広々としたキッチンは、とても地下施設内だとは思えない。奈月はするするとじゃがいもの皮をむいていた。椅子の上に膝立ちになった翠がまな板の上で黙々と人参を転がしている。
だん、と音がして何かがまな板に飛んでくる。奈月は不思議に思って首を傾げた。飛び散ったたまねぎの残骸を目で辿る。すると調理台を挟んで向かい合って立っていた桜の手の下でたまねぎが潰れていた。
「桜さん、あのっ!」
奈月は泣きそうな顔をして小声で呼びかけた。すると桜が満足そうに頷いて手を退ける。
「細かくなりました」
きっぱりと言って桜はまた一人で力強く頷いた。奈月は困惑に顔を歪めて桜の前に置かれたまな板の上を見た。よほどの力で押さえつけたのか、たまねぎの形は残っていない。
「桜さん。あのっ、翠さんを抱いていてもらえますか」
にっこりと笑って奈月は言った。すると桜が不思議そうな顔をして翠を見る。つられて翠を見下ろした奈月は少しだけ目を見張った。翠はいつの間にかピーラーを使って綺麗に人参の皮を剥いていた。皮の剥けた人参を握った手を奈月の方に突き出す。翠の目は少しだけ細くなっていた。どうやら上手く出来たことが嬉しいらしい。
「出来た」
ぼそりと言って翠がじっと奈月を見つめる。
「ありがとうございます! 翠さん、すごいです」
にこやかな笑みを浮かべて奈月は手放しで翠を誉めた。すると近くから弱々しい声が聞こえてくる。
「姫様……わたくしは……?」
桜が消沈した顔で少し俯いている。それを見て取った奈月は慌てて二人を見比べた。今日の昼食を作っている三人しか今はキッチンにいない。
「桜さん、あの、スープのベースに炒めるものですから磨り潰してもかまいませんけど……」
そう言って奈月は自分の前に置かれたまな板に飛び散ったたまねぎのなれの果てを指差した。
「奈月が言ったのはみじん切りだ。ペーストにしてどうする」
不器用め。奈月の言葉を遮って翠が淡々と言う。すると桜はがーん、と口で言ってその場によろけた。だがすぐに立ち直ったのか、まな板で潰れていたたまねぎをボウルに移し、別のたまねぎを手に取って皮を剥き始める。
桜さん頑張れ! と心の中で応援しつつ、奈月は次々にじゃがいもを剥いて適当なサイズに切っていった。翠は人参の皮を引くのが楽しいのか、黙々と皮むきを続けている。そんな翠を横目に奈月は切ったじゃがいもを水を張ったボウルに移した。
次はベーコンを。そう思いながら調理台の肉に手を伸ばしたところで奈月はぎょっとした。桜が慌てた声を上げてまな板ごと立ち位置をずらす。翠が何故か青い日本刀を握っているのだ。
「み、翠さん?」
「何だ?」
平然と答えた翠が刀をまな板に近づける。片手で押さえた人参を翠は真剣な顔をして刀で切り始めた。
「あっ」
思わず小さな声を漏らして奈月は翠が人参を切る様に見とれた。凄まじい切れ味を誇る刀がきっちり五ミリの厚みに人参を切っていく。
「すごいですっ!」
「こっちは気が気じゃありません!」
感心の声を上げた奈月とは対照的に、桜が悲鳴のような声を上げる。翠の持つ刀の切っ先は調理台をはみ出しているのだ。向かいに立つ桜は青い顔をして出来るだけ調理台の隅に寄っている。
「む」
二本の人参を切り終えた翠が手の中の刀を消す。
「あの、翠さん? 刀を小さくすればいいんじゃないですか?」
そう告げた奈月は先ほど見た佑のことを思い出した。佑は間合いに応じて刀のサイズを変えていた。奈月は先の戦いのことを思い起こした。
部屋に慌ただしく駆け込んできた透に促されて奈月は翠と桜と共に吉良瀬トータルソリューションに向かった。だがそこには渚はおらず、代わりに佑が道代というヒューマノイドと対していた。多輝がまず攻撃を仕掛け、佑が反撃に出たところでいきなり順が割り込んできた。
佑は透を庇った順に刃を揮った。だが順は次々に佑の攻撃をかわし、最後には多輝を投げつけて佑の油断を誘って攻撃を繰り出した。黒い雷に撃たれた佑は動けなくなった。
あの時、現れた水輝のことを思い出す。水輝は助けた佑に優しげな笑みを向けていた。
「やっぱり、わたしの居場所は……もう無いんですね」
微笑みを浮かべて奈月は呟いた。すると桜が両手でばん、とまな板を叩く。その拍子にまたたまねぎが潰れてしまう。情けない顔をした後、桜は慌てたように奈月を見つめた。
「姫様にはわたくしが居ります! あんな阿呆の青龍王の事など」
そこまで言って桜が悔しそうに唇を噛む。
「桜さん。こんなわたしの傍に、今までいてくださってありがとうございました」
「今までどころか、これからもずっと、姫様のおそばに居ります」
桜が拗ねたようにつんと横を向く。奈月はそんな桜を穏やかな目で見つめた。
