クオンという少女の世界は、幼い頃から暖かく優しい光に満ちていた。
——少なくとも、彼女はそう思い込もうとしてきた。
でなければ、気づいてしまうから。
厳しくも優しい、大好きな母。
友達だと思っていた、少女を裏切った女の子。
故郷であるトゥスクルに身を置くうち、不意に失ったものが頭をよぎる。そのたび、頭の片隅よりか細い『声』がクオンに囁くのだ。
————こちらへ来い、と。
『声』は何の感情も匂わせない。
それでも、言いようの無い確信だけは与えてくる。
『声』に従えば、彼女の願いは必ず叶う、と。
(……それはダメ)
けれどクオンは、今まで一度として『声』に応じることはなかった。
(
幸いにも周囲からの愛が功を奏し、彼女は『声』を跳ね除ける強い意志を育んだのだ。
——心の水面がどれだけ波立とうと、奥底には誰も入れさせない。
クオンは己の心に、強く深く『線』を引いた。
約束を護る。義務と責任を果たす。
定めた境界を常に意識し、何人にも最後の一線を越えさせない。
そうすることで、彼女は「クオン」で在り続けられた。
『…………夢?』
そんなクオンの転機は、彼女が子供でいられる最後の旅の道中に訪れる。
旅先で出会った——というより発掘したのは——年上のクセに頼り甲斐の無い、一人の男だった。
クオンは拾った者の『責任』として、男の世話を始めた
しかし気づけば、その過程で多くのものが変わっていった。
彼女に与えられた貴重な時間、自ら体、そして……心。
多くのものを彼に捧げ、彼からも数え切れないほどの大切な記憶を貰った。
それでも、『線』だけは踏ませていない。
あの時までは、そう思っていた。
『……ハクは、死んだ』
告げられた瞬間————クオンの心は、線を引いた地盤ごと砕け散った。
そこからの記憶はあまり定かでない。
ただ結果として、クオンは再び暖かい世界へと戻った。
今の彼女が優先するのは、残された大切な者たちを守ること。
それだけを考え、原型を失った土くれのような心を力ずくで固め直した。
『声』に負けないように。
失った過去を振り返る暇など無いように。
皆のために。自分にできることしなければ。
……そう、思っていたのに。
『こりゃあ、特別労働手当でも貰わんと、割に合わんな……』
——やせ我慢で固めたはず心に、深々と亀裂が入る。
クオンの前でぼやくのは、ハクを守れなかった男・オシュトル。
彼女に殴られ血反吐を吐きながら、この男は確かに呟いた。
——亀裂は一気に広がり、抑えが利かなくなる。
「なん、で」
疑問が雪崩のように膨れ上がる。
耳馴染みのする気の抜けた声音。漂う緩い雰囲気、在り方。
他でもない、クオンが間違えるはずもない。
砕けた心の破片が飛び交っては、確信を以って訴えかけてくる。目の前の男こそ、クオンが失った最愛の人なのだと。
「どう、して……?」
なぜ生きているのか。
なぜ、オシュトルのフリなどしているのか。
あの日、本当は何が起こったのか。
どうして正体を隠したのか。
どうして追いかけてくれなかったのか。信じてはくれなかったのか。頼ってくれなかったのか。
どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。
揺らいで。軋んで。
覚悟も責任も、必死で引いた心の『線』も、何もかもズタズタに引き裂かれて。
だが、これ程までに隙だらけになっても、彼女の心に居座ったのは、あれだけ警戒していた『声』では無かった。
『線』など引かずとも、『声』が入りこむ余地のない程に。
少女の胸の内は——すでにたった一人の男に完全に占有されていたのだ。
結局、これまでの努力も、初恋の前ではまったくの無意味だった訳だ。
こうして、トゥスクル皇女・天子クオンは境界線を自ら踏み越え、己自身の心の声に従うことに決めた。
歩みに寄り添うのは、着慣れた旅装と荷袋が擦れる音に、ほんの少しの後ろめたさ。
そして、期待と不安の混じった、心地よい胸の鼓動だった。
* * *
宵の口・オシュトル私室
湯気立つ
「トゥスクルからの使者との会談か。それはもう、滅茶苦茶であったな」
「め、滅茶苦茶……」
