――眠りについてからどのくらいだろうか。ともかくその夜、少年は憑物のとれたように元気を取り戻していた。ある程度の気だるさは残っているものの、ある意味それは行為がうまくいった証拠だった。起き上がると、少年はずっと状態を見守ってくれていたのであろう少女とお互いの顔を見合わせる。
「えーっと、その」
少し前のできごとをどうしても回想してしまい、廣明は彼女の顔すらまともに直視できないでいる。サンもどうすればいいのかわからず、手が虚空を泳いでいた。時計の秒針の音さえはっきり聞こえてしまうほど、部屋の中は静まり返っていた。
「あ、あの、お食事の用意をしてあるので温めてまいります!」
サンはなのはにお願いされていたことを思い出した。廣明の言葉を聞くまでもなく、少女は駆け足で台所へ消えていった。
「どうぞ召し上がってください。なのはさんと2人でがんばったんですよ」
サンが茶碗に温めた粥をよそって持ってくる。出汁をつかって煮込んだらしく、いい香りが食欲を刺激する。食べる前にしっかりと手を合わせて、作り手に感謝する。スプーンですくって口に運ぶと、優しい味が広がっていく。
「うん、美味いよ」
気持ちのこめられた料理に、廣明の食も進む。結局おかわりもして、残さず胃におさめてしまった。
「なんか、食ったらまた眠くなってきた……」
食後、あくびをかみ殺しつつ廣明は言った。
「今日はもうお休みください、主さま」
サンに付き添われて、廣明は自室のベッドまで連れられていく。そのままだった制服から着替えて、この日は大人しく消灯することにした
翌日、廣明の姿は病院にあった。高町夫妻から念のため1日は学校を休んで様子をみるようにすすめられたからである。なので一応検査を受けに来たのだが、特になにも悪いところなどなく、いたって健康なことが判明しただけであった。そのまま帰ってもよかったのだが、サンが行ってみたいということで風芽丘図書館に立ち寄ることになった。デバイスとしての本能なのか、さまざまな情報の溢れる図書館を人型のサンが好奇心をあらわにして探索している。
『それじゃ、飽きたら念話で教えてくれ』
『了解いたしました!』
こういう公共の場所では、念話が使えるというのはかなり便利だと廣明は思う。遠くの本棚を見に行ってしまったサンと別れ、廣明はなにか面白そうな本がないか物色をはじめる。
「いますぐ読みたいってものがあるわけでもないしなあ」
巷で流行しているベストセラー本などにあまり興味がない少年にとって、用もなしに来た図書館はなかなか居場所を見つけるのは難しいところである。退屈しのぎにカウンター近くの新聞でも読みに行こうか。そう考えていた彼は、とある少女と偶然にも出会う。その少女は車椅子から必死に手を伸ばし、上の棚にある目当ての本を取ろうとしていた。しかし、無情にもその望みは届かず、手は空を切るばかりであった。
「あー、もうちょっとやのに」
ため息をつく少女の背後から、廣明は目的の本を棚から抜き取る。驚いた少女が見上げると、ばっちりと2人の目が合った。
「よう、久しぶり」
「あ、この前の兄ちゃんやん」
以前にもこの少女と、廣明は面識があった。いまとまったく同じ状況で困っている彼女を、助けてあげたのが出会いだった。その時に少し話はしたのだが、名前は聞かずじまいだった。せっかくだからまた話がしたいという彼女の車椅子を押して、休憩所まで移動する。そこにあった自動販売機で廣明は缶ジュースを2本買い、片方を彼女に渡した。
「ありがとうな。わたしの名前は八神はやて。兄ちゃんは?」
「桂木廣明だ。はやてはよくここに来てるんだな」
いろいろと気になるところのある彼女であるが、廣明は無視して別なことを聞く。
