こんなに晴れた素敵な日には先輩の首を絞めたい 作:馬門戒明/輪島ライ
パパ活というものをした経験は何度もあった。私にはお金が必要だった。
「野口さん12誘導の結果で異常ありませんでした。ラピチェックとトロポニンも陰性です」
「そうかそれは一安心だ。日比谷さんはいつも仕事が早くて助かる」
2023年9月下旬。畿内医科薬科大学病院の一部門である救命救急センターで、私は救急医療部の研修医として朝から救急外来を担当していた。
胸痛で救急搬送された高齢女性におそらく循環器系の器質因はないだろうという検査結果を2年目研修医の
一般採血の結果や胸部単純X線と胸部CTの読影結果にも異常なく、近医の精神科クリニックへの通院歴もあることから野口さんの胸痛はパニック障害に類するものだろうという診断になりその後は坂本先生が救外に降りてきた西島先生と共に本日は帰宅可能である旨を本人に説明して診察終了となった。
1年目の救急研修医は日によって一般病棟担当、救急ICU担当、そして救急外来担当と業務が分けられており、救急外来担当の研修医は患者さんが来ていない間は待機室でゆっくりするのが常だった。
「それにしても日比谷さんしかり解川さんしかり今年の1年目は本当に優秀で頭が下がる。物部君とかこの前回ってた山井さんとか救急に不慣れな人もいるけどそれでも真面目さだけは確かだ。日比谷さんは麻酔科志望だったよね?」
「ええそうです。まだ確定してはないんですけど2年目も手術麻酔とかICUとかを中心に選択してみようかなって思ってます。坂本先生は神経内科志望でしたよね?」
それからはその場にいた他の研修医と一緒に坂本先生が2年目に選択で救急をローテーションしている理由について聞いてみて、先生は内科の仕事には将来絶対に取り組むので2年目の選択ローテーションでは患者さんの全身管理について学ぶため救急や麻酔科のICUを選んでいるという話を聞かせてくれた。
その辺の救急志望の研修医よりもよっぽど救急の仕事に慣れている坂本先生が神経内科志望という話を聞いて、人は向いている仕事とやってみたい仕事は必ずしも一致しないのかも知れないと私は思った。向いている仕事がいくつもあることはもちろんあるだろうけど。
そして、2年目に自分の興味だけに基づいてローテーション先を選択できる坂本先生を羨ましいと思った。
救急の研修医は激務というのはどこの病院でも大体同じだけど、私の今月の残業時間は今の時点でたったの3時間ちょっとだった。
2023年の日本を騒がせている医師の働き方改革はこの病院にも及んでいて、歴史的に業務内容が過酷な救急医療部や産婦人科には真っ先にメスが入った。
今の畿内医大病院では救急医療体制は様々な形での分業が進められていて、8時30分から16時50分までの日勤帯とそれ以外の当直帯で救急外来の担当者は分けられている。
内科や小児科では当直の研修医は朝から来て翌日の昼まで働くけど救急では夕方から来て翌日の朝に帰れることになっていて、当直ではなく夜勤扱いだからその分だけ時間外労働は少なくなる。
ついでに言うと当直帯の一次救急と二次救急は総合診療科が担当することになっていて、私が救急の夜勤で担当するのは病棟管理と三次救急の対応だけだった。
普通の研修医は救急研修は意外と楽だと喜んでいるけど、私はどれだけ忙しくてもいいからお金が欲しかった。
「……もしもし、賢人? ごめんこんな時間に。来週の金曜だけど、他の研修医と当直を交代したからデート行けなくなっちゃった。また来週にしてもいい? ……ありがとう、都合がいい日が分かったら教えて。それじゃ」
病院公式のウェブサイトで閲覧できる自分の勤怠表を見て10月に貰えるお給料の手取りが30万円を切ると分かった瞬間に、私は学生時代以来にマッチングアプリを起動した。
このマッチングアプリは数ある同類のアプリの中でもパパ活を含めた援助交際に適しているとされていて、私は学生時代にこれで何度もお金のピンチを乗り切ってきた。
湖南医科大学は国立だから学費は安かったけど、私は入学する前から学費以外は全部自分のアルバイトで賄うと母に宣言していた。
私が医学部医学科に現役合格できて狂喜乱舞する母はそんなこと言わなくてもと止めたけど、私はできる限りあの母から恩を着せられたくなかった。
