静寂というのは、それだけ音を主張させる。
白紙に付けられた小さな色が目立つように。
綺麗な服に付着した汚れが人の目を引くように。
閑靜とした無音の中では、普段聞き取ることのない微細な音さえも、鮮明に浮き彫りとなる。
カリカリと、ペンをなぞる音
パラパラと、ページをめくる音。
コツコツと、歩く音。
人が動く際の細かな服の摩擦まで、つい聞き入ってしまう。図書室とはそう言った気づきのある場所だ。
だならなんだ?と興味なさげに吐き捨てる者もいるが、要するに静かであることで微細な変化も感じ取れるということ。
音だけでなく人の視線や気配といった。
ほら、今もこのように……。
「……」
(めっちゃ見てくる)
視線がやけに刺さる。
椅子に腰掛け、テーブルに肘をつき、本を読むでもなくただページをめくるユウは、人の注目意識というものをひしひしと感じていた。
真隣の席から、熱心に見つめてくる文学少女。
熱の篭った目というわけでもなく、どちらかと言えば観察するような姿勢だ。
顔下半分を本で隠し、そこから両目を覗かせて此方をチラチラと一瞥を繰り返す。本を読むフリをして、もう十分ぐらい前からこんな感じだ。
いったいなんなのだろうか。そもそもここにいるのは、彼女が図書室の場所を教えてくれと頼んできたからだ。
なんでも、趣味は読書らしいし。
静寂の中で読書に専心する文学少女の姿は、まさしく大和撫子。実に絵になる光景だ。
現に図書室を利用している他生徒達は手に持った本ではなく、彼女に見惚れていた。
本来なら静寂に包まれた空間だが、今は少し騒がしい。読書する清楚の姿が文学少女好きの心を掴んでいる。
だが、流石にのぼせすぎだ。
「図書室では静かにしたまえよ」
京極の正論に、浮かれているみんなが我に帰った。
だが、すぐ隣にいるユウからしてみれば違う。
さっきから執拗にジロジロと観察されている。
試しに彼方側の方を向いてみると、慌てて目を逸らして本を読むフリ。視線をずらすと、ホッと息を吐いてまた見てくる。
……気付かれていないとでも思っているのだろうか?
何か妙だ。最初はこんな感じじゃなかったのに、義経との決闘からずっとこのようなやり取りを何度も見受けられる。
すると、
「ねぇ」
横からそよ風のような声。
鼓膜を撫でる優しい声色は、聞くだけで心を穏やにさせてくれる。……鬱陶しい視線さえなければ、の話だが。
とうとう見るだけにとどまらず、話しかけてきた。漸くまともなコンタクトが送られて、ユウは静かに反応する。
観察するような目は変わらず。何の意味があるのか顔半分を本で隠し、口元はもごもごと蠢いている。
話しかけてきたくせに、何を言うべきか言いあぐねている。こいつこんなキャラだったっけ?
