をかきこんだいろはちゃんは、風野灯織の注意にこくこくとうなずく。

 それは分かった上でうなずいているのか、どうなのか。ともあれよく噛んでから飲み込んでいるようなので、最初は焦った風野灯織はホッとしつつ、しかし油断はできないため──キッと目つきを鋭くして──様子を見守る。

 

「あは~! ほっぺた膨らんでる~! リスみた~い!」

「よいしょー」

 

 浅倉透は、櫻木真乃の眼前かつ、いろはちゃんの左隣に座る。コンビニで買ってきた袋を提げており、座卓の上に置いてゴソゴソとパン類を取り出す。そして、何やら奇抜なサンドイッチやメロンパンを取り出して、櫻木真乃に手渡した。

 

「食べる? 真乃ちゃん」

「ほわっ……うんっ! お昼、まだだったから……ありがとう、透ちゃん……!」

 

 浅倉透の背後のソファに、樋口円香と福丸小糸が着席する。すると浅倉透は振り返ることなく、後ろのふたりに「うぇーい」と腕だけ伸ばし、アンパンを手渡した。

 

「────って違うし。私はサンドイッチ」

「──……と、透ちゃん……私も、サンドイッチ、だよ……!」

「あれ……そうだった? ごめんごめん」

「透せんぱーい! 雛菜はお弁当~! ちょうだ~い!」

 

 浅倉透は「へーい」と言いながら、それぞれに希望通りの食べ物を手渡す。

 新発売のコンビニ弁当を受け取った市川雛菜は、レンジで温めるため台所に向かった。そこで七草はづきと顔を合わせて挨拶する。

 

 黙々と昼食を済ませる樋口円香と福丸小糸。

 そこで樋口円香が、近くの櫻木真乃に話しかけた。

 

「これだけ騒がしくしてしまっているのに、八宮さん、全然起きませんね」

「ほわっ……そうだね、円香ちゃん……!」

 

 ふいに浅倉透は、風野灯織に問いかける。

 

「風野さん。なに食べる?」

「────えっ?!」

「でも。もう、サンドイッチしか残ってないけど。しかも、同じの」

「あ……か、構いません。ありがとうございます……! ……でも、本当に良いので……?」

「あー、うん。なんか、余ったから。買いすぎた。新発売、多かったから」

「な、なるほど……では、いただきます……!」

「……あ。あと、八宮さんのも選んで」

「……でも、同じサンドイッチしかないんですよね?」

「いえす」

 

 風野灯織は、八宮めぐるの分も合わせて、何やら奇抜なサンドイッチをもらう。

 

「──えっ……野菜とケーキのサンドイッチ……?」

「レタスにさ。チョコとホイップクリーム乗ってるの。なんかさ、まずそうじゃない?」

「……えっと……? ────わざわざ、まずそうなのを買ったんですか……?」

「まーまー。食べるからさ。私たちも、お試しに」

 

 風野灯織は、困ったように視線を上げて────浅倉透の頭上でもっきもっきゅと“野菜とケーキのサンドイッチ”を頬張る、樋口円香を見やる。

 すると樋口円香は、真顔でサムズアップした。

 

「大丈夫。普通にまずかった」

「え……」

「物は試し。あなたはおいしく感じるかもしれない」

「……そ、そうでしょうか……?」

 

 台所から“チン!”と音が鳴る。市川雛菜はあったかいお弁当を持ってきて、いろはちゃんと向かい合う位置に座り、コンビニの割り箸を割って「いただきま~す!」と食べ始める。フタを開けるとモワッとした香りが室内に広がり、ジューシーな匂いが食欲をそそる。

 

「それでぇ? みんな~。そのサンドイッチ、おいしかった~?」

「ん~……まずまず」

「私は合わない。パン生地も薄いし、これは食物繊維と糖分を同時に取りたい人向け」

「わ、私も、かな……?」

「やは~! やっぱり~! 雛菜だけ無難なお弁当で良かった~!」

 

 我が道を行く市川雛菜は、そこそこ美味しいコンビニ弁当に舌鼓を打つ。

 その時、八宮めぐるの嗅覚が反応した。

 

