————遠い昔の夢を見た。
『すまんすまん、兄ちゃんが悪かった。だから、そんなにむくれるな』
苦笑いで両手を合わせ、わたしを宥めようとする兄さま。
外では凛々しく、誰からも頼りにされる立派なお人。
なのに、心許せる者の前では時折格好悪い姿を見せる。おまけに酒癖も悪い。
そんな兄を見て、幾度もため息をつかされたものだ。
だがしかし、わたしにとって兄さまは間違いなく誇りであり、誰よりも大好きな人だった。
そんな兄さまに負けじと、わたしもたくさん努力をした。
残念ながら兄さまは働き者で、目を離すとすぐわたしを置いていく薄情者でもあったから。
置いてかれないように。
ずっとずっと、兄さまと一緒にいられるように。
——月日は巡り、またあの日の夢を見た。
無実の罪で捕まった兄さまを救出し、皆で帝都を逃げ出す道中。
足止めに残った兄さまの言いつけを破り、わたしは愚かにも道を引き返した。引き返してしまった。
その結果、わたしを庇った兄さまが重傷を負った。
あの日、あの瞬間を、わたしは生涯忘れない。
光を纏い、再び立ち上がった兄さまがヴライ将軍を討ち取る瞬間を。
兄さまが——形も残さず、崩れ落ちる瞬間を。
夢の中で無力と絶望に支配されたのち、わたしはまた現実へと引き戻される。
「………………ぁあ」
久しぶりに自分の部屋で迎えた、独りきりの朝。
まずはせり上がる胃液を、無理にでも飲みくだす。
暑い。体中に纏わりつく汗が気持ち悪い。
耐えかねて桶に貯めた水を暴飲する。
嵩の下がった水面に映るのは、兄さまを殺した大罪人の顔だ。
暑かったはずなのに、もう体が震えている。
足に力が入らない。最悪の気分だ。全身が鉛のように重く、潰れてしまいそう。
嗚呼、早くあの人に会いたい。
そうしなければ、わたしは——。
「…………浸っている場合ではないのです」
無理やり体を起こし、頬を叩いて己を奮い立たせる。
やるべき事は山積みなのだ。義務から逃げてはならない。逃げる資格も無い。
『アンちゃんを……助け…てやって…く……』
「勿論なのです」
兄さまのため、皆のために。文字通りその身を投げ打ったあの人を、わたしは支えなくてはならない。
全てはわたしの行いが招いたことなのだから。そうでなければ、私は私を一生許せない。
「行ってきますです、兄さま」
今のわたしは、兄さまのために生きている。
————本当に?
* * *
冷害対策に治水事業、金策、方々への協調の呼びかけ、そして防衛面の課題の洗い直しなどなど。あれやこれやとこなす内に、また数週が過ぎた。
報告では、帝都近傍で民兵の動員が始まったらしい。
軍を率いる大将の名はデコポンポ。
常備兵では飽き足らず、徒に軍を大きくしようとする辺りに将の性格がよく表れている。
そうして國内の緊張が確実に高まりをみせる中、渦中のエンナムイはと言えば。
「なんや、もう終わりけ? まだ始まったばっかりやのに……つまらんなぁ」
「ま、そう言いなさんな。さすがに、いきなりアトゥイの姉ちゃんに一撃食らわせろだなんて、無茶が過ぎるってもんじゃない」
「そうなのです! 何をしているのですか!」
演習場では、アトゥイさんが兵の皆さんをまとめてボコボコにしていた。
これには視察に来た
以前から
その一つであるアンジュさまは幸いにも回復なされた。
しかし、未だ残りの二つ、軍備と兵糧の問題は根本的な解決には至っていない。
一刻も早く練度不足のエンナカムイの兵を鍛えるため、
彼らは腕っぷしのみならず、出自や武名は将として申し分ない。
「アトゥイ殿、あまりやりすぎてくれるな。これでは戦の前に兵が使い物にならなくなる」
「う~ん、でもなぁ。これくらいで伸びてしもてたら、戦に出たところであっさり死んでしまうと思うんよ。オシュトルはんもそう思うやろ?」
「確かに、アトゥイ殿の言にも一理ある。だが、戦とは武勇のみが決めるものにあらず。指揮を統一し、数の力を結集する術もまた、この先必要となろう。なればこそ、ここで徒に兵を損なうのは避けたい。できれば、別のやり方で鍛錬を頼めぬか」
「う~~ん、じれったいなぁ。暇やからええけど……」
全身でつまらないと主張するアトゥイさん。彼女はエンナカムイに来てからも変わらず気分屋で、気落ちしても長引く様子はない。
————本当に?