一日で多くの男子生徒の心を魅了した文学少女、名前負けしない清楚な佇まい、謎大き転入生。
それが今ではどうだ。他の図書室の利用者の気に触れないぐらい、ユウの耳にのみ通るか細い声で尋ねてきた。
「水城くん、何読んでるの?」
「はだしのゲン」
「あぁ、それ私ちょっと苦手かな」
「俺もグロ系は苦手なんだよな」
苦手というか、この手の内容は聞き飽きたというべきか。昔から総代から戦後の話を嫌というほど聞かされた。
当時の国の内情や徴兵、食う物が少なかったとか、あの時は辛かったという実体験を。
本当にあの人の実年齢幾つなんだ?と疑問に思う時がある。
「じゃあなんで読んでるの?」
「漫画だから」
「えぇ〜」
「なんだよその目。置いてあったもんを読んで悪いのかよ。そういう葉桜は何読んでるんだ?」
「私は三国志。最近ハマってるんだ」
「へぇ〜、独特な読み方するんだなぁ。それも九鬼の教育ってやつなのか?」
「え?」
何を言っているのかわからない。キョトンとした顔で、彼女は今自分が手にしている本へ目を向ける。
表紙には三国志———確かにそう書かれてある……。ユウの方から見たら、逆さで。
どうやら気付いたようだ。精悍な顔が、みるみる赤く染まっていく。そこには清楚の清楚さなど微塵もなく、瞳に涙が溜まっていく。
「いつから?」
「最初から」
「……忘れて、くれないかなぁ」
静寂という名の白紙は、消え入りそうな声さえもよく聞き取れた。
ーーーーーーーーーー
ーーーーーー
ーーー
放課後、川神の街を並んで歩く男女学生。
側から見ればカップルと見紛う、それも美男美女の組み合わせ。だが、そんな甘い雰囲気など微塵もなく、むしろ気まずい空気が取り巻いていた。
「なぁ、そろそろ立ち直れって」
「うぅ……」
葉桜清楚は、顔を真っ赤にしながら俯き加減で歩いている。その隣を随伴している水城ユウが、なんとか立ち直らせようと声をかけ続けていた。
あの後、彼は彼女の要望通り忘れてやった。
しかし、それはあくまで表面上の話であり……。忘れるどころか、しっかりと脳裏に焼き付いている。
そして現在、彼女は羞恥心に悶えている最中だ。
いつまでこうしているつもりなのやら……。夕日の色が出始めた空に向けて、ため息をこぼす。
(こいつ本当に英雄のクローンなのか?)
清楚な見た目に、お淑やかさが見事に調和したような人物。完璧超人のように見えてその実、義経や弁慶のような抑えていても滲み出る凄みというものがまるで感じられない。
本当にただの文学美少女だ。
見たまんまか弱い身の内に、英雄などという大それた力が宿っているとは到底考えられない。
それだけ実力を隠すのが上手い?
それって武士道プランとしてはどうなんだ?
クローン元になった英雄を、本人さえも知らされていないのも謎だ。
学級委員長の友達の言葉を思い出す。
『立ち振る舞いだけで、人を心酔させるか。確かに可憐な容姿だが、原因はそれだけではあるまい。滲み出るカリスマ……。葉桜の正体は想像の遥か上をいく人物やもしれぬな』
(ま、誰でも構わないかな。見守ることにしよう)
武士道プランの内容や存在意義には興味はないが、葉桜清楚個人について水城ユウは強い興味を抱き始めていた。
ジッと清楚の顔を見続けていると、露骨だったらしい。気づいた彼女は、どこか気恥ずかしそうに頬を赤く染めて。
「あの、水城くん?どうしたのさっきからジロジロ見て。顔に何かついてる?ずっと見られるのは……その……」
「いや、思ったより変なやつなんだなって」
「本当になんなの!?」
「なにせ、本を逆さまで読めるんだからなぁ」
「もぉー!そのことは忘れてって言ったよねぇ⁉︎」
むぅ、とむくれっ面で非難する。そんな顔もするんだなぁと、ユウはまた新しい一面を目にしてもなお、愉快そうに笑う。
