冷たい雨粒がぽつぽつと降り出した頃、欲望の町「東京キングダム」の一角で男は目を覚ました。
「あぁ……」
ぼうっとする頭を雨が冷やす。あたりには水が当たる音が響く。ぼやけた視界が元に戻ると、薄汚い路地裏の風景が入ってくる。あたりには誰もいない。
「ここ、ど、こ……ぐぅ……!」
思い出そうとすると頭に鋭い痛みが走った。とっさに右腕で頭を抑える。
「え……」
違和感があった。
恐る恐る手を見ると、緑色があった。分厚い掌はおよそ人のそれとは思えない色をしている。困惑する男が指を動かそうとすると、緑色のそれも合わせて動作する。反対の手も同じように緑色をした異物であった。
「俺の腕……なんで……」
ぶわりと、雨によるものではない冷えが全身を駆け回った。ヒューッ、ヒューッ、と荒い息が声にならずに喉から漏れ出る。
「ヒィッ!」
だがそれだけではなかった。右腕の肘から何かが出ている。細いそれは右腕で蜷局を巻き、掌と腕の境目へ牙を突き立てていた。
蛇だ。銀色の蛇がそこにいた。
「あ、ああ、うわぁぁああああああ!!!」
男はとたんに怖くなって叫び声を挙げながら、走り始めた。わき目もふらず逃げるように走り、わけのわからなくなったような声を上げ続け、肩に何かがあたり、右足でゴミ箱を蹴飛ばし、腐った何かがまき散らされる。叫びが止まらず口が渇いていく。
走りながら絡みつく蛇を払うように腕を振る。蛇は動かない。壁に無理矢理こすりつけるもじゃりじゃりと音がなるだけで蛇には傷一つ付かない。
そうしてどれぐらいか分からない時間を走ったところで、男は足を躓かせて勢いよく倒れ込んだ。胸を水たまりで濡らし冷たい雨が背中を打った。
がばっと起き上がる。蛇は動いていない、それどころか巻き付いたそれが右腕の一部であることに彼はようやく気が付いた。
「はは……なんだ、動かないでやんの……」
乾いた笑いが雨の路地裏に響く。すっかり脱力した男は、何気なく下を向いた。しかし、それがよくなかった。
「な、なんだよ……これ!」
水たまりには男の顔が映し出されていた。それは人間の顔ではなかった。鼻は低く、髪は一本もない丸坊主。耳は尖り、眼は右の赤と左の黄色、顔を覆う緑色の皮膚。そこに映し出された姿は人間のものではなかった。
オーク。この世界で最も見かける魔族。力はあるが乱雑で大した知恵を持たない上に「性欲猿」という蔑称が付けられるほど、性に貪欲な下品な存在。
「顔……これ、おれの……?」
必死に否定しようとしても、こちらが動かした通りに水たまりに浮かぶ化け物の顔も変化する。違う、俺は人間だ、心の叫びを声に出せなかった。
更に混乱を招いたのがその左目と恰好である。右目は純粋なオークの赤いものであるが、反対側はにらみつけるような黄色をしていた。それだけではない。身に纏っていた恰好は薄く青い病衣であり、どこかの入院患者を思わせた。
記憶がない。だが確かに俺は人間だったと男は考えたかった。それを教えてくれる者は誰もいない。記憶もない。
絶望だった。拍動が早まり、やり場のない思いがオークの体を駆け回る。
「あああぁぁぁぁぁ!」
感情は行動となった。頭を壁へぶつける。大きな音を立て激しい痛みを味わう。反動と脳震盪でバランスを崩して薄汚れた地面に倒れ込んだ。
しかし幸か不幸か、成果があった。声だ。女の声が聞こえる。これは、以前に聞いた声である。
『魔族になった気分はどう?』
成人した女性の声だ。艶めかしさを感じる。しかし、その声は彼に恐怖を与えた。
『拘束された状態で睨まれても怖くないわ。諦めなさい。というか感謝してほしいぐらいよ』
さらりとした金髪を靡かせ、余裕そうな表情で女は答えた。ここにある声ではない、記憶の中の声だ。
『あれだけ強かったあなたを、魔族にしてあげたのだから』
記憶の中で黄金色の瞳に愉悦が混じる。
『あなたのおかげでウチは散々よ。でもそれもこれでおしまい。精々働きなさい』
女は新しい玩具を見つけた子供のような無邪気さで、男の運命のリードを握っていた。
『グッモーニング、〈サマエル〉。新しいあなた』