「────ハッ! なんか美味しそうな匂い!」

「あは~。八宮さん、やっと起きた~!」

「……? えーなになにっ!? わたし、いつの間に寝ちゃったのー!? え、みんな、もしかして、お昼ご飯中……? なんで起こしてくれなかったの~! 真乃~灯織~!」

 

「ほ、ほわ……! ご、ごめんね……めぐるちゃん……! とっても心地よさそうに寝ていたから……!」

「ごめん、めぐる……でも私は、いろはちゃんの食事を見守る任務があったから……果穂からも、のどを詰まらせないように見張っておくことを頼まれていたし……」

「でもでもー! 起こすことくらいはできたでしょー?」

 

 地団駄を踏む八宮めぐる。

 そこで風野灯織が奇抜なサンドイッチを手渡す。

 

「めぐる。これで機嫌を直して。ノクチルからの差し入れサンドイッチ……」

「? ……わーなにこれ! 見たことない! ありがとーノクチル!」

 

 さっそく八宮めぐるは食べてみる。ぱくりと一口。シャキシャキした食感の後に、ほっぺをとろかすようなクリームの甘さが口の中に広がる。

 

「ん~! これおいしいね!」

『────!?』

 

 樋口円香と福丸小糸は、信じられないものを見る目で硬直する。

 一方、櫻木真乃は、どこか安堵した様子でつぶやいた。

 

「め……めぐるちゃんも、おいしいんだ……?」

「うん! あ、真乃も同じの食べてるー! あ、みんなもだ! えへへー。おそろいだねー!」

 

 ノクチルの舌には合わないが、イルミネの舌には合うらしい。

 しかし風野灯織と市川雛菜は、まだそれを食べていない。かたやいろはちゃんの見守りに必死で、かたや無難なコンビニ弁当を食べている。

 

「……真乃とめぐるは、美味しく感じるんだ……」

「へ~? ……なら雛菜も挑戦してみる~! 透先輩、ちょっとちょうだ~い!」

 

 風野灯織はサンドイッチの封を切って、先に一口、食べてみる。

 浅倉透はちぎったサンドイッチを「うぇー」と差し出し、市川雛菜の口に突っ込んだ。

 

「────うっ……これは……なかなか、挑戦的な……」

「ん~? あれれ~? 雛菜、これ結構いけるかも~?」

 

 青ざめる風野灯織。

 もうひとつ浅倉透から貰おうとする市川雛菜。

 

 その様子を見比べた樋口円香は冗談を言う。

 

「じゃあ風野さんと雛菜、チェンジで」

「ぴゃ……!?」

「あー。うまい組とまずい組かー」

「へ~? じゃあ雛菜、イルミネの子になっちゃうの~?」

 

「ほわっ……!」

「えー!?」

「そ、それは、その……!」

 

 真に受けるイルミネ一同。

 樋口円香は念を押す。

 

「……あくまで冗談ですので」

「ぴゃ……」

「黄色信号が二つ……デンジャーな真乃ちゃんか~……」

「透先輩、なに言ってるの~?」

 

 その時、ごくごくと水を飲み干したいろはちゃんは、両手を叩いて元気よく言った。

 

「ごちそうさまでしたー!」

「……! ──はい。お粗末さまでした……!」

「? おそまつさまー?」

「え? えっと……お粗末さまっていうのは、どういたしまして? の謙遜……みたいな意味で……」

「おなかすいたー」

「!?」

 

 まさか量が足りないと言いたいのか。

 風野灯織はあたふたする。

 

「えっと、ごめんね……もう食材がなくて……」

「あは~! じゃあいろはちゃーん。雛菜のお弁当、少し分けてあげよっか~?」

「いいのー?」

「あ、ありがとうございます、市川さん……!」

「じゃーねー。いらないものでいいよ~」

「へ~? じゃあ、この漬物あげちゃう~!」

「……えぇ!? た、食べられるかな……? いろはちゃん、大丈夫……?」

「たくあん?」

「そうだよ~。はい、あ~ん! よく噛んでね~? 固いから~」

 

 そこで樋口円香がさらりと忠告する。

 

「添加物とか、着色料とか、あと塩分も多いだろうから、あまり上げすぎないようにね」

「は~い! 円香先輩詳しい~。もしかしてきちんと調べた~?」

「別に……」

 