見つめると言っても、身惚れていると言うよりかは、小動物や珍獣を観察している目だった。
「悪かったって。あ、そうだ。最後にいいとこ教えてやるから。それで機嫌直せよ」
「いいとこ?」
ジトっとした目。こうしていじり甲斐のあるところも、普通と言えば普通の女の子なんだが……。
こうして言葉を交わしながら歩いていくうちに、川神院前まで辿り着く。そこからさらに先へ行った方角に、仲見世通りというところがある。
古風な作りの店が立ち並び、和菓子の良い匂いが漂う。放課後なのも相まって、学生の姿もちらほらと確認でき、賑わいを見せていた。
その通りの終点にユウの言う“いいとこ”がある。
くず餅の老舗、“仲吉”だ。
「ここのくず餅が美味いんだな〜、これが」
閑散としてるわけでもないが、平日の夕方ということもあって人の数はまばらだ。
店員に案内され、ユウと清楚は向かい合う形で二人用テーブルの座席に座る。
メニュー表は見るまでもなく、何を注目するかは最初から決めてあった。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「くず餅パフェ二つ」
「畏まりました。では少々お待ちください」
即決すると、店員は恭しく頭を下げて厨房の方へと戻っていった。
聞きなれない単語に、清楚は首を傾げる。
「くず餅パフェ……って?」
「噂になってる新メニューだ。俺もまだ食ったことない。なんでも後輩曰く、味覚の産業革命なんだとよ」
期待していいという説明を耳にした途端、穏やかだった瞳に強い輝きが灯り出した。
ユウの目から見ても、その様はなんと可憐で愛らしく見えることか。男達が色めき立つのも分かる気がした。
そうと決まれば、いくらでも許す。そう顔に描かれた笑みで、まだかまだかとパフェを待つ清楚に、ユウは言葉を投げかけた。
「どうだった?川神は」
「えっ?」
唐突な問いに戸惑いを見せる清楚。
言葉の意図を咄嗟に汲み取れなかったからだ。
正面から見据える護衛の顔は、これまでの呆れていたり、意地悪だったりといったものとは違い、どこか優しげなものに見える。
元々静かだった店内が、より静かに感じられた。まるで、彼女からの応えを待つかのように。
ユウは続ける。
「騒がしかったろ。ジロジロ見られて、喧しいし、決闘だのなんだのと……」
「うん、君もモモちゃんと取っ組み合いしてたりね」
「うぐッ……」
過去の痴態がフラッシュバックする。2-Sでの、義経達をそっちのけで百代と一触即発になりかけた時のことだ。
今思えば後輩達のことを悪く言えない。アホなことをしていた恥の記憶を掘り返され、ユウは堪らず呻き声を吐き出す。
意外なカウンターを喰らってしまった……。
暴走する後輩を黙らせようとしていたのに、いつの間にか自分がトラブルの中心と化していた。
いかんせん、自分は百代を前にすると他を疎かにしてしまう傾向があるのだと自虐する。
川神大戦もそうだ。大和から、対武神用戦力として由紀江、揚羽を加えた三人で挑むようにと言われていた。
それなのに、いざ会敵した途端に一対一に拘ってしまったのだ。
結果的に大戦は勝利したが、もしその前に負けて百代がフリーになってしまったら、結果は違っていたのかもしれない。
水城ユウも例に漏れず、川神の住人特有のバカの変人の類であった。
自覚した途端、気恥ずかしさが込み上げる。
羞恥に悶える護衛役の男の子に、清楚はしてやったと勝ち誇った笑みを浮かべるのだった。
「とっても楽しいよ。島にいた時よりも、ずっと。私にとって、この街の全てが新鮮なの。だから……」
清楚はユウに向き直り、真っ直ぐに見つめる。
重なる視線。静かな瞬間。
これまでも楽しかった。
今だって十分楽しい。
この先にある未来も楽しいだろう。
その最初のきっかけを作ってくれた彼に……
「最初に出会ったのが、水城くんでよかった」
