「こいつと引き換えになら界ごと時を渡ることが出来るかも知れない」
それを聞いた奈月は目を見張った。ラスティは翠を犠牲にして龍宝珠界そのものの時を逆流させると言っているのだ。
常磐はラスティと龍宝珠界で連れ添って暮らしていた。彼らは仲のいい夫婦だったのだ。だがその常磐が消えたのだという。それだけではない。龍宝珠界にいた者たちが悉く消えてしまったのだ。
「珠の巫女は健在なのでしょう? あなたの巫女です」
「ああ! ご丁寧に守護神たちも残っちまったな!」
ラスティは文の問いかけに憎々しそうに吐き出した。
「冷静になられたらどうですか? 天空の王を贄にしたところで、あなたを含めた守護神まで消えてしまうだけですよ」
「あんたは知らないからそんなことが言えるんだ! 想像できるか!? あの広い世界にたったの九人だぞ!? 残ったのはそれだけだ!」
これが冷静になっていられるか。そう叫んだラスティがぎらりと奈月を睨む。奈月は泣き続けるラスティに言葉がかけられないままに俯いた。
「私は手段が無いとは一言も申しておりませんが。私には無理とは言いましたが」
「なん……だと?」
淡々と告げた文の言葉にラスティが息を飲む。奈月は慌てて顔を上げた。文は静かにラスティと向き合っている。
「我々巫女には、先観や過去観の能力があります。自らの意志で制御できる能力ではありませんが」
「それでどうする?」
疑いの目で文を見つめてラスティが鼻を啜る。どうやら少しは落ち着いたようだ。だが奈月は衝撃にへたり込んだままだった。
「いえ。その能力で観たのです。天空の王。あなたは姫君に問いかけたことがありますね?」
そう言いながら文が吊り上げられた翠を見やる。翠はじっと文を見つめた。
「『まやかしは滅ぶべきだと思うか?』と」
「ああ」
それまで黙っていた翠がそう返事をする。ラスティは翠と文を見比べて不快そうに顔をしかめた。
「姫君はなんと答えましたか?」
「この世にまやかしなど存在しないと、そう、答えました」
青白い顔のままで奈月は答えた。緊張しきっていて声が自然と掠れる。
「姫君。その会話の途中で、あなたはこうもおっしゃいませんでしたか? 『もし、もしも、この世にまやかしが存在するなら、それはわたしです』と」
文の言葉を受けて奈月は黙って頷いた。そう、確かに言った。翠と交わした会話を思い出しながら奈月は自分に言い聞かせるようにもう一度、頷いた。
「未確定状態で置かれたその言葉を今、確定させてください。そうすれば」
「そうすれば、何だ?」
不意に別の場所から声が聞こえてくる。奈月ははっと息を飲んで声のしてきた方を見た。
黒いコートが風に揺れている。校門の向こう、結界を挟んだところに水輝が立っている。だが水輝の姿はまるで陽炎のように淡く、揺れている。
「姫君はその時点でまやかしとなり、その後に発動した主龍神としての力は全て無効になります」
文がそう言ってにっこりと笑う。だがその顔色はどことなく悪い。奈月は駆け寄りたいのを堪えて水輝を見つめた。水輝は苦笑して首を傾げ、軽く指を鳴らした。
小さな声を残してラスティの姿がかき消える。宙吊りにされていた翠が地面に落ち、尻餅をつく。その場には翠色の宝珠が一つ、転がっていた。
「それは困るな。おれにも都合というものがある」
薄く笑った水輝が言葉を紡ぐ。だがその声はまるで薄いフィルターを通したように少しぼやけていた。
「水輝さんっ!」
「主龍神がまやかしなら、お前たち人形は全てまやかしということになるな。何しろ同じ形の依代を使っているんだ。例外はあるまい?」
嗤いを浮かべて水輝が言う。呼びかけを無視された形になった奈月は目に涙を浮かべて顔を歪めた。
「その時点で、まやかしでない別の主龍神候補が存在していたなら問題はありません。不幸中の幸いと申すべきか、姫君は『この世にまやかしなど存在しない』とも仰っておりますから」
そう告げた後、文の体がゆっくりと傾く。奈月は悲鳴を上げて倒れた文を抱きとめた。巫女としての言葉を紡ぐには力が要る。文はその力の限界に達して倒れてしまったのだ。