 市川雛菜の箸がたくあんを運ぶ。机に身を乗り出したいろはちゃんは、それをぱくりと食べた。

 もぐもぐと力強く噛んでいる。なかなか噛み切れないようで、長いこともぐもぐとしている。

 

「あは~♡ ほっぺが風船みたいでかわいい~!」

 

 一分くらいは噛み続けていただろうか。

 ようやくいろはちゃんは、ごっくんと飲み込めた。

 

「はごたえばっちり。たしかなまんぞく」

「よかったね~?」

「つぎはたいしょーのいちおしでたのむ」

「え~? なんか雛菜、板前さんになったみた~い! 雛菜の一押しはね~……これかな? エビフライ!」

「むらさきはどこかな?」

「しょうゆのこと~? ちょっと待っててね~!」

 

 いろはちゃんはもって回った言い回しをする。

 福丸小糸は(高いお寿司屋さんに行ったことがあるのかな……?)と考察していた。

 市川雛菜はコンビニ弁当に付属している醤油入れ(ランチャーム)の醤油(しょうゆ)をエビフライの先端に掛けてから、いろはちゃんの口に箸で運ぶ。

 

「はい、あ~ん♡」

 

 市川雛菜はエビフライの先端だけを上げるつもりで渡す。そのため少し引き気味に──いろはちゃんの口から少し離れた位置まで──持っていく。

 するといろはちゃんは、ぐぐいっと身を乗り出してかぶりつき、エビフライの身の半分を口の中に入れてしまった。

 

「────!! あ~~~っ! 雛菜のエビフライがぁ~~~!」

「? はんぶんこ?」

「半分こじゃな~い……先っちょだけのはずだったのに~!」

 

 それを聞いた樋口円香は苦言を呈する。

 

「……相手は子供なんだから、もう少し太っ腹になれば?」

「む~……じゃあ円香先輩が食べてるサンドイッチ、半分こしてあげれば~?」

「…………」

 

 樋口円香は呆れのため息をつく。

 いつものことだが、とことん図々しい女である。

 

「いろはちゃんには、もう雛菜のあげな~い!」

「ぴゃ……雛菜ちゃん……っ!」

「んー?」

 

 いろはちゃんは首をかしげる。どうやら悪いことをしてしまったようだ。

 すると浅倉透が自分のサンドイッチをちぎって、いろはちゃんに差し出した。

 

「食べる?」

「! たべるー!」

 

          §

 

 昼過ぎの事務所リビング。

 食後のソファでは、いろはちゃんを抱きしめる市川雛菜が座っていた。

 

「あは~♡ いろはちゃんのほっぺぷにぷに~!」

「ぷに~?」

 

 ほっぺをもてあそばれるいろはちゃん。

 市川雛菜はエビフライの件で機嫌を損ねたのかと思いきや、それとこれとは別件なのか、今はいろはちゃんと仲良くしている。

 

 その移り変わりに納得しかねる福丸小糸と樋口円香は、ひたすら怪訝そうに見守っていた。

 

「……雛菜ちゃん、もういろはちゃんと仲直りしてる……円香ちゃん、あれどういうことか分かる?」

「全然。……私にもわからん」

 

 それはイルミネも同様だった。

 櫻木真乃と八宮めぐるはエビフライの言い合いから少し心配そうに見守っており、風野灯織は(私の準備不足のせいで市川さんといろはちゃんが……!!)と自らを責めていたが、どうも要らぬ心配だったようす。

 

 そして浅倉透はどこへ行ったのか。

 ふと三階から物音。まさか倉庫にいるのか。しばらくすると降りてきて、廊下側の扉が開かれる。

 

「おーい」

 

 カスタネットを持った浅倉透が参上した。

 

「なかったわ、ベースギター」

「あるわけないでしょ」

「で、でも……カスタネットは、あ、あったんだね……!」

「うん。じゃ、小糸ちゃん。ゴー」

 

 浅倉透は、福丸小糸の手の上にカスタネットを置く。

 

「……──ぴぇっ!? な、なんで……わたしが……!?」

「忘れたから。カスタネットの打ち方」

「うそでしょ……」

「そ、そうだよ……! さ、さすがに、うそだって、わかるよ……! ……う、うそなん、だよね……っ?!」

 