急に胸の奥がざわざわする。
片手を開いては閉じ、何度もそれを繰り返す。
アトゥイさんとハクさんは懇ろな間柄だった。
そのハクさんがいなくなって、彼女は一体何を思っているのだろう。
戦場に生きる者にとって、ヒトの生き死には日常茶飯事。彼女はあえて痛みを長く心に留めないようにしているのかもしれない。
でも、そうでないならば。内心、何かしらの思いを抱えているとしたら。
例えば——その場にいながら救えなかった者への恨み、だとか。
「兄上! こちらにおられましたか」
「!!」
くだらない妄想に囚われかけた時、キウルが後ろから尻尾を振って
「済まぬなキウル。弓兵隊を丸投げしてしまって」
「いえ、多忙な兄上に比べればこれくらい。……私には、こんなことくらいしかお手伝いできませんし」
「そんなことはない。帝都から近衛兵を連れてきてくれた件も然り。お前にはいつも助けてもらっているとも」
「ですがお恥ずかしい話、調練は未だに基礎ばかりでして。戦が間近に迫っているというのに、支度は十分とは言えません。これでは、私の手腕が未熟と誹られても言い訳のしようがありません」
キウルが自嘲気味に苦笑いする。現状の進捗の遅さに、歯がゆさを覚えているのだろう。
仕方のないことだ。これから自分の國で戦が起こるというのに、満足のいく戦支度ができていないのだから。
ここに兄さまがいれば、何かが違っていただろうか。
ハクさんは元々ただの浪人、政治とも軍事とも無縁の世界にいたヒトだったのだ。
現状でも出来すぎなくらいではあるが、当然兄さまの領域には及ばない。
————それもこれも、わたしのせいで。
「いやなに、キウルのやり方は何も間違えてなどおらぬ。戦とはそれまで積んだものの帰結というが、基礎を蔑ろにすれば根本から瓦解するのみ。特に、次の戦いでは槍働きよりも、澱みない用兵こそが肝要となろう」
「そのまま基礎を徹底してくれ。我が義弟の手腕、大いに期待しているぞ」
「兄上……はい! 続けて精進いたします!」
キウルが身を正し、それはもう良い返事をすると、駆け足で調練へと戻っていった。あれだけ意気揚々だと、しごかれる兵たちは逆に苦労することだろう。
「…………」
「ネコネ?」
「あっ……すみません。気が散っていたのです」
堂に入った『オシュトル』のフリに錯覚を起こしたなど、口が裂けても言えない。
エンナカムイの者はもはや誰も違和感すら抱いてはいないだろう。上達したものである。
文の書き方、礼儀作法、武術、そして『オシュトル』としての立ち振る舞い。
もっと時間がかかると思っていたのに、彼はその脅威的な学習能力で習熟を重ねていた。
今ならば、兄さまがなぜ彼を側へ置き、育てようと思ったのも理解できる。それどころか、まるで——。
「もしや、昨日はあまり眠れなかったか。気づいてやれず、手間をとらせてしまったな」
「——っ」
優しい声が鼓膜を撫でる。
再び兄さまが戻ってきたような錯覚に陥り、不意に目尻が熱くなる。そんな訳が無いのに、浅ましくも心が浮ついてしまう。
朝にはあんなにも心がぐらついていたのに、この人の隣にいると安心する。兄さまといるかのように居心地が良くて、離れがたくなる。
でも。
その「らしさ」に気づくたび、彼が兄さまを彷彿とさせるたび、わたしの心には不安が募るのだ。
「おっと、待ち人が来られたようだ。ネコネは部屋で休んでいると良い」
「いいえ。わたしも行きますです。……兄さまをひとりにはさせられません」
客人の来訪に気づいた
ここに来た頃に比べ、格段に厚みを増した手のひら。
人目さえなければ、この場でその手をとって甘えたくなってしまう。
ここに来た当初は頭も心もグチャグチャで、なし崩しに関係を持ってしまった。今となっては後悔はしていないが、我ながら大それたことをしたと思う。
しかし、いつの間にかそれが当たり前になり、今やこの人の体温を感じなければ、まともに夜を越せないほど。そして今も、わたしはこのヒトを求めている。
しかし、そんな気持ちはあってはならない。
兄さまに向けていた気持ちをハクさんに押し付けてはいけない。
兄さまのいる場所にハクさんを挿げ替えるような真似、絶対にしてはいけない。
あまりにも身勝手で、醜悪だ。
膨らんでいく感情を制御できず、これ以上まだこのヒトに甘えようなんて。
もうこの胸の中にしかいない兄さまの存在を、ほかの誰かで代償しようなんて。
大丈夫。分かっている。そんなことは許されない。
わたしは、
————本当に?