笑顔の花を咲かせるのだった。
葉桜清楚と言う少女にとって、それが全て。
混じりっ気のない光。一途な眼差しを受けて、言葉が喉に詰まりかけた。
窓から差し込む夕日が、どこぞの英雄のクローンとして創り出された少女を照らし上げる。
なんて絵になる光景だろう。
ほんの一瞬……。一秒にも満たないが、この時の青年は確かに一人の美少女に見惚れていた。
スッ、と。重荷が取れ、肩に軽やかさを感じたことで漸く意識が戻る。
「そっか……。そりゃいい」
素直にその言葉を受け取った。
混じりっけのない朗らかな笑みを見ていると、何だかさっきまで英雄なのかどうかと考えていた自分が可笑しくなってきた。
やはり、最初に思った通りだ。英雄なんて大層な肩書きを名乗ってはいるが、クローン達も自分らと同じなのだと。
泣いて、笑って、怒って、驚いて……。そこになんの違いもありはしない。
肩の力が抜けたことで、背もたれに身を預ける。
「これからよろしくね、水城くん」
「ああ、よろしくな」
同年代として、
クラスメイトとして、
護衛として、
これからの学園生活を共にする友達に、改めてよろしくと握手を交わすのだった。
「お待たせいたしました。当店の新商品、葛餅パフェでございます」
「わぁ……!」
そしてタイミング良く、注文した品がテーブルへと運ばれてきた。
祝福するかのように手前に置かれた甘味に、文学少女の瞳はより一層輝きを増す。
期待していい。そう言ったユウのお墨付きに、偽りはなかった。
白い皿に盛られた黒蜜きな粉と抹茶のくず餅。その上に生クリームと白玉団子が載っていて、黄緑色の蜜柑が彩りを添えていた。
まるで宝石箱のような美しさに、注文した青年も思わず感嘆の声を漏らす。
早速スプーンで一口大に掬って頬張ると、舌の上に広がる甘さに思わず顔を綻ばせた。
「この店、川神院から近いからな。修行終わりの時はいつもここ来るんだよ」
「疲れた時には甘いものだよね、やっぱり」
甘い葛餅と生クリームが絡み合う。そこに黒蜜ときな粉の香ばしさが合わさって、至福の味わいを演出してくれる。
美味い!二人は満足げに頷くのだった。
まさに、至福の時間だ。
他愛もない会話をしながら仲良くパフェを減らす作業に専念してあると、店内の入り口からなにやら騒がしさを感じた。
他の客がいるにも関わらず、マナーなどお構いなしな、興奮の混じった大きな声。
「おい見ろよ。あそこにいるのって、テレビに出てた娘じゃね?ほら、なんちゃらプランの」
「マジ?本物じゃんやっべ、レベル高すぎだろ。あれで英雄のクローンとか信じらんねー」
その二人組は、清楚に気付くやいなやズカズカと大股で此方のテーブルへと歩み寄ってきた。
突然現れた見知らぬ男二人組。当然、両者の知り合いでもなんでもないにも関わらず、馴れ馴れしく隣の席へと腰掛ける。
幸せの時間に水を差された清楚の肩が、ビクッと跳ね上がった。
「君ってクローンなんだって?詳しく話聞きたいなぁ〜、俺英雄大好きでさぁ」
「こんなボロい店じゃなくて、もっと豪華なレストラン知ってるよ?奢ってあげるから、楽しいことしながら君のこと教えてよぉ」
絶好のカモを見つけたと言わんばかりのにニヤケ顔は、滲み出る卑猥さを隠そうともしない。
彼女の美貌とスタイルの良さに下心丸出しで近付き、あわよくば……。という魂胆が透けて見える。
「いえ、私は……」
「あっ、もしかしてこれが彼氏?」
そんな半開きの瞼から覗く濁った目が、向かい側に座る男子生徒を初めて捉えた。
清楚を見ていた時と打って変わって、心底つまらないものを見るような目。
男女とで露骨なテンションの差に、しかしそれはすぐに変化する。
こんな可愛い女の子を独り占めする野郎は誰なのか。見据えた先にいる青年を認知した瞬間、男の口がニヤリと歪んだ。
「あれぇ〜?こいつ負け犬剣士じゃん」
