※この作品はR-18です。

理性の轍、制欲の軛   作:羽園頼也

4 / 4
21:48、片付け

 

 

 

 

 

 

………………どのくらい時間が経っただろうか。

 

霞がかった視界が、晴れてくる。

 

 

 

 

私は、いつの間にか、キッチンに座り込んでいた。

 

ジャージを通じて、お尻と足に床の冷たさが伝わる。

 

 

 

背中をシンクと反対側の壁に預け、

放心する私の両手は

 

共に

ジャージの中の

そこに

触れていた。

 

 

 

 

 

 

ああ。

 

 

 

 

 

 

 

何も感じない無表情な顔で、左手を引き抜く。

中指の先が、濡れていた。

 

右手を、ゆっくりと引き抜く。

指が、抜けていく。

 

私の中から、抜けていく。

 

 

あふれた感情と共に。

 

 

ほのかな快楽と共に。

 

 

吐き気のする劣情と共に。

 

 

 

 

 

右手を完全に引き抜くと、

冷たいパンツが、大事な所に触れた。

 

 

 

 

………………………

 

 

 

ため息をついて、立ち上がる。

 

 

 

その

濡れた指を

無表情な顔で

眺め

 

 

私は

シンクの蛇口を開き、

 

 

綺麗になるまで

 

何度も

何度も

 

洗った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時々、無性に

死にたい、と思う。

 

 

死んでも何も解決しないのに

死んでも何も好転しないのに

死んだところで、悲しむ人しかいないのに

 

 

それでも

全てどうでもよくなって

死んでしまいたくなる時がある。

 

 

 

私は

ずっと

苦しんでいる。

 

 

病気なのかもしれない。

 

 

私は、

ずっと、

苦しんでいる。

 

 

 

この強い性欲を

 

この劣情を

 

このはしたない自分を

 

 

誰にも言えずに

 

ずっと

 

 

 

 

ずっと。

 

 

 

 

 

セックスがしたい。

男の人と、交わって、溶け合って、幸せになりたい。

 

 

ただそれだけなのに

 

それは私には

きっと

永遠に

手の届かない

もので

 

 

 

できないことが

ストレスとなって

 

 

それにより

夢は

さらに遠ざかって

 

 

 

死ぬくらいなら

努力して

変わればいいのに

 

死ぬくらいなら全てを投げ打って

ホストでも出会い系でもなんでもいいから

セックスすればいいのに

 

 

 

それをする力も

そんな気も

度胸も

なくて

 

 

 

私は

ずっと

苦しんでいる。

 

 

 

私の心を

 

蝕む

 

この渇望に

 

 

 

 

 

そして

 

その燃えるような劣情を内に秘めながら

 

強い理性で

 

何事もないように

振る舞う

毎日に

 

 

 

 

 

 

蛇口を閉める。

 

手からシンクに滴り落ちる水は、音を奏でて

排水口へ流れていく。

 

ポン

ポンポン

 

ポン

 

 

 

水が飛び散らないよう、優しく手を振り

フックにかけていた水色のタオルで手を拭く。

 

私の手を包み込む

入社祝いで貰ったそのタオルは、

まだふんわりと

柔らかな手触りが残っていた。

 

 

 

 

 

 

私は、幸せだと思う。

 

幸せな家庭に生まれ

愛情たっぷりに育てられ

小中高と普通に進学し

大学も留年することなく、

会社も、自分の望む所に入社できた。

 

金銭的な困難は一切なく

病気もなく健康であり

親や妹も親戚も全て元気で何も困ることはなく

会社でも問題なく働けている。

 

彼氏は欲しいものの、

それ以外は、今、全て満たされている。

 

 

私は、充分に幸せである。

私は、幸せである。

その幸せは、平凡ながらも、誰もが得難いものである。

 

私は、幸せである。

 

 

 

 

 

ただ

 

 

心と

 

身体に

 

 

満たされない

 

 

深い

穴が

 

 

開いていて

 

 

 

 

そのせいで

 

時々

 

死にたく

なる

 

だけ

 

だ

 

 

 

 

 

 

シンクの中の食器が

カチャン、と鳴り

 

食器から

水が

ポタリと

一滴

滴り落ちた。

 

 

私は

手を拭きながら

 

その雫が、他の水を巻き込みながら

排水口へと向かっていくのを

 