「うん、そうやね。ここなら勉強だっていくらでもできるし、静かでええよ」
関西訛りで話すはやてはいたって明るかった。短めの茶髪の前髪に、クロスさせた髪留めをつけているのが特徴的である。どことなく、なのはに近い雰囲気の女の子だと廣明は思う。
「そっか。親御さんとかは」
車椅子でここまで来ているのだから、恐らく1人ではないだろう。その程度の軽い気持ちで廣明は質問をした。
「あはは……。両親どっちも、わたしを置いて先にいってしまってん。ほんま、なんでって感じやね」
笑ってはやてはその場を繕おうとする。その乾いた笑顔が、廣明にはひどく悲しげに見えていた。うかつだったと反省しても、手遅れな話である。廣明自身はお人好しな隣人のおかげもあってもう両親の死は振り切ったことだが、この少女にはまだまだ甘えられる人間が必要な時期だろう。それを思うと、彼の心にも痛みが走る。
「わかるよ。同じ、って簡単に言っていいのかわからいけど、おれの親父たちも事故で死んじまってな。助けてくれる人が近くにいなかったら、どうすればいいのかわからなかっただろう」
今度ははやてが「あっ」と口に手を当ててしまったという顔をした。この重い雰囲気の中、先に口を開いたのは廣明だった。
「ま、不幸自慢はやめようぜ。そういや、はやてはいつもどんな本を読んでるんだ?」
あえて廣明は明るい口調で話題を変える。はやてもそれに気づいて、彼におすすめの書籍などを紹介してくれた。
◇◆◇
『主さま、いまどこにおられますか?』
はやてと話をしている途中、廣明にサンからの念話が届く。楽しいと時間はあっという間に過ぎるというが、その通りだと彼は時計を確認しながら感じた。サンに入り口で待っているように念話で返信し、帰ることをはやてに伝える。
「もう帰ってしまうんかー。ちょっと残念やなあ」
廣明にまだいてほしいと訴えるように、ジュースの缶を掌で転がす。うーん、と彼は唸る。いまはまだ昼過ぎであり、まだまだ時間に余裕はある。それならばと彼は少女に提案をする。
「ならいつまでも図書館でしゃべるのもなんだし、場所を移そう。その辺の喫茶店でいいか?」
「うん、ええよ」
翠屋にお邪魔してもいいのであるが、サンのことを考えると面倒なことになる可能性があるので除外された。入り口で待機している彼女に念話で予定の変更を伝えると、廣明は立ち上がる。缶をゴミ箱に投入し、はやての車椅子を押してサンと合流した。
「ヒロアキさんの従姉妹のサンと申します」
念話で打ち合わせたとおり、サンは彼の従姉妹として振舞った。公衆の面前で「主さま」などと少女が少年を呼んだものならば、奇異な目で見られてしまうのは当然なことだ。サンは慣れない名前での呼び方に緊張し、廣明たちが来るまで口の中で練習をしていたほどであった。
『よしよし、ちゃんとできてるぞ』
『はい、主さま!』
従姉妹だという少女がしきりに廣明にアイコンタクトを取っているのを可笑しく思いながら、はやては納得したようにうなずいた。
「へえ、サンっていうんか。八神はやてです、よろしく」
サンの背格好から同年代だと判断したはやてが、笑顔で握手を求める。2人はがっちりと親交の証を交わし、楽しそうにしている。そして、図書館を出た一行は手近な喫茶店を探して入店した。
「どうするはやて? 女性の店員さんを呼んでもいいけど」
はやてを車椅子から店のイスに移動させてやろうとした廣明であったが、問題点があった。彼女を運ぶためにはどうしても抱きかかえる必要があるので、いくら小学生といえども男の自分がなれなれしく身体に触れるのはどうかと考えたのである。
「そんなんかまわへんよ。それにせっかくやから、兄ちゃんに抱っこしてほしいなあ」
だが、彼女は廣明の葛藤を吹き飛ばすように、純粋そうな瞳で彼を見上げながら言ってのけた。