軽々しい、呼吸と共に突きつけられた称号。
侮辱と嘲笑と悪意……。手に取るように分かる、悪感情の孕んだ言葉の羅列が清楚の胸に小さな痛みを生じさせた。
「負け……え?」
「そっかぁ。君、川神に来たばかりだから知らないんだ。じゃあ親切な俺達が教えてあげなきゃね」
「こいつさぁ、毎度のこと武神に挑んでは負けてんの。しかも何年もだよ?バカみたいに剣振ってぇ、無駄な努力してるわけ」
聞いてもいないのに、勝手に納得して語り始める。
悪意もあるが、それ以上にこれが当たり前であると、自信満々な知ったかぶった顔。
反論する余地など与えない。ペチャクチャと口を動かし、唾と一緒に一方的に叩き付けるだけ叩き付けてくる。
「頭悪いよね〜。勝てるはずねーのに、せっかくの青春無駄してさあ。こういうの、非効率人間って言うんだよ。覚えておくように」
「君もこんなふうになっちゃダメだよ?」
ダラダラと湧き水のように、口の形をした穴から悪意が流れ出る。こいつは、無駄な努力を続ける愚かでバカな存在なのだと。
下品な笑みと心無い言葉の濁流は、さっきまでの至福を飲み込み、穢していく。
一方、その彼はといえば、突如現れた男達をただ静観していた。
まるで、我関せずと言わんばかりの態度だ。
それをいいことに好き放題言い続ける男達に、清楚は筆舌に尽くしがたいほどのナニカを実感した。
ドロリとした泥が、胸中に溜まっていく。
今すぐに吐き出したい、嫌な感情だ。
「でも、水城くんは強くて……。川神大戦でも」
「あ、君もあの映像見たの?ダメだよ〜、真に受けちゃ。あんなの武神がお情けで手ェ抜いてあげてるだけだから。テキトーに相手してるだけだよ」
「川神百代もいい迷惑だよね〜。格下に挑まれ続けてさぁ、ストーカーかってのこいつ」
笑い混じりの声が反論を塗り潰す。
他者の言葉さえも、自分勝手な意見で塗り固める。まるでそれが当然であるかのように、彼らは振る舞う。
その態度は、葉桜清楚の心に———嫌い。たった一文字を刻みつけるのに十分だった。
———そんなことは、ない。
小さな否定を絞り出す。
迷惑だなんてとんでもない……。
水城ユウと川神百代……。あの教室での二人のやり取りを見て、両者の間には確かな対等という関係を感じられた。
昨日今日で構築できるものではない。長年のぶつかり合いの果て、強固に築き上げられた相手の実力への絶対的な信頼。
真っ直ぐに互いの目を見て、その存在を認識した途端に釣り上がった頬。
水城ユウとの戦いが楽しくして仕方がない、ましてや格下だなんて考えもしていない武神の表情。
この男達が自信満々で並べる言葉の数々、水城ユウに対する評価は全てが間違っている。
そんな清楚の心情も知らず、言いたいことを全て言い終えて満足したのか、一息を入れた。
「そう言うわけだからさ。もうこんなやつに関わらないほうがいいよ?」
「良かったね、俺達に出会えて。早めにこのバカのこと知れたおかげで、時間無駄にせずにすんだよ」
感謝しろと言わんばかりの態度。その裏に潜めた優越感が透けて見えた。
憤慨———それ以外にない。
もし、自分以外に彼を知る者がこの場にいたら、同じ気持ちを抱いたに違いない。
だと言うのに、その罵倒されている当人と言えば———無言を貫いていた。
「図星つかれていじけちゃった?反論もできないとか、男として情けなさすぎるだろ」
「釣り合わないって、君みたいな可愛い子と。こんな弱い男捨ててさ、俺達と来なよ。絶対面白いから」
「そうだぜ、いろんなこと教えてあげるから」
……違う。
これは悪意に耐えているわけでも、罵倒を聞こえないふりをしているわけでもない。
あれは———無。
無反応というやつだ。
最初から彼らをいないものとして認識し、意識の外へと完全にシャットアウトしている。
声も姿も存在も、水城ユウにはまるで届かない。意識の上っ面を滑ってこぼれ落ちていく。