彼女のしなやかな手が右腕、そこに巻き付く蛇へと延びる。愛おしそうに撫で、最後には口付けをした。その感情が男へと向くことはなかった。
「サマエル」
彼自身の声で発する。聞きなれぬその名前はすとんと彼の胸に落ちた。長年の友のような感覚だ。
サマエルは名を思い出したのだ。右腕の蛇は動かない。だが今となって右腕に込められた蛇の意味も分かった。
サマエル、楽園に住む原初の人間を唆し、果実を食べさせた蛇。出典によっては悪魔として扱われる存在である。そんな存在の名を与えられ、腕には蛇が宿っている。少しだけ戻った記憶はしかし、多くの謎を与えた。これ以上は分からない。
雨にうたれながら長く息を吐く。体温を奪われた体は初めて冷静さを取り戻していた。
名を思い出した。女の声を聞いた。何もないわけでは無かった。そのことを彼は噛みしめた。そして記憶には大切なことが仕舞われていた。
「魔族化、か」
この言葉を思い出せてよかったとサマエルは深く感じていた。自身が人間であったことを指す。今の姿はそこから転じたものである、と。真っ暗闇の地面に立つ椅子のように、サマエルに場所を与えていた。心が落ち着く唯一の寄る辺であった。
サマエルは次を考えた。手がかりといっても自身の名と女、そして改造されたこの体を除いて自身の記憶を手繰り寄せる手がかりはない。更にはすぐのことも考えなければならない。
「東京キングダム」
ポツリと呟くは、この場所。路地裏のことは分からずとも薄汚れた欲望の空気で分かる。だがこの場所で目覚めたことは彼にとって幸運であった。
この場に巣食うはそのほとんどが影の者たち。身分の証明ができぬサマエルであっても仕事は五万とある。あとは何を選ぶかである。彼は裏側に詳しい自身に軽く驚きを覚えたが、今はただその知識に感謝し、そういうものだと受け入れた。
シュッ、と右拳を突き出す。最初の動きを起点に次の動きを思い出す。
今度は左拳が風切り音を連れて空気を震わせる。
思った通り、体は動きを知っていた。先ほどまでパニックになって走り回ったのに息ひとつ乱さなかった。存外にオークの体は便利なもののようだ。方針は決まった。傭兵だ。力を仕事とするのだ。
まずは酒場か、それに近い場所を探すべきだ。そういった人と情報が集まる所には、仕事がある。これも彼の知識だった。
いざ行動へ移そうとした、正にその時。サマエルは激しさを増す雨音の中に、別の音が混じったことに気が付いた。足音である。激しい足音が聞こえていた。ぬかるんだ地面を激しくならしながら足音が来る。その乱れた様子から恐ろしい何かから逃げてきているようにも思えた。こちらへと近づいてくる。
「……ちっ」
果たして現れたのは女であった。ぴっちりと肌に張り付く紫のスーツに身を包み、片目を隠す金の長髪を雨で濡らした女。戦う体をしていながら胸は柔らかみをもって膨らみ、尻に豊かさを感じさせる男好きのする女体。その相貌から男はすぐに彼女の名前が脳裏に浮かんでいた。
「鉄華院カヲル」
「……」
女は答えなかった、だが、その警戒が何よりの回答であった。
鉄華院カヲル。鎖遁の術の使い手で、対象が抱える罪悪感に比例した重さとなる鎖を操るくノ一。かつてはふうま一族に仕える下忍の家系に連なる忍びであったが、ふうま弾正がひき起こした反乱で命を落としている、はずだった。
しかし死んだはずの彼女が目の前にいる。サマエルは唐突に湧き出た記憶と現実との齟齬に一瞬、混乱する。それは緊張の場においてあまりにも無防備な姿であった。
カヲルはその一瞬を見逃さない。中距離の間合から右手を前へ構える。
「鉄鎖無尽!」
彼女の掌から幾本もの鎖が飛び出す。意思を持ったかのようなそれは、しなる鉄の鞭となってサマエルを切り裂かんと迫る。
スローモーションのように見える鎖を前にサマエルは思わず目をつぶる。まるで死に神が持つ鎌のようなそれは、気が付いた時には目の前にいる。彼はただ体を強張らせることしかできない、全身がゾワリとした。
「鋼遁!」
無意識にサマエルは言葉を発した。
ガキン、と金属同士がぶつかり合う音を聞き、体の至る箇所へ強い衝撃が走った。
(金属同士がぶつかる音?)