 何やら騒がしい扉近くのソファ。そこに目を向けたいろはちゃんは、福丸小糸が手に持つカスタネットを発見する。

 

「! カスタネットー!」

「……ぴゃ……っ」

「おっとっと~?」

 

 いろはちゃんは、それを求めるように両手両足を伸ばす。市川雛菜が支えていなければ、そのまま前に転げ落ちてしまいそうだった。

 福丸小糸は周囲を一瞥する。台所では風野灯織が弁当箱を洗っており、台所とリビングの境界線では八宮めぐると櫻木真乃が様子を見ている。樋口円香と浅倉透は我関せずの構え。緊張のあまり吐き気がしそうになるが、福丸小糸はいろはちゃんのために、一歩足を踏み出した。

 

「──…………いっ、いろは、ちゃん……わ、わたしと、カスタネット、で、あそぶ……?」

「? うん! それかしてー!」

「え、あっ、う、うん……! つ、使い方、わ、わかる、かな……?」

 

 ふと八宮めぐるが目を輝かせながら叫んだ。

 

「カスタネットで游ぶなら、音楽も必要だよねっ!?」

「ピェェ────」

「……とりなの?」

 

 いろはちゃんは、福丸小糸の鳴き声について最初から気になっていたことを、ついに言ってしまった。

 しかし三歳児の意味不明な発言は流す節があるのか。樋口円香はスマホを操作して、単調なリズムが続く音楽を流す。

 

「こんなものでどうでしょう」

「わぁ……! いいねー! リズムがハッキリしてるから、いろはちゃん打ちやすいんじゃないかなー?」

 

 いろはちゃんと福丸小糸はカスタネットを装備する。

 

 いろはちゃんは、じっと目の前に座る福丸小糸の顔面を注視している。

 対する福丸小糸は、なぜそうも見つめてくるのか不安でたまらず、失敗は許されないと覚悟を決める。

 

「じ、じゃあ、いくよ……! わたしの打ち方を真似て、打ってね……!」

「うん!」

「……せ────せー、のっ……!」

 

 ポップな音楽と甲高い旋律。

 ささやかな音楽会が始まった。

 

 リズムに乗る福丸小糸は、全身を右に揺らして一回たたき、今度は左に揺らして一回たたく。そのたびにツインテールがはしゃぐように揺れていく。

 その髪の束の動きに目を惹かれるいろはちゃんも、右に揺れて一回たたき、左に揺れて一回たたき、テンションが上がってきたのか歌いだす。

 

「うん、たん! うん、たん!」

『────っ!!?』

 

 いろはちゃんは覚えている。それは初めてカスタネットをもらった時のことだ。

 全身を左右に揺さぶりつつ、このように言いながら打ってみてほしい、と懇願されたことがある。そして言われた通りにしたら、なぜかは知らないものの黄色い歓声が湧き上がった。

 大人はよくわからぬ。ただ、なにかのおもちゃにされたことは、なんとなくわかろうもの。しかし、それでみんなが喜んでくれるなら、それはそれとして嬉しいことではある。ならば、何度でもやってみせてやろう。

 

 一方の福丸小糸は、少々戸惑っていた。

 

「う……うん、たん?」

「うん、たん!」

「うん……たん!」

「うん、たん!」

「……! えへへ……うん、たん!」

 

 最初は戸惑いを見せていた福丸小糸だが、だんだん楽しくなってきたのか笑顔になっていき、いろはちゃんと共に『うん、たん!!』と呼吸を合わせて合唱する。

 その可愛さダブルの演奏会に、思わず櫻木真乃と八宮めぐるは花咲く笑顔。市川雛菜も、ふたりに合わせて体を左右に揺らす。

 一方の浅倉透は、樋口円香がかざすスマホを覗き込んで、新たなスマホの機能を知った。

 

「へー。音楽流してんのに、動画撮れるんだ」

「バッググラウンド再生してるだけ」

「あー……なるほど?」

 

 何もよく分かっていない浅倉透。

 無言で録画に執心する樋口円香。

 

 その様子を遠巻きに見守る七草はづきは、微笑みながらデスクワークを再開した。

 

          §

 

 夕方。

 事務所のリビングソファ。

 