クオンは引きつった笑みを浮かべ、相槌を打つ。
「ああ……会談は難航を極めた。まず、トゥスクル代表として参じたあちらの皇女殿下が、ヤマトへの侵攻を宣言してしまってな。それに触発された聖上が姫君に殴りかかり、乱闘に発展してしまったのだ」
「そ、それは大変だったね……あは、あはは」
会談とは何ぞや、と言いたくなるとっ散らかり具合である。
しかし、クオンにとってその情報は既知のもの。
なぜなら、彼女はその騒動の中心人物。アンジュも目の前の男も、諸共殴り飛ばした張本人なのだから。
「こんな話をしたいんじゃないのに……」
「クオン殿?」
「あっ、ううん、なんでもないかな! 続けて続けて!」
小さく不満を零しつつも慌てて手を振り、笑顔で取り繕った。
トゥスクル皇女の衣を脱ぎ、オシュトルの元へと駆け付けたクオン。
しかしいざ本人を前にすると、思うように言葉が出てこない。
(な、何から話せば……)
想い人の元へ突撃したはいいが、彼女は全くの無計画であった。
クオンが居ぬ間の話を聞く今この時も、男の胸に飛び込みたい衝動を必死に抑えている。
さすがに、念願の再会の場で逆レイプをかます痴女と化すのは乙女としてアウト。
理解はしているのだが、自覚した恋心が勇み足を止めてくれない。
そんな少女の苦悩など露知らず、オシュトルはつらつらとステゴロ外交の様子を語る。
「
「あっ……」
過ぎた事と軽く流すオシュトルであったが、クオンは思わず顔を青ざめさせた。
(あの時、うっかり力加減を間違えてたら……)
オシュトルを殺していたかもしれない。
そう思うと、少女は今更ながら肝を冷やす。
仮に正体を知った時、男が骸となり果てていたら、クオンは本気でどうにかなってしまっただろう。
途中で気づけて本当に良かったと、日ごろの行いに感謝した。
「もう色々と終わりかと思ったが、幸いなことに、最終的にはトゥスクルはヤマトに対して不可侵を貫くとの約定を得られた。まあ、かの者の言葉通りであれば、一時の猶予に過ぎない、と言うのが正確だろうか」
……それにしてもこの男、さっきからずっと『オシュトル』として接してくるのだが。
ウルゥルとサラァナも部屋を後にし、ここには二人きり。
どうやら彼は、自分に正体を明かす気は微塵もないらしい。
それだけ本気で、重い覚悟を背負っているということなのだろう。その気持ちはわかる。
一体、彼はどんな気持ちでここまでやってきたのだろうか。
ハクが苦しんでいた時、その側にいられなかった事実が、クオンの胸をチクリと刺す。
けれど、せっかくこうしてまた逢えたのに。
事情は察する。
だが、このもやもやする気持ちは、どうしても抑えられない。
「さらに、エンナカムイに対する支援まで申し出てくれたのだ。はっきり言って、こちらに都合の良すぎる申し出ではあるが、今の我らには垂らされた糸を掴む以外の選択肢は無い。ありがたく援助を受けることとした」
こうも取り繕われると、むしろその仮面を剥いでやりたくなる。
彼女のすべきことが、徐々に見えてきた気がした。
「トゥスクルの皇女には困らされたものだが、國の危機を救われ、加えて聖上の成長にも繋がった。今回は、かの者の懐の深さに感謝せねばな」
「……! ふふん、そうでしょう、そうでしょう」
「なぜ、其方が自慢げなのだ……?」
チリチリと導火線に火が点いたかと思えば、想い人に褒められ一転して上機嫌になる。
(いけないいけない)
慌てて表情を引き締めたが、内心の暴走ムードは変わらない。
ここにいるのはもはやトゥスクル皇女ではない。ただの恋する乙女なのである。
「事のあらましはこのくらいだ」
「ふ、ふーん、大変だったみたいだね」
「ああ、クオン殿が居てくれればと、何度思ったことか」
オシュトルはクオンに眼差しを向けると、感情の昂ぶりを堪えるように口元を歪めた。
一方、男の視線を食らったクオンはと言えば、急に胸がドキリと跳ねて穏やかではなかった。照れてしまい、もじもじと体をよじっている。
「えへへ。流石に、それは持ち上げすぎじゃないかな?」
「いいや、そんなことは無いとも。クオン殿の存在の大きさを忘れた日など無い。某、いや皆にとっても、其方は何より頼れる仲間に違いないのだから」