遅れて、体に衝撃が訪れた。恐る恐る目を開ける。
両手で首に触れる。まだ繋がっている。下を見る。まだ両足ともに健在だ。まるで何事もなかったかのようである。
「くっ!」
カヲルの顔に驚愕が浮かぶ。確かに鎖は急所の箇所へと届いた。狙いは精確無比、その中にあった首へも違わずに飛んでいった。だが鎖は弾かれた、まるで金属同士でも衝突したような音と共に。更に混乱となったのが、サマエルの姿であった。オークが忍法じみたことをしたという前代未聞の出来事に、驚愕したのである。
「……」
一方でサマエルは今しがた自身に生じた現象について思考を巡らせていた。
ふいと出た言葉に合わせ、全身へ力が働く感覚(忍法による対魔粒子と呼ばれるものの流れである)があり、全身を硬化した。
鋼遁の術。自身が持つ、体を鍛えられた鋼のように変じるこの忍法を、彼は思い出していた。サマエル、土壇場での覚醒である。
対するカヲルは冷静に次の一手を探していた。
(全身を硬質化した、厄介な忍法ね……でも)
次に動いたのもまたカヲルであった。再び中距離から構える。
「鉄鎖無尽!」
「鋼遁の術!」
飛来する無数の鎖、サマエルは身を護るために再び鋼遁の術を使い、守りに入る。彼はまだ攻めの一手を見いだせずにいた。腕をクロスに構え鎖を迎え撃たんと構える。しかし同じ手を打つカヲルではない。
「なっ!」
飛来する鎖、だがその目的は先ほどまでの抉るような動きとは違った。それは鎖本来の動きである巻き付き、腰の部分を捉えた。
「邪なる鎖縛!!」
勝った、カヲルは確信した。対象が抱える罪の意識によって重さを増す鎖遁の術の奥義『邪なる鎖縛』。生きている限り罪の意識を抱かない人間はいない。ゆえにどのような相手でも確実に拘束できる。後は動けない相手に対してトドメを――
「うおぉぉおお!」
瞬間、カヲルは強烈な力で勢いよく引っ張られた。そのまま足が地面を離れ、唐突な浮遊感を得る。
「えっ……?」
サマエルは自身へ伸びた鎖を掴んでいた。本来であれば奴は今頃、罪の重さに縛られ、まともに動けないはず。だが、奴に鎖を逆に活用されている。答えを探すカヲルはしかし、冷静さを失い無防備を晒した。
「そこだあぁあああ!」
今度はサマエルが隙をつく番であった。鎖を振り回して近くにあるビルの外壁へと叩きつける!
「ぐぅぁ!」
強烈な一撃を喰らい、轟音にカヲルのうめき声が混じる。土煙がはしる中、それでもカヲルは両の掌を前へ向けた。
「邪なる鎖縛!」
「鋼遁!」
カヲルへ迫るサマエル。心臓を狙った二本の鎖が放たれるも、鋼遁を纏った手刀により弾かれる。土煙の中、サマエルは違わずにカヲルへ接近する。そして、
「せいやぁぁぁあああ!」
渾身の右ストレートがカヲルの腹部にめりこんだ。くノ一は腹の中の空気を全て吐き出し、あまりの衝撃に意識を手放した。
くの字形で吹き飛ばされた彼女は、廃ビル一階の固い地面に墜落し、ここに決着がついた。サマエルの勝利である。
罪とは記憶から生じるものである。カヲルは知らないことであるが、記憶を失ったサマエルには罪の意識は存在しない。故に邪なる鎖縛は重さを持たなかったのだ。
「はぁはぁ…」
肩を上下させる体を落ち着かせる。サマエルには勝利の実感よりも激しい疲労感に支配されていた。油断ならぬ戦いをサマエルは回顧する。忍法の覚醒が一瞬でも遅れていたら、カヲルを振り回すほどの筋力が自分に無かったら、一つでも自身の要素が欠けていたならば、この勝利は無かっただろう。偶発の連続に助けられた勝利であった。しかし、謎は残る。なぜ彼女は自分を襲撃したのか、なぜ自分は鉄華院カヲルを知っていたのか、鋼遁の術とは何か、そしてなぜ自分が彼女と戦えるほどの力と判断力を持っていたのか。
「少しでも聞いてみるしかないか……」