「翠さんも、これまで、わたしの危機を救っていただいて、ありがとうございました」
そう言って奈月は翠に頭を下げた。すると翠が奈月をじっと見つめる。
「もう諦めたのか」
少し残念そうに言って翠がため息を吐く。奈月が何事かを言いかける前に桜が声を張る。
「わたくしはどこまでも姫様のお供を致します。姫様が何を考えておられるか存じませんが、ぜぇったいに譲りませんから」
早口でまくし立てて桜が憤然と肩を怒らせる。
「わたしは諦めていません。必ず、この無益な争いを終わらせて、龍宝珠界も、元に戻します」
「自分を諦めてしまうほどつまらないことはないな」
ぽつりと呟いて翠は調理台の引出しを開けた。中から幾つかの抜き型を取り出す。翠は薄く切った人参を一つずつ丁寧に型抜きし始めた。
「わたしは……」
小声で呟いて奈月は俯いた。脳裏に鮮やかに水輝の姿が蘇る。水輝は奈月に優しく笑ってくれた。思い出すと胸が締め付けられる。
「そうです! 寝ぼけた青龍王の顔面を叩いて正気に戻すことが出来るのは、姫様しかおられないんですよ!?」
腰に手を当てて桜が胸を張る。奈月は戸惑いの目で翠と桜とを見比べた。
「桜さん……」
もしそうだったらどんなにいいだろう。再び水輝が奈月の傍で笑ってくれる日々が戻るならとても嬉しい。夢想する奈月の横で翠がむ、と呟く。翠は綺麗にハート型に抜けた人参を奈月にみせた。奈月は声に誘われるままに翠の手元を見て思わず微笑を浮かべた。
「わかりました。可能性はゼロでないと、信じます」
にっこりと笑って奈月はそう言った。何となく桜を見て首を傾げる。桜は調理台に手をついて俯き、何事かを呟いている。もし青龍王が戻ってきたら姫様にちょっかいを出すし、それは御免被りたいところですが、この際致し方ありませんね。などと呟く桜を見つめて奈月は困ったように笑った。
「翠さん! あの、教えてほしいことがあるんです」
「む、何だ」
慎重に型を抜きながら翠が言う。奈月は手にしていたトマトをまな板において頷いた。
「以前、おっしゃっていた、龍宝珠界のひとたちを、元に戻す手段について、です」
そう訊ねると翠がぴくりと眉を上げて手を止める。じっと奈月を見つめ、しばし翠は黙していた。それからゆっくりと口を開く。
「ラスティが言っていた時渡りの術は可能だな。元々、龍宝珠界の時はここを指標にした場合、行ったり来たりしている」
翠は淡々と語ってまた唇を引き結んだ。だがその場合は恐らく翠自身が犠牲となる。
「それはだめですっ!」
思わず叫んだ奈月を見つめ、翠が口許をごく僅かに緩める。どうやら笑っているつもりらしい。
「生憎、わたしも死ぬつもりはない」
それを聞いた奈月はほっと息を吐いて胸を撫で下ろした。
「重さだ」
ぼそりと翠が言う。奈月は不思議に思って首を傾げた。
「重さ?」
「この世界と龍宝珠界の重さ、つまり界全体の力は常に均衡を保っている。あちらが重みを増せば当然こちらも増し、こちらが減れば当然、向こうの重みも減る」
つらつらと語りながら翠は型を人参にあてがって身体を傾ける。体重をかけたことにより、人参が綺麗にうさぎの形に型抜きされる。
「わかりました。こちらの世界の重みを増し、その状態を維持すればいいんですね?」
「あちらとこちらの世界には時差がある。元々時流が異なる上、龍宝珠界に暮らすものたちはそれぞれがとても砕けやすいもので出来ている。更に、力を維持するためには入れ物が必要になる」
奈月の問いに翠がすらすらと答えてから俯く。抜けたうさぎ型の人参を手に取って翠は微かに笑った。
「変える事はできますよね?」
にっこりと笑った奈月を翠がじっと見つめ、手にしていたうさぎ型の人参を見せる。頷いた奈月に翠は少し嬉しそうな顔をした。
「わたしはお前に期待している。未来はこの世に生きる全ての者に作る権利と義務がある」
そう言ってから翠はまな板の上に型抜きした人参を並べ始めた。うさぎ、ハート、星、くま。愛らしい形の人参が次々に並ぶ。
「わたし、がんばってみます」
できるかぎり。そう続けて奈月は頷いた。
「あの……お話がよく判らないのですが」
小声で言葉を挟んだ桜が首を傾げる。そんな桜を見つめて翠は肩を竦めた。訝しげな顔をした桜に顎をしゃくって翠はまた型抜きを始めた。戸惑った顔をした桜が今度は奈月を見る。
「大丈夫です。桜さんは桜さんですからっ」
にっこり笑った奈月を見つめ、桜は唇を尖らせる。だがすぐに桜は握りこぶしを固めて強く頷いた。
「判りました。とりあえずわたくしは姫様の気をひく術を考えて……いえ! 違います! ええと」
言葉を濁した桜が慌ただしく周囲を見回す。奈月は翠と顔を見合わせ、明るい笑い声を上げた。
桜が愉快になりつつありますw