オシュトルの言は世辞の類ではなく、妙な真実味を帯びていた。
「正直、敵対関係にある國の民である其方とは、もう二度と相まみえることは無いと覚悟していた」
言葉の裏にある強い想いがひしひしと伝わり、思わずクオンも目頭が熱くなる。
「本当に……またこうして会えて、良かった」
「……うん」
クオンもまた、同じ想いであった。
生きてまた逢えた。
その奇跡だけで、胸がいっぱいになる。
「ん゛、んんっ! そ、そこまで言わなくても…………オシュトル?」
気恥ずかしさを誤魔化そうとしたクオンは、ここで男の異変に気づいた。
「——ああ、済まぬ。呆けていた。……まあ、ここまでの経緯はそんな所だ」
ふいと目を逸らすオシュトル。先ほどから、どうにも様子がおかしい。
ハクが挙動不審な時は、何か碌でもない事を考えている時が多い。
だが、今の彼は『オシュトル』を演じているせいか、その真意が今ひとつ読み切れない。
「聞かせてくれてありがとうね。で、改めてなんだけど」
クオンは小さく息を吸い込んだ。
さて、ここからは当たって砕けろ、である。
このまま機を待っていては、あっという間に夜が明けてしまう。
もどかしい時間は、もう終わりにしよう。
「お願い、
まずは筋を通す。
仲間のひとりのクオンとして。
「クオン殿には聖上に薬を用立ててくれた恩義があり、信任のおける仲間でもある。ましてこちらは、
クオンが居住まいを正して申し出ると、オシュトルはすぐに歓迎の意を示した。
ひとまず、ほっと胸を撫でおろす。
第一関門は突破。だが、まだ終わりではない。
「では、皆にも告げたのだが、聖上が帝都を奪還した暁には、各々に好きな褒美を取らせると約束していてな。クオン殿は如何する?」
「…………ご褒美? 本当に? どんなことでもいいの? 何でも?」
クオンの目が、獲物を見つけた
「り、
「そう。言質、取ったからね?」
オシュトルからの太っ腹な提案。
(————ここだ)
それは今のクオンにとっては、狙いすました絶好球。
躊躇なく前へと詰め寄ると、仮面の男を見据えた。
「なら————
「…………は?」
クオンの口から放たれた、明確な『ハク』という単語。
それが耳に届いた刹那、オシュトルは湯呑みを口元に運ぶ手を止めた。信じられないものを見たかのように口をぽかんと開く間抜け顔を尻目に、クオンは畳みかける。
「ご褒美。
さあ、ここからは口八丁で逃げることは絶対に許さない。
意地でも、この強情っ張りな捻くれ者の仮面の下を暴いてやろう。
『声』などに頼らずとも、クオンは前へと進むことができる。
その証拠に、彼女は己の心のまま、覚悟を決めた瞳に真っ向勝負を挑むのだった。
アンジュVSトゥスクル皇女とかいう重大なバッドエンド分岐点はカット。二白原作を見てネ!
ロスフラ……ロスフラ……(´;ω;`)
あなたのうたわれ歴は?
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散りゆくのみ
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偽りあるいは偽り二白のみ
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散り~二白三部作
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三部作+ロスフラあるいはモノメビ
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ロスフラのみ・モノメビのみ
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白への道標まで全て履修済
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うたわれは未履修
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その他