何も感じない

静かな

心で

 

見送った。

 

 

 

 

 

 

 

炊飯器をキッチンへ持ってくる。

食器を洗い終わってから、炊飯器がまだあるのに気が付いた。

 

食器と一緒に洗えば効率的だったのに。

いろいろ考えていて、つい洗うのを忘れてしまう。

私の、悪い癖。

 

 

炊飯器の中に残ったご飯を、新しいタッパーに移す。

これで、また数日は食べられる。

できるだけ新鮮なものを食べたいから、冷凍は、できるだけしない。

 

 

シンクの中で、炊飯釜を洗う。

 

一人暮らしをする時に、たった一つこだわったこと。

「遠赤土鍋の厚くて重い炊飯釜で、美味しいご飯を食べたい」

 

その美味しいご飯が

私を今日まで生かしている。

………のかもしれない。

 

 

その美味しいご飯を食べるために

私は

明日も生きていく。

………………のだと思う。

 

 

 

それでいい。

それで、いい。

 

 

明日への楽しみが無ければ

私の未来は暗いだけだから。

 

 

 

水を吸い、タッパーの中でつやつやと光る白米、

その一粒一粒を見ながら、考える。

 

 

明日の朝は、おにぎり、作ろう。

 

 

ああ、

きっと

それは

一口食べるだけで幸せになれる

美味しいおにぎり。

 

 

それで、いい。

それだけで、いい。

私は、幸せ、なのだから。

 

 

 

私は、幸せ、なのだから。

 

 

 

私は

こんなにも

幸せ

なのだから。

 

 

 

 

 

 

………………………

 

 

………いっそ

狂うことができたならば

どれだけ

楽か

 

 

いっそ

自暴自棄になり

この性欲に身を任せ

全てを失っても構わないと

言えたら

どれだけ

楽か

 

 

 

 

しかし

私は

決めてしまった。

 

常人のフリをして

常人と同じように

この強い性欲を隠しながら

この世界を

生きていく

ことを

 

 

 

心と

身体が

引き裂かれそうになっても

この

毎日を

何事もないかのように

生きていく

ことを

 

 

 

 

別に

好きでもない

おにぎりを

唯一の

心の支えだと

繰り返し

 

自分の心を

騙してでも

 

 

私は

生きなければ

ならない。

 

 

 

 

 

白米は、タッパーの中で

少しずつ、ゆっくりと、

艶と、

熱と、

新鮮さを失っていくようだった。

 

 

 

 

それは

 

まるで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の心は

叫んでいる。

 

 

 

欲しい。

満たされたい。

 

満たされないのならば

いっそ死にたい。

 

 

死にたくない

 

寂しい

 

生きたい

 

苦しい

 

この渇望を

満たしてほしい

 

はしたない

 

もうどうでもいい

 

したい

 

悲しい

 

愛されたい

 

毎日がつらい

 

助けてほしい

 

楽になりたい

 

この穴を

埋めてほしい

 

 

 

 

それを

得ることは

永遠にないと

わかって

いても

 

 

 

死にたくない。

 

死にたい。

 

 

 

 

死ぬ度胸はない。

 

 

 

死ぬことは、できない。

 

 

私は

幸せ

なのだから

 

 

 

死ねない。

 

死にたい。

 

死ねない。

 

 

私は

こんなにも

幸せなのだから

 

 

それを放棄して

死にたいなんて考えることは

世の中の、もっともっと苦しくて辛い人に対して

申し訳ないから

 

 

だから

 

 

 

 

私は

 

 

この肥大し暴れる劣情を

軛(くびき)につないで押さえつけ

道を外れてしまわぬように

理性で鞭打ち、歩かせるのだ

 

 

欲を制する苦しみを

毎日心に秘めながら

 

誰にも悟らせる事なく

誰にも悟られる事なく

 

老いて死ぬまで

歩き続ける

 

 

それが

轍(わだち)と

成り果てる

まで

 

 

永遠に

 

 

 

 

 

 

 

 

永遠に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………………………………………

 

 

 

………………私は、

今日、何度目かの

大きな、

大きなため息をついて、

 

 

 

艶が消え、熱の冷めた白米を

なんの感慨もなく眺め

 

 

それを覆い隠すようにタッパーの蓋をして

 

 

冷蔵庫に入れ

 

 

 

パタン、と

扉を閉めた。

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。