それだけなのだ。
しかし、それすらも理解せず、彼らの下卑た笑いは勢いを強めていく。
……もう、我慢の限界だ。これ以上は聞くに耐えないと、清楚が口を開こうとした瞬間———水城ユウが動いた。
「食い終わったな」
「え?」
「他に注文あるか?」
突然の質問。
見るも、此方に目を向けてくる友達。
その瞳には、葉桜清楚のみを映し出す。
くず餅パフェが運ばれてきた時からずっと、彼の視界には正面に座る護衛対象しか存在していないかった。
ただじっと、答えを待っている。
視線を少し下に向けると、空になった容器だけが残されていた。ユウのもそう。
他に注文あるなら、頼むけど?目がそう言っていることを察した清楚は、漸く返答を口にする。
「いや、いいよ。もう十分。ごちこうさまでした」
「そうか……」
「そうそう。彼女は俺達と一緒に行くんだから」
「は〜い、さよなら〜。お前はそこで一生餅くっ———」
チャリン、ファサ……。
金属と紙類がテーブルに置かれる音。
それを合図に、世界が一変した。
比喩ではなく、文字通りに……。
視界がブレた。そう感じた時には既に、仲吉の店内が気づいた時には川神の街並みへと変わっていたのだ。
葉桜清楚は右へ左へと視線を迷わせる。
違う。変化したのではない、自分が移動したのだと、そこで始めて理解する。
チャンネルをいきなり切り替えられたかのように、前振りも移動の過程さえも認識することはできなかった。
それほどの———疾さ。
立っている感覚がない。代わりに身体を抱き抱えられて、いわゆるお姫様抱っこで外へ移動させられたのだ。
「ああいうの相手には、“逃げる”が正解だ」
耳元に囁かれる、自分を抱いている彼の声。
息遣いからくるこそばゆさが、放心していた意識を覚醒させた。自分が陥っている状況を頭で理解し、顔の熱が上昇していく。
男の人に抱き抱えられるなんて、そんなの小説でしか……‼︎
急転直下の事態に思考が追いつかない。けれど、今自分が異性にお姫様抱っこされていると言うことは……頭ではなく心が理解してしまった。
「あ、あの……!」
思わず声をあげたのと、それは同時だった。
割れ物を扱うようにゆっくりと、足に地面をつけさせて、優しく腕から解放するのだった。
……まるで、物語に出てくる王子様のように。
その一連の動作に見惚れていた清楚は我に帰ると、慌てて口を開いた。
お礼の言葉を……。しかし、それを遮るようにボディーガードは言った。
「悪かったな、いきなり抱えちまって。面倒なのに絡まれた時は、いつもこうやって撒くんだよ」
こんなこと、日常茶飯事だと。
あれだけの速度移動に一瞬も姿勢を崩すことなく……。いや、全くと言っていいほど身体に負担は感じなかった。
その事実に戦慄する。ただ単に足が速いとか、そういった類いのものではない。
文字通り、ワープ。
物理的に早く走って移動しただけの動作が、この世の理さえも超越する。
巨人を一太刀で斬り裂き、源義経を完封し、水城ユウという人間の底知れなさを垣間見て、清楚は問わずにはいられなかった。
「どうして……?」
「ぶちのめさないのかって?」
言い終わる前に、尋ねようとした言葉をユウが先に口にした。分かり切った質問に、最後まで聞くまでもない。
心底うんざりした顔でため息を吐き出した。
水城ユウ、彼は強い。
源義経との決闘もそうだし、川神大戦の映像だって清楚は目にした。
彼女自身運動は嗜む程度で、武道のことはよくわからない。けれど、目の前の彼がそんな侍達の中で上位に位置する、壁超えという実力者なのは間違いない。
その強さは全国中継されて、誰もが知っているはずなのに……
——————武神に負け続き。
——————無駄な努力を続ける男。
——————戦う前から分かり切った敗北。