 イルミネはレッスンの時間となったため外出。

 いろはちゃんはノクチルが預かることに。

 

 その間にいろはちゃんは何かを思い出したのか、玄関口でイルミネと別れてリビングに戻ってきたノクチルを見るなり問いかける。

 

「ねーねー! みんなのおなまえはー?」

『────!』

 

 いろはちゃんとノクチルは目をぱちくりとさせる。

 

「そっ……そういえば、名乗ってなかったね……!」

「あー。名乗る者でもないー」

「私も。ただの通りすがり」

「じゃあ雛菜も~!」

「ひななー?」

 

 市川雛菜はしまったという顔で「あ~!」と叫び、口元を開いた手で隠す。

 

「バレたか~! 雛菜はね~。市川雛菜だよ~!」

「じゃーねー。あのねー!」

「ん~? なに~?」

「いっぽんがわ」

『……!?』

「いっぽんのかわ」

「……? 何が言いたいの~?」

「ひなちゃん」

『……!』

「ななちゃ」

『!』

「どれがいいー?」

 

 いろはちゃん恒例のあだ名決め大会が始まった。

 市川雛菜は唇の下に指を当てて、割と真剣に「う~んとね~」と思い悩む。

 

 そこで福丸小糸が仲間に問いかけた。

 

「……い、いっぽんがわって、どこから来たんだろうね……?」

「え? ……1の川だからでしょ?」

「えぇ……!? あ、そ、そういう、感じ……? 透ちゃん、よくわかったね……!」

 

 樋口円香は「子供の連想なんてそんなもんでしょ」とツッコむ。

 

「う~ん……ひなちゃんも可愛いけど、ななちゃもいいな~!」

「……もう“いっぽんがわ雛菜”で良くない?」

「円香先輩は静かにしてて~? そんなお笑い芸人みたいな名前、雛菜は嫌~」

 

 浅倉透は何かにツボったのか「ふふ……いっぽんがわひなな……」とつぶやく。

 

「へ~!? や~だ~! 透先輩、それはダメ~! 論外~!!」

 

 一方のいろはちゃんは「?」と首をかしげていた。

 

「そっちはだーれ?」

「──……ぴゃっ……!? わ、わたし……? あ、えっと、その……ふ、福丸、小糸、です……」

「ふくまる。まめまる?」

「!? ち、ちがうっ……よっ!!」

「じゃーねー。ふくまる!」

「!!?」

「こいと! どっちがいーい?」

「…………」(────え? それ、あだ名になってる……? もしかして、わたし……なんか、なめられてる……?!)

 

 福丸小糸は訝しんだ。

 

「じゃあ……ふくちゃん?」

「!」

「まるちゃん」

「!!」

「まるちゃんせい○ん」

「それはやめて!?」

 

 福丸小糸は慌てふためいて制止する。

 するといろはちゃんの興味が別の人に移った。

 

「そっちはー? あかいまのちゃん?」

「──……は?」

 

 樋口円香は眉をしかめた。

 浅倉透は思わず吹き出す。

 

「……樋口円香」

「でぐち」

「“ひ”。“で”じゃない。樋口」

「でぐちゃん」

「樋口(ひぐち)」

「あかいろのまの」

「円香」

「あかいろのまのちゃん」

「円香」

「まどちゃん」

「……」

「どかどかちゃん」

「…………」

「どっちー?」

 

 樋口円香は深呼吸する。

 相手は三歳児だ。高校生として、この程度のことで、動揺、するわけにはいかない。

 となりで笑いをこらえている浅倉透と、思いっきり笑っている市川雛菜は、完全に無視する。

 

「じゃあ────どかどかちゃんで」

「浅倉。勝手に決めないで。叩くよ」

「どかどかー?」

「そう、どかどかー」

「違う。やめて。……消去法だけど、まどちゃんでよろしく」

「まどちゃんー!」

「あー。まどちゃんになったかー」

「……」

 

 樋口円香は内心安堵する。

 もしこの三歳児が、浅倉透のおふざけか冗談か区別のつかないことを真に受けて、これから樋口円香を“どかどかちゃん”と呼ぶようなら────いろはちゃんとの接触を一切断つ可能性も少なからずあった。まったく綱渡りの命名である。恐ろしい事この上ない。