(将来この子と付き合う男は、なかなか苦労しそうだ)
そんなことも頭では考えながら、はやての背中と足の下に腕を入れいわゆるお姫様抱っこの体勢になる。
「よっと。おお、軽い。しっかり飯食ってるか?」
180センチほどある体格のいい廣明が腰に力を込めて彼女の身体を持ち上げると、すんなりと浮き上がった。彼は冗談混じりにからかうが、はやてからは反応がない。その代わりに、廣明の首元にくすぐったい感触が訪れる。
「ちょっと恥ずかしいけど、やっぱええもんやね」
小声で呟きながら、はやては彼の首筋に仔犬がじゃれつくように頭をすり合わせていた。まるで、欲しくてもどうしようもなかった温もりをこの瞬間にありったけ補充するかのように。
「いいですねー。わたしも味わって見たいです」
うらやましそうに感嘆の声をあげるサン。
「はやて、そろそろいいか」
「しゃあないなあ。続きはまた今度にしとくわ」
段々と周りの目が気になりはじめた廣明は、はやてをイスに座らせた。その隣には廣明が腰を降ろし、サンは向かい側に座っていた。席に着くと、早速メニューの相談を女の子2人はしている。
「なあなあ兄ちゃん、ケーキ頼んでもいい?」
メニュー表にあるイチゴのショートケーキを指差しながら、はやては廣明に片目をつぶってお願いをする。
「ん、いいよ。サンも同じものでいいな」
かわいらしいその頼みを、だめだと言えるはずもない。サンにも確認をとってから、注文を伝えるために廣明は店員を呼んだ。
「オレンジジュースと、イチゴのショートケーキ2つ。それと、アイスコーヒーお願いします」
店員は注文を確認すると、厨房へ戻っていった。少しして、注文通りに商品が運ばれてくる。
「どうだ、美味いか?」
「はい! ある、じゃなくてヒロアキさんもいかがですか」
嬉しそうにケーキを頬張るサンであったが、少し考えると廣明にフォークを差し出した。一口分に切ったケーキが乗せられており、マスターにも食べてほしいということを主張している。ほかの客もいるために僅かに逡巡したものの、好意を受け入れることにした。
「それじゃ、いただくよ」
「では、口を開けていただけますか」
サンのうながしに従って、廣明は口を開ける。ゆっくりと気をつけながら、彼女はケーキをマスターに食べさせた。
「うん、なかなか」
廣明がほどよい甘みを味わっていると、その様子をじっとみていたはやてからも同じようにフォークが差し出される。
「はい、わたしのも食べて?」
無邪気な笑顔ではやては少年を誘惑する。両手に花の状態で、和やかな時は過ぎていく。
◇◆◇
「それじゃあまた。今日は楽しかったわ、ありがとう」
「また会ったら、ジュースの一杯でも奢ってやるよ」
家まではやてを送り届け、名残を惜しみながら別れた。玄関から見えなくなるまで手を振る彼女をほほえましく思いながら、廣明は夕暮れの道を帰った。
「この気配、発動前のジュエルシードが近くにあります」
その途中、サンは思いがけない反応に辺りを見回した。
「こんなこともあるんだな」
目を凝らして探していると、道路の端になんとも無造作に転がっているジュエルシードを発見する。それを落ちないようにポケットの中にしまい、廣明は再び歩き出した。
「戦わなくても手に入るってのは、楽でいいもんだ。きっとなのはも喜ぶよ」
そんな2人を見送る人影が、ビルの上にあった。風に吹かれる長い黒髪は宙を舞い、幻想的でさえある。その目は獲物を見定めるかのように鋭く光りを放つ。身体のふくらみから、この人影が女性であることを強調していた。廣明たちはその存在を知る由もなく、足取りは軽い。
「ライジングサン……」
影は少年に寄り添うデバイスの名をそっと呟き、夕闇に消えていった――。