* * *
「こちら、火起こし用の油の目録となります、ハイ」
「助かった。まさかこれほど早く用立ててもらえるとはな。しかし、しがない旅の商人の仕事とは到底思えぬ手腕だが」
「大したことではありませんよ。ですが一応、こちらは今の時勢では少々値の張る品であることはご理解頂きたく、ハイ」
「……分かっている。背に腹は代えられん」
國外の販路を持つ商人・チキナロは
財政に余裕が無い中での大きな買い物という事で少々揉めたが、これも次の戦にはどうしても必要な布石らしい。
執務室に戻ると早速、
「本当に上手くいくのですか?」
「今時の気候に地形、そして朝廷側の大将の性質やら、諸々の条件を鑑みれば不可能ではない。というより、上手く嵌まってもらわねば困る、と言うべきか」
確実な策では断じて無い。
しかし、そんな物にでも頼らなければ、元よりこの戦に勝機など無いのだ。
「野戦では勝ち目が無い。かといって、籠城戦も長くは保たん。こちらにはアイツのような武勇も、ライコウのような知略も無い。出来るのは細い糸を必死に手繰って、後は天命を待つことだけだ」
次の戦が、間違いなくこの國の今後を占う運命の分水嶺だ。
本物のアンジュさまという大義があっても、日和見を決め込む國々を動かすにはまだ足りない。
彼らを味方に引き込むには現朝廷と戦い、こちらの牙の鋭さを証明せねばならないのだ。
予測されているデコポンポ率いてくる討伐軍の総数は、エンナムイ軍のおよそ数倍以上。いかに大将が愚物であろうと、戦において数の差は脅威だ。
それを寡兵で覆すとなると、
——もしかしたら、これが最期かもしれない。
そう思った時、一日中ずっと続いていた指先の冷たさが、ふっと緩んだ。
「兄さま」
「……ネコネ?」
頭の中で渦巻く思考を隅へと押しやり、目の前の目録に夢中な兄さまに近づき——腰の辺りへと自らの身体をそっと預けた。
「少しだけ……少しだけ、構ってください」
誘う言葉をためらうことは無かった。
以前の暗殺騒ぎでは杞憂で終わった。では次は?
今度こそ、わたしはまた失うのではないか。そう思うと、自制などできなかった。
もはや、言い訳のしようがない。
自分は兄さまと同じくらい、いや——それ以上に、このヒトへ親愛の念を向けている。
本当は——ハクさんの側にいたい。
大丈夫。甘えるのは今回で最後。
こんな身勝手は今だけ。今夜だけは罪悪感も、使命も、恐怖もなにもかも忘れたい。
これが終われば、
どこまでも罪深いわたしは、心の置き場を求めて帯締めを紐解いた。
仮面(アクルカ):ベースは人類の地上進出の研究「アイスマン計画」によって作られた、人類の身体機能を大きく強化する仮面。それを帝が軍事力の補完として利用、最終的に力を抑えた四つの仮面が現存している。ベースの時点で進歩した人類の技術ですら未解析の部分があり、『使用者の望みを叶え』力を引き出すと怪物のような姿に変貌する。
あなたのうたわれ歴は?
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散りゆくのみ
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偽りあるいは偽り二白のみ
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散り~二白三部作
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三部作+ロスフラあるいはモノメビ
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ロスフラのみ・モノメビのみ
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白への道標まで全て履修済
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うたわれは未履修
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その他