この結果だけを拡張し、嘲笑する者達が存在する。本当なら、小突いた程度で黙らせられる小物だというのに、彼は“逃げ”を選んだ。
「相手にしたところで何か変わるわけでもないし、負け続きなのは事実だし。それに、難癖つけられても困るしな。バカには関わるな、これが俺の処世術だ」
「悔しくないの?」
「あいつらより、百代に負けたことの方が悔しい」
きっぱりと、迷いもなくユウは言い切った。
そして、強く拳を握りしめる。今にも溢れ出しそうな感情を押し止めるように。
負け、負け……負け。
幼い頃に味わった敗北から、どれだけの黒星を並べただろう。その事実が彼の心を強くさせる。
だからどれだけ馬鹿にされようとも、嘲笑われようとも、その一点だけは譲らないと心に決めていた。
その瞳の奥には、微かに憧憬の光が帯びているのを清楚は見た。
「モモちゃんと水城くんって……。その〜、付き合ってたり、するの?」
ずっこけた。それはもう盛大に。
一昔前のアニメやお笑い番組でやるような、ド派手なリアクション。
なんの前触れもなく投下された爆弾に、ユウは己の耳を疑う。今の話のどこにそんな質問が出て来るのか。
恐る恐る尋ねた清楚に、これでもかと見開いた目でユウは詰め寄った。
「なんでそうなる⁉︎」
「だってほら、Sクラスの教室でも……。みんなの前であんなに、抱き合ってたし……」
「そう見えるかよふつー⁉︎あれはあいつが一方的に絡んできただけだ!いっぺんあいつに抱かれてみろよ!腕力半端なさすぎて下手したら首の骨折れるぞ‼︎」
酷く心外だ!そう言わんばかりに、声を荒らげた。その目は照れ隠しなどではなく、本気で聞き捨てならないと訴えている。
決闘でも、罵倒されてもこんなリアクションは出てこなかった。あまりの興奮具合と凄みに、清楚は恐縮してしまった。
「ご、ごめん」
「ったく。直江といい、お前といい……。なんだかなぁ〜、どいつもこいつも……。そんなふうに見えるか?百代とはただのライバルだよ」
「どうして、そこまでモモちゃんに勝ちたいの?」
「悔しいからに決まってるだろ?」
「そ、それだけ?」
「あー、それそれ。そのリアクションな!みーんなそう言って俺のこと呆れたり、バカにしたりするんだよ」
「そ、そんな違うよ!私は別にバカになんて……!」
「いいんだよ、これが俺の理由だ。別に誰のためとか、他人の評価も興味ない。俺個人が悔しくて、倒したいって思ったから挑んでるんだ」
恥ずかしいとも思わない。
力をつけるのも、挑戦し続けるのも自分自身だ。誰かに評価されたいからじゃない。
ただ勝ちたいから。それだけの理由。
だからまぁ、たまにさっきみたいなのが湧いてくる……。が、さも気にすることはない。
バカにされたからなんだというのか。
笑われたところでどうだというのか。
呆れられたところでどうってことない。
そんな顔も名前も知らない、知人ですらない他人の声を気にする暇があったら、鍛錬に費やす方がよっぽど意義がある。
その程度で傷ついてやめるようなら、その程度の意思だったというわけだ。それを負け犬剣士は十年以上も晒されながらも、挑み続けてきた。
「これが俺なんだよ」
そう言って、ユウは笑った。
言い切ったそのたった一言が、清楚の鼓膜を揺らす。脳に染み渡るように思考から伝って、胸に小さな心音がこだました。
これ以上ないくらいに、迷いなど微塵も感じられない負け犬の笑み。
およそ、共感や理解というものから程遠い世界にいる。そんな諦めの悪い挑戦者を、どうしてか目が離せなかった。
夕日を背にして胸を張る彼の姿は、彼女がこれまで見てきたものの中で最も綺麗だったからだ。
他人からの評価も、どう見られているかも、自分の人生にはなんら影響など及ぼさないと。
自信を持って、自分を自分と言い切れる生き方に、感銘とは別のナニカが清楚の心の臓腑を高鳴らせる。
ずっと奥底に沈めていたモノが浮上していく。
