こんなに晴れた素敵な日には先輩の首を絞めたい 作:馬門戒明/輪島ライ
それから時が経って、私は2024年4月から畿内医科薬科大学病院の2年目研修医になった。
合計で7か月ある選択ローテーションでは麻酔科を3か月、ICUを2か月に加えて総合診療科を2か月選択していて、6月の今は総合診療科の通算2回目のローテーションで働いている。どの診療科もお給料はとても高い。
「あの、日比谷さん……」
「お疲れ解川さん。今産婦人科回ってるんだっけ?」
「そうそう。その、後でちょっと話したいことがあって……」
午前中の回診とカルテ記載を終えて13時過ぎに大学の地下食堂のカウンターで定食の順番を待っていると、トレーに月見うどんを載せた研修医仲間の
1年目と異なり2年目のローテーションは班ごとに動く訳ではないので解川さんと話すのは久しぶりだったけど、2年目になってからも1年目の時の班で飲み会を開催することはたまにあったので今でも仲良くさせて貰っていた。
何か私に話したいことがあるらしい解川さんに応じて定食をトレーに受け取ると、一緒に歩いて食堂の端の方にある席に座った。
とりあえずご飯を食べてからと言った解川さんに従ってカニクリームコロッケ定食を美味しく食べ終わると、ちょうど月見うどんを食べ終えた解川さんはお茶を飲んでから私に話を切り出した。
「あのね、今から言うことは落ち着いて聞いてね。この前の地域医療研修で知り合った日比谷さんの大学時代の同級生に聞いたんだけど……その、日比谷さんの昔の彼氏が日比谷さんに関するデマを大学の同期に言いふらしてるらしいの。私も断片的にしか聞いてないけど……職場の先輩に日比谷さんを寝取られたって。私にそれを教えてくれた人は本当は彼氏の方が看護師さんと浮気したってちゃんと知ってたよ。だけど……」
「うん知ってる。まあ100%デマとは言えないかも知れないけどね」
「でも、でも日比谷さんを先に傷つけたのは少なくとも彼氏でしょう? あんな風に言いふらされたら変な誤解をする人だっているかも知れないし……」
「解川さんありがとう、でも私負けないから。私にそれを言ってきた同期にはちゃんと彼氏が浮気したことも伝えてるよ」
「それなら……ごめんね、変なこと教えて。同じ班の私たちは絶対にデマを信じたりしないからね。変な噂をしてる人をもし見かけたらちゃんと注意するから」
「流石は解川さん。持つべきものは信頼できる友達だね」
「私だって同棲してるあの子のことで変な噂を立てられたことがあるから。……研修が終わっても仲良くしようね」
いつもクールな解川さんは今日は珍しく口数が多くて、それだけ私のことを心配してくれているのがよく分かった。
あれから賢人とは完全に縁を切ったし、実際にデマを広めているのは賢人ではなく浮気相手のあの女の子だという話も私は知っていた。
もしデマを広めているのが賢人本人だったとしても私にはもう関係ないし、在学中から色々とトラブルが多かった自分の学年にはそもそもあまり思い入れがない。
今の私にとっては畿内医大病院での研修を無事にやり遂げて、立派な麻酔科医になることが人生の最大の目標だ。
昼食を食べ終えた後は総合診療科の医局に戻って指導医の先生と患者さんの治療方針について作戦会議をして、それから昨日退院した患者さんの退院時サマリーを書いているとあっという間に夕方カンファレンスの時間は来た。
5人いる1年目研修医に混じって私も2年目研修医として患者さんの病状について報告して、専攻医の先生は適宜それをフォローしてくれる。
そして、今私が所属しているのとは別の班にはあの先輩がいる。
「なるほどねー。ところで嶋田君、山崎さんのご家族は山崎さんの意識状態についてはどう思ってるのかな?」
「はっ、はいっ、山崎さんの現在の反応は意識障害ではなく低活動性せん妄が原因と思われる旨は先週ICしております。ただ、ご家族がせん妄についてその場でスマホで調べて誤解されてしまう事態がありまして。やはり丁寧な説明が大事だなと思いました」
「はははは、それは嶋田君の感想だねえ。でもご家族も最後は理解してくれたみたいでよかったです」
今年から診療班のリーダーに昇格した助教の澤田先生は入院患者さんの家族へのIC(病状説明)の状況について嶋田先輩に確認し、4月から総合診療科の専攻医になった嶋田先輩は若干焦りつつも澤田先生からの質問に答えていた。