私がこの世に生まれた事情から親戚中と疎遠になっている母には困った時に助けてくれる親族はいないし、将来老人ホームに入る費用を出してと言われたとしても私は断るつもりだった。
低学年の頃は家庭教師のアルバイトで自分の生活費もお小遣いも賄えていたけど、病院実習が始まるとそうもいかなくなった。
予告なしに手術見学で19時過ぎまで残らされたりする状況で、しかも進級試験の勉強もあるのに毎週決まった曜日に家庭教師のアルバイトをすることはできない。
私はいつしか母にも賢人にも隠れてパパ活のアルバイトをするようになって、それで国試予備校の映像授業代も国試当日のホテル宿泊代も支払えた。
現代日本の研修医は公的にアルバイトが禁止されているから、パパ活は今の私ができるほぼ唯一の副業だった。
これで少しは貯金ができるし、賢人とのデートで食事代やホテル代を気にする必要もなくなる。
いつか一人前の医者になって高い年収を貰えるようになったら大学時代の学費は全額を母に一括返金して、それで母と縁を切るつもりだった。
大学卒業を前にして母が脳梗塞で倒れたのは誤算だったけど、障害者になった母ともできる限り疎遠でいられるように私は必死でお金を稼ぐことに決めた。
顔を巧みに隠した学生時代の写真をそのまま使い、「デート相手探してます!」から始まる文言で大阪市内の外れで会いたいと募集すると相手はあっという間に見つかった。
大阪府内の医療従事者とプロフィールに書いていた相手はスーツ姿の背中だけが写った写真を自画像にしていて、この垢抜けない自己紹介からすると1回会って危険な目に遭う可能性は低いだろうと私は判断した。
学生時代にパパ活で性被害に遭いそうになったことは何度かあるし、裏路地に連れ込まれそうになった所で相手を柔術で投げ飛ばしてどうにか逃げたこともあった。
それでもいかにも反社会的勢力とつるんでいそうな相手はプロフィールから推察して避けていたから、私は一度もレイプされずに済んでいた。
そして万が一レイプされてもいいように普段から地元の産婦人科に通院してピルを処方して貰っていて、賢人とホテルで身体を重ねる際に生でしてもいいよと言うと彼はいつも大喜びしていた。
デートの過程で賢人とセックスをして何度も精液を膣内に放出されながら、私は何度も彼にごめんねと心の中で謝っていた。
そして元々は賢人とデートに行くはずだった日に、私は待ち合わせ場所の噴水前で私服姿でスマホの画面を見ていた。
相手はメッセージのやり取りの上ではとても誠実で、デートの打ち合わせで私がメッセージを送ると15分以内には返事が返ってきた。
おそらく女性経験の少ない中年の医者か薬剤師辺りだろうと思ってスマホの時計に目をやると、私は自分の近くでスマホのカメラのシャッター音が響くのを聞いた。
「おはようございます、日比谷先生」
「なっ……あなたは……」
垢抜けないユニクロの普段着に身を包み、私にスマホのカメラを向けていたのは私の顔見知りだった。
「いきなりごめんね。ほら、これが証拠写真だ」
「やっ、やめてください! 一体何のつもりですか嶋田先生。人の写真を勝手に撮らないでください!!」
「そんなこと言っちゃっていいのかなあ? これ以上は騒ぎになるから撮らないけど、研修医はバイト禁止だって知ってるよね?」
今この瞬間に目の前の太った男を叩きのめしてスマホを壊したいと思った。だけどそうなれば警察を呼ばれて
金曜日の夕方の今、周囲の雑踏には人の目が沢山ある以上ここで喧嘩腰で会話を続けること自体が私にとってもリスクになる。
「分かりました、分かりましたからこれ以上ここで話すのはよしましょう。先生だって私に悪意はないでしょう?」
「もちろんないよ、日比谷先生は僕のかわいい後輩だからね。あと、前にも言ったけど僕のことは先輩って呼んでくれないかな」
私に自分のことを「先輩」と呼ぶように命じた彼の名前は
つまりは坂本先生の同期で、私より4歳上で出身大学は病院と同じ畿内医科薬科大学であるということも私は知っていた。
そんな彼がなぜパパ活をしている私を見つけて、今ここで私に何かを要求しようとしているのか。
平和な夕方の雑踏で殺気を立てながら、私はこの肥満体の男がこれから私に何を言うのかに全神経を尖らせていた。