衝動、というのだろうか。込み上げてくる胸奥に仕舞っていたモノが、喉につっかえている。
仕方ない。そう自分に言い聞かせながらも、本当は割り切れずにいた心のしこり。
義経達や、九鬼の人間達にも打ち明けられない。言われた通り、二十五になるまでこの疑問を抱えて生きていくのだろうか、そう思ってた。
だけど彼になら……。
「…………一つ、お願いしてもいいかな?」
「なんだ?まだ行きたいところでもあるのか?」
疑問が解けるかもしれない。
清楚はそう感じ取っていた。
ううん、と首を横に振り向き直る。
「これは、ボディーガードとしてではなくて、この川神で初めてできた友達として……」
一度、深く深呼吸をして。
意を決し、清楚は言葉を紡いだ。この世に生まれてから今まで、誰にも相談できなかったことを打ち明ける。
「私が誰のクローンか、一緒に探して欲しいの」
まるでそれは、一世一代の告白のように。いや、恋愛という点を転換させただけで、告白であることには間違いはない。
緊張が全身を支配する。
「焦らなくても、二十五歳になれば正体は教えてもらえるんだけど……。でもそれには、あと何年もあって。自分が誰だかわからないと、不安なの。私は読書ばかりしていて……。それが、自分にとって正しいのかどうか……」
正体……。それは、清楚の元となった英雄のことだ。他者の前でこの言葉を口にした以上、もう訂正できない。
「今までは、九鬼からの指針の通りにしようって……。私もそう思っていたんだけど……そして、これからもそうしたいんだけど……。でもやっぱり私、心のどこかで自分が何者か知らない事を不安に思っていたんだと思う」
転入してきたばかりのことを思い出す。
得体の知れないと自虐する清楚に、京極彦一はその清涼な声で励ましの言葉をくれた。
『君の生い立ちは朝礼で聞いていた。正体が誰であろうと、君は君……。私達は気にしない。自意識過剰にならぬことだ』
素敵な言葉だ。
取り繕いのない励ましは、本当に嬉しかった。
確かに、正体がどうあれ葉桜清楚は葉桜清楚。
だがやはり、自分のルーツが気になる。その正体をすぐ近くにいる人間が握っていて、尋ねても聞かされないとなると……。
彼の言葉を借りるならば、悔しい———だ。どう自分に言い聞かせたところで割り切れることではなかった。
これはもしかしたら悪いことなのかもしれない。
親の躾を守れない悪い子だ。バレたら叱られるだけじゃ済まないかもしれない。
だけど今日、水城ユウという青年を見て、葉桜清楚という良い子は初めて、わがままな悪い子になりたいと思った。
「私は自分の正体を知って、安心して日々読書したいなって……。だから……どう、かな?」
「いいぜ、乗った」
さもあっさりと、なんの迷いもなく承諾した。
顎に手を起き、興味深そうに頷く水城ユウ。
その応えに清楚も安堵するとともに、頬が少し熱を帯びる。
鼓動が早くなり、無意識に胸に手を当てていた。安心してるのに、胸が苦しい。いったいどうしてしまったのだろうか。
この感情は一体……。
川神に訪れた時でさえ感じなかった、自分の何かが変わろうとしている瞬間。
そう、この時のユウは知らなかった。
「俺も葉桜がどんな英雄か興味があるからな。本を逆さにして読む偉人なんて、気になるだろ?」
この選択が、全ての始まりだということを。
「もぉ!その話はやめてって言ったのにー!」
どうして、拒否しなかったのかと。
「ははは、悪かったって。すまんすまッ、ァイデ。イテェよ……イダダッ、いやマジでイテェんだけどぉ!?」
人生で一番の後悔だと。
何気ない友達と交わした約束が、彼を不幸へと突き落としたのだ。
ユウに対して、こういう見方をする人間もいるということで…
前作程の暴走はありませんが、大和との【修羅場】見たいですか?
-
見たい
-
見たくない