実家のお父さんから産婦人科のクリニックを継承することを要求されていた嶋田先輩はまず総合内科専門医資格を取得してから産婦人科医を目指すという戦略をお父さんに説明してどうにか了承を得られて、4月から念願だった総合診療科の専攻医になれたのだった。
もし総合診療医として大学で出世できれば実家を継がなくても許されるかもと以前願望を話していた先輩に、私はそういうことを言う人に限って結局は実家を継ぐのではないかと率直に思った。
今日は金曜日なので夕方カンファレンスの後に教授回診があって、教授回診の後は研修医同士で分担して患者さんの回診記録を電子カルテに記載する。
そして全ての業務が終わった後、私は医局で残業している嶋田先輩に声をかけた。
「せーんぱいっ」
「うわっどうしたの日比谷先生。そんなかわいい声出して」
「そういう表現セクハラですよ? それはともかく、どうせ今日も仕事終わったらカラオケ行くんですよね。私もご一緒していいですか?」
「やっぱりばれてたか。19時ぐらいになるけど別にいいですよ。後で部屋のURL送ります」
他の研修医や指導医の先生がいる前で堂々と先輩をデートに誘った私を見て、医局秘書さんを含めた周囲の人々はヒューヒュー! と口笛を吹いていた。
こうやって「悪い噂」が余計に病院内で広まっても、今の私にとってはどうということはない。
週に合計1日分関連病院でアルバイトをしている嶋田先輩の終業時刻は夕方の18時40分で、私も研修医センターで電子カルテを開いて明日予定入院してくる担当患者さんの予習をしているとそれぐらいの時間になった。
嶋田先輩がラインで送ってくれたURLを見て大学近くにあるカラオケボックスの部屋に入り、先輩が到着する前に2曲ほど歌った。
そして先輩がドリンクバーで烏龍茶をコップに注いで部屋に入ってくると、私は座席に腰掛けた先輩にぴったりと身体をくっつけた。
「日比谷先生、距離が近いよ!」
「こうしてちゃだめですか?」
「僕はそうやって優しくされるのに慣れてません」
「ベッドの上ではいつも通りだからいいじゃないですか」
「またそんなこと言って……じゃ、歌うね」
そして先輩は電子目次本端末を操作してお気に入りの1曲を予約し、最新型のマイクを手に取ると歌い始める。
サンボマスターという一昔前に流行ったバンドの名曲で、私は先輩がこの歌を歌っているのを聴くのが大好きだった。
先輩はよく通る声を響かせてAメロを歌っている。
あれから嶋田先輩とお付き合いするようになったことは2年目研修医になってから母にも打ち明けて、私が浮気男を捨てて別のお医者さんと交際し始めたことには母も満足している様子だった。
嶋田先輩は実家も開業医だと言えば母はもっと喜ぶだろうけど、それを伝えるのは私が初期研修を修了した後にしようと思っている。
今でもラブホテルでよく先輩の首を絞めてあげているなどということは、あの母に話せるはずもない。
先輩は気分が高まっている様子でBメロを歌い始めた。
こんなに太っていて顔もいまいちで、今でも変態性欲が改まっていないこの人をどうして私は好きなのだろうかと考える。
先輩がどれだけ醜くても総合診療医の仕事を愛していて、未熟な研修医に寄り添ってくれる素敵な指導医であることに変わりはない。
そして、私が一番辛かった時にそばにいてくれた人であることも。
先輩は大声を張り上げてサビを絶唱する。
私は嶋田先輩のことが好きだ。先輩とセックスをするのも好きだし、先輩に馬乗りになって首を絞めてあげるのも大好きだ。
いつか、この人と素敵な家庭を作りたいとさえ思う。私は素敵な家庭で育つことができなかったから。
もし子供が生まれたら、どうか先輩の変態性欲は遺伝しませんように。
最後のメロディに入った所で、私も先輩と一緒に歌いたくなって部屋にもう1つあるマイクを手に取った。
すうっと、息を吸い込んで。
「ラブ・アンド・ピース!」
「ラブ・アンド・ピース!!」
「ラブ・アンド・ピース!」
「ラブ・アンド・ピース!!」
「ラブ・アンド・ピース!」
「ラブ・アンド・ピース!!」
こんなに気分が晴れた素敵な日には。
先輩の、首を絞めたい。
(完)