未だ意識を失っているカヲルへと近づく。激戦により対魔スーツの一部が破れ、ところどころから健康的な美肌を晒している。戦いのさなかでは忘れていたが、それは確かに女の体を露呈させていたのである。心中に黒い欲望が湧きだす。
「っぐう!!」
途端に頭を万力で締め付けられるような苦痛が彼を襲った。頭にいやな音をハウリングさせながら、頭痛は激しさを増していく。痛みと共に欲望も積み重なっていく。
息を荒げながら再び、ギラついた目がカヲルへと向かう。目立たない化粧が施された顔、ほどよく実った果実、肉体的に成熟してきている女性だから出せる色香を放つ彼女を視界から外すことができない。音はどんどんと強さを増していく。男性器は着衣を突き破らんとするほどに怒張し、理性の枷を喰い破らんとしている。
(そうだ、これはもう俺の獲物なのだ)
獣欲に支配されたサマエルは解放を求める。
(ならば、何を躊躇する必要がある)
それは彼の本性か、あるいはオークとしての獣欲か、サマエルは暗い笑みを浮かべる。何も難しいことなどない。一歩ずつカヲルへと近づいていく。
柔らかな果実を揉みしだき、女の象徴へと自身の一部を突き刺す。凌辱の味を彼は知っていた。
その手が果実に触れんとしたまさにその時であった。
「Aah……」
辺りにかすれるようなうめき声が響いた。サマエルはお楽しみを中断し、痛む頭を抑えながら、ちらりと目線を投げかける。
そこにいたのは一人の男であった。その身に纏うは青い対魔忍スーツ。だが、その足取りは覚束なく、全体的に動きが緩慢である。そして相変わらずうつろな声を発し続けている。昂り続ける性欲を、危険信号が戒める。今だけは冷静に頭を使えと直感が告げていた。
頭を強く抑え頭痛を誤魔化す。物陰から恐る恐る不審な男を観察した。
相変わらずそこらを動き回るだけであり、知性を感じられない男の動きは酔っ払いのようにも思えた。しかし、それにしてはおぞましい雰囲気を放っている。
「(何かがおかしい)」
未知への恐怖を味わいながらの観察は、男がこちらへ顔を向けることで終わりを告げる。
「か、顔が……!」
振り返った男の顔は生命を宿していなかった。腐敗したように爛れ、左目があったはずの場所にはどこまでも続くような空洞があった。
「ゾンビ」
思わず漏れでたその言葉のように、まさしく生きる屍であった。行き先が決まっているでもなく。屍は当てもなく彷徨っている。
「Aaaaaahhh!」
突如、この世のものとは思えない叫び声がすぐ近く、背後から聞こえた。反射的に振り返ると。
「なっ!いつの間に!」
そこにいたのは別のゾンビ!両手を前に出してサマエルへと駆けている。細部は違うがこちらも顔が、いや近くでみれば全身が腐敗しているのが分かる。
「はああああぁ!」
しかしサマエルはすかさず屍の頭部へ拳を叩きこむ!ベキョ、と嫌な音がして動く死体が勢いよく吹き飛ぶ。
「手応えはあったのだが……」
だが、飛ばされたゾンビは何事もなかったかのように立ち上がる。その頭部は陥没しており、ただでさえ腐敗で歪んだ顔のバランスを更に不気味なものへと変えていた。
「AAAAAHHHH!」
ゾンビが叫ぶ。その声に呼応するように多くの場所から叫び声が返される。10や20では聞かない数だ。
「クソッ!」
仲間を呼んでいる。ただでさえ厄介な相手が増えることに加え、理性で抑えていた性欲が頭痛を伴って復活してくる。取るべき行動は明白であった。
サマエルは勢いよく駆けだすと、未だ気絶したままのカヲルを抱える。荷物ではあるがそれを気にする身長と筋肉量では無かった幸運に感謝しつつ、彼はそのまま夜の闇へと駆け出す。
途中何体かのゾンビに遭遇したが、足の速い連中で無かったことが味方して何とか追跡を振り切ることに成功したのであった。
ここからがお楽しみだ。廃ビルへ流れ着いたサマエルは、床に降ろした獲物を見ながら、ひとり舌なめずりをするのであった。