 

「雛菜と小糸ちゃんは決まった?」

「うーん。ふつうに雛菜って呼ぶのはダメ~?」

「いいよー! たぶんねー!」

「たぶんかー」

「たぶんなの~?」

 

 続いて福丸小糸が、勇気を出して応える。

 

「わ、わたしは……好きに呼んで、いいよ……!」

「わかったー!」

 

 そして浅倉透は腕まくりをする。

 

「よーし。最後は私だー」

「おなまえはー?」

「浅倉透でーす」

「あしゅ・さくらぎり!」

「おー。……なんか、あれだね。難しい言葉、知ってるね」

「とおちゃん」

「あー……」

「いろはのおとうさんとおなじなまえ?」

「え、そうなの?」

「おとうさんのなまえはみんなおとうさん」

 

 福丸小糸は何かを察して「そ、それは、そうだけど……名前じゃあ無いと思うよ!?」と訂正しておく。

 

「? そうなのー? じゃあ、おかあさんもー?」

「う、うん……! たぶん……! 本当の名前が、別にあるよ……!!」

「あー、そうなのかー」

 

「あー、なるほどー。お父さんお母さんを名前だと思ってたのかー。小糸ちゃん、よく気づいたね」

 

 いろはちゃんは、なんとなく気になっていたことを知ることができて、少し嬉しい気分になる。思えば両親は、知らない人と話す時、知らない名前で呼ばれる時がある。つまり、それが本当の名前ということなのだろうか。もしかしたら初めて知ったかもしれない。

 そして浅倉透も合点がいき、褒められた福丸小糸は「それほどでもないけど……」と言いながら、えっへんと胸を張る。

 

「それで? それだけ? いろはちゃん」

「うーん……あさくらー」

「そう、私はあさくらー」

「……あさいし、くらいから……────きみはどうりにくらいようだね」

『────!!?』

 

 たびたび出てくる、いろはちゃんの芝居がかった言い回し。

 単純に覚えている言葉と近い語感を選んで口に出しているだけなのだろうが、その選出はちょっと危険だ。危険極まりない。

 

「そうなの?」

「────あさはかといういみだよわとすんくん」

『……??!』

「? えっと……ごめん、どういう意味か分かんないや」

「いろはもー!」

 

 ────バカの上を行くバカ。という意味である。

 さらに言えば“道理に暗い”と“浅はか”を知らない時点で、もはや言うに及ばず。否、その単語くらいは知っているだろう。しかし知っている事と、期せずして罵倒された事が繋がらず気づかない時点で、やはり言うに及ばず。

 

 そして気づいてしまった三人は、各々の反応を見せていた。

 樋口円香は小刻みに震えながら天を仰ぐ。吹き出すのをなんとかこらえている。

 市川雛菜は驚いた表情も束の間、にっこりとしたまま知らぬ存ぜぬを突き通す。

 福丸小糸は青ざめた顔で目を見張り、ぼのぼの汗を滝のように流しながら硬直。

 

「あとねー。るーちゃん!」

「おー。るーちゃんかー。それは新鮮だ~」

「おーちゃん?」

「ふふ。まさかの真ん中かー」

「あっ! さくらだ! ふぁみりあ! とかー?」

「あー……それ知ってるよ。あの、あれ……なんだっけ……そう、怪盗のやつ」

 

 福丸小糸が「スペインのだよ!? あと“桜のダ”じゃなくて“サグラのダ”ね!?」とツッコむ。

 

「どっちがいいー?」

「うーん。悩む」

「悩むな。ひとつしかないでしょ」

「あは~!」

「と、透ちゃん……!」

 

 浅倉透は熟考の末、決定した。

 

「あさくらーで」

「きざ○らー!」

「それはやめたほうがいいと思うよ!?」

「えー? じゃあ、るーちゃん?」

「るーちゃんー!」

「……!」(ホッ……)

 

 福丸小糸は安堵する。なんとか無難なものに落ち着いた。

 ふと廊下側から二つの足音。誰かが入ってくる。

 

