※この作品はR-18です。

こんなに晴れた素敵な日には先輩の首を絞めたい   作:馬門戒明/輪島ライ

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第10話 私がこの世に生まれた理由

 もう何も考えられなかった。

 

 

 普段持ち歩いているバッグ一つを手に持ったまま賢人の下宿を後にした私は、何を考えることもできないままJR如月駅で電車に乗り込んだ。

 

 乗り込んだ電車の向かう先は京都府そしてその先の滋賀県で、私はそのまま電車に揺られて滋賀県内に移動していた。

 

 

 そして大津を越えた先にある片田舎の駅にたどり着き、聞き覚えのある名前の駅で私は電車を降りた。

 

 久しぶりに長距離を移動して自動改札機には1000円以上の電車賃が表示されたが、その金額をもったいないと感じる脳の余裕は今の私にはなかった。

 

 

 駅を出て10分ほど歩き、私はふらつく足取りで周囲にコンビニすらない閑散とした住宅地を歩いた。

 

 

 そして既に22時を回ろうかという時刻に、私は数か月ぶりに実家の玄関を上がった。

 

 

「まあっ、どうしたの光瑠。こんな時間に連絡もなく来るなんて。私は全然いいですけどね」

「ごめんなさいお母さん。どうしても辛いことがあって帰ってきちゃった」

 

 ずっと憎んでいた母にこんな局面ですがりついてしまった自分自身にどうしようもない悲しみを感じ、私は玄関先に立ちすくんだまま両目から涙をにじませた。

 

 

「本当に大変なことがあったのね。晩ご飯まだだったら食べていって、もちろん今日は泊まっていいから」

「ありがとう……」

 

 脳梗塞の後遺症と戦っている母は片足を引きずりながら私を居間に通し、何も話すことができずに食卓の椅子に腰掛けた私に手押し車を使って今日の夕飯の残りとご飯を差し出した。

 

 昼から何も食べていなくて空腹だった私は無我夢中で食事を口に運び、脳梗塞になる以前から美味しくない母の手料理の味は今の私の身体にじんわりと染み込んでいった。

 

 

 それから数十分ほど母と一緒に無言でテレビのバラエティ番組を見て、私が少し落ち着いたことを感じ取った母はリモコンを手にとってテレビの音を消した。

 

 

「あの、光瑠。話しにくかったら明日以降にしてくれていいけど、何があったの? お母さん力にはなれないかも知れないけど……」

「うん……」

 

 これまでの私だったら、どれだけ辛いことがあっても母には絶対に話さなかった。

 

 学生時代にパパ活でレイプされそうになったことだって、嶋田先輩に脅されてラブホテルに連れ込まれたことだって母には一切話していない。

 

 

 だけど、今の私は藁にもすがる思いだった。

 

 

 

「賢人と別れたの。私に隠れて他に女を作って、下宿に連れ込んでセックスしてる所を見ちゃった。私と賢人はもうおしまい」

「まあっ……!!」

 

 母は私の話に驚いたというよりも、現実を認めたくないという表情をしていた。

 

 

「何てことなの、光瑠にせっかくできたお医者さんの彼氏が、まさかそんな……」

「お医者さんとかお医者さんじゃないとかもういいじゃん。賢人はそういう最低の男だったってこと」

「そんなこと言うもんじゃありません!! 光瑠、賢人くんは少し前まで病気で休職してたって言ってたわよね!? きっとそこを悪い女に付け込まれて騙されたのよ! 今すぐ賢人くんに電話して詳しい事情を聞きなさい、今ならきっと間に合うから」

「間に合うってどういうこと? どうして浮気された私が追いすがらなきゃいけないの?」

「黙りなさい!! 光瑠、あなたは自分の立場が分かっていないわ!! 今の時代女医だって男の医者を捕まえるのは大変なんだから!! きっと賢人くんはちゃんと叱れば反省してくれるはずよ、あなたが電話したくないなら私が代わりにしてあげる!! ほら携帯を貸しなさい!!」

 

 脳梗塞の後遺症で椅子から立ち上がるのが苦しい母は私に怒鳴りつけながら食卓を右手でバンバンと叩いて、それを見た瞬間に私は椅子から乱暴に立ち上がった。

 

「あのさ、お母さん」

「何!? ほら早く携帯を貸して、今すぐ電話してあげるから!!」

「賢人の浮気相手、同じ職場の新人看護師だったよ」

「えっ……」

 

 私が賢人の浮気相手の職業を告げた瞬間に、怒鳴り声を上げていた母の表情は凍りついた。

 

 

「それは、どういう意味……」

「どういうも何もないじゃん。お母さんがお父さんの奥さんにしたことが、そのまま私に返ってきたんだよ。私はお母さんの被害者だよ」

「なっ、何てこと言うの。私はそんな……」

「お母さんはお父さんに奥さんがいたのを知ってて関係を持ったよね。それで私がこの世に生まれたんだよね」

 

 私がこの世に生まれた理由は親戚の間では公然の秘密になっていて、母が必死で隠しても私は小学校高学年の時には既に詳細を知っていた。

 

 

 滋賀県内の公立病院で働く看護師だった母は同じ病院の勤務医だったお父さんと不倫をして、避妊に失敗したお父さんは母を妊娠させてしまった。

 

 お父さんは多額の手切れ金を払って母との関係を断ち切り、そのまま転勤にかこつけて妊婦になった母の前から姿を消した。

 

 私はお父さんの姿を写真でも見たことがないけど、ネットで定期的に名前を検索して今は近畿圏外の総合病院で外科の部長を務めていることを知っている。

 

 

 だから母は私に教育虐待をしてでも医学部医学科に入学させようとしたし、私を男の医者と結婚させることに執着していた。

 

 

 その結果が、今の私の無様な姿だ。

 

 

「あなた、実の親を侮辱して……謝りなさい、女手一つであなたを育てたこの私に謝りなさい!!」

「実の娘に侮辱されるようなことをしたのは誰?」

「うるさいっ!! いくら毎月仕送りをしてるからってお母さんに言っていいことと悪いことがあるわよ、どうしても謝らないって言うなら……」

「何!?」

「ひいっ!!」

 

 足を引きずりながら必死で椅子から立ち上がった母に私は右腕を振り上げ、その行為に怯えた母は足を滑らせて地面に全身で転げ落ちた。

 

 地面に倒れた母の細い身体を右足で踏むか蹴りつけるかしようとして、私はそこまでのことをしたら自分は犯罪者になるかも知れないと思って自分の右脚を制止した。

 

 

「お母さんなんて大嫌い!! 死んじゃえっ!!」

「み、光瑠……お母さんは……」

 

 地面から起き上がれずに呻(うめ)く母に振り返りもせず、私は再びバッグを手に取ると玄関で靴を履いて実家を飛び出した。

 

 

 時刻は既に23時を回っていて、この時間にはもう電車は動いていない。

 

 そして、この寂れた田舎町には夜中に時間を潰せるような店もない。

 

 

 真っ暗な滋賀の夜道をさまよい歩きながら、私は自分がこのどうしようもない世界でこれ以上生きていく意味などあるのだろうかと思った。

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