こんなに晴れた素敵な日には先輩の首を絞めたい 作:馬門戒明/輪島ライ
平穏な日々には、いつも突然終わりが来る。
救急研修が終わって11月に入って、私は消化器内科の研修医として働いていた。
臓器別に分かれている消化器内科の胆膵班に所属して午前中は回診、午後はERCPを見学したり指導医不在で病棟を回したりしていると日々はあっという間に過ぎていった。
消化器内科研修はこの病院の内科の中では比較的ゆとりがあるので残業も少なく、どうにか口実を付けて定時を過ぎても病棟に残れないかなと考えてみたけど結局は入院患者さんが急変した時ぐらいしか残業代は申請できていなかった。
あれからパパ活のアルバイトを何回かしたので母に毎月10万円仕送りをしても少しずつ貯金をできているけど、再来月は残業だらけの循環器内科をローテーションするからそこでもっとお金を貯めたいと思った。
火曜日の16時過ぎに病院2号館の最上階にある研修医センターの電子カルテで入院患者さんの退院時サマリーを書いていると、いつもスクラブのポケットに入れている個人のスマホが鳴った。
画面を見るとそこには賢人から電話がかかっていて、患者さんや指導医の前でもないので私は特に何とも思わず電話に出た。
「もしもし、光瑠です。何かあったの?」
「みっちゃん……僕……もう駄目かも知れない……」
「えっ……?」
賢人は開口一番に私のあだ名を呼んだけど、その声は強く震えていて電話の向こうからは彼がむせび泣く声が聞こえていた。
「もう無理だ、僕もう無理なんだ。研修医なんてもう続けられないよ……」
「ちょっと落ち着いて賢人。一体何があったの?」
電子カルテが3台並んでいるこの部屋には今私しかいないけど、そのうち誰か他の研修医が入ってくるだろうと考えて私はあえて落ち着いた口調のまま研修医センターの外に出た。
同じ階の外れにある研修医当直室のフロアに入り、混乱した頭のままで賢人との会話を再開する。
「うう、ううっ……こんな時間にかけて本当にごめんね……でも僕どうしても辛くて……」
「いいから、私は全然大丈夫だから。……この後、家に行っていい?」
「えっ? でもみっちゃん明日当直でしょ。今日は早く寝なきゃいけないのに……」
「そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ! とにかく今は詳しい事情は聞かないから、仕事が終わったらすぐに行くね。それまでどうか無事でいて」
賢人がおそらく精神を病んで仕事に行けなくなったということは、彼のこの1か月ほどの振る舞いと今日の電話の様子からすぐに分かった。
先月末から済生会如月病院の血液内科をローテーションし始めてから賢人はデートの時に仕事の話をしてくれなくなって、無意識にため息をついていることが多かった。
救急ローテーションで指導医の先生に怒鳴られた後や看護師長さんに情報伝達のミスをなじられた後も同じような様子だったけど、その時はデートの終わり頃には既に立ち直っていた。
だけど、最近の賢人はどこか様子がおかしかった。
いつもは仕事が終わっていても定時の16時50分までは必ず研修医センターで待機しているけど、今日は16時50分きっかりに2号館の1階に降りてタイムカードを通した。
そのまま何も考えないようにして早足でJR皆月駅に向かい、ちょうど来ていた普通電車に飛び乗ってJR如月駅まで移動した。
そして賢人の下宿に急ぎ、合鍵で玄関のドアを開けた。
かすかな泣き声が聞こえてくるワンルームに入ると、賢人は狭い部屋を占拠するセミダブルベッドの上で布団にくるまって泣いていた。
「賢人! しっかりして、いやしっかりしなくてもいいから……とにかく話を聞かせて。私今日はここに泊まるから」
「みっちゃん……」
「辛かったよね、本当に大変だったよね。仕事なんてもう行かなくていいから、どうか無事でいて……」
賢人がくるまっている布団をあえて強引に引き剥がし、セミダブルベッドに腰掛けると賢人は泣きながら私に抱きついてきた。
しばらく洗っていないらしい部屋着姿のまま賢人は私にすがりついて号泣し、私は賢人の小太りな身体を抱きしめ返すと彼の頭を優しく右手で撫でた。
「患者さんが、患者さんが……」
「何かひどいこと言われたの?」
「違うんだ、患者さんが……死ぬんだ……」
「えっ……」
賢人はそう口にすると両目から一気に涙を噴き出させ、そのまま必死で言葉を続けた。
「患者さんが毎日のように死んじゃうんだ。この前なんて、まだ38歳のお母さんが……白血病が急に悪くなって……」
「……」
「それだけじゃないんだよ。23歳の妊婦さんだったのに、再生不良性貧血のせいで子供を中絶しなくちゃいけなかった人だって。僕もう見ているのが辛いんだ……」
「賢人……」
だからどうしたの、と思った。
悲惨な境遇の患者さんに同情するのは分かるけど、お医者さんの仕事は一緒に悲しんで泣くことじゃなくて少しでも患者さんの力になってあげることでしょう。
そんな気持ちのままで、あなたは膠原病内科医になりたいって思ってたの?
頭の中に次々に浮かんでくる正論は、今の賢人にとって何の救いにもならない。
だから、私には彼の悲しみをどうしてあげることもできない。
「僕もう無理だ、明日からもう仕事に行けない。指導医の先生からローテーションが終わるまで休職しなさいって言われちゃった……」
「それでいいよ、それでいいんだよ。先輩にも同じような人がいたけど、2年目に別の内科を回ってちゃんと研修を終われたから。今は絶対に無理しないで!」
「でも、来月はお給料が入ってこないよ。親に仕送りを頼んでみるけど、妹の受験もあるし無理は言えないよ。これじゃみっちゃんとデートに行けない……」
「いいから! 私救急で頑張ったから結構貯金があるの。しばらくはデート代は全部私が持つし、もし生活費に困ったらいくらでも貸してあげる。だから本当に無理しないで……」
「みっちゃん……ごめんなさい……」
私は泣いた。
抱き合ったまま号泣する私を見て、賢人もまた泣いた。
その日はお風呂にも入らずベッドの上で賢人と抱き合ったまま時間を過ごして、終電がなくなる前に後ろ髪を引かれる思いで下宿を後にした。
玄関を出る前にお金のことは本当に心配しなくていいからと賢人に念押しして、休職している間は週に1回は必ずデートに行こうと約束した。
そして、そのためのお金を工面する方法を私は既に決めていた。