「言葉遊びだな。誓約の主でないお前が言葉を口にしたところで、魂がこもるはずもなかろう」
静かに告げて水輝がシャツの胸ポケットから煙草を取り出す。一本咥えてライターで火を灯す。水輝は美味そうに煙草を吸ってから喉の奥で嗤った。
「水輝さん、違います……。わたしの言葉は誓約ではありません」
「ああ、何だ。居たのか」
初めて気付いた、という風に水輝が呟く。それから水輝は唇の端に煙草を咥え直して低い声で嗤い始めた。奈月は腕に抱えていた文をそっと横たえて水輝を見つめた。少しの間離れていただけなのに、どうしてだろう。水輝がまるで違う誰かに見える。
「感謝するぞ。主龍神」
身体を折り曲げて嗤っていた水輝がゆらりと顔を起こして言う。
「水輝さん! わたしは、もう水輝さんにとって不要なのですか?」
奈月は真っ直ぐに水輝を見つめて声を張った。すると水輝がふと嗤いを納めて顔を歪める。そこに嫌悪の感情を読み取った奈月は思わず涙ぐんだ。
「わたしが……水輝さんにできる事は、まだ何か、ありますか?」
睨むように奈月を見ていた水輝が急に目を見張って咳き込む。煙草が唇から落ち、地面に辿り着く前に消える。身を屈めて激しく咳き込む水輝の口からは血が滴り落ちた。苦しみの呻きを漏らして水輝が胸を押さえる。
「長居……しすぎたか」
ひとしきり咳き込んでから水輝は舌打ちをして身を起こした。その直後、水輝の姿がその場からかき消える。呆然とする奈月にはいつの間にかしっかりと翠が抱きついていた。へたり込んだ奈月を腕に抱いてじっと水輝の居た場所を見つめている。
「翠さん……。わたし、どうすれば……」
そう言って奈月は顔を覆って泣き始めた。我慢していたものが次々にこみ上げてきて嗚咽になる。声を殺して泣く奈月をしっかりと抱きしめて翠が言う。
「まだ、方法は、ある」
低い、呻きのような呟きに奈月は顔を上げた。安心させるように翠が奈月の頭を撫でる。小さな幼い手に気遣うように撫でられて奈月はまた嗚咽を漏らした。
「翠さん、わたし以外のだれかが犠牲になるような方法はだめですよ?」
真剣な顔で奈月はしゃくりあげつつそう言った。すると翠がしばし黙ってから首を傾げる。それから翠は静かに奈月を離して天を見上げた。
暗い夜空には星が見え始めている。西の空には細い月の姿がある。奈月は翠の目を追って空を見た。
「わたしはお前の傍に居ることしか出来ない」
空を見上げながら翠がぽつりと呟く。それから翠はゆらりと動いて地面に転がる翠色の宝珠を取り上げた。そこで翠が振りかぶって翠宝珠を放ろうとする。奈月は慌てて翠の腕を押さえて動きを止めた。
「ラスティさんを、どうするんですか?」
問い掛けた奈月をじっと見つめ、しばし黙した後に翠がおもむろに口を開く。
「壊すだけだが」
淡々と答えた翠の手から奈月は慌てて翠宝珠を取り上げた。む、と呟いた翠がほんの僅かだけ眉を寄せる。
「だめです!」
声を張ってから奈月ははっと我に返って心配顔で翠を見た。翠がじっと奈月の手に握られた翠宝珠を見つめ、やがてため息をつく。
「判った」
頷いた翠にほっと息を吐いて奈月はラスティが変質した宝珠をスカートのポケットにしまった。倒れた文を大事に両腕に抱える。とにかく文は早く休ませた方がいいだろう。
「逃げる事だけはしません。すべて、わたしの責任なのですから」
言葉のすれ違いを起こした時に水輝と話したことを思い出す。あの時、奈月は龍神の罪の責任は全て自分にあると言った。その時の奈月は言葉の重さを考えてはいなかった。ただ、主龍神の罪をなすりつけるためだけに他の多くの龍神が存在しているということが、どうしても納得出来なかっただけだ。
奈月は黙って歩き出した。地下に戻る奈月の傍を翠が歩く。静まり返ったその場には二人の足音だけが響いていた。
……はっ! 4月は30日まででしたね!(汗)
ハーメルンの予約は31日まで設定出来るのですが……これ、4月31日にしたらどうなるのでしょうか。ちょっと試したいですね。
説明を忘れてましたがラスティというのは、奈月のいるところとは異なり、龍宝珠界と呼ばれている世界です。