「おはようございます。桑山千雪でーす。寮組代表として、いろはちゃんのお迎えに来たんですけど……」

「有栖川夏葉よ! プロデューサーに代わって、私が事務所から寮まで送迎するわ!」

「あ。こんちゃっす。こっちです」

「わぁ。ノクチルのみんな……! いろはちゃんと遊んでくれていたのね? ありがとう~!」

「素晴らしいわね! どんなことをしていたのかしら?」

「あー……あだ名を決めてました」

「あだ名……!」

「へぇ……面白そうじゃない! いろはちゃんとの親睦を深めるためにも、私たちも参加していいかしら!」

 

 福丸小糸は端に寄る。

 樋口円香と市川雛菜は席を譲ろうとするが、桑山千雪と有栖川夏葉はすぐに出ることになるからと感謝して遠慮する。

 いろはちゃんと浅倉透は座卓を囲み、絨毯に座っていた。そこに桑山千雪がお邪魔して、有栖川夏葉は佇立して見守る。

 

「こんばんは、いろはちゃん。私は桑山千雪です!」

「私は有栖川夏葉よ! よろしくね!」

「いろはちゃん! さんさい!」

「わぁ……自己紹介がお上手ね?」

「それに元気がいいわ。将来が楽しみね!」

「あだなほしいの?」

「あ、うん! その前に、ひとつ大事な話があるの。いいかな?」

 

 いろはちゃんは首をかしげる。

 

「今日は、いろはちゃん。果穂ちゃんから、何か言われてない?」

「…………えっとねー。あのねー。……なんだっけ?」

「あら、忘れちゃったかな? あのね、きっとお泊まり会があるって、言われてたと思うんだけど……」

「! おとまり! りょうでおとまり!」

「! そうなの! よく覚えてたね! それでね? 今夜は私たちとお泊りするの。でも、いきなり知らない人とお泊まり会するのも、ちょっと怖いでしょう?」

「ぜんぜーん!」

「え、そうなの? ……なら、いいんだけど……その……私たち、あらかじめいろはちゃんと仲良くなろうって思って。だってそうしたほうが、今夜はきっと楽しくなるでしょ?」

「? そうかも!」

 

 それよりもいろはちゃんは、早くあだ名を決めたくてうずうずしている。

 

「あのねー。じゃーねー」

「……?」

「えっとねー。……なまえなんだっけ?」

「! あ~ごめんね~! いきなり色々なことを言われたら、分からなくなっちゃうよね? えっと……ちょっとまっててくれる?」

「うん!」

 

 桑山千雪はメモ帳を取り出す。『桑山千雪』と名前を書くが、うっかり漢字で書いてしまった。その下に大きく『くわやま ちゆき』とひらがな表記。しかしまだ文字は読めないと思うため、メモ帳を見せてゆっくりと音読する。

 

「私の名前は、くーわーやーまーちーゆーきー、ですっ!」

「んー? ……はたけやまにんざぶろう?」

 

 樋口円香、撃沈。

 見かけは瞑想しているように見えるが、全身は小刻みに震えており、ごまかすように口に手を当てて「ンッンンッ」と咳き込んだ。

 

「──……えぇっ!? ど、どこをどう聞いて読んだら、そうなるのぉ~~!?」

「はたけ! やま!」

 

 いろはちゃんは『桑山』を指して、自信満々に叫ぶ。

 

「ち、ちがうよ~!」

「あとねー」

「……え?」

「ちゆちゃん!」

「!」

「ゆきちゃん!」

「……!!」

「どっちがいーい?」

 

 どうやらあだ名の話をしていたらしい。

 桑山千雪は安堵する。有栖川夏葉は微笑んで見守っていた。

 

 するといろはちゃんの標的が次に移る。

 

「そっちはー?」

「……え? あら、私のこと? 改めて、私は有栖(ありす)川夏葉よ!」

「ふしぎのくにの!」

「! あら、うふふ……! あなた、まだ小さいのに物知りなのね!」

「あとねー。ふしぎのくにのーどんぶらこーちゃん!」

「あら? ふふ……! なんだか物語が混ざり始めたわ!」

「でねー。……? ……?? ────!!!!」

 

 突然いろはちゃんは、何かとんでもなく重大なことに気がついたらしく、思いっきり首を振り向いた。横のソファに座る市川雛菜と目と目が合う。

 

 いちかわ。ありすがわ。

 かわ。がわ。

 川。

 

 対する市川雛菜は、とにかく嫌な予感しかしなかった。眉間にシワが寄る。

 いろはちゃんは、行儀が悪いと分かっていても、この衝撃を体でいっぱい伝えるべく、相手の顔を力強く指さした。

 

「いっぽんどんぶらこーひななー!!」

「ね~それやめて~!」

 

 樋口円香、決壊。こうべを垂れる。

 市川雛菜は、とにかく抗議してぶーぶーと不満を漏らす。

 

「まぁいい。さまつなことだ」

「雛菜にとっては瑣末じゃなーい!」

 

 新たなあだ名を閃いたもののそれは一旦捨て置き、いろはちゃんは有栖川夏葉のあだ名決めに戻る。

 

「あとねー。なっちゃん!」

「あら……なんだか懐かしい響きね……!」

「ありすちゃん!」

「うふふ……! それはとても新鮮ね!」

「どっちがいーい?」

「なっちゃんでいいわ!」

 

 即断即決の有栖川夏葉。

 一方の桑山千雪も、悩んだ末に決定した。

 

「うーん……ゆきちゃんもいいけど……せっかくだから、ちゆちゃんで!」

「なっちゃんー! ちゆちゃんー! たぶんねー!」

『……たぶん?』

 

 桑山千雪と有栖川夏葉は首をひねる。

 おそらく、いろはちゃんはいろはちゃんなりに、自分の好きなあだ名を使う、という宣告だろう。そうに違いない、と市川雛菜と福丸小糸は考察する。

 

「それじゃあ千雪、いろは。そろそろ出発の時間よ! 寮に慣れるためにも、早めに行った方がいいと思うわ?」

「そうね。いろはちゃん、これからお姉ちゃんたちと、お泊まり会する場所に行くんだけど……準備はいい?」

「んー? ……るーちゃんたち、ばいばいー?」

 

 いろはちゃんは名残惜しそうに、浅倉透の顔を見やる。

 

「ふふ。また今度ね」

「……うん!」

 

 いろはちゃんはうなずくと、座卓に手をついて立ち上がる。てとてとと歩き始める。そしてノクチルひとりひとりに手を振った。

 

「またねー! るーちゃん! どかどかちゃん! ひなちゃ! ふく、こい!」

「またねー」

「……!?」

「ばいばーい!」

「──え……!? あれ? なんか、わたしと、円香ちゃん……おかしくない……? しかも私、もしかして、呼ばれたの……?!」(それとも、福丸の“ふく”と、小糸の“こい”を合わせた感じ、なのかな……?! だから何って感じだけど……!)

 

「ふく、こい!」

「ぴゃ……!? そ、それ、あだ名なのか、呼んでるのか、わかんない、よ……っ!!」

 

 どちらもである。

 いろはちゃんのいたずらに微笑む桑山千雪も立ち上がり、有栖川夏葉はいろはちゃんを抱き上げる。

 

「それでは、ノクチルのみんな! いろはちゃん、たしかに交代で預かりました……!」

「はい。見届けましたー」

「……その子、想像の二倍以上は脱走を企てる悪童なので、お気をつけて」

「あは~! そのせいで小糸ちゃん、ずっと扉の前から離れられなかったんですよ~!」

「ぴゃっ……」

「えぇー! そ、そんなに……? 分かったわ、気をつける……! 寮のみんなにも知らせておくね……!」

 

 そして有栖川夏葉と桑山千雪は、七草はづきに声をかける。

 

「はづき。そういうことだから、いろはちゃんは預かるわよ」

「はづき~。聞こえてる~?」

「聞こえてますよ~。寝てません~。ふたりとも、いろはちゃんのこと、よろしくお願いしますね~」

 

 七草はづきはにこやかに、またねと手を振る。

 それにいろはちゃんも応えて手を振った。

 

 最後に有栖川夏葉は、もう一匹の送迎する相手にも声をかける。

 

「マメ丸! あなたも果穂の家まで送るわ! 付いてきなさい!」

「──! ワンッ!」

 

 眠りから覚めたマメ丸は、それはありがたいと有栖川夏葉に付いていく。そして彼女に抱っこされるいろはちゃんを見上げる。どうやらかなり楽しんだようだ。

 

          §

 

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